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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」
2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会
第112回
“ゼロから”の積み重ねによる社会変革

河合 純一

5歳から水泳を始め、15歳で視力を失って以降はパラ水泳界で活躍してきた河合純一さん。パラリンピックには、1992年バルセロナから2012年ロンドンまで6大会連続で出場し、金メダル5個を含む計21個のメダルを獲得したレジェンドです。

2016年には日本人として初めて国際パラリンピック委員会(IPC)パラリンピック殿堂入りを果たしました。早稲田大学大学院在学中に発足した日本パラリンピアンズ協会会長や日本パラ水泳連盟会長などを務める傍ら、2020年には日本パラリンピック委員会(JPC)委員長に就任。東京パラリンピックでは日本代表選手団団長を務められました。コロナ禍での東京パラリンピックはどう映ったのか、そして日本のパラスポーツの未来についてお話をうかがいました。

聞き手/佐野慎輔 文/斎藤寿子 写真/フォート・キシモト、河合純一、公益財団法人日本パラスポーツ協会 取材日/2021年12月16日

感動を呼び起こした選手の真摯な姿と感謝のコメント

―― JPC委員長として迎えた東京パラリンピックを終えて、いかがでしょうか?

2020年1月にJPC委員長に就任し、その後、東京パラリンピックの日本代表選手団団長を拝命しました。当初はおよそ半年後の2020年8月に東京パラリンピック開幕を迎えるという気持ちでいたわけですが、開幕まで200日を切った段階で、新型コロナウイルス感染症が世界中に拡大し、2020年3月24日には東京オリンピック・パラリンピックの1年延期が決定しました。そのニュースを聞いた時には、選手はもっと複雑な思いがあったと思いますが、準備を進めていた私たちも、「これからどうやって準備を進めていったらいいのだろうか」というような混乱もありました。なにしろオリンピック・パラリンピックの歴史上、初めてのことでしたから。

結果的に原則無観客として開催されるなど、当初予定していたものとは違う部分が多々ありましたが、コロナ禍という厳しい状況のなか、大きな混乱もなく、無事に大会を終えることができたことが、最大の成果だったと思います。日本選手団も、金13、銀15、銅23の合計51個と、2004年アテネパラリンピックの52個に次ぐ史上2番目に多いメダル数を獲得してくれました。特に前回の2016年パラリンピックではゼロだった金メダルを13個獲れたというのは、最高と言っても過言ではない成果だったと思います。その背景には、多くの国民の皆さんがご協力してくださり、また最終的には東京パラリンピック開催を70%近い人たちが支持してくださったことがありました。

また、コロナ禍でも安心安全に大会を開催したというのは、世界的に非常に意義あることを日本は成し遂げたのだと思います。実際、大会期間中に各国の選手団団長やNPC(各国のパラリンピック委員会)の方とお会いするたびに、私も感謝の言葉をいただきました。「いかに厳しい状況であるかは世界中の人たちがわかっています。そういう状況のなかで、このように安心安全な大会を開催してくれた日本に、我々は感謝の気持ちしかありません」と。東京パラリンピックが終わった今も、そのような言葉をいただくんです。近年では、これほどまでに日本という国に対する信頼や高い評価をいただけたというのは、私の記憶ではなかったと思います。確かに巨額のコストがかかっていることなどを含めて、さまざまなご意見があるのは重々承知していますが、厳しい状況にも関わらず国際的に大きな責任を果たしたということについては、国民として誇りに思っていいのではないかなと思います。

閉会式に参加し手を振る日本代表選手団

閉会式に参加し手を振る日本代表選手団

―― 開幕前は、東京オリンピック・パラリンピックの延期や中止を望む声も多かったわけですが、開催後の共同通信の世論調査によると、オリンピックは62.9%、パラリンピックは69.8%の人が、「開催して良かった」という評価をしています。このような国民の気持ちの変化を、中心にいた河合さんにはどのように感じられていたのでしょうか?

選手たちのひたむきな競技への姿勢やコメントが、国民の皆さんの気持ちを揺り動かしたのだと思います。日本選手団団長として私が選手にお話させていただいていたのは、まずは安心安全な大会にするということで感染対策を万全にして、日本選手団からはひとりも感染者を出さないこと。もうひとつは、選手たちが最高のパフォーマンスを発揮できるように、私たちも精一杯サポートするので、選手たちもそこに注力していきましょう、ということ。それらを踏まえたうえで、こういう状況のなかでも開催していただけたことに感謝し、組織委員会やボランティア、そしてさまざまな意見があるなかでもご協力してくださっている国民の皆さんに対してその気持ちを伝えていきましょう、というような話をさせていただきました。選手たちのコメントには必ずと言っていいほど、感謝という言葉がありましたが、本当にありがたいと感じていたのだと思いますし、そういうコメントや真摯な姿が国民の皆さんにも何か伝わるものがあったのではないでしょうか。これは選手だけではないと思いますが、今回のコロナのパンデミックによって失ってみて初めて、これまで当たり前だったことが当たり前ではなかったということに気づいた、ということがたくさんあったと思います。だからこそ感謝の気持ちが出てきた。それについては、私は決して人間にとって悪いことではなかったと思っています。むしろこれまで気づいてこなかったことのほうを反省しなければなりません。選手の教育ということからしても、今後はそういう当たり前にある環境がいかにありがたいことなのか、ということに、ふだんから気づかせていくことはとても大事なことだと考えています。そのためにも、選手に関わる指導者や組織のスタッフが、そういう意識を持たなければいけません。

結局は、誰が一番偉いということではなく、みんながみんな、お互いをリスペクトするということが大事なのだと思います。例えば大会を開催するにしても、選手がいなければ開催できませんし、かといって運営してくれる人がいなければパフォーマンスを見せる舞台を用意することはできません。そして、応援してくれる人、見てくれる人がいるからこそ、大会が盛り上がり、選手のモチベーションも高まるわけですよね。そう考えると、何が欠けても大会やスポーツのイベントは成立しません。東京オリンピック・パラリンピックは、そのことを改めて認識させてくれた大会でもあったと思います。それを今後につなげていくことが、日本スポーツ界としてはとても大事な責務だと思います。今はまだそのことに「気づいた」段階。これをどう定着していくかが重要だと思います。

公式服装発表会で選手団長として挨拶

公式服装発表会で選手団長として挨拶

―― 東京パラリンピックが開催できて良かったと思えた瞬間はいつでしたか?

自分でも驚いたのですが、東京パラリンピックの閉会式の翌日に団旗返還式で選手団に話をしている途中、ふいに涙が流れたんです。その時に「ああ、実感はなかったけれど、本当は自分も苦しかったんだなあ」と。そう思った時に、本当に無事に終えられて良かったと心の底から思いました。自分が現役時代、パラリンピックがほとんど認知されない経験をしてきたなか、東京オリンピック・パラリンピックが一体となって招致をめざし、そして2013年に開催が決定してから約8年、さまざまなことがありましたが、選手たちが乗り越えてすばらしい結果を出してくれました。そのことに選手団団長としてほっとして、その役割を終えたということもあって、涙が出てきたのだと思います。

―― 先ほど河合さんもおっしゃいましたが、こうした状況下でも得られたことはたくさんあったと思います。ご自身では東京パラリンピックのレガシーとは何だとお思いですか?

自国開催のパラリンピックを現役選手として迎えられるのは一生に一度あるかないかですよね。特に今回は、競技会場や選手村に入れた人間が非常に限られた特殊な大会でした。そう考えると、今回東京パラリンピックに出場した選手が体験したこと自体がレガシーであり、今後につなげていかなければいけないことなのだと思います。選手たちが経験したこと、感じたこと、気づいたことを伝え続けることこそが、今後の社会を変えていくレガシーになるのだと思います。

―― 今回の東京オリンピック・パラリンピックのテーマのひとつが、「多様性」、「共生社会」でした。その意味でも、東京パラリンピックの意義は非常に大きく、約7割の国民から支持されたということを考えても、将来に向けてのひとつのステップになったように思います。

JPCが独自に調査した結果、開幕前に「東京パラリンピックを見たい」という人はおよそ35%でした。しかし、実際に開催したあとに東京パラリンピックを観てくれた人は50%を超えているんです。一方、東京オリンピックのほうは開幕前に「見たい」という人が45%ほどで、実際に見た人は約60%でしたから、パラリンピックよりオリンピックを見た人のほうが割合は大きいんです。ただ、テレビの放送時間を考えますと、オリンピックは16日間でおよそ1500時間、一方パラリンピックは13日間で約590時間でしたので、放送時間の割合からするとパラリンピックのほうが見た率は大きいのだろうと推測できます。そう考えますと、東京パラリンピックを開催した意味というのは非常に大きいと感じていますし、「多様性」、「共生社会」という点においても認識の「入口」に来てくれた人たちはたくさんいるように思います。ただ、理解度という点においては個人差がありますので、それをこれからどうしていくのか、ということが課題としてあるかと思います。

コロナ禍で生きたパラリンピアンの実体験

車いすテニス男子シングルスで金メダルを獲得した国枝慎吾選手

車いすテニス男子シングルスで金メダルを獲得した国枝慎吾選手

―― コロナ禍での開催実現に向けて、日本選手団団長として最も苦心されたのはどういう部分だったのでしょうか?

1年延期が決まって以降、選手や競技団体に対して「組織委員会もJPCも、しっかりと開催に向けて準備を進めている」ということをこまめに伝えていくように心がけました。「だから選手の皆さんは、来たる本番に向けてやるべきことを、やれる範囲で突き詰めてやってほしい」ということを、節目節目で伝えるようにしました。

―― そうした河合団長の言葉で選手たちに安心感が生まれたからこそ、本番で最高のパフォーマンスを発揮し、多くのメダリストが誕生したわけですね。

私の言葉がというよりも、もともとパラリンピック選手というのは、特に中途障がいの選手は人生において、それまで当たり前だったことを失うという実体験をしてきているわけです。今回コロナ禍で、それまで日常だった「買い物に行く」「誰かに会う」などということができなくなり、不便な生活を余儀なくされたわけですが、同じように当たり前が当たり前ではなくなった経験を持つパラリンピアンは、現状を受け止め、どう次に向かっていくかという思考に切り換える力や習慣が人よりあったんじゃないかなと。わりと早い段階で気持ちを切り替えられた選手は少なくなかったと思いますし、そういう選手が本番で活躍できたように思います。それと1年延期によって若手が伸びたことも、良い結果につながったと考えられます。その背景には、コロナ禍においていち早くナショナルトレーニングセンターを使用させていただき、トップアスリートがしっかりと練習を積み重ねる環境を構築できたことも大きかったですね。

会場で選手を応援する河合団長

会場で選手を応援する河合団長

―― 一方で東京オリンピック・パラリンピック期間中は、SNSでの誹謗中傷も取り沙汰されましたが、どのように感じられていたでしょうか?

開幕前に、私が東京オリンピック・パラリンピックの学校連携観戦プログラムの話をした際にも相当ネットで叩かれました。正直「ここまでひどいんだな」と思いました。「中学校の教員をしていた人が、子どもたちを感染のリスクにさらしてまで観戦させようとするのか」とまで言われましたので。まさに風評被害と同じで、根拠のないイメージだけが先行して話が広がっていく怖さというものを改めて感じました。本来は130万人ほどの子どもたちを東京パラリンピックの競技会場に招待し、生で観戦していただく予定だったのですが、実際は1万5000人ほどに留まりました。でも、その子どもたちにとっては貴重な経験になったと思います。ご尽力いただいた関係者の皆さんには感謝の気持ちしかありません。もちろん団体行動ですので早めに決めなければいけないという制約もあり、これから感染状況がどうなっていくか不透明ななかでの決断は、自治体も学校も、本当に難しかったと思います。ただ、何でもそうですが「難しい」と言ってやめることは簡単。時にはそれが勇断となることもありますが、どうすれば実現の方向に向かっていけるかを考えることのほうが難しいし、大変なんですよね。それをしてくれた自治体や学校のおかげで、予定のわずか約1%とはいえ、実際にパラリンピックを観て、そこで見たこと、感じたことを伝えられる子どもがいるというのは、非常に大きいと感じています。

実は開幕前、東京パラリンピックを直接会場で観戦したいという子どもたちや保護者は8割ほどいたんです。ところが、わずか1、2割ほどの反対の声のほうが大きく取り上げられてしまいました。もちろん、私たちが強制的にということではなく、例えば屋外の競技であれば、それこそ教室にいるよりも距離を保つことができるということも考えられたわけです。この学校連携観戦プログラムのことに限らず、最近の風潮として多数の意見よりも、少ないはずの誹謗中傷をするコメントのほうが拡大しやすい傾向にあるというのは、問題のように思います。

―― 今回はコロナ禍における不安や不信感が、東京オリンピック・パラリンピック、あるいは選手たちにぶつけられてしまったところもあるかと思いますし、メディアもそういう風潮に乗っかって助長させる報道が多かったように思います。そういう点では、今大会におけるメディアについては、どう感じられましたか?

確かにそういう部分もあったかと思いますが、メディアがパラリンピックやパラリンピアンのことを多く報道してくださったおかげで、大勢の方々に知っていただくことができたわけですので、本当に感謝しています。特に今回は無観客でしたので、メディア以外で知る手段がありませんでしたから本当に大きなお力添えをいただいたと思っています。また、2013年に東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定して以降、さまざまなメディアで障がいのある当事者たちが解説やインタビューをするというような新しいチャレンジをしていただいたことが、より多くの人たちに真の部分をお伝えすることができた要因だったように思います。開幕直前になって付け焼刃的に行われたわけではなく、メディアもトライ&エラーを繰り返すなかで、しっかりと準備をして本番を迎えたと思いますので、まずは感謝したいなと思います。

変化を恐れない社会の実現に向けての一歩に

河合 純一氏(当日のインタビュー風景)

―― 東京オリンピック・パリンピックの開催が決定して以降、「バリアフリー化」が問われてきました。ハード面だけでなく、心のバリアフリーという点も含めて、どこまで進んだと感じられているでしょうか?

ハード面もソフト面も、とても良くなってきたと思います。ただ、そう簡単に一朝一夕で改善されるものではありません。ハード面は基準を設けて、法整備をすることで改善することは多々ありますが、それで良しとはなりません。
例えば点字ブロックですが、あるからいいというわけではありません。もし点字ブロックの上に自転車などが置かれていて、白杖の人がつまずいてケガをするようなことが起きる社会では、決して良くはないわけです。またエレベーターを設置したところで、ベビーカーを押している人や車いすユーザーがいても、誰も降りて優先しようとしない社会が「バリアフリーが整っています」とは言えないと思うんです。
つまり、単純にモノだけを用意すればいいという話ではないということです。それだけに完璧なゴールはないように思います。必要なところに必要なものを用意することは大事ですが、利用する人たちのことを考えてつくられたものなのか、実際に利用できる環境にあるかということが重要で、時代によって目標とする内容やレベルも頻繁に変わると思います。だからこそ誰もが生きやすい社会というものを、みんなが想像を働かせて行動するということが一番求められているのではないでしょうか。そういう点においては、少しずつ前進してきているように思います。

アテネ2004パラリンピック

アテネ2004パラリンピック

―― 障がいというのは、社会がつくり出すものでもあり、誰しもがそういう状況に陥る可能性があります。例えば、英語が苦手な人が海外に行けば、人とコミュニケーションをとることは非常に難しい。また年齢を重ねれば、足腰が弱くなり、階段の上り下りが辛いという人も少なくありません。つまり障がいに対して、いかに自分ごとに置き換えられるかということが重要なのではないでしょうか?

今自分の周りにある環境下のみで生活をしている人にとっては、何の支障もないわけです。一方で「多様性」を考えた場合、それまで自分たちが快適に生活してきた環境の枠を超えなければいけませんので、そこで違和感や抵抗感を強く持つ人たちが少なくないのだろうと。ただ時代は変化するものですから、それに伴って社会も人間も変化していくのは必然。だったら、その変化をいかに楽しめるかどうかだと思います。人間は変わらない人はいません。幼少期から青年期においては身体的にも精神的にも変化があって、それは「成長」でもあるわけです。ならば、老いという変化もまた成長のひとつなのではないでしょうか。身体的にはマイナスなことが多いかもしれませんが、経験を積み重ねてきた人としての成長はあるはずですから。変化を怖れている人たちというのは、自らの成長を怖れて止めてしまっているのと同じことだと、私は思います。

―― 東京パラリンピックが、変化という成長を怖れない社会へのきっかけとなることが望まれます。

何事もすぐに変わるものではなくて、実を結ぶには畑を耕すところから始まるわけですが、今は東京パラリンピックによって、さまざまな種類の種がまかれた状態だと思います。そこから水をまいたり、肥料を与えたりしなければいけないわけですが、そうしたことをこれから誰がやっていくのかが重要です。私たちが理想とした果実ができるかは、これから次第ですが、少なくともそのきっかけづくりにおいては東京パラリンピックによって推し進めることができたのではないでしょうか。とはいえ、十分だったかと言えば、関東圏外の地方や、ある部分の世代には、まだまだ届いていないなということも感じていますので、そこはしっかりと向き合って取り組んでいかなければいけないと考えています。

求められるすそ野拡大につながるハイパフォーマンス化

小学生時代

小学生時代

―― 日本パラ水泳界の第一人者である河合さんは、1992年バルセロナパラリンピックから5大会連続で出場し、金メダル5個を含む21個のメダルを獲得するなど、世界トップスイマーとしてご活躍されました。そもそも水泳を始めたのは、いつ、どんなことがきっかけだったのでしょうか?

5歳から水泳を始めたのですが、自宅の近所にスイミングスクールができたので、親に「行ってみる?」と言われたのがきっかけでした。始めたばかりのころは、水泳に何か特別な思いがあったわけではありませんでしたが、小学生の中学年ごろには水泳が特別な存在になっていたような気がします。周りで先輩たちが県大会で優勝したりするのを見て、「自分もそうなりたい」という憧れのようなものが生まれて、高みをめざすようになりました。

―― 競技人生のなかでは、苦しいこと、辛いこともたくさんあったかと思います。水泳を辞めたいと思ったことはなかったのでしょうか?

ないわけではありませんでしたが、本気で「もういやだ」と思ったことはなかったです。いずれにしても今思えば、続けてきて良かったなとは思っています。

パラリンピックに初出場したバルセロナ1992大会(左が本人)

パラリンピックに初出場したバルセロナ1992大会(左が本人)

―― 水泳をがんばって続けたことが、教員への道を志すきっかけにもなったのでしょうか?

水泳を教えてくれた先生に対する尊敬の念や憧れがありましたので、無関係ではなかったと思いますし、そう思える先生に出会えたことはとても幸運でした。あとは単純に学校が好きだったということもありました。だから、そこを自分が働く場所にできたらなと、小学生の時から教員になるという夢を持っていました。

―― 水泳をやってきたこと、そして教員を務めた経験が、現在の組織人である河合さんをつくってきたということになるのでしょうか?

未だに「どうして私がJPCの会長になったのだろう」という気持ちもありますが、ポイントとしては2つあるかなと思っています。ひとつはパラリンピックに6度出場して、メダルを獲った経験があるということ。
もうひとつは、教員を務めたあとに大学院に行って2年間勉強しているということも関係しているかなと思います。大学院では、ロジカルに物事を考えることを学ぶことができました。また、大学院に通っていた2003年に日本パラリンピアンズ協会を発足したいと思って組織化に動き、会長に就任して取り組んできたことも大きかったと思います。
さらに2008年には静岡県総合教育センターの指導主事に就任して、教員への教育のようなことをしたのですが、そこでは議会の予算の仕組みを学び、予算取りのために資料を作成するという経験もしました。さらにJSC(日本スポーツ振興センター)研究員、ナショナルトレーニングセンター副センター長など、国内のスポーツ行政の一端を担ってきました。そうしたなかで事業をマネジメントする役を務めたというようなあらゆる経験があったからこそ、JPC会長に選んでいただき、実際に自分自身にもそれだけの素地が備わっていたのだと思います。

 教員時代

教員時代

―― 河合さんは、常に何かにチャレンジする人生を歩まれてきたように思います。

実際にチャレンジしてきたかどうかはわかりませんが、もともと新しいことや、今までやったことのないことを生み出すことが好きなのだと思います。人がやったことをリノベーションをしていくというよりは、ゼロの状態からクリエイトしていくことのほうが、エネルギーを向けやすいし、自分の力を発揮しやすいということもあるんでしょうね。

―― ゼロからイチをつくり出すことに向けられるエネルギーが、パラリンピックをどうしていくかという活動につながっていったということでしょうか?

そうですね。ただ常にさまざまな課題があって、それを自分の立場でどうしていくのかということはいつも整理しながらやっているつもりではありますが、JPCという組織のなかに入って、改めてそういうことをできる立場になったんだなとは思います。
また、東京オリンピック・パラリンピックが1年延期となった間に、「JPCって、どういう組織であるべきなんだろう」ということをじっくり考えて、検討する時間をいただけたということも大きかったですね。もちろんJPCは、JPSA(日本パラスポーツ協会)のなかの内部組織ではありますが、そのなかでもJPCの役割を明確にして、今後進むべき方向性をまとめた「JPC戦略計画」を初めて策定し、2020年12月に公表したというのも、「ゼロからイチの作業」のひとつだったかなと思います。

日本パラリンピアンズ協会会長として講演

日本パラリンピアンズ協会会長として講演

―― いま取り組まれている「JPC戦略計画」の中身について、教えてください。

JPSA(日本パラスポーツ協会)とJPCとの役割の違いを明確にしたのですが、まずひとつはJPCにしかできない役割があるということを示しました。例えば、IPCから日本国内で「パラリンピック」という名称を用いての活動がゆるされているのはJPCのみ。つまり、パラリンピック・ムーブメントを起こす中核となる任務があるわけです。また、選手団を形成してパラリンピックという大会に派遣することができるという点においても、JPCは国内では唯一無二の存在です。それらをより良く運営していくためには、JPCという組織には何が必要なのかということをブレイクダウンして考えるということをしました。そうして最終的にJPCのミッションとして定義したのが「世界を目指すパラアスリートの活躍を支援し、パラリンピック・ムーブメントを推進する」ということ。もちろんこれからパラリンピックをめざすアスリートの支援活動として、発掘・育成・強化の部分で携わるわけですが、それはどちらかというと選手自身やスタッフ、NF(国内競技団体)が中核を担ってやっていくこと。一方でJPCにしかできないのは、世界をめざすアスリートの活躍を支援することだろうと。そして、アスリートの活躍によって、共生社会をめざすというパラリンピック・ムーブメントを推進すること。この2つを柱にして、しっかりと活動を行っていこうと考えています。
まだ具体的な内容としては、さまざまな意見があり、議論をしているところですが、いずれにしても「JPC戦略計画」をまとめたことで、今まではなかった、大きな意味での将来に向かっていく道筋、羅針盤を持つことができ、スタッフ全員がイメージを共有することができるようになりました。これが、最も大きいと感じています。「ゼロからイチの作業」で言えば、「ゼロ」のままでは議論さえも起こりません。「イチ」をつくったからこそ、さまざまな意見が出てきているわけですので、非常に意義のあることだったと思います。

東京2020パラリンピック水泳で金メダルを獲得した木村敬一選手

東京2020パラリンピック水泳で金メダルを獲得した木村敬一選手

―― オリンピックに倣うようにして、パラリンピックもハイパフォーマンス化が進んでいます。競技レベルの向上が、魅力を生んでいる要因になっている一方で、一般の障がいのある人たちとの乖離が生まれているという指摘もありますが。

ハイパフォーマンス化というのは、つまりは進化し続けているということ。東京パラリンピックで金メダルを獲得したパラ水泳の木村敬一選手が講演で「自分たちアスリートにとって、パフォーマンスを"安定"させたり"維持"させるということは、"後退"を意味するんだ」という話をしていましたが、私もそれがハイパフォーマンススポーツの本質だと思っています。なぜなら、世界は常に進化し続けているからです。ということは、自分たちも進化しない限り、勝ち続けることはできません。
それは、オリンピックもそうだと思いますが、パラスポーツにおいてはパラリンピックでしか示すことができない価値だと思います。そして、その価値を伝えることができるのも、世界で活躍するアスリート以外にいません。大事なのは、その価値をどのように一般社会に伝え、還元していくか。それがスポーツが社会に必要とされるかどうかがカギだと思います。

―― すそ野を広げる部分はJPSAが、世界トップをめざす部分はJPCが担うということになるのでしょうか?

主には、そういう役割分担になるのだと思います。ただ両面ともに必要で、高みをめざすことで、遠くの景色まで見えるようになるという意味でも、ハイパフォーマンス化がひいてはすそ野を広げるというところにもつながっていくと思っています。単純にどちらか一方ということではなく、循環サイクルが重要だと考えています。東京パラリンピックで日本のメダル総数は11位でしたが、それではトップの国が果たしてパラスポーツのすそ野が広がっているかというと、そうではないわけです。日本がめざすのは、そこではありません。だからこそ、しっかりとビジョンを掲げたうえでハイパフォーマンス化を推進していくことが重要なのだろうと思います。私自身のこの数年間の取り組みは、まさにその部分を根幹にしてきました。

『視覚障害者のためのスポーツ指導』

『視覚障害者のためのスポーツ指導』

例えば、2021年11月19日に『視覚障害者のためのスポーツ指導』という解説書が、筑波大学出版会から発行されたのですが、私も編集で携わらせていただきました。これまで視覚障がい者に特化した書籍というのは、日本にはありませんでした。視覚障がい者が行う陸上や水泳などの競技紹介や簡単な指導方法というのはあったと思いますが、これは視覚障害者のクラス分けから、幼少期にはどういう特徴があるかなどというように網羅した専門書になります。これは数年前から私的な勉強会を続けていくなかでさまざまな方にご協力いただきながら、最終的には39人の方にご執筆いただいて出版が実現しました。もちろん、これが完璧だと思っているわけではないですし、すでに改訂したほうがいいという声もあがっている部分もあります。でも、こうした書籍を出さなければ、そもそもそういう話も出てこないわけですので、これもまたレガシーのひとつだろうと。これは普及における大きな一歩になると思いますし、特別支援学校の教員や、視覚障がい者への指導に困っている地域の指導員の方にとっては、心のよりどころとなる一冊になるのではないかと思っています。

「ゼロからイチの作業」を積み上げていかないと、社会は変わっていかないのだろうと思います。また、2021年7月29日には『目でみるアスリートの図鑑』を東京書籍から発行させていただき、こちらは監修のひとりとして携わらせていただきました。これはハイパフォーマンスアスリートのすごさを小学生にも伝わるものをつくろう、ということから始まったのですが、私としては将来のスポーツ科学者を育てたいという思いもこめられた一冊なんです。未だスポーツ界に蔓延る暴力やハラスメント、根性という言葉だけで片付けられてしまう非科学的トレーニングという問題の根幹には、選手たち自身に考える力がないことがあると思っているんです。今の時代、スマートフォン一台で、さまざまな科学的根拠に基づいた情報やデータを選手が得ることができます。だからこそ、小学生のうちからそういうスポーツ科学の知識を知ることで、スポーツ界の問題が解決され、社会を変えていくことができるのではないかと思っているんです。指導する先生やコーチが言っていることをそのまま鵜呑みにするのではなく、自分で考えることができる習慣を持ったアスリートを育てていくことが重要なのだと思います。それと、小学生が自由研究にスポーツ科学を取り上げるようになってもらいたいということもあります。これはぜひ笹川スポーツ財団と協力して、何かできないかと思っているのですが、いかがでしょうか。

―― それは、面白いですね。ぜひ検討していきたいです。

例えばコンクールを開くなどすれば、応募してくる小学生はたくさんいると思います。そもそも、なぜこれまで自由研究の課題にスポーツ科学がないのかが不思議なくらい。絶対に面白いと思いますし、スポーツによって社会を変えていくことにもつながると思うんです。

求められるスポーツ界と企業とのwin-winの関係性

2009年IOC総会(コペンハーゲン)でのプレゼンテーション

2009年IOC総会(コペンハーゲン)でのプレゼンテーション

―― 日本の場合、パラアスリートの層の薄さに課題があるように思います。これは日本が戦争もなく平和な国で、交通事故も少なく、医療レベルも高いという証明でもありますが、一方で今後の選手発掘については対策が必要となるのではないでしょうか。

JPCも国やJSCと共同で選手の発掘事業をしていますが、東京パラリンピック後に募集をかけたところ、応募数は1年前の倍でした。問い合わせの件数も増え、また問い合わせ内容のクオリティも上がったと感じています。
これまでは「うちの子どもにも障がい者スポーツをやらせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」という初歩的な問い合わせが多かったのが、東京パラリンピック後は「うちの子どもにはこういう障がいがあるのですが、良いコーチを紹介していただけませんか」というような、具体的にどうしたらパラリンピックに出られるかということを質問してくる方が増えたんです。東京パラリンピックが開催されて選手たちのパフォーマンスだけでなく、指導者やスタッフの存在を多くの人が目にしたことで、社会に大きな変化が起こっているのだと思います。ただ、そこからパラリンピックでメダルを取れるくらいまでの選手に育っていくかは、また別の要素が必要となります。まさにその部分をJPCが対策として講じようとしているところでして、次世代につなげるような取り組みを重点的に行っていかなければいけないと感じています。

―― あるパラリンピアンから聞いた話ですが、東京パラリンピック開催後はもっと理解度が深まると思っていたら、未だに車いすユーザーがスポーツ施設を利用するのを断られるケースも少なくないと。障がいのある方たちがスポーツ施設を利用できるようにする環境整備は、国をあげて取り組まなければいけない問題だと思いますが、どのように考えられていますか?

東京パラリンピック直後に、萩生田光一文部科学大臣(当時)とお会いした際、直接私のほうから「現在の日本のパラスポーツにおける課題は、大きくは2点あります」というお話をしました。ひとつは、障がいのある児童、生徒が学校体育の授業で見学という待遇を受けていることがあること。もうひとつは、障がいのある方々が地域のスポーツ施設を利用しようとすると、「車いすで床に傷がつくから」などという理由で断られるケースがあること。これらは国民の教育を受ける権利、スポーツをする権利の観点からしても由々しき問題ですし、「障害者差別解消法」(2016年4月1日に施行。正式名称は「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」。障がいの有無に関係なく、その人らしさを認め合いながら、共に生きる社会をつくることをめざすもの)に基づいても間違っていますので、国として正してほしい、というお願いをしました。

その約2週間後に文部科学省が東京オリンピック・パラリンピックで活躍した選手の顕彰、表彰式を開いた際、萩生田大臣から「ご指摘いただいた課題について、きちんと予算を組んで早急に取り組んでいきます」というふうに約束していただきました。実際、2021年12月には「第3期スポーツ基本計画」(2022年度から5年間の国のスポーツ施策に関する指針)の中間報告が出されましたが、そこに加えられた3つの新たな視点のひとつに「性別、年齢、障害の有無、経済的事情、地域事情等に関わらず、すべての人がスポーツにアクセスできる社会の実現・機運の醸成を目指すという視点」が記されています。今後、年度末の最終案を制作していく段階でも、しっかりと確認していきたいと思います。現段階で課題は多々ありますが、東京パラリンピックが開催されたからこそ、国がそういう課題に目を向け、真摯に取り組んでいこうと考えるきっかけになったと思いますので、大きな成果だったことは間違いないと思います。ただ、国民の皆さんが実感を伴うまでにはどうしても時間がかかってしまうところは否めません。法律やルールが定められれば、すぐに課題が解決し、社会が変わるわけではありませんので。それでも時間はかかるけれども、社会が変わっていくきっかけを、東京オリンピック・パラリンピックは提供したという点は間違いないと思います。

―― スポーツ界全体の問題になりますが、事業を進めていくにはどうしても大きな財源が必要になります。しかし東京オリンピック・パラリンピックが終わったことで、国からの支援もどうなっていくのか不透明です。企業がどこまで競技団体や選手たちへのスポンサードを続けてくれるか、という部分も決して楽観視はできません。この問題については、いかがでしょうか。

今までのように、東京オリンピック・パラリンピックがあるからという理由だけでお願いをするということでは、もう続かないということは誰しもがわかっていることだと思います。単なる広告塔としてではなく、スポンサードしてくれる企業がどんなメリットを競技団体や選手たちに求めているのかをきちんと把握したうえで、それに沿ったご提案をできるかどうかにかかってくるのではないかと思います。キーワードは「事業競争」。「御社とこういう取り組みをして、こういう社会をつくっていくパートナーとして一緒にやっていきたいので、そのためにはどのくらいの支援を必要としています」ということを明確に提示していけるかどうかが重要になってくるだろうと。企業に対するプレゼンテーションだけでなく、事業のマネジメントや、検証、評価ができるかどうかという、競技団体や選手の能力が問われる時代になってきます。人材をどう育成していくのかという課題も出てきますが、やはり単にお願いをするだけではなく、競技団体や選手側が、企業にとってメリットを感じられるパートナーとなり、一緒に価値を生み出していけるかどうか。お互いがwin-winな関係性をつくれた場合には、スポンサードを考えていただけるということになっていくのだろうと思います。

―― 例えば、参天製薬は2020年8月に国際視覚障がい者スポーツ連盟と連携を開始したり、同年10月にはNPO法人日本ブラインドサッカー協会と10年間の長期パートナーシップ契約を締結しました。これは、視覚障がい者スポーツを通じて、視覚障がいの有無に関わらず、人々が交じり合い、いきいきと共生する社会の実現をめざしたものです。また、視覚に障がいのある従業員が「社員先生」となり、小学生を対象とした視覚障がいに対する理解を向上するプログラムの開発、実施も行っています。こうした企業と競技団体との特性が合致した取り組みは、いろいろと考えられるのではないでしょうか。

競技団体側がそういう提案をしていけるかどうか、そしてそういうことを求めている企業とマッチングしていけるかどうかが重要になってくるのだろうと思います。

―― 組織としての人材育成という点では、河合さんたちの次の世代についてはいかがでしょうか?

2016年にJPCではアスリート委員会を設置し、また2021年9月4日には、日本人として初めて鈴木孝幸選手(先天性四肢欠損のパラ水泳選手。2004年アテネパラリンピックから5大会連続出場し、東京パラリンピックでは2個の金メダルを含む5個のメダルを獲得)がIPCのアスリート委員に当選したことが発表されました。彼らが中心となっていくことが期待されています。

小さな一歩の積み重ねによる共生

東京2020パラリンピック5人制サッカー(ブラインドサッカー)

東京2020パラリンピック5人制サッカー(ブラインドサッカー)

―― 東京オリンピック・パラリンピックは一体となって取り組まれてきたわけですが、JOC(日本オリンピック委員会)とJPCの関係性というのは今後どうなっていくことが望まれますか?

東京オリンピック・パラリンピックでは、「共生」をテーマに、初めて日本代表選手団が開会式や式典で着用する公式ユニフォームのデザインが統一されるなど、JOCとJPCの関係性としても非常に緊密化が進みました。今後はより実行可能な部分で協働していくと思います。世界では、例えばアメリカや南アフリカ、ノルウェー、オランダはオリンピック委員会とパラリンピック委員会が統一団体となっていて、南アフリカは東京パラリンピックで選手団団長を務めた方は、東京オリンピックでは副団長を務めた方でした。ノルウェーは東京オリンピックの選手団スタッフが半数ほど残って、東京パラリンピックにも従事していました。そうした人材の有効活用が世界で進み始めているということは明らかですので、日本もどのような形でJOCとJPCが連携を図っていくのかというところは議論の余地があるかと思います。いずれにしても今後は、JOCだけ、JPCだけということではなく、それぞれのスタッフがNFも含めて全体を把握するような人材の育成が求められていくと思いますので、積極的な人事交流を図っていくことも重要だと思っています。

―― オリンピックとパラリンピックを一緒にしたらどうか、という意見もありますが、どう考えていますか?

IOCとIPCの組織体制をどうするかも含めて、この5年、10年で解決するような簡単な話ではないと思っています。将来的にそういう動きがあってもいいのかなとは思います。ただ、オリンピックだけでもどの競技を採用するかというのは毎回のように激しい競争が繰り広げられているなか、障がいによるクラス分けごとに多くの種目があるパラリンピック競技をどこまで入れられるのかということは大きな問題になることは間違いありません。その分、大会日程を延ばせば開催都市の負担がさらに大きくなることは明らかです。そう考えると、大きな動きを求めるよりも、今できることをやっていくことのほうが現実的かなと思います。
例えば、東京オリンピックの閉会式では組織委員会の橋本聖子会長が、東京パラリンピックについても述べられ、パラリンピックの映像も流れたというのは歴史的快挙だと思います。私からすれば天変地異が起こったくらいの出来事でした。それほど橋本会長をはじめ、組織委員会が東京パラリンピックにも力を注いでくださったということの表れであり、まさに一体となっていたのだと思います。こういう小さな一歩の積み重ねが重要だと思いますので、大会や組織を統合するという議論をする前に、共通の価値観を持って、社会にインパクトを与えられる大会にしていく努力を共にしていくことのほうが重要のように思います。

東京2020パラリンピック水泳で5個のメダルを獲得した鈴木孝幸選手

東京2020パラリンピック水泳で5個のメダルを獲得した鈴木孝幸選手

―― 東京オリンピック・パラリンピックのテーマであった「多様性」「共生社会」という点において、ボランティアでも障がいのある人たちが活躍したということは非常に大きな意味があったと思います。

組織委員会の「ボランティア検討委員会」で相当な議論を交わし、日本財団パラリンピックサポートセンター(現・日本パラスポーツセンター)、日本財団ボランティアサポートセンターにも協力をしていただきながら実現できたことだったことも、大きな成果だったと思います。もし東京オリンピック・パラリンピックでできなければ、今後日本で「共生社会」を実現させていくことは難しいだろうと思っていました。そもそもボランティアとは、誰かの役に立ちたいという思いのもと自主的にやるものであって、それを障がいがあるからできないというのは、社会のシステムにこそ障がいがあるということ。そういう社会を変えていく意味でも、大きな意義がありましたし、障がいのある人、ない人、それぞれがお互いにとても良い経験をしたのではないかと思います。そして今回、ボランティアとして東京オリンピック・パラリンピックに携わった人たちが、それぞれの職場などに戻っていった時に、経験したことを自分の周りでもやってみようと思えるきっかけにしてくれることを願っています。

―― 2021年10月25日(日本時間)に開催された世界の国・地域のオリンピック委員会の会合で橋本会長が「東京モデル」として、東京オリンピック・パラリンピックで見出された価値を今後の大会に活用してほしいとお話されましたが、JPC単独では何かそういう総括のようなものは出されるのでしょうか?

東京オリンピック・パラリンピックの象徴として、一般的にはメダルの数が一番目立ったわけですが、そこだけではなく、さまざまな視点で組織委員会をリーダー役として推進してきたことがありますので、それが大会開催によってどういう結果をもたらしたのかは、JPCとしてもしっかりと検証していかなければならいけないと思っていますし、実際に進めています。そして今後の2024年パリ・パラリンピック以降に活用していくことが重要です。JPCではこれまでの強化委員会を、2022年1月から強化本部に格上げして新たな体制をしきました。先述した「JPC戦略計画」で掲げた「世界を目指すパラアスリートの活躍」をめざした強化を、強化本部で一元的に取り組んでいきます。選手の発掘や育成、指導者やトレーナーの育成、クラス分け、医科学的情報提供など、それぞれの分野の専門家に入っていただき、しっかりとした体制でやっていこうということで、今まさに準備を進めているところです。

パラスポーツの重要性

車いすバスケットボールの香西宏昭選手

車いすバスケットボールの香西宏昭選手

―― スポーツは社会課題を解決する糸口になり得るものだと思いますが、とりわけパラスポーツにはそうした可能性が大きいように思います。

障がいの有無に関係なく、誰しもが、少しでも健康で長く生きていきたいという願望があると思いますが、障がいのある人たちはよりスポーツを必要とする度合いが高いということが言えるでしょう。そういう意味においては、パラスポーツの重要性はやはり大きいと思います。

―― 東京パラリンピックをきっかけに、パラスポーツの存在価値や役割の大きさについては理解度が深まったように思います。では今後は、どのような取り組みが必要となるのでしょうか?

東京オリンピック・パラリンピックに向けてオリンピック・パラリンピック教育を推進してきたことで、今の小学生、中学生は、オリンピックとパラリンピックの垣根が低く、パラリンピック選手にもオリンピック選手と同じような認識をもってくれています。子どもたちにとってはどちらも「世界をめざしているすごい選手」という同じくくりなんですね。ある保護者の方から聞いたのですが、ご自身のお子さんが東京パラリンピックで車いすバスケットボールの試合を見ていて、「自分もやりたいから、選手たちが乗っている車いすが欲しい」と言ってきたんだそうです。でも、調べてみたら数十万円もする高価なものということがわかって困ったなんていうお話をうかがったのですが、このこと自体、これまでには考えられないことだったわけです。つまり、スケートボードの試合を見て、かっこいいからボードがほしいと思ったのと同じように、車いすバスケットボールに魅力を感じたということですよね。

東京パラリンピックによって、社会が実際に変わってきていて、良い風が吹いていると思いますので、現役選手にはぜひこれからも子どもたちと触れ合う機会を持ち続けていってもらいたいと思います。特に若い選手たちは子どもたちとの年齢も近いので、より身近に感じ、応援する気持ちが生まれるでしょうし、選手のモチベーションにもつながっていくと思うんです。一方、JPCとしてはIPCのアギトス財団(2012年に設立されたIPCの開発を担う機関。インクルーシブな社会実現のためのツールとして、パラスポーツの発展を国際的にリードする機関として活動)がIPC公認のパラリンピック教材『I'm POSSIBLE』のさらなる推進のほか、文部科学省の協力をいただきながら、パラスポーツの価値を伝える教員を育成していく研修プログラムを各自治体で行ったり、教員免許取得のカリキュラムのなかにパラスポーツの指導カリキュラムを入れられないかというようなことを実現させていきたいと考えています。

北京2022パラリンピック日本選手団結団式会見(2022年2月)

北京2022パラリンピック日本選手団結団式会見(2022年2月)

―― アスリートのセカンドキャリアの問題については、いかがでしょうか?

引退後の生活については、選手自身が考えなければいけないというふうになりがちですが、もちろんそれは当然ではあるものの、選手がセカンドキャリアについて考えられる環境にあるかどうかということがおざなりになっているように感じます。文部科学省では幼稚園教育要領や、小学校、中学校、高校の学習指導要領に「キャリア教育」(一人ひとりの社会的・職業的自立に向け、必要な基盤となる能力や態度を育てることを通して、キャリア発達を促す教育)を盛り込んでいます。私見を述べさせてもらえば、10年後はどういう社会になっているのか、あるいはどういう職業が生き残っているのか、ということは誰にもわからない時代なわけです。それなのに「将来どんな職業に就きたいか」という教育は、やはり限界があると思っています。それより大事なのは、最終的にどういう状態でありたいのか、どういう状態の自分が幸せなのか、という本質的なところの気づき。それが「キャリア教育」の根幹になければいけないと思っています。

―― 東京パラリンピックに続いて、河合さんは2022年3月の北京パラリンピックでも日本代表選手団団長を務められます。団長として大会や選手に求めるものとは何でしょうか?

大きな方向性は、東京パラリンピックと変わらないのだろうと考えています。日本と中国という開催場所の違いはありますが、それでも引き続き、徹底した新型コロナ感染症対策は必要不可欠ですし、大変厳しいなかで開催の準備にあたってこられた中国や北京パラリンピック組織委員会、そして送り出してくださる日本の皆さんへの感謝の気持ちを持つことが大切です。そのうえで選手たちにはベストなパフォーマンスを発揮してほしいと思っています。ただ、東京パラリンピックを経験していない選手たちにすれば、前回の2018年平昌パラリンピック以前とはまったく違う環境の大会になります。現地では外部との接触を徹底的に遮断する「バブル方式」のなかで過ごさなければいけないですし、入国後は毎日PCR検査が義務付けられています。そのようなことは選手団のほとんどが初めての経験となります。戸惑いや窮屈さを感じることもあるとは思いますが、文句を言ったところで何も始まりません。とにかく「これが当たり前なんだ」と思って、しっかりとプレーブックに従ってほしいと思います。また、中国はウインタースポーツの国際大会開催の実績がそれほどないため、競技会場がどういう雪質や氷上なのか、選手たちは一様に不安を持っていると聞いています。しかしそれは、中国選手を除いて世界の選手たちが同じ条件なわけですから、結局は各国選手団のチーム力や、選手個々の適応力が問われている大会になると思いますので、日本代表選手団としてはチーム力を上げ、一致団結をして準備を進めていきたいと思っています。

―― 最後に、次世代につなげていきたいことを教えてください。

これからもさまざまな形で東京パラリンピックが開催された意義を伝えていきたいと思っています。これからの日本のパラスポーツ界や社会にとって、東京パラリンピックが起点になることは間違いありませんので。そして、大会開催をきっかけにして掲げた理想を、ひとつでも実現させていきたいと思っています。これからは、東京パラリンピックを経験した選手たちが中心となり、自分たちが得たものを次世代に残していこうとしていくと思います。その際、どうやって形にしていくのか、そのノウハウを伝えていくことが自分の役割かなと。また、今の環境を当たり前に思うのではなく、常に感謝し、そしてさらにより良くしていこうとする気持ちを持てるような選手の育成にも携わっていきたいと思っています。

  • 河合 純一氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)
熊谷一弥氏、テニスのシングルスで銀メダル、熊谷一弥氏、柏尾誠一郎氏、テニスのダブルスで 銀メダルを獲得

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
内藤克俊氏、レスリングで銅メダル獲得
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
日本女子初参加
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)*日本は敗戦により不参加
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる

  • 1975河合 純一氏、静岡県に生まれる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

  • 1992河合 純一氏、バルセロナパラリンピックにて、 17歳で銀メダル2つ、銅メダル3つを獲得
1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1994河合 純一氏、早稲田大学教育学部に入学
    河合 純一氏、世界選手権にて、金メダル3つ、銀メダル1つを獲得
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1996河合 純一氏、アトランタパラリンピックにて、金メダル2つ、銀メダル1つ、銅メダル1つを獲得
  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2000河合 純一氏、シドニーパラリンピックにて、金メダル2つ、銀メダル3つを獲得
2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2002河合 純一氏、日本パラリンピアンズ協会を発足させ、会長に就任
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2004河合 純一氏、アテネパラリンピックにて、金メダル1つ、銀メダル4つ、銅メダル1つを獲得
  • 2005河合 純一氏、世界ユース選手権大会日本水泳チームの監督に就任
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2006河合 純一氏、JICA青年海外協力隊としてマレーシアで視覚障がい者の水泳指導を行う
2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得 (後に銀メダルに繰り上げ)

  • 2008河合 純一氏、北京パラリンピックにて、銀メダル1つ、銅メダル1つを獲得
  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定


2013
平成25
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2015河合 純一氏、日本水泳連盟理事に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

  • 2016河合 純一氏、日本人初パラリンピック殿堂入り
2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期

  • 2020河合 純一氏、日本パラリンピック委員会委員長に就任
2021
令和3
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)