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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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セミナー「子供のスポーツ」
冬季オリンピック・パラリンピック
第122回
札幌2030オリンピック・パラリンピックをスタートにしたい 日本アイスホッケー界の未来づくり

星野 好男

 日本アイスホッケーの聖地のひとつ栃木県日光市で生まれ育った星野好男さん。物心ついた時から最も身近にあったのがアイスホッケーだったと言います。日光高校(現・日光明峰高校)、明治大学、国土計画と名門チームで活躍し、大学3年生の時には日本代表チーム最年少の21歳で1972年札幌オリンピックに出場。その後、1976年インスブルック大会、1980年レークプラシッド大会と3大会連続で冬季オリンピックに出場されました。現役引退後は全日本の監督に就任。さらに1990年代、2000年代にはプロ野球・西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)の球団社長などを務められました。72歳の現在もアイスホッケーを続けられている星野さんに、日本アイスホッケー界の現状と今後の展望などについて伺いました。

聞き手/佐野慎輔 文/斎藤寿子 写真/フォート・キシモト、星野好男 取材日/2022年11月22日

高校時代に北海道と激しく争った全国一の座

ご家族と(後列左から2人目。後列左端が父)

ご家族と(後列左から2人目。後列左端が父)

―― 星野さんの子どものころのアイスホッケーとの関わりというのは、どのようなものでしたか?

アイスホッケーが盛んな栃木県日光市の出身なので、幼少のころからスポーツと言えばアイスホッケーでした。父が古河電工の社員でしたので、アイスホッケーチームの選手が、夜には家に来てご飯を食べたり、お酒を飲んだりしていました。そうした環境で育ったので、物心ついた時から自然と最も身近にあったのが、アイスホッケーでした。たしか私が幼稚園のころだったと記憶していますが、アメリカ遠征に行った選手が、ディズニーランドのお土産を買ってきてくれたことがありました。それを見て、「アイスホッケー選手になれば、アメリカに行けるんだ」と、子どもながらに憧れたのを覚えています。古河電工のリンクが自宅の近所にあったので、試合や練習をよく見に行っていました。また私の子ども時代は、雪が降るような寒い日は庭によく氷が張ったので、自分たちでリンクをつくり、手製のスティックで友だちとよく"アイスホッケーごっこ"をして遊んでいました。小学校に入学してからはずっとスピードスケートの靴を履いて滑っていましたが、それが小さくなり、小学4年生の時に兄のお下がりだったアイスホッケー用の靴を履くようになりました。それがアイスホッケーを始めたということになるのかもしれませんね。当時、日光市内には市営のリンクがあって、朝6時までなら誰も使っていないので自由に滑ることができました。小学校高学年になると、毎週日曜日には早朝3時や4時に起きて、友だちと滑りに行きましたし、一般客が来る6時まで、真っ暗なところで、わずかな外灯の明かりを頼りにアイスホッケーをして遊ぶのが毎週末の楽しみでした。時にはそこに中学生の選手が来て一緒に試合をしたこともありましたが、ちゃんとした防具を着けている中学生に対して、自分たち小学生は軍手でやっていましたので、遊んでもらっていた感じでした。

左:小学校入学のころ、父と  右:兄(左)と

左:小学校入学のころ、父と 右:兄(左)と

―― 中学生になったら部活動を始めたんですね。

中学校ではアイスホッケー部に入りました。小学生の時からやっていたとはいえ、あくまでも遊びでしたので、中学校での練習はまったく違うものでした。特に夏場の陸上トレーニングは本当にきつく「こんなにも練習するのか」というくらいの練習量でした。当時の日光市のリンクは屋外にあったので10月くらいにならないと氷が張らないんです。そのために入部して最初の半年間は陸上トレーニングばかりでした。

―― 初めて試合に出たのは…。

当時の監督の方針として1年生は試合に出してもらえなかったのですが、私は体も大きく、幼少時代からやっていたおかげで技術もあると見込まれたのか、1年生の時から試合に出ていました。

―― ポジションは?

最初はキーパー、ディフェンス、フォワードとすべてのポジションをやらされました。でも、私は攻めるのが好きで、守るのは大嫌いだったんです。だからキーパーもディフェンスも嫌で、ゲームをするたびに逃げていました。そしたら監督から「オマエは守備では使いものにならないからフォワードをやれ」と言われて、「よし」と思いました(笑)。
当時、日光市にはアイスホッケー部のある中学校が、私が通う日光中学校、東中学校、中宮祠中学校の3校あり、年に3回ほど市内の大会がありました。そこで勝っても、県大会止まりだったので全国のことはまったく知りませんでした。

インターハイ決勝、苫小牧工業戦(高校3年生時)

インターハイ決勝、苫小牧工業戦(高校3年生時)

―― 高校は名門の日光高校(現・日光明峰高校)に進学されました。

中学校では厳しい陸上トレーニングで体も鍛えていたし、スケーティングも磨きをかけたつもりだったので、私はある程度自信を持って高校のアイスホッケー部に入部しました。ところが、高校の練習は中学校の比ではありませんでした。授業が3時半に終わると、すぐに練習が始まり、夕方6時くらいまでダッシュやウエートトレーニングをしたり、長距離走も少なくとも毎日4kmは走りました。しかも当時は練習中に水を飲むことが許されなかった時代でした。でも私は水を飲まないともたなかったので、「水係やります!」と言って、やかんに水をくむ係に率先して手をあげて、こっそり隠れて飲んでいました(笑)。

それでも入部した当初は、陸上トレーニングを終えて帰宅すると、2階の自分の部屋に上がれないほど疲労困憊の状態でした。玄関でそのまま倒れ込み、ご飯も玄関まで持ってきてもらって食べて、そのままそこで眠っていました。

―― 日光高校時代、ライバルはやはり北海道の高校だったのではないでしょうか。

私たち日光高校と"因縁のライバル"だったのは、苫小牧東高校でした。特に私の1学年上だった苫小牧東高校のメンバーは強くて、その多くの選手は卒業後に国土計画*1)に入りました。1年生時のインターハイ(全国高等学校総合体育大会)、国体(国民体育大会)でも北海道の高校に敗れ、2年生時のインターハイでも苫小牧東高校に3-6で敗れてしまいました。ただその試合で、私の存在が全国に知れ渡ったようでした。

*1)国土計画:のちのコクドで、2006年にグループ再編でプリンスホテルに吸収合併されて解散

―― 全国のレベルを知ったのは、いつごろだったのですか?

当時はインターネットがなかった時代で、全国に行けなかった中学校時代はそれこそ何の情報もありませんでした。高校に入ってからも、初めはほとんど全国のことは知らなかったんです。日光市には、よく関東の大学のチームが合宿に来ていて、いろいろなチームと練習試合をしていましたが、私たち高校生のほうが勝つことも珍しくありませんでした。それで私が3年生の時に、朝日新聞が「今の日光高校なら北海道の高校にも勝てる可能性がある」というような記事を書いてくれたんです。北海道の高校が強いということは知ってはいましたが、自分たちとしても「どことやっても勝てるだろう」という自信を持ってインターハイに臨みました。初戦は釧路第一高校と対戦して、11-1だったと記憶していますが、とにかく快勝しました。次に駒大苫小牧高校と対戦して、13-1で勝って決勝進出を決めました。決勝の相手は、苫小牧工業高校でしたが、2年生に京谷佳明という当時道内では有名だった選手がいました。その苫小牧工業高校と対戦した結果、12-6で私たち日光高校が勝って優勝しました。高校時代はある意味、無敵の状態でした。

国内ではトップでも歯が立たなかった世界レベル

―― 高校卒業後は、明治大学に進学されました。その時代は明治大学、早稲田大学、法政大学が強かった時代でしたね。

特に法政大学には、インターハイで優勝したメンバーである苫小牧東高校の1学年上の選手たちが11人ほどいたので、2部から1部に昇格して強豪校になっていました。私はその法政大学を負かしたいと思い、明治大学に進学しました。でも、高校生と大学生との差は歴然で、入部して最初の合宿の初日、リンクでスケーティングし、333mのリンクを50周した時に大学生の速さに圧倒されました。高校時代はスピードにも自信を持っていた自分でさえも、ついて行くのにやっとだったんです。「これはまずいな」と思い、合宿2日目からは先頭の選手にピッタリついて行くようにしました。そのスピードにもすぐに慣れて、1年生の春から試合に出させてもらいました。初めての大会が4月下旬から5月上旬にかけて東京の品川リンクでありましたが、そこで明治大学は法政大学を破りました。当時は1972年札幌オリンピックの3年前(1969年)ということもあって、大会が終わった翌日からのゴールデンウィークに、軽井沢のスケートリンクで日本代表の合宿が行われる予定になっていました。そこには明治大学からも法政大学からも何人かの選手が招集されていましたが、私はまだ1年生で名前も知られていないような選手だったので、大会が終わって休みになる予定でした。ところが突然、大学の監督から「明日から代表の合宿に参加しなさい」と言われたんです。日本がお願いしてソ連から招聘したコーチが、私のことを目にかけてくれたようでした。ただ私としてはようやく大会を終えて休めると思っていたので、内心は「行きたくないなあ」と思っていました。とはいえ、呼ばれたからには行かなければいけませんので、初めて日本代表の合宿に参加しました。

―― 実業団のトップ選手もいるなか、18歳の星野さんは日本代表のレベルにとまどいはなかったのでしょうか?

50人くらいの選手たちが招集されており、陸上トレーニングで長距離走を走らされた時は高校を出たばかりで若かった私は苦にもせずに一早くゴールしました。20代半ばの先輩たちが戻ってくるのを「まだかなあ」とのんびりと待っていたくらいでした。それ以降も、日本代表の合宿に毎回呼ばれるようになり、20人くらいに絞られたなかにも私が入っていました。当時の日本代表には各チームから5人セットで呼ばれていたんです。大学に入ったばかりでどこのセットにも入っていなかった私は、誰かがケガをしたり体調を崩した時に、代わりに入るという感じで、毎日のように入るセットが違いました。アイスホッケーのプレースタイルは、こっちのセットでは細かくパスを出して行くスタイルでやっているかと思えば、こっちのセットでは一気に攻めて行くスタイルというように、セットによってまったく異なります。そのため私はその日入るセットのスタイルに合わせなければなりませんでした。大変でしたが、かえってそこに面白さを感じていました。そのセットにあったプレー、各選手にあったパックの出し方を模索しながら、自分でも得点する。そういうことをしなければ、試合に出させてもらえませんでしたので、人に合わせるというプレーをそこで身に付けました。また日本代表の合宿で得られたものを、今度は大学に戻って練習してモノにする、その繰り返しをすることでプレーの引き出しを広げていきました。

―― 国際大会デビューはいつでしたか?

大学1年生の時にルーマニアで行われた世界選手権(1970年)です。1勝4敗1分でBグループ5位でした。試合には出させてもらえていましたので、Bグループについては世界のレベルを肌で知ることができましたが、Aグループについては別世界のように感じていました。

―― 当時のAグループにはどういう国がいたのでしょうか?

現在はアメリカとカナダが2強を誇っていますが、当時のアメリカはほとんど学生で構成されていたチームでBグループでしたし、カナダはプロが出場できないことに反発して世界選手権をボイコットしていました。一方、当時はAグループのなかでもソ連*2)、チェコスロバキア(1993年にチェコとスロバキアに分離)が飛び抜けていました。その後にスウェーデン、フィンランドが続き、トップ4と言われていました。BグループにはAグループから降格した西ドイツやアメリカが続くという感じでした。現在は常にAグループにいるノルウェーやスイスも、そのころはBグループで、日本との実力は拮抗していました。近年のスイスは各チームにジュニア部門をつくって、そこで育成し始めたことで強化されてきたようです。

*2)ソ連:ソビエト連邦。1917年のロシア革命を起源に1922年に建国され、15の共和国が集まった社会主義国家。1991年に崩壊した

―― 大学3年生の時に1972年札幌大会のメンバーに入られました。チーム最年少21歳で出場した初めてのオリンピックはいかがでしたか?

実は、札幌大会の前年に、私は一度、日本代表を外されたことがありました。でも、日本Bチーム代表として日本代表と対戦した試合で引き分け、その試合で得点をした私は翌日には日本代表の合宿に呼び戻されました。それで翌年の札幌大会にも出場することができました。札幌大会には11カ国が出場し、世界ランキング1位のソ連を除いた10カ国で一発勝負の予選が行われました。勝った5チームはソ連を含めて6チームで決勝ラウンドが行われ、負けた5チームはリーグ戦による7-11位決定戦が行われたんです。最初の予選は世界ランキングに基づいて上位と下位が当たるようにたすき掛けで行われたのですが、世界ランキング11位だった日本は同2位のチェコスロバキアと対戦して2-8で敗れました。世界選手権では対戦することのなかったAグループのチーム、それも当時飛び抜けて強かったチェコスロバキアと戦って「これほどまでにAグループのチームは強いのか」と日本との実力差に驚いたことを覚えています。「普通に練習していただけでは、とても追いつかないな」と感じました。

―― 札幌大会の後、日本が世界トップに近づいた時代がありましたね。

1970年代は、私たち選手も「Aグループ昇格」を現実の目標として本気でめざしていました。特に1978年、ユーゴスラビアで行われた世界選手権では、5勝1敗1分でBグループ2位と、Aグループ昇格まであと一歩のところまでいきました。ポーランド戦に勝てばAグループ昇格だったのですが、試合時間残り数秒というところで失点してしまって引き分けてしまい、2位に終わりました。

1976年インスブルック大会に出場(右が本人)

1976年インスブルック大会に出場(右が本人)

―― そうしたなかで出場した1976年インスブルック大会(オーストリア)、1980年レークプラシッド大会(アメリカ)は、札幌大会の時とは手応えが違っていたのではないでしょうか?

いずれの大会もAグループにはまったく歯が立ちませんでした。特にソ連は圧倒的で、オリンピックの試合後にシャワー室で遭遇したソ連の選手の筋骨隆々とした身体を見て、「これでは当たったら痛いはずだ」と思いました。身長は日本人より低い選手ばかりだったのですが、体つきがまったく違いました。そのソ連をレークプラシッド大会では学生主体のアメリカが撃破し「ミラクル・オン・アイス」*3)を起こしました。その試合を目の当たりにして、いくら日本が強くなったとはいえ、海外との大きな差を痛感せざるを得ませんでした。私は現役引退後、1年間、カナダのナショナルチームに帯同させていただいことがありましたが、練習を見ていると、レベルから選手層から、なにもかもが日本とはまったく違いました。チーム内競争も激しく、ヨーロッパ遠征に帯同した際、試合後のコーチミーティングで評価が低かった選手が、翌日にはひとりで帰されたこともありました。またある時は、別の国に移動する際に、空港に集まったのが最初の半分ほどの人数しかいなかったこともありました。そして、次の遠征先には新たに招集された選手たちが待っていたんです。競技人口が少なく、替えが効かない日本では、そんなシビアなことは起こりません。

*3)ミラクル・オン・アイス:1980年大会のミネソタ大学の学生を中心とした米国代表が当時、最強を誇るソ連代表を4-3で破った試合を指す。当時、ソ連のアフガニスタン軍事侵攻で米ソの緊張が高まっていた時期で、米国内を興奮させた。金メダルを獲得した米国代表20人のうち13人がNHL入り。のち2002年ソルトレークシティー大会でこのチームが聖火を点火して話題になった

糧となったカナダ留学での突然のポジション転向

―― 大学卒業後は、国土計画に入社されました。引く手あまただったと思いますが、国土計画を選んだ理由はどのようなものだったのでしょうか?

大学1年生の時、それこそ私が日本代表の合宿に呼ばれるようになったばかりの時に、堤義明*4)さんに呼ばれ、「西武鉄道のチームを2つに分離して、国土計画のチームをつくろうと思っている。苫小牧東高校から法政大学に行った11人で新しく国土計画にチームをつくるから、君も大学卒業後には国土計画に入りなさい」と言われたんです。堤さんの話によれば、「5年後には優勝するチームになるから」ということでしたが、当時の私にはチーム結成5年で日本リーグで優勝するというのは突拍子のない話に思えて、その時は国土計画に入るつもりはありませんでした。当時の日本リーグは、西武がトップを走り、私の地元の古河電工は最下位の状態でした。その古河電工からも誘われていたので、子どもの時から慣れ親しんできた古河電工に入って力になりたいと考えていました。ただ、毎年のように堤さんからお声がけいただき、また日本代表の合宿では西武鉄道のチームに所属していた先輩からも「決めたか?」というようなことを言われていました。大学卒業間近になって改めて進路を決める際、優勝をかけて戦うようなチームで挑戦するか、あるいは古河電工でがんばるか、その二択を天秤にかけて考えました。その結果、「自分がどこまでやれるのか挑戦してみたい」という気持ちが一番強くあったので、強豪選手たちが集まった国土計画に行くことに決めました。

*4)堤義明:昭和後期から平成の時代を代表する経営者。国土計画を中核とした西武鉄道やプリンスホテルなど70社以上からなる西武鉄道グループのトップとして、不動産、ホテル、スポーツ・レジャー施設などの事業を展開。日本スポーツ界の重鎮でもあり、プロ野球・西武ライオンズの球団オーナーや、日本オリンピック委員会初代会長を務めた

ブリティッシュ・コロンビア大学時代

ブリティッシュ・コロンビア大学時代

―― 入社1年目の1973年には、1年間、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学にアイスホッケー留学をされました。

カナダでは、留学してすぐに突然ポジション転向を言い渡されました。私は中学時代からずっとウイング(主に攻撃を担当するポジション。シュートを打ったり、パックを持って相手ゴールに切り込んで行く役割)でした。カナダでも初めての試合はウイングで出場したのですが、試合を終えて大学に戻ってくると、監督からこう言われました。「ウイングとしては使えないから、明日からセンターをやりなさい」と。当時カナダのアイスホッケーは、相手キーパーが出てきたらシュートをしてリバウンドをたたく、というのが主流でした。ところが、私はそれまで日本代表ではソ連スタイルのプレーを教わっていましたので、キーパーが出てきたら空いている選手にパスを出して確実に得点を取るスタイルでプレーしていました。ところが、そうするとカナダでは「なぜ、自分でシュートを打たないんだ!」とみんなに叱られました。それでも私は空いている選手にパスを出したほうが得点の可能性が高いと考えて、直しませんでした。そうしたところ、最初の試合から帰ってきた時にセンターへの転向を命じられてしまいました。当時の試合は3ビットのため4つ目のセンターだった私はそのままでは試合に出ることができません。それで練習でアピールしようと必死になって得点を挙げていたところ、一気にひとつ目のセンターに抜擢されました。そのひとつ目のセットにはシュートが上手い選手がいましたので、私は彼にパスを出すようにしました。それでまた監督には「なぜ自分でシュートを打たずにパスをするんだ!」と叱られましたが、気にせずにプレーしていたところ、結局はそのまま1年間、ひとつ目のセットでプレーさせてもらうことができました。ただ一度、センターを外されそうになったことがありました。試合で3回連続フェイスオフ(ピリオドの開始時や、中断からプレーが再開する時に、両チームの選手が1対1で審判が投げ入れたパックをスティックで奪い合うこと)に負けたために「センターがフェイスオフに負けていたら試合にならない」と言われてしまったんです。それで初めてフェイスオフの重要性を知り、猛練習しました。

―― アイスホッケーの総本山であるカナダのアイスホッケーは、日本とはどういう部分に違いを感じましたか?

相手に当たりに行くコンタクトプレーが良しとされるアイスホッケーでした。私はどちらかというと当たるのが嫌だと考えていたので、相手から当たりに来られる前に、空いている選手にパスを出して走るというソ連スタイルでの「パス・アンド・ゴー」のプレーをしていました。それでも得点を取っていたので、試合に出してもらえていたのだと思います。

―― 1年後に帰国して、国土計画に戻ってプレーをされました。当時、国土計画にはカナダから来日したメル若林*5)さんや、テリー・オマリー*6)さんが所属していました。

彼ら2人の影響は少なからずあったと思います。彼ら以外にもカナダから来た選手が何人か国土計画に所属していましたが、やはり粗いプレーが多かったように思います。しかしメルは、どちらかというとプレーがパスを重視した細かいアイスホッケーをする選手でしたね。

*5)メル若林:若林仁。カナダ出身の日系人。1967年から西武鉄道に加入し、日本リーグに出場。1972年には国土計画に移籍してプレー。現役引退後は、国土計画の監督や、日本アイスホッケー連盟副会長兼強化本部長を務めた

*6)テリー・オマリー:カナダのアイスホッケー選手。1964年インスブルックオリンピックに出場し4位。1968年グルノーブルオリンピック銅メダル。その後来日し、西武鉄道、国土計画でプレー。1998年国際アイスホッケー連盟殿堂入り

日本リーグ・コクド優勝時集合写真(前列左から4人目が本人)

日本リーグ・コクド優勝時集合写真(前列左から4人目が本人)

―― 当時の日本リーグに人気があったのは、日本と海外のスタイルが融合したアイスホッケーに面白さを感じていたからだったのではないでしょうか。

そうだったと思います。王子製紙に所属していたウラジミール・シャドリン、ユーリィ・リャプキン(ソ連)は1976年インスブルック大会後に来日したと記憶していますが、ソ連の金メダル選手を相手にするわけですから、対戦するこっちからすれば大変でした。ただ、その分観客は見ていて楽しかったと思います。

―― ちなみに堤さんは「5年目で優勝する」とおっしゃっていましたが、国土計画が初優勝をしたのはいつだったのですか?

創設3年目の1974年に、リーグ初優勝を遂げました。さらに翌1975年の全日本選手権では全勝で優勝し、そのシーズンは二冠を達成しました。

引退記念試合後の挨拶

引退記念試合後の挨拶

―― 1988年に現役を引退されました。競技生活に終止符を打つ決め手となったものは何だったのでしょうか?

35歳の時に結婚して、その時に「今シーズンは三冠を獲るぞ」と意気込んでいました。結果的にポイント数(ゴールポイントとアシストポイントを足したもの)と得点ではタイトルは獲れましたが、アシストのみでは2ポイントほど足りませんでした。ただ35歳にして得点王を獲れたのは、嬉しかったです。実はそのシーズン中、練習をしていた時に「ここを狙って打てば、必ず入る」というポイントを見つけたんです。それはゴールキーパーの肩付近。そうするとキーパーは咄嗟にグローブをはめた手で取ろうとします。でも距離がある分、手を肩に持って来た時にはすでにパックはゴールのなかに入ってしまっているんです。そのシュートを必ず決めるために、試合前の練習ではリンクにしゃがみこんでパックからはどういう角度なのかを確認していました。というのも、立ち上がった時の私の目で見る角度と、実際に打つパックとでは高さが違います。そうすると、自分の目からだけの感覚ではしっかりと狙うことができないからです。こうした"気づき"もあって、そのシーズンは得点を量産することができました。その3年後の1988年に現役を引退しましたが、前年には史上初の日本リーグ通算450ポイントを達成していましたし、まだプレーできると考えていたので、私としてはもう1年やるつもりでいました。その年の春には全日本の監督に就任していましたが、日本代表の指導をしながら、リーグ戦に向けて夏場も練習をしていたんです。それこそ今日からチーム練習が始まるという前日まで、トレーニングに励んでいました。ところが、チーム練習初日、お昼に堤オーナーから監督と私が呼ばれ、練習前だというのにお酒を出されたんです。「これから練習があるので、お酒は結構です」と断ったら、「いや、今日から選手は辞めて、全日本の監督に専念しなさい」と言われて驚きました。その時は「あと1年だけやらせてください」と粘ったのですが、あまりしつこく言うとオーナーが気分を害するだろうからと諦めまして、その日に現役を辞めることになりました。

西武ライオンズ球団代表時代(左端黒岩彰広報担当、左から2番目本人、中央堤義明オーナー、右端伊東勤監督)

西武ライオンズ球団代表時代(左端黒岩彰広報担当、左から2番目本人、 中央堤義明オーナー、右端伊東勤監督)

―― 全日本監督を退任したあと、1991年には系列の西武ライオンズに移り、広報部長、ライオンズ球場支配人、球団代表などを歴任し、2004年にはオーナー代行兼社長に就任されました。まったく畑違いのプロ野球の世界に入ったきっかけは何だったのでしょうか?

私がまだ20代の時、腰を悪くして動けない状態が続いていた時がありました。それこそ引退を覚悟するほど症状が悪化しており、チームが軽井沢で合宿をしている間、治療で病院に通っていました。そうしたところ、ある日会社に出勤すると堤会長から「人手不足だからプロ野球の広報を手伝ってきなさい」と言われました。その時に当時まだ現役だった東尾修*7)とも、よく話をするようになったんです。その後、私が現役を引退し、全日本の監督も退任したタイミングで、会社から「アイスホッケーに携わるか、会社の仕事をするか、どちらがいいんだ?」と聞かれ、私は会社での仕事を選択しました。それで国土計画の広報部に配属になり、西武ライオンズや日本体育協会(現・日本スポーツ協会)に通いました。1995年に東尾が西武ライオンズの監督に就任が決まった際、堤さんから「ライオンズの広報になって、東尾のチームづくりを手伝ってきなさい」と言われました。現役時代に東尾と顔見知りになっていなければ、私が任命されることもなかったと思います。3年ほど広報を務めたのち、当時の球場支配人が突然お亡くなりになられて、その日に堤さんから「今日からオマエが支配人だ」と。そのシーズンの開幕直前、巨人とのオープン戦が始まるという日でした。その後も堤さんの"鶴の一声"で、球団役員を務めることになりました。

*7)東尾修:元プロ野球選手。ライオンズ一筋にエースとして活躍。MVPや最多勝など数々のタイトルを獲得し、通算251勝を挙げた。現役引退後、1995年から7シーズン監督を務めた。常にAクラス入りし、2度のリーグ優勝に導いた

―― 選手層が厚いプロ野球の世界を見られて、「アイスホッケーにも」という思いもあったのではないでしょうか。

どの選手を見ても「アイスホッケーをしていれば、日本代表のエースになれるのに」という選手がたくさんいました。練習の内容からすれば、アイスホッケーのほうが断然厳しいものがありますが、身体能力の高さは一級品。1kgもある木製バットをフルスイングするのは、簡単そうに見えて、それだけのパワーが必要ですし、体幹の強さも不可欠。球団に入って、初めてそうしたプロ野球選手のすごさを感じました。

低迷が続く日本アイスホッケー界の実情

―― 日本のアイスホッケー界は大変厳しい状況にありますが、星野さんはどのように感じていらっしゃいますか?

私が現役時代のころは、日本の男子は世界では11位あたりの位置にいましたが、現在は25位にまで低迷しています。ソ連やチェコスロバキアなど共産圏の国が解体し、ヨーロッパの選手の多くがNHL(ナショナルホッケーリーグ。北アメリカのプロアイスホッケーリーグで、アメリカとカナダのプロチームで編成される)でプレーするなど強化が進んでいることもあって、日本との差は広がる一方です。現在、日本では実業団チームを前身とするクラブチームがあり、ほとんどの選手がプロ契約をしていますが、チーム数があまりにも少ないのが実情です。企業を母体とする実業団チームも消滅したため、大学でアイスホッケーをやっていても、その後の就職先がないということで、学生にとっても非常に厳しい状況です。ディビジョン1に所属する強豪の大学でレギュラーになるような優秀な選手でも、就職活動のために途中で辞めてしまう選手も少なくありません。苫小牧、釧路(いずれも北海道)、八戸(青森)、日光(栃木)と、もともとアイスホッケーが盛んだった地域でも、今では競技人口が非常に少なくなっています。高校では単体では試合に出られないというほどの人数しかいないアイスホッケー部も増えてきました。

全日本監督時代

全日本監督時代

―― アイスホッケーは寒い地域で発展してきたという競技の特性があります。その分、広く普及するのは非常に難しいとされてきましたね。

寒い地域でなければアイスホッケーができないわけではありません。屋内競技ですので、例えば沖縄でもアイスホッケーはできます。実際に沖縄県南風原町の「エナジックスポーツワールドサザンヒル」という総合レジャースポーツにはリンクがあり、アイスホッケーができます。また沖縄県で唯一アイスホッケー部がある琉球大学は、男子は2021年には九州学生選手権で優勝していますし、女子は全国大会で表彰台に上がるなどトップクラスの実力校です。さらに今年2月に青森県八戸市で行われた特別国民体育大会冬季大会には、少年男子で4年ぶりに九州ブロックを勝ち抜いた沖縄県代表が出場しました。実は私が現役時代に一緒に日本代表として活躍した三沢悟(1980年レークプラシッド大会に出場)は北海道出身ですが、2013年に沖縄に移住し、現在は「琉球ウォリアーズ」というチームの総監督を務めています。一方、東京ではリンクが減少傾向にあり、学生が練習する場所が失われつつあります。現在、東京のリンクは明治神宮アイススケート場、東伏見のダイドードリンコアイスアリーナ、東大和スケートセンターの3カ所だけです。そのために練習場所を確保するのが難しく、大学リーグの下部のチームは夜中や早朝にしか予約が取れず、朝の4時から練習ということもざらにあります。

―― 競技人口が減少傾向にあるのは、企業という受け皿がないということが最大の原因になっているのでしょうか?

おっしゃる通りです。高校からアイスホッケーを始める選手も少なくないのですが、その時点では卒業後は大学でプレーするという目標を立てることができます。ところが、前述した通り、大学卒業後にプレーを続ける道があまりにも少なく、「アイスホッケーをやっても、めざす先がない」と辞めてしまう選手があとを絶ちません。

―― ひと昔前は、王子製紙や日本製紙、雪印(現・雪印メグミルク)といった北海道に拠点を置くチームがあり、関東には西武鉄道と国土計画がありました。しかし、企業の経営状態が厳しくなったことと比例して、アイスホッケーチームの廃部が相次ぎました。日本リーグも2004年を最後に休止となりました。

現在は、日本、韓国、ロシアの3カ国でのアジアリーグが行われていますが、メディアの露出は激減しました。世間一般的には「アイスホッケーはいつやっているんだろう?」となっている状態です。

「氷友会」前列左から2人目が本人(2004年)

「氷友会」前列左から2人目が本人(2004年)

―― 以前は新聞社、テレビ局の各マスコミには必ずアイスホッケー担当の記者がいて、日本リーグを取材していました。なかでも元NHKアナウンサーの西田善夫*8)さんは、アイスホッケーの実況でもご活躍されました。

昔は年に何度か氷友会というアイスホッケーの各担当記者の集まりがあり、私も何度もお邪魔させていただいて、マスコミの方と一緒に食事をすることがよくありました。それこそ西田さんとは昔からの付き合いで、旧知の仲でした。

*8)西田善夫:NHKのスポーツアナウンサーとして、オリンピックほか多くの国際大会、国内大会の実況を担当。1978年放送開始の「スポーツアワー」では初代キャスターを務めた

―― 西田さんをはじめ、担当記者の皆さんもアイスホッケーに情熱を注ぎこんでいる方がたくさんいました。ところが、今ではアイスホッケーの現場ではマスコミの姿はほとんど見かけなくなりました。

本当に寂しいですね。メディア露出がないので、私たちのような元日本代表選手でも、アンテナを張っていないと、いつ試合をやっているのかわからないほどです。

―― これほどの寂しい状況になったのは、日本リーグがなくなったころからでしょうか?

日本リーグがなくなったことが本当に大きかったと思います。直後にアジアリーグをつくりましたが、コロナ禍で一時試合が行われなくなってしまったことも響いていると思います。現在はアジアリーグが通常通り開催され、日本からはH.C.栃木日光アイスバックス、ひがし北海道クレインズ、レッドイーグルス北海道、東北フリーブレイズに加えて、2020-21年度シーズンから神奈川県横浜市を拠点とするプロチーム横浜GRITSが新しく参入したりしています。しかし、厳しさは変わってはいません。やはり東京を拠点とするチームがひとつもないというのが、メディア露出や観客動員の少なさに大きく影響しているように思います。

2022年北京オリンピックに出場した日本女子チーム(スマイルジャパン)

2022年北京オリンピックに出場した日本女子チーム(スマイルジャパン)

―― その一方で"スマイルジャパン"という愛称で親しまれている女子日本代表は、近年ではめざましい活躍を遂げています。2018年平昌大会(韓国)でオリンピック初勝利を挙げ、2022年北京大会(中国)では2勝を挙げて準々決勝進出を果たしました。

女子は世界的にはアメリカとカナダが飛び抜けていますが、それ以外の国は拮抗しているので、日本にもチャンスがあります。実際ヨーロッパのチームとは、日本は接戦を演じるなど、実力的には非常に拮抗しています。今後、日本が表彰台に上がることも十分に可能性があります。ただアメリカ、カナダのレベルはあまりにも飛び抜けていて、この2カ国の牙城を崩すのは非常に厳しい。3位までは可能性はありますが、そこから上を狙うとなると、選手層や体力の差が浮き彫りとなり、難しいというのが現状です。

―― コロナ禍で開催された2022年北京大会は、原則無観客のなかで試合が行われました。オリンピックの盛り上がりを肌で知っていらっしゃる星野さんは、どのように感じられましたか?

選手というのは、観客に見てもらえているからこそモチベーションが高まりますし、応援の声が聞こえてきただけで力が沸くものなんです。それこそひとつのプレーで会場中にこだまするような大歓声が鳴り響くのがオリンピックの本来の姿ですので、無観客のなかでの試合は、選手たちにとっては気持ちの面でとても厳しい戦いだったと思います。そのなかで女子日本代表は2勝を挙げて、準々決勝に進出しました。本当によくやったと思います。

チャンスを逃した日本アイスホッケー界の厳しい現状

1998年長野オリンピック、日本対ベラルーシ

1998年長野オリンピック、日本対ベラルーシ

―― 翻って男子日本代表は、冬季オリンピックには1998年長野大会を除き、海外での開催に限れば10大会連続で出場を逃している状態です。日本がオリンピックの舞台に戻れるようになるには、今後どうしたらいいでしょうか?

現在、日本のクラブチームはアジアリーグに参加していますが、本来は日本リーグが行われるのが、一番いい形であるように思います。そして、大学の強化に注力すること。そうすれば、大学のアイスホッケー界に魅力を感じた高校生、中学生が増え、底辺が拡大します。そこにジュニアチームでの育成が加われば良いと思いますが、共働きの家庭も多いなかで、保護者が毎日のように子どもの送り迎えをするのもなかなか難しい現状があります。競技人口は右肩下がりで、ひと昔前はアイスホッケーが盛んだった苫小牧でさえもひとつの中学校では部員数が足りず、試合に出られません。高校さえも複数の学校で合同チームをつくらなければ試合に出られない状況です。

―― 指導について、何か感じていることはありますか?

私の意見としては、子どもには自由に伸び伸びとプレーさせてあげてほしいと思っています。指導者のなかには、あれこれと細かい技術指導をする方がいますが、まずは好きなようにやらせてあげること。そうすれば、自ずと良いものが出てくるはずです。昔、NHLのスカウトに「若い選手のどこを見て採っているんですか?」と聞いたことがありますが、彼は「体のサイズ」と答えていました。1990年に桑原ライアン春男*9)という選手が18歳でNHLのモントリオール・カナディアンズにドラフト2位で指名されました。それ以前に彼のプレーを見たことがありましたが、当時はとても上手いとは言えませんでした。それでもなぜドラフト上位で採ったのか、モントリオールのスカウトに聞いたところ、やはり「サイズだ」と。結局、彼はその後に技術的にも成長して、1998年長野大会では日本代表としてプレーしました。彼の活躍を見ても、ジュニア時代は下手でも自由にプレーさせていたほうが、その後の伸び代は大きいように思います。

*9)桑原ライアン春男:父親が日本人、母親がカナダ人のハーフで、NHLでプレーしたのちには来日してコクドに入団。日本国籍を取得し、1998年長野大会には日本代表として出場した

―― その1998年長野大会は、当時J0C(日本オリンピック委員会)会長だった堤義明さんのご尽力もあって、アイスホッケーでは初めてプロ選手の参加が認められたオリンピックでした。NHLもリーグを中断することを決断し、スーパースターがカナダやアメリカの代表としてオリンピックに出場したことで大変盛り上がりました。その長野大会を機に、日本のアイスホッケー界への関心も高まるのではないかと期待されましたが、残念ながら状況は変わらず、今に至っています。

正直なことを申しますと、日本アイスホッケーがオリンピックに"おんぶに抱っこ"状態で、自分たちでは何もしなかったことが、一番の原因だったと思います。せっかくオリンピックで女子日本代表が躍進しても、オリンピックが終わればそれでおしまいというのではなく、継続した選手強化が必要です。同じスケート競技のフィギュアスケートやスピードスケートでは、さまざまな活動が行われています。だからこそ今も世界のトップレベルにありますし、人気が高いのだと思います。

星野好男(当日のインタビュー風景)

星野好男(当日のインタビュー風景)

―― 現在、日本でのリーグ戦は、韓国、ロシアとのアジアリーグという形で行われていますが、これについてはいかがでしょうか?

アジアリーグに参戦しているのは7チームですが、韓国、ロシアからは1チームずつで、残り5チームは日本のクラブチームです。ほとんど日本のリーグであると言ってもいいくらいですので、私は思い切って日本リーグを復活してもいいように思います。そこに大学のチームを参入させるんです。人数不足で試合に出られない大学は、複数の大学でチームを結成してもいいと思います。大学生が社会人との試合を重ねることで、実戦経験を積むことができますし、強化にもつながります。大学同士の垣根を越えるのはさまざまな問題があるかもしれませんが、今すぐに抜本的な改革を推し進めなければ、日本アイスホッケー界はこのまま廃れていく一方です。

―― 日本ではアイスホッケーの魅力が伝わりきれていないように思います。

「氷上の格闘技」と言われているアイスホッケーは、激しいぶつかり合いで危ないスポーツというイメージを抱いてしまい、特に親御さんからは敬遠されがちです。もちろんケガはします。ただ、ほかのスポーツでもケガはつきものです。それでもアイスホッケーは、若い時にしかできないといったものではありません。70代の私は今もプレーしています。実は37歳で現役を引退したあと、20年間ほどはまったくリンクの上に立っていませんでした。ところが、60歳くらいの時に「人数が不足しているから来てくれ」と友人に頼まれて試合に出たのをきっかけに、またアイスホッケーを始めたんです。20年以上もブランクがあって、その間、ほとんど運動はしていませんでした。でも久しぶりにリンクに上がったら意外とプレーできて楽しむことができましたし、試合後は爽快感がありました。

―― 2030年の開催をめざしている札幌オリンピック・パラリンピックについては、どのようにお考えでしょうか?

ぜひ開催してほしいと思いますし、それに向けて今からアイスホッケーも強化に取り組んでほしいと思います。1972年札幌大会の時には、ロシア、ヨーロッパ、カナダと2カ月間、転戦したことがありましたが、それくらいやっても世界の壁は厚かった。それを考えると、今から始めても、決して早いということはないと思います。ましてや、現在のオリンピックでは、予選は2グループに分かれてのリーグ戦ですので、勝つチャンスがあります。それは2022年北京大会で準々決勝に進出した女子日本代表が証明してくれました。また、オリンピック・パラリンピックが閉幕したあとも、1998年長野大会のようにそれで終わりで尻すぼみになるのではなく、オリンピックをスタートにして普及・育成・強化の体制を推し進めてもらいたいと思います。

―― 超高齢化社会となった日本では「健康寿命」の重要性が叫ばれています。現在もアイスホッケーを続けている星野さんの健康の秘訣を教えてください。

やはり体を動かし続けていることが、健康につながっていると思います。私のチームの最高齢は78歳ですが、元気に沖縄にも行きますし、今年はカナダを訪れる予定です。東京では「東京都オールドタイマーアイスホッケー大会」が行われており、50代が参加資格の「0-50」と、60代以上の「0-60」の2部門に分かれてリーグ戦が行われています。今シーズンは0-50には9チーム、0-60には6チームが参加しています。私たち70代ばかりのチームも、60代の人を相手に試合をしているわけですが、なかなか大変です。ただ、カナダでは80代で現役という人がいたりします。私は今年で73歳になりますが、これからもできる限り長く続けたいと思っています。

―― 最後に、星野さんが後世に伝えたい、残したいものとは何でしょうか?

アイスホッケーはアメリカではアメリカンフットボール、バスケットボール、野球と並んで人気の高い"4大プロスポーツ"となっています。それほど魅力が詰まったスポーツだということを、日本人にも広く知ってほしいと願っています。屋内競技ですので、沖縄でもクラブチームが活動しているなど、寒い地域に限らずどこででもできます。チャンスがあれば、ぜひ一度経験してほしいと思いますし、試合を見ていただきたいと思います。

  • 星野 好男氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)
熊谷一弥氏、テニスのシングルスで銀メダル、熊谷一弥氏、柏尾誠一郎氏、テニスのダブルスで 銀メダルを獲得

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
内藤克俊氏、レスリングで銅メダル獲得
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
日本女子初参加
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)*日本は敗戦により不参加
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950星野 好男氏、栃木県に生まれる
  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1972星野 好男氏、札幌オリンピック大会に出場(日本史上最年少21歳)
  • 1973星野 好男氏、明治大学を卒業し、国土計画株式会社へ入社
    星野 好男氏、ブリティッシュコロンビア大学へアイスホッケー留学
  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976星野 好男氏、インスブルックオリンピックに出場
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1980星野 好男氏、レークプラシッドオリンピックに出場
  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1987星野 好男氏、アイスホッケー史上初の日本リーグ通算450得点を達成
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1988星野 好男氏、現役を引退
    星野 好男氏、全日本監督に就任
  • 1991星野 好男氏、西武ライオンズフロントに入る
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)
1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1994星野 好男氏、西武ライオンズ広報部長に就任

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2004星野 好男氏、西武ライオンズオーナー代行兼社長に就任
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2007
平成19
第1回東京マラソン開催

  • 2007星野 好男氏、川奈ホテルゴルフ場支配人に就任
2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2010星野 好男氏、プリンスホテル顧問に就任
  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2013
平成25
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期
2021
令和3
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2022
令和4
北京オリンピック・パラリンピック開催(冬季)