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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」

「あと一歩」まで道を切り開いた北沢と黒岩
─日本のスケートに「可能性」示した2人─

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2023.11.16

 スポーツの世界で、ひとつの国が頂点をきわめるまでには、たいがいの場合、かなりの長い年月を要する。一足飛びに、というわけにはいかない。まず土台をつくる者たちがいて、次のステップ、その次のステップへと地道に上っていく者たちがいて、さらに、上位にあと少しまで迫りつつ、頂点に続く進路を指し示す役割を果たす者たちもいる。チャンピオンの栄光をたたえる時には、一方で、そこまでの道を切り開いた者たちの奮闘をも忘れてはならないということだ。

 日本のスピードスケートは、1998年の長野大会で、ついに世界の頂点に上り詰めた。男子500mで清水宏保が金メダル獲得の快挙をなし遂げたのである。1928年の第2回大会で日本が冬季オリンピックに初参加して以来、ちょうど70年目で悲願をかなえたのだ。もちろん、この場合も、そこまでの土台や基礎を築いた者たちのことを忘れるわけにはいかない。ここでは、清水の快挙の少し前に、トップまであと一歩と迫った選手たちのことを語ろうと思う。未踏峰を目指す登山隊が、多くの隊員による何回ものアタックの末に初登頂を果たすように、彼らの奮闘もまた、頂点の直下まで到達することによって、のちの栄光をもたらす助走となったのである。

 冬季オリンピックにおける日本のスピードスケート陣は、早い時期から短距離種目で存在感を示していた。石原省三が500m4位に食い込んだのは、1936年のガルミッシュ・パルテンキルヘン大会。日本が出場するようになって3回目の第4回大会で、早くも上位と互角に近い勝負をしたのだ。そこから3大会は、出場そのものができなかったが、日本が復活出場を果たした1952年オスロ大会では、やはり500mで高林清高が6位に入っている。以後、500mは世界と互角に戦える得意種目となり、1964年インスブルック大会では新進気鋭の鈴木恵一が5位に入賞した。

 だが、オリンピックのメダルはなかなか手に入らなかった。その後、鈴木は、世界選手権の500mで優勝し、世界記録もマークして第一人者となっている。それでも、金メダルの本命といわれて臨んだ1968年グルノーブル大会では、レース中の不運もあって8位にとどまった。1972年札幌大会でも上位進出は果たせなかった。日本のスケート陣にとって、オリンピックのメダルは、近くに見えるように思えると不意に遠ざかってしまうものであった。

1984年サラエボ冬季大会、雪の中の男子500m。コーナーで加速する黒岩彰

1984年サラエボ冬季大会、雪の中の男子500m。コーナーで加速する黒岩彰

 そこに登場したのが黒岩彰である。群馬県嬬恋村の出身で、中学時代から頭角を現し、嬬恋高で一気に成長。専修大に入るとすぐに日本のトップにのし上がり、3年の時には1983年世界スプリントで総合優勝を飾って、期待を一身に集めるようになった。若さ、力強さ、勢い、上昇力。すべてを持ち合わせた若武者には、新たな歴史をつくるヒーローの匂いがしていた。翌84年にはサラエボが待っている。オリンピックのメダルという日本の悲願をかなえてくれるのは黒岩彰だと、多くのスケート人が確信を抱いたに違いない。

 だが、運命はこの若者に過酷だった。ほぼ万全の態勢で迎えた1984210日のサラエボ大会第3日。男子500mはゼトラ・リンクで行われ、黒岩はライバルのウラジミル・コズロフ(ソ連)との同走の第4組で登場した。ところが、メダルをつかもうとする彼の前に、いくつもの障害が現れるのだ。

 当日、サラエボは雪が降りしきる悪天候で、競技開始は5時間半も遅れた。リンクには雪が薄く積もるという悪条件。しかも、不利といわれるアウトスタート。加えて、黒岩は想像を絶する重荷を背負っていた。

 1年前に世界スプリントを制して以来、彼はいつもメディアの取材に囲まれていた。レースや練習の時だけでなく、ふだんの生活の中にも入り込んできたという。本人はそれを気にする素振りをほとんど見せなかったというが、四六時中、カメラの標的となっているような状況がプレッシャーにならないわけがない。スケート初のメダルへの期待がメディアの過剰取材を生み、しだいに彼の足を引っ張るようになっていたというわけだ。

 勝負のレースはまったく精彩のないまま終わった。スタートで遅れ、ミスも出て3870。第1組で滑ったセルゲイ・フォキチェフ(ソ連=当時)とは051の大差がついた。顔を覆う黒岩。最終順位は予想もしなかった10位だった。「どうやって滑ったのか覚えていません」。当時の新聞には、レース後の言葉としてそれだけが残っている。

 ちょっとした条件の違いやわずかなミスで順位もタイムもガラリと変わってしまう500m。なのに、4年に1度しかない大勝負を決するのはただ1回のレース(その後、2回のレースとなったが、また1回に戻った)。ただでさえ過酷な重圧を背負ってきた22歳の若者である。悪天候など不利な条件が重なる中、どう転ぶかわからない一発勝負の場に立たされた苦しさはいかばかりだったろうか。それまで大きな挫折もなく、順風満帆で世界の上位まで駆け上ってきた若武者は、よりによって、最大の目標としてきたひのき舞台で初めてのつまずきを味わうことになったのだ。

 その2年後、筆者の取材に対して、黒岩が挙げた失速の原因はふたつあった。ひとつは、本番2週間前の競技会で調子を上げ過ぎたことによる調整のずれの影響。もうひとつは「サラエボで納得いくトレーニングができなかったこと」だ。精密に、完璧に積み重ねてきた調整が、直前になって微妙にずれたり狂ったりしたことが、結果としてすべてを奪ってしまったとは、なんという残酷さだろうか。

 オリンピックのメダルという日本スケート界の悲願は、これによってあっさりと消え去ったかに見えた。が、予想外のドラマがすぐ後に控えていた。黒岩の第4組の直後、第5組で滑った北沢欣浩が3830の好タイムをたたき出したのである。

 第1組のフォキチェフに011と迫る二番手のタイム。その時点ではまだ後の組に強豪が残っていたが、悪コンディションもあって誰も上回れない。ついにレースが終わって、銀メダルが北沢の手に落ちた。こうして、日本が待ちに待ったオリンピックの表彰台が現実のものとなった。

1984年サラエボ冬季大会、男子500mで銀メダルを獲得した北沢欣浩

1984年サラエボ冬季大会、男子500mで銀メダルを獲得した北沢欣浩

 釧路生まれ、21歳の法大3年生。その前年に急成長してオリンピック代表に選ばれていたが、1歳上の黒岩の陰でほとんど注目されないままサラエボ大会に臨んだ。それまでのキャリアから「一発勝負に強い」といわれていたダークホースが、まさしく大舞台での一発勝負で持ち味を発揮したというわけだ。とはいえ、新聞各紙に「新星」「伏兵」「うれしい“誤算”」などの見出しが躍ったのは、スケート関係者でさえ、この結果はまったくの予想外だったのを示している。

 「(雪は)やまないんですよ。けっこう降りは強かったですね。一組ごとに除雪して。それでも全然追いつかない。降って降って」

 「いままでに経験したことのないような緊張をしました。がちがちになって。うわーっ、これがオリンピックか、という感じで。前の組を見るどころじゃない、自分のことで精いっぱいでした」

 「だけど、不思議に、冷静にスタートラインに立てたという感じでした。スタートも、あの状態で、悪くなかった。氷がやわい感じで、エッジが刺さるような。それだったら、滑らすより走った方がいい、と。それで、走って走って。自分は持久力ないし、すぐ脚にきちゃう。でも、不思議とあの時に限っては、ね。ああいうレースになるとは思わなかった」

のちに、筆者のインタビューにこたえて語ってくれた言葉からは、本人でさえ分析し切れなかった、不思議な勝負の綾が伝わってくる。快挙を伝える新聞記事には、「『信じられない』を連発」「夢を見ているような表情」とも。レース前には「10位以内ならいいなと思っていた」という無欲も、伸び伸びと実力を出し切るための力となったのだろう。

 4日後の1000m9位に終わった後の新聞には、「これがオリンピックだ、ということがよくわかりました」という黒岩の言葉が載っている。そこでしか起き得ないような不思議がしばしば現れるのがオリンピックというものだ。失意のエースも、思いがけない栄光を手にした伏兵も、ともに、そのことをしみじみとかみしめたに違いない。

 そして、ここから黒岩彰の再起の物語が始まる。到底立ち直れそうもないとも見えた挫折を乗り越えて、彼は4年後を目指したのだ。

 黒岩はサラエボでの失敗に正面から向き合った。練習で培ってきたスケートそのものの実力が、世界のトップレベルに達しているのは疑いない。では、その蓄えた力を大舞台で出し切るには、いったいどうしたらいいのか。そこで取り組み始めたのが、メンタルトレーニング、イメージトレーニングだった。

 当時、メンタルトレやイメージトレはまだ一般的ではなかった。が、自分をコントロールして、大目標とする試合で実力を出し切るには何が必要なのかを突き詰めていくと、答えはおのずとそこに行き着いた。専修大を出て社会人となった黒岩は国土計画に所属して再起の道を一歩ずつ踏みしめていった。2シーズンにわたって、ただ一人で海外を転戦したのも、どんな状況にも対応する力、苦境にも動じず自らをコントロールする能力を磨くためだったと思われる。その結果として「やるべきことはすべてやった」という自信が身についた。そのうえで、「誰が勝っても、心から祝福できる心境」に到達したのは、「自分がやるべきことはやったのだから、どういう結果になろうと悔いはない」の思いが、心の中にどっしりと根を張っていたからだろう。

 1988年冬、黒岩は2度目のオリンピックへと赴いた。男子500mのレースに臨んだのはカルガリー大会第2日の214日。第4組のアウトスタートは、4年前の挫折の日とまったく同じだった。

 スタートで黒岩はやや遅れた。が、4年前に比べて心身ともに成長していたスプリンターは、いささかも慌てずに自らをコントロールし、本来の滑りを取り戻すと一気に加速した。ゴールのタイム表示は3677。圧倒的な力を見せて世界新をマークした同走のウーベイエンス・マイ(東ドイツ=当時)には後れを取ったが、自己新のタイムは、かねての念願通り、持てる力を出し切ったことを示していた。「100点をつけていい」とは、レースを振り返っての自己採点。手ひどい挫折を真正面から見つめ、やるべきことをすべてやり切ろうとした4年間の精進は、こうしてオリンピックの銅メダルとなって実った。

 それにしても、あれほどの挫折からのみごとな再起は、日本のオリンピック史上でも特筆されるべき一例と言っていい。「勝つか負けるかは、どうでもいいと思っていた」「今日は、悔いの残らないものにすることに集中した」「私のスケート生活には悔いがなかったといえる」――500mの直後や、4日後の1000mに出場して現役引退を発表した時に、新聞紙上に残したコメントからは、サラエボからの4年間で、この選手がいかに大きな人間的成長を果たしたかがうかがえる。

 カルガリーから帰ってきた黒岩は、筆者の取材にこたえて語ってくれた。

 「力を出し切ったという実感がありました。2位とは100分の1秒差でしたけど、その100分の1秒にも悔いはありませんでした」

 「トップの56人というのは、この大会に向けて、やることはすべてやってきた人間です。そこまで努力を重ねてきた者が、やるべきことをすべてやったというところで、勝負は終わっているんです」

 「サラエボで負けたおかげで、素晴らしい4年間を過ごさせてもらえました」

 オリンピックにおける日本スケート初のメダルとなった北沢欣浩の銀。2番目とはなったが、その重みは誰もが認める黒岩彰の銅。2つのメダルが実に貴重なものだったのは、それらが、オリンピックの表彰台はすぐ近くに、手の届くところにあるのを日本スケート陣に教え、それによって後輩たちの豊かな潜在能力を解き放つ役割を果たしたからだ。

 カルガリーに続く1992年アルベールビル大会の男子500mでは黒岩敏幸が銀、井上純一が銅メダルを獲得。1994年リレハンメル大会では同じく堀井学が銅メダルを得た。その勢いと実績がスケート界全体の自信へとつながり、1998年長野大会で清水宏保を後押しして、ついに金メダルに結実することになる。快挙の伝説を思い出す時には、頂上直下まで達した者たちによって道が切り開かれ、頂点へと通ずる扉が指し示されたことにも、いささかの思いを致したいものだ。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐藤 次郎 スポーツジャーナリスト

    1950年横浜生まれ。中日新聞社に入社し、同東京本社(東京新聞)の社会部、特別報道部をへて運動部勤務。夏冬6 回のオリンピック、5 回の世界陸上選手権大会を現地取材。運動部長、編集委員兼論説委員を歴任。退社後はスポーツライター、ジャーナリストとして活動。日本オリンピック・アカデミー(JOA)正会員。ミズノ・スポーツライター賞、JRA馬事文化賞を受賞。著書に「東京五輪1964」(文春新書)「砂の王 メイセイオペラ」(新潮社)「義足ランナー 義肢装具士の奇跡の挑戦」(東京書籍)「オリンピックの輝き ここにしかない物語」(東京書籍)「1964年の東京パラリンピック」(紀伊国屋書店出版部)など。