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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」

マセソン美季のI'mPOSSIBLE

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2023.11.23

 パラリンピアンのなかには競技歴が長く、パラリンピック大会連続出場を重ね、多くのメダルを獲得するなど結果を残し、「レジェンド」と呼ばれる選手が少なくない。だが、マセソン美季(旧姓・松江)のパラリンピックへの出場は生涯たった一大会きり。にもかかわらず、「結果を残し、記憶も残した選手」であり、2022年の今なお、パラリンピック・ムーブメント史上にその名を刻みつづけている稀有なパラリンピアンだ。

長野冬季パラリンピックのアイススレッジスピードレース女子500m(LW10)を1位でフィニッシュしたマセソン(当時は松江)美季

長野冬季パラリンピックのアイススレッジスピードレース女子500m(LW10)を1位でフィニッシュしたマセソン(当時は松江)美季

母国開催の長野大会で、初出場で金メダリストに

 マセソンが唯一出場したパラリンピックは1998年にアジアで初開催となった第7回冬季パラリンピック長野大会(199835日から14日)だ。日本選手団は冬季パラリンピックには1980年の第2回ヤイロ(ノルウェー)大会から参加しているが、長野大会は初めて金メダルを獲得した大会になる。メダル獲得総数も冬季大会としては史上最多の41個(金12、銀16、銅13)で、この記録は2022年の北京大会を終えて、まだ破られていない。自国開催でのメダルラッシュに日本中が沸き、障がい者スポーツへの関心や理解が広まる契機となった大会でもあった。

 長野大会でマセソンが出場した競技はアイススレッジスピードレースだ。肢体不自由(下肢障がい)の選手を対象とする氷上スポーツで、スケートの刃が2本ついた専用のスレッジ(そり)に乗り、両手に1本ずつ持ったスティックで氷をかいてスレッジを進ませ、スピードを競う。スピードスケート用の1400mのリンクが使われる。長野大会では障がいの程度の異なるLW10LW112クラスに分かれ、男女別に100mから1500mまで複数の種目が実施された。

 マセソンは女子LW10クラスの全4種目(100m500m1000m1500m)に出場した。大会初日の第1レースは100m。最も得意とする種目で、レースのシミュレーションやメンタルトレーニングも重ねてきた。当日の体調もよく、レースを迎えた。

 スタートラインに着いたことは覚えている。だが、気がついたときにはもうレースが終わっていた。結果は銀メダル。レース後に映像を確認したが、決して悪い滑りではなく、練習の成果は出せていた。無自覚の緊張感があったのだろう。それだけに表彰式で金メダルを獲得したノルウエーの国歌が流れたときは悔しさがこみ上げた。

 その日は500mのレースも予定されていたが、メインの100mが終わってしまったので、「あとは楽しもう」と気持ちを切り替えた。一度、控え室のような場所で昼寝をし、リラックスした気持ちで臨んだ500mではプラン通りの滑りができ、結果は優勝。表彰式では『君が代』を聴きながら、達成感に浸った。

 「あと2つも、いけるかも!」

 自信を取り戻し、勢いに乗ったマセソンはその後の1000m1500mでも金メダルを獲得。1500mでは当時の世界記録を塗り替える快走を見せた。

 冬季大会史上、1大会で3個の金メダルを獲得した日本選手はマセソンが史上初めてだった(2022年北京大会で村岡桃佳がアルペンスキーで3個獲得して並ぶ)。

 マセソンの躍動もあり、アイススレッジスピードレース競技は日本が合計32個(金9、銀12、銅11)のメダルを量産する活躍をした。

初めて出合った「うまくできないスポーツ」

 東京出身のマセソンは小・中学校では水泳に、高校では柔道に打ち込んだ。大学生だった1993年、交通事故に遭い、脊髄を損傷して車いす生活になったが、スポーツへの情熱は薄れることはなかった。

 1995年には車いす陸上競技と出合い、持ち前の運動センスでグイグイと力を伸ばした。陸上競技に本格的に取り組もうと練習を始めた頃、「アイススレッジスピードレースをやってみないか」と声がかかった。長野パラリンピックに向けた選手発掘が進むなか、マセソンのアスリートとしてのポテンシャルが関係者の目に留まったのだ。

 実は当初、それほど乗り気ではなかったという。練習の見学に誘われ、思いがけず体験することになって、印象が変わった。用具を借り、見よう見まねで氷に乗ったところ、転んでばかりで前に進むことすらできなかった。

 「なぜ?悔しい!」

 幼い頃から足も速く、肩も強かったマセソンにとって、スポーツは「それほど頑張らなくてもできるもの」だった。だが、アイススレッジスピードレースは「生まれて初めて出合った、できないスポーツ」だったのだ。

 負けず嫌い魂に火がついて約2時間、必死に練習すると、ある程度のスピードで滑れるまでにはなった。それでも、「このままでは終われない!」。本格的な挑戦を決意した。

 大学生活と並行し、都内のジムでの筋力トレーニングと週数回、長距離ドライブで長野県や山梨県のリンクまで出かけ、氷上練習に励んだ。急ピッチでの強化だったが、世界の中で、自分を試してみたいと気持ちを高めたマセソン。冬季パラリンピックの歴史を変える活躍は、悔しさが原点だったのだ。

長野大会を機に広がった視野と活動範囲

 長野パラリンピックはマセソンにとってアスリートとして輝けた場所だけでなく、その後の生き方を大きく左右する転機の場にもなった。

 例えば、日常生活では自分以外に車いすの人を見かけることはほとんどなく、「私は特別な存在なんだ」と感じていたが、パラリンピックの選手村で出会うのは、車いすユーザーはもちろん、視覚障がいや義足ユーザー、体にまひのある選手たちがほとんど。むしろ、「障がいのない人たちがマイノリティという世界」であり、新鮮で居心地が良い空間だった。障がい者が置かれている日常の環境をあらためて実感し、「多様性」や「インクルージョン社会」を考えるきっかけとなった。

 そういう意味で金メダリストになったことは大きかった。周囲の人がマセソンの話に耳を傾けてくれるようになったことで、メダリストならではの発信力を自覚し、「私にできる役割が増えた」と新たな可能性も感じるようになった。例えば、自身をはじめパラリンピアンの多くは日常的に社会制度やサービスなどで不便な思いをした経験があり、アクセシビリティや法整備、街づくりなどにヒントとなるアイデアも持つからだ。

 競技生活でも変化があった。残念ながら、アイススレッジスピードレースは4年後のソルトレークシティ大会では実施されないことが決まっていたため、再び陸上競技に軸足を戻した。さらに大学を卒業すると、障がい者スポーツに対する先進的な取り組みで知られるアメリカのイリノイ大学に留学も決めた。競技力向上とともに、将来的な指導者の道も視野に専門知識を学ぼうと思ったのだ。幼い頃から抱いていた教員への夢も背中を押した。

 イリノイ大学卒業後の2001年には、長野大会で出会ったカナダ人と結婚、カナダに移住した。多文化共生の国で、多様な人々がコミュニティで当たり前に生活する環境が根づき、障がい者と健常者の間にある「壁」も低かった。男児2人の子育てをしながら、福祉や教育分野など多様な活動に精力的に関わっていくなかで、マセソンの経験や視野はどんどん広がっていった。

パラリンピック・ムーブメント推進で、インクルーシブ社会へ

 長野大会以降もマセソンは選手ではなく、メディアやボランティア、選手団役員など異なる立場からパラリンピックと関わりつづけている。

 2016年1月から東京大会終了までは日本財団パラリンピックサポートセンター(現日本財団パラスポーツサポートセンター)に所属した。東京パラリンピックに向けて大会機運の醸成やパラリンピック競技団体の支援などを目的に設立された団体で、マセソンはカナダと日本を往復しながら、パラリンピック・ムーブメント推進に取り組んだ。

『I'mPOSSIBLE』日本版PDF「パラリンピックの価値」の表紙

『I'mPOSSIBLE』日本版PDF「パラリンピックの価値」の表紙

 とくに深く関わったのが、国際パラリンピック委員会(IPC)の公認教材『I'mPOSSIBLE(アイム・ポッシブル)』の制作だ。学校教育を通じてパラリンピック・ムーブメントへの興味や理解を高め、インクルーシブ社会実現を進めることを目的とする教材だ。過去にも2012年ロンドン大会の「ゲットセット」、2016年リオ大会の「トランスフォーマー」といった教育プログラムが成果をあげており、東京2020大会に向けても同様のプロジェクトが発足したのだ。 

 教材の名称『I'mPOSSIBLE』は「不可能(Impossible)という単語に、アポストロフィ(')を加えた造語で、「私はできる」という意味がある。「できないこと」ではなく、「どうすればできるようになるか」を考え、行動できる子ども達を増やしたいという想いが込められている。

 マセソンはIPCと国際オリンピック委員会(IOC)の教育委員を務めながら、『I'mPOSSIBLE』国際版の開発や普及啓発活動に参画した。さらには日本の教育現場を考慮した『I'mPOSSIBLE』日本版の制作にもプロジェクトマネージャーとして奔走。完成した日本版は2017年から2021年にかけて順次、全国の約3万6000の小学校や中学校、高等学校、特別支援学校などの学校や全国の教育委員会にも無償配布された。現在は、日本パラリンピック委員会(JPC)が開発・普及を担っており、マセソンはJPCでプロジェクトマネージャーとして活動を継続中。教材は、教育現場でのICT移行の流れを受け、WEB上で無料公開されている。

 また、2021年に延期されて開催された東京パラリンピックでは日本代表選手団副団長を務め、また同年824日の大会開会式ではベアラーの一人として日本国旗を運んだ。同年末にはIPC理事にも初選出。「パラスポーツを通してインクルーシブな世界を具現化する活動に力を注ぎ、結果を示していくことが使命」と決意を表明した。

 東京パラリンピック閉幕から1年となった202295日、『I'mPOSSIBLE』日本版改訂版も公開された。マセソンは、「東京2020大会のレガシー創成期に入った今、パラリンピックを通じ、共生社会を目指そうという歩みを止めず継続していくことが大変重要です。より良い未来づくりのために本教材をより多くの学校で活用いただけることに期待しています」とJPCを通じてコメントを寄せた。

 実は東京大会開催直前にも、こんな言葉を残している。

 「インクルーシブ社会実現に向けた活動が、『東京大会開催』というゴールで力尽きてしまうのでなく、細くてもいいので、ずっと長く、このモメンタムを止めないでほしい」

 現在は、DEI(Diversity, Equity, Inclusion)コンサルタントとして、国内外の企業をにおける活動の幅を広げ、その言葉を自ら体現するかのように、彼女はこれからも歩みつづける。

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スポーツ歴史の検証
  • 星野 恭子 フリーライター。新潟市生まれ。パラスポーツの取材・寄稿をメインに活動している。きっかけは2003年、マラソン大会のボランティアを機に視覚障害のある人と走る「伴走」活動を始めたこと。パラスポーツをもっと知りたい、もっと知らせたいと、取材も始める。以降、パラリンピックは北京2008大会から北京2022冬季大会まで夏冬8大会を現地取材。2020年に中級障がい者スポーツ指導員資格を取得。主な著書に『伴走者たち~障害のあるランナーをささえる』、共著に『輝くアスリートの感動物語東京2020オリンピック・パラリンピック:明日への勇気/同:自分らしさをつらぬく』など。 http://hoshinokyoko.com