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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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曲がり角に立つパラリンピック ―パラリピックをめぐるパラドックス―

SPORT POLICY INCUBATOR(23)

2022年12月14日
小倉 和夫(日本財団 パラスポーツサポートセンター 理事長)

 東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の準備、開催を通じて、パラリンピック及び関連する競技、代表選手に対する社会一般の認知度や関心が高まった。また、競技環境ならびに障がい者雇用、いわゆるバリア・フリー化あるいはユニバーサル・デザインの普及も進んだといえる。

 さらに、パラリンピックの運営や選手の処遇などについて、できるだけオリンピックと同様にせんとの動きが高まり、一体化への流れが加速した。

 こうした状況のもとで(パラリンピックもオリンピックと同様に、難民の参加、LGBTQの処遇、選手の政治的発言の可否、都市財政の負担など、その程度や態様に差異があるにせよ、オリンピックと共通の問題に直面してきているが、それに加えて)、パラリンピックには、いくつかの新しい課題が浮上している。それらは、ある意味で、パラリンピックヘの認知度と関心が高まったからこそ生じたものといえ、「成功がもたらした悩み」と見なすことができ、その意味で、パラリンピックをめぐるパラドックスとよぶこともできよう。

東京2020パラリンピックで、陸上男子走幅跳3連覇を飾ったマルクス・レーム

東京2020パラリンピックで、陸上男子走幅跳3連覇を飾ったマルクス・レーム 写真:フォートキシモト

 第一のパラドックスは、パラリンピックの認知度と社会的関心が高まることと平行して競技が高度化し、一部の競技では選手がプロ化し、また、大会もオリンピック並に、大掛かりで華やかなものになった結果、一般の障がい者からみると、パラリンピック大会や代表選手が、素晴らしければ素晴らしいだけ、自分たちとは遠く離れた存在になりつつあるように見受けられることである(事実、日本財団パラスポーツサポートセンターとNHK放送文化研究所による共同調査(2018)の結果では、ピョンチャンのパラリンピック大会に関心があると明白に回答した障がい者は36%程度に過ぎなかった。また、パラリンピック大会の自国開催により、一般の障がい者のスポーツ実施率が上昇したという結果は、ロンドン大会などの例をみても必ずしも実現されていない)。

 このことは、パラリンピックが、障がい者によるスポーツ大会であるにも拘わらず、それへの関心や感動という次元では、実は健常者主体のものになっていることを暗示している。

 そうした状況は、障がい者に対する健常者の意識改革、ひいては、社会の変革に刺激をあたえる上で、有益とみなすべきとの見方も可能であろう。しかしながら、長期的観点にたつと、一般の障がい者自身の意識では、自分から遠のいてゆきつつあるものが、健常者には逆に自分に近いものになり、その結果社会の改革に刺激を与え得るものとなるという図式は、その持続性に疑問があり、ここにはやはりパラドックスが存在するといえるのではあるまいか。

 上記の問題と関連して、パラリンピック競技の高度化と職業化によって、選手自身も、また観客も、選手を障がい者の一人として見るよりも、あくまでスポーツ選手として見る傾向が強まっている。そうした傾向と平行して、選手がどのように障がいを負うに至ったか、そしてそれをどう克服したかという「人生談」よりも、競技記録や成績順位、金メダル獲得の有無といった「スポーツ物語」に関心が向く傾向が強まってきた。その結果、知らず知らずのうちに、個人の成し遂げた「成果」に世間の注目が集まり、その派生的影響として、障がいの克服は、個人個人の切磋琢磨によって達成されるというイメージが社会に広がることとなるおそれがある。いいかえれば、障がいの克服は、多くの面で、実は社会の意識、制度、環境の改革の問題であることが、軽視されがちになるのでないかというジレンマが生じても不思議ではない。ここに、パラリンピックをめぐる第二のパラドックスが潜んでいるといえる。

 また、パラリンピックヘの関心の高まり自体、偏向を生んでいる、あるいは生むおそれがあることに注意せねばならない。パラリンピックの種目のほとんどは、歴史的事情から、身体障がいが中心であり、その中でも、車椅子競技が核であるため、視覚障がい、聴覚障がい(もともとパラリンピックには入っていない)、知的障がいなどへの社会的関心を喚起するには、十分ではない。いいかえれば、パラリンピックが脚光を浴びるようになればなるほど、障がい種類別の社会的対応に格差が拡大しかねないという問題があると考えられる。

 さらに、一部のパラリンピックの競技は、スポーツとしての人気が高まるにつれて、その競技に関心を持つ「健常者」の対抗試合などが行われるようになり、いわば、独自のスポーツ競技として認められつつある。そうした状況の下では、そこで行われるスポーツは、もはや障がい者特有のスポーツとはいえないことになる。こうした発展は、障がい者と健常者の社会的共生の実現という理念からみれば、歓迎すべきことである。しかしながら、ここでは、パラリンピックがあくまで障がい者のスポーツ大会とされていることとの間に矛盾が生ずる。いいかえれば、ここにおいても障がい者の為に開発されたスポーツが人気を得れば得るほど障がい者から離れて行くというパラドックスが生じかねないといえる。

 加えて、パラリンピックの競技成績が向上し、高度化し、健常者の成績に近づけば近づくほど(あるいは、リオ大会における1500メートル競争やマルクス・レーム選手の走り幅跳びのように、健常者の記録をも凌駕するような例が目立ってくると)パラリンピックにおいても、オリンピックと同じく、より早く、より高く、より強くという、能力主義の大会としての側面が強まりつつあるように見受けられる。

 障がい者の社会参加のー側面としてのスポーツ奨励、あるいはパラリンピックの創始者ともいえるグットマン博士が1964年の東京大会の際強調した理念である「友情」や「結合」といったパラリンピックの原点から一層遠ざかるおそれがある。ここでは、パラリンピック大会の充実が、逆に、その原点の理念から離れていくというパラドックスが存在するといえよう。

 この点とも関連して、パラリンピック競技においては、障がいを補完する用具が不可欠であるものが多いが、近年、用具が精密化、高度化しているため、本来身体能力の競争であったスポーツが、用具の精度やその使い方の競争に転化しつつある面が生じている。すなわち、ここでは、身体能力とは何か、あるいは、スポーツとゲーム、身体と器具との関係についての新しい理念の構築の問題が浮上しているといえよう。

  • 小倉 和夫 小倉 和夫   Kazuo Ogura 日本財団 パラスポーツサポートセンター 理事長 日本財団パラスポーツサポートセンター理事長、国際交流基金顧問、日本農業会議所理事、青山学院大学特別招聘教授。1938年東京生まれ。東京大学法学部卒業、英国ケンブリッジ大学経済学部卒業。外務省文化交流部長、経済局長、外務審議官等、駐ベトナム大使、駐韓国大使、駐フランス大使、国際交流基金理事長を歴任。東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会評議会事務総長を経て、現職。国際関係関連の著書多数。