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セミナー「子供のスポーツ」
1964東京大会を支えた人びと
第72回
「成功させたい」気持ちで一致団結していた1964年東京大会

熊谷 康 松下 治英

1964年10月10日、アジア初開催となった東京オリンピックの開会式が国立競技場で行われました。前日の大雨が嘘のように晴れ渡り、真っ青な秋空には、無数の鳩が舞い、オリンピックのマークである五色の輪が描かれました。

半世紀以上経った今もなお語り草となっている東京オリンピックの開会式。組織委員会事務局職員の一人として、また五輪のマークを見事に描いたブルーインパルスの隊長として、開会式に深く携わった熊谷康氏と松下治英氏に、当時の舞台裏についてお話をうかがいました。

聞き手/佐塚元章氏  文/斉藤寿子  構成・写真/フォート・キシモト

都からの出向(初回)の一人として組織委員会へ

東京で開催された第3回アジア競技大会のポスター(1958年)

東京で開催された第3回アジア競技大会のポスター(1958年)

―― 熊谷さんはオリンピック東京大会組織委員会事務局の式典担当を務められました。組織委員会事務局のメンバーに入られた経緯はどういうものだったのでしょうか?

熊谷 私はもともと中学校の体育教諭だったのですが、20代の後半に東京都の教育委員会から、「学校体育」ではなく「社会体育」の方を担当する「社会教育部体育課」という部署に異動となったんです。そこで務めている時に、「第3回アジア競技大会」(1958年)が開催されまして、その大会運営の仕事を1年ほど手伝いました。その3年後の1961年には「第14回国民体育大会」が東京で開催されたのですが、この大会は当初は他県での開催が決定していたんです。

ところが、何かの事情で開催ができなくなったということで、急きょ東京で開催することになりまして、その国体のお手伝いもしたんですね。そんなこともあって、当時組織委員会の参事を務められていた松沢一鶴先生から「アジア大会や国体の式典運営の経験があるのだから、オリンピックの方も手伝ってほしい」というお話がありまして、開幕1年半前の1963年に東京都の臨時出向(初回)の一人として組織委員会事務局に入ることになりました。7月1日付けでの出向で、7月16日から組織委員会の事務局があった赤坂に出勤しました。

―― 式典担当には、どのくらいの人数がいたのでしょうか?

熊谷 式典課には、開、閉会を担当した私をふくめて、松戸課長以下6名(プラス嘱託1名)でした。式典課の仕事は開・閉会式のほか、聖火リレー、各国の国旗、五輪旗、入賞メダル、参加メダルの製作等でしたので、間もなく人数は13名になりました。女性のうち1人は、当時の東京都知事だった東龍太郎さんの初孫の方でした。

―― 開閉会式担当は、どのようなお仕事だったのでしょうか?

熊谷 組織委員会の下に「式典運営委員会」がありまして、そこで開閉会式の式次第や演出はほとんど決まっていまして、開幕1年前にプレオリンピックがありましたので、そこでシナリオは作られていました。あとは式典運営協議会を開きまして、会場の装飾など細かいことを決めていきました。

組織委員会式典課のメンバー。後列右から4番目が組織委参事を務めた松沢一鶴氏。右端が熊谷氏(1964年)

組織委員会式典課のメンバー。後列右から4番目が組織委参事を務めた松沢一鶴氏。右端が熊谷氏(1964年)

特に大きな問題となったのは、音響関係でした。例えば、選手の入場口とバックスタンドに取り付けられた巨大なスピーカーとの距離は100mほどあって、どうしても音がずれてしまうんですね。そこでNHKから出向されていた音楽の専門家の先生には非常にご苦労をかけましたが、なんとかうまく調整していただきました。そういう点では、私は音楽担当の方たちには頭が上がりません。また、入場行進に参加する各国選手の皆さんには、胸ポケットに入る程度の受信機を持ってもらい、これに3ヶ国~5ヶ国語で式典のプログラムを説明する電波を送れば、選手の皆さんには、式典の流れをより理解してもらえたのでは?とのアイデアがありましたが、実現にいたらなかったことは残念でした。

―― 10月10日の開会式は、どこにいらしたんですか?

熊谷 国立競技場の中にガラス張りの「指揮室」という部屋がありまして、そこで祝砲の用意がされているかとか、指示の確認など、開会式の進行のチェックを電話でやりとりしながら、開会式を迎えました。進行表はありましたが、4、5枚程度の薄いもので、それを見ながらというよりは、私とそれぞれの担当者との阿吽の呼吸で進行していったという感じでしたね。

自らの提案で採用された「五輪のマーク」

東京オリンピックの開会式で開会宣言を行う昭和天皇(1964年)

東京オリンピックの開会式で開会宣言を行う昭和天皇(1964年)

―― その開会式での演出で、今でも一番の語り草となっているのが、松下さんたち航空自衛隊浜松航空軍のブルーインパルスが青空に描いた五輪のマークです。この演出は、熊谷さんが組織委員会に入られた時には、すでに決まっていたのでしょうか?

熊谷 はい、決まっていました。私自身、新聞の報道で知っていましたからね。私が組織委員会に入る前に浜松で一回、そして入間基地に関係者を招いてデモンストレーションが行われました。確か五輪のマークのそれぞれの五色がきれいに出せるようになったという報道だったと記憶しています。

―― 1964年といいますと、もう半世紀以上前のことになるわけですが、松下さんは当時のことを思い出すことはありますか?

松下 そうですね。おおいにあります。オリンピックの歴史上、ジェット機で競技場の上空に五輪のマークを描いたというのは、未だに1964年東京オリンピックの1回きりのこと。そんなこともあって、私の人生においても、非常に強く印象に残った出来事となっています。なんといっても、世界で私たち5人しかやっていないわけですからね。

参加各国と地域の入場行進の後空に描かれた五輪(1964年)

参加各国と地域の入場行進の後空に描かれた五輪(1964年)

―― ブルーインパルスのメンバーは、予備機も入れて6人で、32歳だった松下さんが最年長で、あとは20代でした。やはり優秀なメンバーが選ばれたと思いますが、松下さんが航空自衛隊に入隊したのはどのような理由からだったのでしょうか。

私は入隊当初は整備士になりたいと思っていました。ところが、入隊した者は皆、パイロットとしての訓練を受けなければいけなかったんです。その中でどんどん淘汰されていきまして、最後に残った十数人が戦闘機のパイロットになり、私もその一人でした。その後、みんなそれぞれの各基地の航空隊に配属になったのですが、私はなぜかインストラクターとして浜松基地に残されたんです。そんな中、東京オリンピックでの曲芸飛行の話がありまして、私もその中の一人に入ることになりました。

航空機の前で。左から2番目が松下治英氏

航空機の前で。左から2番目が松下治英氏

―― 優秀なパイロットの一人だったんですね。

松下 いえいえ、そんなことは決してありませんでしたよ(笑)。候補者が数人いまして、その中から6人選ばれたようなんですが、私だけが30代で、あとは20代の若手だったので、私もなぜ自分が選ばれたのか気になって、後で関係者に聞いてみたんです。そしたら、「君は妻帯者だったから」と言われました。つまり、独身の若手ばかりでスタンドプレーするようなことがあってはいけないということで、リーダー役として妻帯者を1人入れた方がいいということになったみたいですね。それで、私が選ばれたということだったようです。

教官になりたての頃 機上で(1959年)

教官になりたての頃 機上で(1959年)

―― 「ブルーインパルス」の名前の由来は何だったのでしょうか?

松下 「ブルー」は「空」を指していまして、アメリカにも「ブルーエンジェルス」という海軍のアクロバット飛行隊がありますが、航空隊にはよく付けられる名称なんです。「インパルス」というのは「衝撃、衝動」という意味なのですが、私が指導していた飛行隊のコールサインでした。その2つを合わせた名称で、たしか同じ航空隊のメンバーの奥さんが提案したんじゃないかなと記憶しています。自分たちとしても覚えやすく、またゴロ的にも言いやすかったので、特に反対意見はなく、スッと決まりました。

―― 五輪のマークを描くという粋な演出は、誰が最初に提案したものだったのでしょうか?

松下 実は当初、組織委員会からのリクエストは、5機のジェット機が、それぞれ五輪の5色の煙を出しながら、競技場の上空を飛び去っていくということだったんです。それを聞いた時に、私がつい余計なことを言ってしまったんです(笑)。「そんなことは航空自衛隊隊員だったら、誰にでもできる。それではあまりにも芸がない。どうせなら、五輪の輪を描くというのはどうだろう」と。その時は「まぁ、できるだろう」と簡単に考えていたのですが、実際にやってみたら予想以上に難しくて、「あぁ、あんなこと言わなければ良かったなぁ」と後悔しましたよ(笑)。

ブルーインパルスの飛行訓練風景

ブルーインパルスの飛行訓練風景

―― 当時のお話を伺うと、開会式当日の成功は、まさに「奇跡」だったそうですね。

松下 私たちも、あれほどきれいに描けるとは思っていませんでした。ジェット機でサークルを描くこと自体は、それほど難しいことではないんです。しかし、あれだけ巨大な5つの輪を均等に並べるというのは至難の業。なんたって、1つの輪の直径が6000フィート(2000m)あって、隣の輪との距離は1000フィートとなっていまして、私たちパイロット同士は7000フィートの距離で輪を描いたわけです。しかし、7000フィートも離れて飛ぶなんてことはそれまで一度も経験したことがありませんでした。しかも当時のレーダーは射撃用でしたから600~1000フィートの間しか測れなかったんです。ですから、自分の目と感覚でやるしかありませんでした。しかも、それを5人全員が同じ大きさのサークルを描かなければいけないわけですからね。もう各自の「勘」を頼るしかありませんでした。

―― どのような訓練が行われたのでしょうか?

松下 その五輪のマークを描くためだけの訓練というものはありませんでした。というのも、あまり大々的にやってしまうと、開会式に何をやるかがわかってしまいますから、日頃のアクロバットの訓練の帰りに、飛行場に降りる前にちょっとやってみる感じでした。それも完全な輪にするのではなく、点々にしか煙を吐かないようにして、何をしているかわからないようにしていたんです。

練習では成功なしで迎えた「10月10日」

東京オリンピックの開会式で電光掲示板に映しだされたクーベルタン男爵の言葉(1964年)

東京オリンピックの開会式で電光掲示板に映しだされたクーベルタン男爵の言葉(1964年)

―― 当時のお話を伺うと、開会式当日の成功は、まさに「奇跡」だったそうですね。
開幕前日は、嵐のような大雨が降っていましたが、翌日の快晴は想像されていまたか?

松下 いえいえ、まったくしていませんでした。前日に、待機場所だった埼玉県の入間基地に入っていたのですが、あまりの土砂降りで、自衛隊の気象係に聞いても「明日は雨です」と言っていたので、その晩はメンバーとご飯を食べながら「これはもう、明日は100%中止だな」なんて話をしていたくらいです。正直、もう安心しきっていましたよ(笑)。

―― ところが、前日の嵐がうそのように、開幕当日は快晴でした。

松下 そうなんです。朝起きたら、さんさんと陽が照っているものだから、ビックリして飛び起きました(笑)。

熊谷 私は開幕当日は、朝6時に国立競技場のそばの神宮外苑でNHKのインタビューを受けることになっていました。宿を出ると、街全体にもやがかかって、見えにくい状態でした。「大丈夫かなぁ」と不安に思いながら約束の場所に到着したところ、NHKの記者が開口一番に「熊谷さん、今日は日本晴れになりますよ」と言ったんです。
私は驚きまして、「まさか、こんなにもやがかっているのに?」と半信半疑ではありましたが、「でも、本当に晴れてくれたら嬉しいなぁ」と願う気持ちでいました。そうしたところ、記者の言葉通り、まさに「日本晴れ」という言葉が似合う晴天に恵まれましたでしょう。驚きと同時に、嬉しかったですね。

ブルーインパルスの飛行訓練風景

ブルーインパルスの飛行訓練風景

―― そんな「日本晴れ」の中、松下さんは、いざ入間基地を飛び立つ瞬間というのは、どんなお気持ちでしたか?

松下 それこそ、金メダルを期待された選手の気分でしたね。「金メダルを取らなければいけない」というね。私たちも「失敗は許されない。なんとしても成功させなければいけない」という気持ちがありました。開会式の模様は、日本国内だけでなく、世界各国に放映されていましたから、「日本の恥をさらしてはいけない」という気持ちが強かったですね。

―― 結局、それまでの練習では、成功したことはあったのでしょうか?

松下 すべて正確に五輪のマークを描けたことは一度もありませんでした。4機はうまくいっても、1機だけ距離が離れてしまったりとかね。

―― 不安はありませんでしたか?

松下 不安に思うよりも、1番機としては、とにかく定刻に正確な場所に飛ぶということだけを考えていました。あとは「みんなついてこい」という感じでしたね。

―― 聖火リレーの最終ランナー坂井義則選手が聖火台に点火し、日本選手団主将だった体操の小野喬さんの選手宣誓が終わると、、白い鳩が一斉に青空に飛び立ちました。それに気を取られている間に、いつの間にか5機のジェット機が飛んできて、「いったい、何が始まるんだろう?」と、中学2年生だった私はテレビの前で胸を躍らせながら見ていました。

松下 私たちは入間基地を飛び立った後、江の島上空で待機していました。当初の計画では坂井選手が点火したと同時に、競技場に向かうことになっていまして、それが午後3時10分20秒とされていたんです。ところが、全選手が入場してから坂井選手が点火するまでに時間を要してしまって、点火のタイミングが予定よりも遅くなったんです。

東京オリンピックの聖火台へ続く階段を上る最終ランナーの坂井義明氏(1964年)

東京オリンピックの聖火台へ続く階段を上る最終ランナーの坂井義明氏(1964年)

熊谷 そうでしたね。坂井選手が競技場に入場してから点火するまでの時間は、4分何秒ということになっていました。これは、リハーサルを通して、私が割り出した時間だったのですが、なにせ距離が長くて、正確な時間を割り出すというのは簡単ではありませんでした。入場してから一周400mのトラックを4分の3周走った後、聖火台に向かって長い階段を上らなければいけませんでしたからね。会議では組織委員会の上部から「そんな秒単位まで細かく割り出す必要があるのか?」というふうに言われたこともありましたが、ブルーインパルスに合図を出すには、やはり細かく出しておいた方がいいだろうということで、割り出した時間だったんです。

―― 聞くところによると、ブルーインパルスは機内でラジオ放送を聴いていて、アナウンサーが「最終ランナー坂井選手が今、ゲートから入場してきました」というタイミングとともに、競技場へ向かっていったと。

松下 はい、そうなんです。というのも、坂井選手のように優秀な選手は、正確なタイムで走るわけです。ですから、彼がゲートをくぐったタイミングで出発しようということになっていました。私は5機のうちの1番手でしたから、定刻に赤坂見附の上空を飛ぶことになっていました。

インタビュー風景(松下治英氏)

インタビュー風景(松下治英氏)

―― 私はモノクロテレビで見ていましたので、五輪の色はわからなかったのですが、青空に映えていたんでしょうね。

松下 そうですね。この煙の色も、非常に苦労しました。東京都内の小さな染色メーカーがやってくれたのですが、当時の技術としてはエンジンオイルに顔料を混ぜることで、色を出していたんです。意外にも、一番色を出すのが難しかったのは黒だったそうです。素人からすれば、一番簡単な色のように思えましたが、メーカーの人たちは「何度やっても、きれいに出ない」と苦心していました。

―― でも、結果的には五輪のマークが均等に並び、色もきれいに出ていました。描き終わった後、喜びもひとしおだったのではないでしょうか?

松下 輪を描いている最中は、自分では見ることができませんので、成功したかどうかはわかりませんでした。輪を描き終わった後、5機が一斉に上昇していったのですが、その時にようやく上から五輪のマークを見ることができまして、「あぁ恥をかかなくて本当に良かった」と胸をなでおろしました。あとで聞いた話ですが、埼玉県川口市からも五輪のマークがはっきりと見えたそうです。それを聞いて「あぁ、良かったなぁ」と思いました。というのも、私たちは東京都内だけでなく、できるだけ広範囲で、多くの日本国民が見られるようにしたいということで、いろいろと計算した結果、1万フィート(3000m)の高さで飛ぶことにしていたんです。ですから、川口市からも見ることができたと聞いて、嬉しかったですね。

「二度とできない」ほど完璧に描いた5つの輪

国立競技場の上空に描かれた五輪は、遠くからもはっきりと見ることができた(1964年)

国立競技場の上空に描かれた五輪は、遠くからもはっきりと見ることができた(1964年)

―― 式典担当の熊谷さんもブルーインパルスの曲芸飛行に期待されていたと思いますが、当日はどのような心境で見られていたのでしょうか?

熊谷 私は無線で隊長さんの松下さんとやりとりをして、状況を把握したり合図を出したりしていたのですが、その冷静さには非常に驚きました。五輪のマークを描くという大役を前にしても、その声は非常に落ち着いていて、「さすがだなぁ」と思いながら、安心感を抱いていました。

―― その期待通りに、五輪のマークが東京の上空に描かれたのを指揮室から見られた時は、どんな思いでしたか?

熊谷 国民の皆さんと同じで、もう、感動のひと言でした。あの五輪のマークは、本当に素晴らしいものでした。

―― 半世紀以上たった今もなお東京オリンピックの名シーンとして語り継がれているわけですが、改めて振り返ってみて、松下さんはどんなお気持ちですか?

松下 当時の心境としては、とにかく「恥をかかなくて良かった」ということだけで、自分たちが特別大きなことをしたという気持ちはありません。ただ、一つだけ言えるのは、あの東京オリンピックの後にも先にも、五輪のマークを描くという曲芸飛行は行われていません。当時のメンバーとよく話すのは「あれは、世界で自分たちだけがやったものなんだ」ということで、それに関しては誇りに思っています。

―― ブルーインパルスを始め、1964年の開会式は大成功に終わったわけですが、式典担当の熊谷さんは、成功に導いた最大の要因は何だったと思われますか?

熊谷 当時は、日本全体が「東京オリンピックを成功させたい」という強い思いにあふれているような感じがありました。何をするにも、協力的な方が本当に多かったんです。やはりそうした気持ちの部分が大きかったのではないでしょうか。

インタビュー風景(熊谷康氏)

インタビュー風景(熊谷康氏)

―― 国民の期待を背負っての開会式を成功させたことで喜びもひとしおだったのではないでしょうか。

熊谷 確かに式典を担当しての喜びもありましたが、それ以上にあったのは「開会式が無事に終わって本当に良かったぁ」という安堵の気持ちでした。ちょうどその時の私を報道カメラマンがガラス越しに撮影していまして、新聞記事には「大義を果たした」というようなことが書かれていましたが、もうほっとした気持ちだけでした。

ブルーインパルスに関して言いますと、実は組織委員会事務局の総務部から「もしジェット機が落下したりでもしたら大変だ」と反対の声があったんです。それで私も困りまして、防衛庁から組織委員会に出向している方に相談しました。そうしたところ、航空自衛隊のブルーインパルスの責任者の方が運輸省に同行してくださって、「十分な高度もありますし、ジェット機が途中で故障して落下するということはまずありません。万が一、何かトラブルが起きた時には、東京湾を目がけていきますから大丈夫です」と言ってくださったんです。それを聞いて、安心したあまり肩の力が抜けましてねぇ。「さすがは自衛隊だ」と思いました。

東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉選手(前)(1964年)

東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉選手(前)(1964年)

―― 開会式後、大会期間中はお二人はどうされていたのでしょうか?

熊谷 私は閉会式まで大きな仕事はありませんでしたので、大会期間中は各競技の入賞メダル運びを一生懸命していました(笑)。

松下 実際の会場には一度も行くことができませんでしたが、テレビでは見ていました。特に印象に残っているのは、やっぱり男子マラソン。同じ自衛隊隊員だった円谷幸吉選手の姿は忘れられません。

―― 実は、組織委員会からは「もう一度、閉会式で五輪のマークを描いてほしい」という要望があったそうですね。

松下 はい、ありました。開会式での曲芸飛行が非常に評判が高くて、正式にではなかったのですが、口頭でのやりとりで「閉会式でもやってほしい」という声があがったのは本当です。でも、そもそも閉会式は夜に行われましたから、無理な話でした。

―― でも、あれは一度きりだったからこそ、価値があったのではないでしょうか?

松下 私もそう思います。それに、「もう一度やれ」と言われて、そう簡単にできるものではありません。しかもあれだけきれいな五輪のマークは、もう二度とできなかったと思います。

東京オリンピックの閉会式では各国選手が入り交じって入場(1964年)

東京オリンピックの閉会式では各国選手が入り交じって入場(1964年)

―― そして最終日の閉会式ですが、これは開会式とはまた違うインパクトのあるものでした。

熊谷 閉会式では、まず最初に国旗を持った旗手が全員入った後に、各国の選手団が国の別なく整列して入ってくる形式で行われていました。もちろん、東京オリンピックでも先例にならいそういう段取りで予定していたんです。閉会式は夕暮れ時に始まりましたが、あと30分ほどで入場行進という頃になって、現場にいた担当者から電話がありまして「選手たちが整列しなくて大変なことになっている」と言うんです。それで、こちらの指示を待たずに、すでに競技場の方へと移動し始めてしまったと。ですから、競技場の入場口では選手を制止するのに、大変に苦労したのではないかなと思うのですが、なんとか予定の時間まで止めてくれました。それは良かったのですが、旗手の入場が終わった後、隊列を組まずに入り乱れるようにして競技場に入ってきたのを見て、頭を抱えました。上半身裸で走る選手や、旗手が胴上げされる場面もあったり……。「これは困ったことになったぞ」と思いました。実は、大会開始前の会議で、記録映画を製作した市川昆監督から「閉会式では、堅苦しいものではなく、競技を終えてリラックスした選手の姿を撮りたい」というリクエストがあったんです。「それは私たちから演出することはできません」と申し上げたのですが、結果的にはその通りになりましたね。

―― 見ていた私たちも、「和気あいあいとしていい閉会式だなぁ」と思っていましたし、まさに「世界は一つ」ということが表現されていたと高い評価を受けました。

熊谷 式典担当としては、予定にはなかったことになって、非常に頭を抱えましたが、プラスにとらえていただき、本当にほっとしました。

「ショー」ではなく「セレモニー」だった1964年

東京オリンピックの開会式で選手団の最後に入場する地元日本選手団(1964年)

東京オリンピックの開会式で選手団の最後に入場する地元日本選手団(1964年)

―― 2回目の東京オリンピックまで、あと2年半となりましたが、今度はどんな開会式を期待されていますか?

松下 もしかしたら、また開会式には航空自衛隊が参加するかもしれませんが、今度はどんなことをしてくれるのか、楽しみでいるんです。ただ、私たちの時よりも大変であることは間違いないと思います。1964年の時と同じことをやってもダメでしょうし、国民にはそれ以上のことをやってくれるのではないかという期待感があると思うんです。その中で後輩たちがどんなパフォーマンスをしてくれるのか、待ち遠しいですね。

熊谷 私は、現在のオリンピックは、もうあの1964年の時とはまったく次元の違うものになったと思っているんです。ですから、どんな開会式になるのかは、想像することができないというのが正直なところです。社会全体が大きく変化しましたから、仕方ないところはあるとは思うのですが、あまりにも巨大化し過ぎてしまって、なんだか私たちとはかけ離れたところで行われている気がするんです。開会式も「セレモニー」というより「ショー」ですよね。2020年東京オリンピックでは、巨額の費用を使って大々的なことをやるというよりも、誰もが東京オリンピックに思いを抱けるような、そんな温かい演出を見たいですね。

―― 日本全体が東京オリンピックの成功を願い、沸いていた1964年の時と比べると、盛り上がりという点では寂しい気がします。ただ、大学生や若い人たちと接すると、やはり彼ら彼女らは「東京オリンピックに参加したい」という気持ちを持っているんですね。そういう中で、1964年の時に深く関わられた熊谷さんとしては、どのようなことを期待されていますか?

熊谷 知人から「1964年の時に、子どもたちはどんなふうにオリンピックと関わっていたのでしょうか?」という質問を受けたことがありますが、一つは「オリンピック募金」。全国の小学生を始め、中・高校生、大学生、がしてくれましたし、また開会式の時には東京都中野区の富士見小学校の児童たちによる鼓笛隊の演奏が行われました。さらに、小・中、高校生、大学生の団体入場は、予期以上の人数だったのではないでしょうか。今回は大会マスコットが全国の小学生の投票で決定されましたが、子どもたちや学生が参加できる場面を増やしていってほしいですね。1964年の功績の一つは、東京オリンピックが開催されたことによって、スポーツが国民の身近な存在になったことが挙げられると思います。国民一人一人が募金をして、自分たちの大切なお金が使われた大会という意識もあったと思いますし、会場で、またはテレビで、多くの人たちが初めてオリンピックを目にしたわけですから、絶大な影響力があったと思います。

―― 2020年に向けては、組織委員会、東京都、政府の意見が食い違うこともあり、なかなか「一致団結」しているというは言い難いところがあります。1964年の時は、どうだったのでしょうか?

熊谷 当時、都知事は東さん、組織委員会会長は安川電機社長だった安川第五郎さん、そして政府のオリンピック担当大臣は河野一郎さんでした。その3人の方がトップだったわけですが、日本オリンピック委員会(JOC)の田畑事務総長を中心にして、一度は戦争で返上したオリンピックが開催できるチャンスをもらったということで、とにかく「東京オリンピックを成功させるぞ!」と言った気持ちしかありませんでした。たくさんの方がお金も時間も費やして、本当に一生懸命でした。大変なことも多々あったかと思いますが、それでも同じ気持ちを共有できていたことで、波乱はなかったと思います。2020年の成功も、そういった気持ちを一つにして、みんなで成功に導いていってほしいと思います。

  • 熊谷康氏 松下治英氏とオリンピック 年表
  • 世相
1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)

  • 1932 熊谷康氏、東京都に生まれる
      松下治英氏、東京都に生まれる
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)
1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1952 熊谷康氏、東京学芸大学短期部を卒業し、東京都教育庁に入庁
  • 1955 松下治英氏、日本大学理工学部を卒業し、幹部候補生として航空自衛隊に入隊
  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

  • 1958 熊谷康氏、東京で開催された第3回アジア競技会や、国体の運営に携わる
1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

  • 1962 松下治英氏、浜松基地 曲芸飛行隊「ブルーインパルス」の編隊長に就任
  • 1963 熊谷康氏、東京オリンピック組織委員会に出向。式典課に配属され、課内の中心として開閉式を担当。
      ブルーインパルスの上空飛行許可の交渉などに当たる
1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964 松下治英氏、東京オリンピック開会式のクライマックスに、国立競技場上空に飛行機雲の五輪を描ききる。松下氏は、隊長として1番機に搭乗。
  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)
1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長 に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  

  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1985 熊谷康氏、教員に転じ、東村山第六中学校校長に就任
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位とな り、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催を決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)