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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」
次世代の架け橋となる人びと
第60回
スポーツの存在意義、レガシーは「地域貢献」

三屋 裕子

大型センタープレーヤーとして高校時代から将来を嘱望され、大学3年生で全日本入りを果たした三屋裕子さん。
26歳の時に出場した1984年ロサンゼルスオリンピックでは銅メダル獲得に貢献しました。

現役引退後は、「教育」「ビジネス」「スポーツ」と多岐にわたって活躍。2015年5月には日本バスケットボール協会副会長に就任し、2016年6月からは同会長を務めています。

豊富な知識と経験、そして広い視野を持つ三屋さんに、ご自身の経験に基づいた「オリンピックを目指すことの意義」や、2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けてすべきことについてお話をうかがいました。

聞き手/山本浩氏  文/斉藤寿子  構成・写真/フォート・キシモト

日本バスケ界に欠如している日常の「世界観」

リオデジャネイロオリンピックで、JBA会長として鈴木スポーツ庁長官等と  共に日本チームを応援(2016年)

リオデジャネイロオリンピックで、JBA会長として
鈴木スポーツ庁長官等と共に日本チームを応援(2016年)

―― 昨年6月に川淵三郎氏の後を継いで、日本バスケットボール協会の会長に就任されました。2015年5月に副会長に就任されて以降、バスケットボールに携わっているわけですが、外部からのイメージと実態とでは、違いはありましたか?

そうですね。どの世界でも中に入ってみないと、外から見ているだけではわからないものというのは当然あると思いますが、まず私が感じたのは自分自身がやってきたバレーボールとの世界観の違いでした。

私の場合、ありがたいことに自分がやり始めた頃には、バレーボールは日本ではメジャーなスポーツになっていました。世界から見ても日本のレベルは高くて、「日本国内で勝つ=世界のトップ」という環境に、ずっと身を置かせていただいていたんです。ですので、自分たちの「日常」自体が、「世界トップの日常」、という位置づけに近いものがありました。

長野オリンピックISS1500mでも金メダルを獲得(1998)

リオデジャネイロオリンピックで9位入賞を果たす(2016年)

一方、バスケットボールは日本ではまだメジャースポーツとは言えないところがありますし、特に男子はまだ世界との力の差が乖離しているという現状があります。そういうところで、私自身のマインドのセットアップをしなければいけませんでした。

特に私が現役の頃は、バレーボールは日本のトップが世界のトップであった時代でしたから、それと比べて、現在のバスケットボールは世界の舞台にさえ上がれない状況と、まるで違う世界のように映ったんです。ですので、今までは外から見ていて「何をしているんだろう」というふうに感じていました。それに加えて、ここ数年はメディアからはあまりいいニュースが聞こえてこないという現状がありました。

そういう中で実際に携わってみて、まず最初に感じたのは、やはり選手の「日常」の中に「世界観」がないなということだったんです。しかし、その一方で日本の女子があれほど世界において力があるということも知りませんでした。昨年のリオデジャネイロオリンピックに視察に行ってみて、予想以上に「世界でもやれる」という感覚をつかむことができたのは、やはり中に入ってみないとわからないことだったなと思いました。

華やかに幕を開けたBリーグ(2017)

華やかに幕を開けたBリーグ(2017)

―― バスケットボールの競技人口は意外に多くて、競技への関心度からすると、国内では必ず5本の指に入っています。そういう意味では、大きな可能性を持っている競技だと言えるのではないでしょうか。

現在、協会の登録競技者数は63万人ほど。これは、サッカー、野球に次いで高い数字なんです。おっしゃる通り、これだけの競技人口を持つバスケットボールには、大きな可能性があることは間違いありません。

―― 喫緊の課題は、トップがその現状に見合った実力をつけられるかどうか、ということになるのではないでしょうか。

そうなんです。トップ、つまり代表チームが伸び悩んでいる中でも、これだけたくさんの人たちがバスケットボールをやっているわけですから、トップが強くなれば、さらに競技人口は増えると思っています。

高校入学後に起きた二つの「想定外」

中学時代のバレーボール部(前列右)

中学時代のバレーボール部(前列右)

―― 三屋さんが中学時代にバレーボールを始めたのは、やはり身長が高かったことが理由だったんでしょうか?

そうですね。当時は、身長が高い自分が大嫌いでした。小学6年生の頃は、「でけー、でけー」って、よくいじめられていたんです。私はもともと体が弱く、ぜんそく持ちだったので、小学生の頃まではほとんど運動ができませんでした。短距離は速かったので、運動会は良かったのですが、長く走り続けると、すぐにゼーゼーハーハーとなってしまうため、本格的な運動はできなかったんです。
私の出身である福井県の勝山という地域はバドミントンが非常に盛んで、それこそリオオリンピックでベスト8に進出した山口茜選手を輩出していますが、私たちの頃は小学生はほとんど全員がバドミントンをやっていました。私も姉の影響でやっていたのですが、体力的に続きませんでした。
そのうちに、小学5年生くらいの頃から急に身長が伸び始めて、一気に30センチも伸びたので、体がそれに追いつかなかったのか、朝礼の時間に立っていられないほどのひどい貧血状態になって、さらに運動ができなくなってしまったんです。

―― しかし、中学時代には全国大会にも出場されるほどの活躍をする選手に成長しました。

確かに中学3年の時には全国には行きましたが、1回戦であっという間に負けてしまったんです。しかも、私はその試合で空振りをしているんですよ(笑)。駒沢オリンピック公園総合運動場体育館だったのですが、それまであんなに天井が高い体育館でやったことがなくて、感覚がつかめなかったんでしょうね。思い切り空振りをしてしまったんです。
実はそれがトラウマになっていて、全日本に入ってからも駒沢の体育館でやると、すごく緊張していましたね(笑)。

―― とはいえ、全国大会に出場したことで、強豪校からも注目される存在になりました。

当時の身長が176センチだったのですが、出場校の中で「最高身長者」ということで『月刊バレーボール』に載せていただいたんです。その時のインタビュー記事に「中学の3年間、走り高跳びと走り幅跳びでは県大会で優勝」と書かれてあったことで、おそらくポテンシャルの高さというところで評価してくれたのかなと。実は、最初に声をかけてくれたのは、実業団でした。

八王子実践高校時代は中心選手として活躍

八王子実践高校時代は中心選手として活躍

―― 結果的に、選んだのは八王子実践高校。この時には、「自分はバレーボールで生きていくんだ」と考えていたのでしょうか?

そこまでの考えはなかったですね。福井県から出た理由の一つは、両親への反発でした。反抗期というのもあって、「親がいなくても、自分一人で何でもできる」という思い上りがあったんでしょうね。それともう一つは、中学2年の時にミュンヘンオリンピックで全日本男子が金メダルを取ったことでした。

自分がやっているスポーツで世界一を取った姿に、憧れを持ったんです。「私も頑張れば、この舞台に立てるのかな」と。それで「どうすれば立てるのかな」と思って、図書館に行って、バレーボールの雑誌を見たり、大松博文先生の『オレについてこい』という本を読んだりして、「そうか、全国大会に出て、スカウトしてもらわないといけないんだな。そのためには、有名な高校に行かなければいけないのか」と思ったわけです。それで、まずは中学で全国大会に出なければいけないと。当時は市内でも優勝したことがなかったのに(笑)。
しかも、顧問の先生は「9人制」の指導者だったので、「6人制」を教えてもらうことができなかったんです。「どうしようか」と思っていたら、幸運なことに中学3年の5月に教育実習に来た学生が、日本体育大学のバレーボール部員だったんです。その人に6人制のバレーボールを教えてもらえたのが大きかったですね。それで晴れて全国大会に出ることができて、八王子実践から声をかけてもらいました。

―― 当時の八王子実践と言えば、日本一の強豪校。相当な覚悟が必要だったのでは?

はい、まさに大きな大きな覚悟が必要でした。ある程度厳しいというのは覚悟していましたが、想定外が二つありました。
一つは、あれだけ親が恋しくなるなんて思ってもいなかったこと。中学時代は親のことがうっとうしくて仕方なかったんです。その親から離れることができるなんて、なんて幸せなんだ、というくらいの気持ちでいたのに、いざ離れてみると、恋しかったですね。
それともう一つは、考えてみれば当然のことなのですが、各都道府県でトップの選手たちが集まってくる学校なんだなと。正直、「福井県で1番になったんだから、それなりにできるだろう」と高をくくっていたところがあったんです。そしたら、一番下手くそだったんですよ(笑)「あれ、今までの私はいったい何だったんだろう……」と、小さなプライドが砕け散った感じでした。

高校3年、インターハイに出場(1976年)

高校3年、インターハイに出場(1976年)

―― 実際、どれくらい厳しいものだったんですか?

私が中学3年の時に、八王子実践は春高バレー(全国高校選抜大会の通称。2011年からは全日本高校選手権大会)、インターハイ、国民体育大会と3冠を取っているんです。それで、私が入学した年も、春高、インターハイと2冠を取ったんですね。つまり、5大会連続で優勝するという強豪の中の強豪だったんです。
そんな中に入ってしまったものですから、1年の夏くらいまではボールも触らせてもらえず、ただただ苦しい練習にのたうち回りながら耐えていたという感じでした。「歯を食いしばって」というよりも、正直、自分が何をどうしたらいいのかわからなかったですね。監督からは気にも留められていないような選手だったと思います。

―― そこから、どうやって這い上がっていったのでしょうか?

私が1年生の時の3年生があまりにも強くて、2年生の育成にまで手が回らず、若干「谷間」世代のようになってしまっていたんですね。それでそこに運よく入った、という感じでした。でも結局、その後は私が在籍している間、一度も優勝することができなくて、私自身の戦績としては春高とインターハイの3位というのが最高成績でした。
なので、センターコートで華々しくプレーした経験はありませんし、いつも大会後は、監督に30分くらい叱られて、「お前らなんて、バスに乗る資格はない!」なんて言われながらバスに乗って帰っていました。バスの中はいつもお通夜のように暗かった、という思い出しかないですね(笑)。

恩師への反発から生まれたオリンピックへの思い

筑波大学1年、インカレに出場(左から二番目)

筑波大学1年、インカレに出場(左から二番目)

―― 高校卒業後は、筑波大学に進学されましたが、高校からストレートに実業団に行くという選択は考えませんでしたか?

実は、私の父には頑ななまでのポリシーがあって、まず姉には家を継がせると決めていました。それで次女の私は自動的に家を出なければいけないので、私が何か資格を取るまでは親が頑張るという考えがあったんです。ですからよく言われたのが「とにかく一人で生きていけるように何か資格を取りなさい。一番いいのは教師の資格だから、大学を出て教師の資格を取りなさい」と。
そういう考えの両親でしたので、バレーボールを続けることに対しては「勉強がおろそかになる」と、ずっと反対をされていました。中学時代は、成績が学年で20番以下になったら辞めるという約束の下でバレーボール部に入ったんです。八王子実践に入る時も、菊間崇嗣先生に「本人が希望していないのに、実業団に行かせるようなことはさせない」と一筆書いていただきました。それで、3年の時に菊間先生から「卒業後はどうするんだ?」と聞かれて、いくつか実業団からオファーをいただいてはいたのですが、私は大学進学を選択したんです。
そしたら菊間先生に「大学に行くということは、オリンピックには行かないということだな」と言われました。その時、私の中で「なんで、そうなるの?」という反抗心みたいなものが出てきて、口では「そうなんですかねぇ」と言いながら、内心は「だったら、私が大学からオリンピックに行ってやろうじゃないの」なんて思ってしまったんですね(笑)。ただ、実際に筑波大学に行って「あぁ、やっぱりオリンピックは無理かもなぁ」と思い知らされました。というのは、ほとんどの学生が進学校出身で、バレーボールのレベルは想像以上に低かったんです。「この中でやっていたら、ダメかもな」というのはありましたね。

―― ということは、高校時代からオリンピックへの気持ちは強かったと。

いいえ、それほど強いものはなかったです。ケガが多かったですし、オリンピックというものは頭にはほとんどなかったですね。ただ、菊間先生の端から決めつけている言い方が嫌だっただけなんですよ(笑)。逆に言えば、菊間先生のあのひと言がなければ、オリンピックに固執することもなく、出場はしていなかったと思います。

―― 大学卒業後は、教師の道には進まずに、日立に入社しました。これは、どういった理由からだったのでしょうか?

それは、大学4年の時に出られるはずだったモスクワオリンピックに出ることができなかったからです。もし、モスクワに出ていたら、日立には行かずに教師の道に進んでいました。大学3年の時にユニバーシアードがあって、そこで私たちは銀メダルを取ったんです。その時、日本は大学生だけのチームで、決勝ではソ連(現ロシア)のナショナルチームにこてんぱんにやられてしまったのですが、準決勝ではキューバのナショナルチームにフルセットの末に勝ったんです。その時に全日本の監督だった小島孝治先生が視察に来られていて、「キューバ相手にこれだけブロックで止められるんだったら」ということで、その年の10月に初めて全日本に招集されました。
翌年がモスクワオリンピックだったのですが、その年の2月のキューバ遠征で着地に失敗をして足の甲の関節を脱臼するという大ケガをしてしまったんです。靭帯も完全に切れていました。キューバの病院に緊急入院をして、日本には車椅子の状態で帰国しました。それが、オリンピックの約半年前だったのですが、キューバの医師からはオリンピックはもちろん、バレーボール自体がもう無理だろうと言われていたんです。でも、帰国後、筑波大学の病院で診てもらっていて、3月にはギブスが取れたんですね。医師からは無理をするとまたすぐに脱臼するから、松葉杖を使いなさいと言われていたのですが、自分の中では「いける」と思ってしまって、走ってしまったんです。そしたら意外に走れたので、「あ、これは本当にいけるかも」と(笑)。4月からは学生のリーグ戦に出場していました。毎試合後、足は象のように腫れましたが、アイシングをしてだましだまし試合には出続けました。

三屋裕子氏 インタビュー風景

三屋裕子氏 インタビュー風景

―― 靭帯は縫い合わせていたんですか?

いえいえ、切れたままでした。というのも、手術をしたら、それこそオリンピックには間に合わないと思ったんです。毎年5月に大阪市で行われる大会、黒鷲旗に出た時に、当時日本バレーボール協会会長の松平康隆さんの前でスパイクを打って、「これだったら大丈夫だな」ということで、モスクワの最終メンバーに選ばれました。
そうやって、オリンピックのために無理無理に間に合わせたのに、6月になって日本がボイコットすることが決まった時は、「えっ、今までやってきたのは何だったの?」と思いました。釈然としないまま、大学に戻って、リーグ戦、インカレとやって、その後は卒業論文があったので、しばらくバレーボールと離れたんです。その時、私の中に二つの疑問が出てきました。それまでは、全日本での練習はまさに「引きずりまわされる」というほど本当に厳しかったので、早くバレーボールから離れたいと思っていたのに、「もう少しバレーボールをやりたい」という思いが芽生えてきていて、「なんで、自分はそう思うんだろう?」と、まずは考えました。
それともう一つは、「大ケガをしながら、オリンピックに間に合わせるために、あんなに必死に頑張ったのに、オリンピックに出ないままで本当に辞めていいの?」という気持ちもありました。卒業論文をやりながら、悶々とした日々を送っていたんです。その中で、「やっぱりこのままでは終われない。バレーボールを続けようと」と。

「今しかできないこと」を考えた末の競技生活の延長

全日本で指導を受けた小島監督(中央)

全日本で指導を受けた小島監督(中央)

―― 就職先を日立にしたのは、どんな理由からだったのでしょうか?

卒論を終えた後に、いくつかの企業とコンタクトを取ったのですが、最終的には日立かユニチカか、という感じでした。私を全日本に招集して育ててくれたのはユニチカの監督だった小島先生ですから、義理を通すのであれば、当然ユニチカでした。でも、ユニチカのようなディフェンス中心のバレーボールではなく、私はオフェンス型のプレーヤーだったので、そうすると日立かなと。もう一つは、日立には一つ上の江上(現丸山)由美さんがいたので、一番身近な存在で、一番お手本になる選手を間近で見たいというのもあって、どうしようか迷っていたんです。
最終的にはシンプルに考えようと思い、「どっちでバレーボールをしたいの?」と自分自身に問いかけました。それで、やっぱりオフェンス型の日立でやりたいと思ったので、まず小島先生の所に行って、「申し訳ありません。私は、日立に行こうと思います」と告げました。当然怒られるかなと思ったのですが、一切怒られませんでしたね。私としては、いっそ怒られた方が気が楽だったなと。申し訳ないとは思いましたが、それでもやはり自分の気持ちには嘘はつけませんから、とにかく「すみません」としか言えなかったですね。
その後、お話をいただいていた企業に全て断りの挨拶に行って、最後に日立に行ったんです。普通は行くと決めた所にまずは挨拶に行くらしく、山田重雄監督は私が断りに来たのだとばかり思っていたそうです。だから、最初はすごく機嫌が悪かったんです。ところが、私が「日立にお世話になりたいと思っています」と言った瞬間、あの時の顔の変わりようは今でも覚えています(笑)。

―― その時は、人生を日立に委ねるというふうに考えていたのでしょうか?

いいえ、当時はオリンピックにこだわらずに「一度は世界を見てみたい」という思いがあって、翌年の世界選手権までやろうと考えていました。それと、お世話になった小島先生がその世界選手権まで全日本の監督ということが決まっていたので、そこまで続ければ、なんとか義理を通せるかなと。ですので、日立には「2年間だけ」という約束で入りました。

天才セッターとして活躍した中田久美

天才セッターとして活躍した中田久美

―― 実際に入ってみて、いかがでしたか?

当時は中田久美が全盛期の時で、入って1年目でリーグ優勝するなどして、ちょうどチームが熟成しつつありました。そんな時に、2年で辞めるなんて言っている私に対して、山田先生はもちろんですが、一番怒っていたのは江上さんでした。「チームがこれからっていう時に、あんたはみんなを捨てて辞められるの?」と。でも、私にしてみたら「最初から言っていたことなのに」と思っていました。2年目の年には、東京都の教員採用試験を受けて、合格もしていたんです。ですので、その年の世界選手権、そしてアジア選手権が終わったら、もうバレーボールは辞めるつもりでいました。仮にリーグ戦は最後まで出たとしても、「3月31日付けで退職します」と言っていたんです。

―― そこまで決心していたにもかかわらず、最終的には日立を退職せずに、バレーボールを続けられた決め手となったのは何だったのでしょうか?

やっぱり迷いはあって、最後は「今しかできないことって、どっちだろう」と考えた時に、バレーボールかなと。今、教員になってしまったら、その後にもう一度バレーで世界の舞台に立つことはできないけれども、今バレーをやっても、後からいくらでも教員はできるだろうと思った時に、「だったら、バレーをやろう」と決めました。
それでまずは両親に電話をかけて「あと2年、次のロサンゼルスオリンピックまでバレーを続けさせてください。やっぱり途中で仲間を捨てることはできないし、私自身も直前になってモスクワオリンピックに行くことができなかったから、どうしてもオリンピックを自分の目で見てみたいから」とお願いをしました。両親はあきれたように「まだやるんか?」と言っていましたけどね(笑)。今では「結婚適齢期」なんて言葉は死語かもしれませんが、20歳で結婚した母にしてみたら、当時24歳の私が結婚もせずにバレーをやっていることが信じられないという感じだったんだと思います。

「メダルなしでは帰国できない」が唯一のモチベーションだった3位決定戦

ロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得(1984年)

ロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得(1984年)

―― そうして迎えた待ちに待ったロサンゼルスオリンピックでしたが、あの時は予選でアメリカが優勝候補の筆頭だった中国を破るという波乱が起きました。

そうなんです。中国とアメリカは、日本とは違うグループにいて、私たちの中では中国が1位で予選を通過して、おそらく2位はアメリカだろうとにらんでいました。なので、日本が1位通過すれば、準決勝の相手はアメリカだなと。日本はアメリカには100%勝てる自信がありましたので、当然決勝に行くつもりでいたんです。ところが、中国とアメリカの予選を観に行ったら、中国がベストメンバーを温存して、戦力ダウンさせているんです。試合中、ずっとブーイングが起こっていたくらい、勝つ気がないことは明らかでした。結局、アメリカが勝ったので、日本は準決勝で中国と対戦することになったんです。

―― 中国は、決勝トーナメントをにらんで戦力ダウンさせていたということでしょうか?

おそらく、決勝で日本と対戦することを避けたかったのだと思います。実は、前年のアジア選手権では、決勝で日本が中国に勝っていたんですね。なので、決勝という舞台での日本の強さを怖れていた部分はあったんじゃないかなと。だったら、決勝でよりも準決勝で日本と当たりたいということで、わざと予選を2位で通過するようにしたのだと思います。

ロサンゼルスオリンピックの表彰式(左から三番目)(1984年)

ロサンゼルスオリンピックの表彰式(左から三番目)(1984年)

―― その準決勝では、中国の狙い通り、日本は負けてしまいました。当然、金メダルを目指していたでしょうから、落胆は大きかったのでは?

もう、全員の気持ちが砕け散りましたね。その日、私は一晩中泣き続けました。私たちとしては決勝に行くことを前提にやってきていましたから、銅メダルを争うという想定をしてきていなかったんです。なので、翌日の練習はモチベーションが全く上がりませんでした。

―― 一度負けてから、気持ちを戻すというのは、相当難しいですよね。

本当に難しかったです。オリンピックで柔道を見ていると、決勝よりも敗者復活戦から這い上がっての3位決定戦の方が、どれだけしんどいかって思いますよね。そんな中で銅メダルを取った選手のメンタルの強さは相当だと思います。

―― 当時の日本も、3位決定戦でペルーに勝って、見事に銅メダルを獲得しました。試合までに、どうやって気持ちを入れ直していったんですか?

まず、監督に最初に言われたのは、「『史上最低の銅メダル』と言われるだろう」と。というのも、それまでの全日本のオリンピックの歴史では、金か銀しかありませんでしたからね。「今からお前らがどう頑張ったって、最高は銅メダルしかない」と言われた時には、がっくりきました。でも、「ただ、その史上最低の銅メダルも取れなければ、日本に帰ることはできないぞ」と言われたんです。それで「確かに、メダルなしでだなんて、恥ずかしくて日本に帰ることはできないな」と。それで、「とにかく何が何でもメダルだけは取って帰るんだ」という気持ちになりました。もう、私たちを支えていたのは、それだけでしたね。

ロサンゼルスオリンピックの表彰式(中央)(1984年)

ロサンゼルスオリンピックの表彰式(中央)(1984年)

―― それで、実際に銅メダルを取ってしまうんですから、当時の日本はやはり強かったんですね。

そうですね。ただ、試合終了後、ちょっと笑みがこぼれたくらいで、決して喜びはなかったですね。表彰式が終わって、表彰台から降りてすぐにメダルも取ってしまいました。決して欲しかったメダルではありませんでしたので。

―― 改めて、ロサンゼルスオリンピックというのは、三屋さんにとってどんなものでしたか?

確かに結果は私たちにとって満足いくものではなかったですし、それまで先輩たちが築き上げた伝統をつなぐことができず、日本のバレーボール界に何も残すことができなかったという申し訳なさがありました。当時の全日本女子にとっては、金2つ、銀2つの中で唯一の銅でしたからね。でも、自分にとってはオリンピックに出て良かったなと思っています。モスクワの時は「こんなに頑張っても叶わないものってあるんだな。自分はオリンピックとは縁がないんだな」というふうに諦めたこともあった中で、「もう一度」と思って目指したものでもありましたから。
それにオリンピックを目指すには、自分の弱さも強さもさらけ出さなければならなかったんです。そんなことって、人生の中でなかなかないと思うんですね。やっぱり世界選手権やワールドカップとは全く違っていて、「こんなにも悩んで、苦しまなければ、オリンピックには到達できないんだな」と痛感しました。特にオリンピック前の1カ月半というのは、「逃げたい」「やめたい」の連続でした。「どれだけ恥ずかしい思いをしてもいいから、もう消えてなくなりたい」という状態の中でやらなければいけないという練習は、本当に言葉にならないほど過酷でした。でも、その経験が今、たいていのことには耐えられる力になっているのだと思います。「私って、意外にもろいんだな」というのと、逆に「私って、結構耐えられるんだな」という、自分の弱さ、強さの両面を知ることができたのがオリンピックでしたね。

「地域貢献」にこそあるスポーツの未来

学習院大学での授業風景(1985年頃)

学習院大学での授業風景(1985年頃)

―― オリンピックの1カ月後の9月からは、教員として高校の教壇に立っていましたね。

はい。オリンピック前に採用試験を受けていて、既に決まっていたんです。

―― 決断の速さに周囲も驚かれたのでは?

そうでもしないと、またバレーをやめられなくなると思ったんです。リーグ戦が終わるまでとやっていたら、おそらくそのまま「もう1年」なんて思ってしまって、結局は次のソウルオリンピックまでやっていたかもしれません。なので、「オリンピックまで」と決めて、すぐに切り替えられるように準備をしていたんです。

―― その後、大学で助教授をされた後に、筑波大学大学院に入られました。これはどういう理由からだったのでしょうか?

毎年、同じことを教える中で、だんだんと自分の中で知識が枯渇しているような気がしてきて、どこかで新たなものをインプットしなければいけないと思い始めたんです。これまではバレーボールプレーヤーとして得たものでやってきたけれど、そうではなくて、バレーをやめた後の自分自身を、きちんと作り出さなければいけないと思った時に、私に決定的に不足していたのが知識でした。正直、バレーボール以外のことは何も知らない状態でしたからね。それで、もう一度勉強し直したいと思って、筑波の大学院に入ったんです。

三屋裕子氏 インタビュー風景

三屋裕子氏 インタビュー風景

―― その後、Jリーグの理事に抜擢されるなど、活躍の場を広げていきました。

当時から私がよく言っていたのは「これからのスポーツはアスリート育成だけでなく、地域に貢献していかなければいけない」ということだったんです。これは筑波の大学院にいた時に、先生方とよく話をしていたことで「今後は少子化の時代。学校だけでスポーツをやっていこうとすると、小さくなるばかりだから、これからは地域を巻き込んでいかなければいけない」と。それまではスポーツが貢献できることと言えば、「健全な青少年の育成」が中心でしたが、これからは「中高年の健康」をテーマにしなければいけないだろうと。そうすると、やはり「地域」が大事になってくるんですね。
さらに、当時はバレーボールをはじめ、他競技でも企業チームがどんどん減少し始めていたこともあって、これからのスポーツの存在価値はやはり「地域貢献」にあるだろうと。そんな話をしていたところ、それが当時Jリーグのチェアマンを務めていた川淵三郎さんの目に留まったみたいで、「三屋さんの考えは、我々Jリーグの『百年構想』と同じだから、ぜひ一緒にやりませんか」とお声をかけていただいたんです。ちょうど、横浜フリューゲルスのチームの解体があったりした時で、チーム運営には大株主ではなく小さい株主を増やすことが重要だということだったりとか、スポーツクラブの在り方や問題解決へのプロセスというものを間近で見させていただき、多くのことを勉強させていただきました。

1962年に創設された日本スポーツ少年団

1962年に創設された日本スポーツ少年団

―― 三屋さんは日本スポーツ少年団副本部長も務めていますが、これからの「スポーツ少年団」については、どのようにしていきたいと思っていますか?

今、「2020年東京オリンピック・パラリンピックのレガシーは何か」ということをよく耳にしますが、それこそ1964年東京オリンピックのレガシーの一つが「スポーツ少年団」だと思っています。実際、これまで数多くのオリンピック選手やプロ選手を輩出してきたのがスポーツ少年団でした。ただ、半世紀以上が経った中で、そろそろモデルチェンジしなければいけない時代に来ているのかなということを感じているのも事実です。現在は、競技力向上に力を入れているところと、レクリエーションという意味合いが強いところと、全く違う要素が混在している状態にあります。いい意味でも悪い意味でも、バラエティー化してしまっているんです。ですから、まずは「スポーツ少年団とは何ぞや」という原点に立ちかえって、今の時代に適した役割というものを考えていかなければいけないなと思っています。
JリーグやBリーグもそうですが、各競技でプロ化が進むことによって、そこには必ず下部組織としてジュニアの育成・強化がついてきます。そうすると、スポーツ少年団の「競技力向上」という部分と重なってしまうんですね。そこをどうするのか。受け継がれてきたフィロソフィーを大事にしながらも、スポーツ少年団の存在意義をきちんと定義していかなければいけないと思っています。その定義を確立させて、2020年東京オリンピックを迎えることができれば、それもまた一つのレガシーとして受け継がれていくはずです。

―― その2020年東京オリンピック・パラリンピックを迎えるにあたって、これからの日本スポーツ界に期待するものとは何でしょうか。

国家が発達段階で迎えた1964年とは異なり、成熟した中で迎える2020年に必要なのは、やはりスポーツが地域に寄与するものであることを確立させていくことだと思います。少子高齢化が進む中、過疎化が深刻さを増している地域もありますが、その中でスポーツによって地域が活性化するという例を数多くつくっていくことが重要ではないかなと。そのためには若者が共感できる「空間」と「時間」を生み出し、そこに「人間」が集うという3つの「間」が必要です。

その大きなきっかけとなるのが、2020年東京オリンピック・パラリンピックだと思っています。これまでのように「見る」「する」だけでなく、多岐にわたってスポーツに関わる人たちが増えていくことによって、さまざまなかたちの「空間」「時間」ができていくはず。そして、そこに「人間」が集まってくる。東京オリンピック・パラリンピックはメダル数だけでなく、こうした今後の日本スポーツ、ひいてはスポーツの枠を超えて国の将来を支える一助となることもまた、大事な役割だと思いますし、それこそがレガシーとなるはずです。私自身も、そうしたことに積極的に関わっていきたいと思っています。

  • バレーボール・バスケットボール・三屋裕子氏の歴史
  • 世相
1895
明治28
アメリカのYMCA体育指導者のW.G.モルガン氏がテニスをヒントにバレーボールを考案
1908
明治41
大森兵蔵氏、東京YMCAにて日本に初めてバレーボールを紹介
1917
大正6
第3回極東大会(東京)のバレーボール競技に日本初参加
1922
大正11
日本の実業団バレーボール第1号チーム誕生
1930
昭和5
ポール・ジョンソン(米)がビーチバレーボールを考案
大日本バスケットボール協会創立
大日本体育協会に加盟
1931
昭和6

女子第1回全日本バスケットボール選手権大会開催

1935
昭和10
大日本バスケットボール協会、国際バスケットボール連盟(FIBA)に加盟
1936
昭和11
ベルリンオリンピックから男子バスケットボールが採用され、日本は初出場を果たす
1941
昭和16
大日本バスケットボール協会、大日本籠球協会に改称

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1946
昭和21
日本排球協会設立
第1回バレーボール近畿国体開催
男子一般、女子一般、男子中等、女子中等の4種目を実施
1947
昭和22
国際バレーボール連盟(FIVB)が、14カ国の代表参加のもとパリで創設
日本排球協会が日本バレーボール協会に改称
日本バスケットボール協会発足

  • 1947日本国憲法が施行
1949
昭和24
第1回バレーボール女子世界選手権がチェコスロバキアにて開催

  • 1950朝鮮戦争が勃発
1951
昭和26
日本バレーボール協会が国際バレーボール連盟(FIVB)に加盟

  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
第1回バレーボール女子世界選手権がソビエトにて開催
1955
昭和30
日本バレーボール協会として国際式バレーボール(6人制)ルールを正式導入

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
バスケットボール男子日本代表、メルボリンオリンピックに戦後初めて出場し10位となる

  • 1958三屋裕子氏、福井県に生まれる
1960
昭和35
日本がバレーボール世界選手権に初参加
1962
昭和37
9人制で行われていたバレーボール天皇杯・皇后杯全日本総合選手権を6人制に変更
1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催
「東洋の魔女」と呼ばれたバレーボール女子日本代表が、東京オリンピックにて金メダルを獲得

  • 1964東海道新幹線が開業
1967
昭和42
日本で初のバレーボール女子世界選手権を開催
全日本バレーボール選抜男女リーグがスタート
日本実業団連盟によりバスケットボール日本リーグがスタート
1968
昭和43
メキシコシティーオリンピックにて、バレーボール日本代表、男女ともに銀メダルを獲得

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピックで松平康隆監督率いるバレーボール男子日本代表が金メダル、女子が銀メダルを獲得
1973
昭和46
日本バレーボール協会、財団法人の設立認可を受ける

  • 1973オイルショックが始まる
1975
昭和50
第7回女子バスケットボール世界選手権大会(コロンビア)で日本が準優勝を果たす

1976
昭和51
山田重雄監督率いるバレーボール女子日本代表がモントリオールオリンピックで金メダルを獲得
モントリオールオリンピックから女子バスケットボールが正式種目となる

  • 1976ロッキード事件が表面化
1977
昭和52
日本で初のバレーボールワールドカップ開催

  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
  • 1979三屋裕子氏、ユニバーシアードバレーボール競技メキシコシティ大会に出場し、銀メダルを獲得
1980
昭和55
バレーボール天皇杯、皇后杯の冠を全日本総合選手権から日本リーグに変更
1981
昭和56
  • 1982三屋裕子氏、日立製作所に入社
     バレーボールワールドカップに出場
     バレーボール日本リーグ、全日本代表で活躍する
1982
昭和57
  • 1982三屋裕子氏、バレーボール女子世界選手権に出場
  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催

  • 1984三屋裕子氏、ロサンゼルスオリンピックに出場し銅メダルを獲得
1985
昭和60
松平康隆氏、アジアバレーボール連盟会長に就任
1987
昭和62
ソウルオリンピック・パラリンピック開催
ビーチバレーボール男子全日本選手権である「第1回ビーチバレージャパン」開催
1990
平成2
ビーチバレーボール女子全日本選手権である「第1回ビーチバレージャパンレディース」開催
1994
平成6
バレーボールの国内トップリーグプロ化を念頭に、第1回Vリーグ開催
1995
平成7
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催
バスケットボール日本リーグ機構(JBL)設立

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピックでビーチバレーボールが正式種目となる
バレーボール天皇杯、皇后杯の冠をVリーグから黒鷲全日本選手権大会に変更
1997
平成9
萩原美樹子氏、日本人初のWNBA登録メンバーとなり、サクラメント・モナークスに入団

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
JBLから女子を分離しバスケットボール女子日本リーグ機構(WJBL)を設立
2000
平成12
ビーチバレーボールの高橋有紀子氏、佐伯美香氏ペア、シドニーオリンピックにて4位入賞
2004
平成16
田臥勇太氏、日本人初のNBA登録メンバーとなり、フェニックス・サンズに入団
2007
平成19
バレーボール全日本選手権の大会方式が一新
JVAに登録されていれば誰でも大会に参加できる方式となる
日本バスケットボールリーグ(JBL)設立
プロチームを含めた8チームで新JBLスタート

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バレーボール女子日本代表、バレーボール女子世界選手権にて銅メダルを獲得
これが32年ぶりのメダルとなる
2011
平成23
ソフトバレーボールが小学校の教科に採用される
公益財団法人日本バレーボール協会設立

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
バレーボール女子日本代表、ロンドンオリンピックにて28年ぶりのメダルとなる銅メダルを獲得

  • 2015三屋裕子氏、日本バスケットボール協会副会長に就任
  • 2016三屋裕子氏、日本バスケットボール協会会長に就任