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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」
1964東京大会を支えた人びと
第67回
日本のメディアはオリンピックで何を伝えたのか

宮澤 正幸

日刊スポーツ新聞運動部記者として、1964年東京オリンピック・パラリンピックの取材に奔走した宮澤正幸氏。87歳の現在も現役記者として活躍され、2020年には2度目の「東京オリンピック・パラリンピック」取材を迎えます。
1964年当時、日本のメディアは何を伝えたのか、そして宮澤氏が見た舞台裏にはどんな真実があったのか。宮澤氏にお話をうかがいました。

聞き手/佐塚元章氏  文/斉藤寿子  構成・写真/フォート・キシモト

学生時代に抱いた記者への憧れ

宮澤正幸氏 インタビュー風景(2017年)

宮澤正幸氏 インタビュー風景(2017年)

―― 学生時代はレスリング部で活躍されていた宮澤さんが、新聞記者になろうと思ったきっかけは何だったのでしょうか?

私がレスリング部に入ったのは、旧5年制時代の拓殖大学2年生になる頃でした。それまでレスリング部の練習を見たことはありましたが、自分自身がやったことはなかった。ところが、レスリング部の先輩から誘われたんです。その当時、レスリングの試合会場は東京の神宮外苑にありました。まだ東京ボウリング場ができる前で、現在の秩父宮ラグビー場の隣に位置する場所には、「青山レスリング会館」という小さな建物があったんです。その会館を、戦時中に壊れた屋根を修復して使用していたのですが、そこで学生の大会も、全日本選手権も行われていました。

大会でそこに行きますと、新聞社の記者たちが机を並べて取材をしているんですね。よく見ると、みんな胸には金色のペンの形のバッジを付けていまして、それが妙にかっこよく感じられて、「自分も付けたいな」と思っていたんです。それと、現在は学生レスリングの試合はあまり記事にならなくなってしまいましたが、当時は今ほどスポーツの種類が多かったわけではなかったですし、レスリングはオリンピックでメダルを期待されていた競技ということもあって、学生の大会にも新聞記者が駆けつけてくれたんです。事細かに取材をしてくれて、翌日の新聞に記事が出ているわけです。そういう一連の仕事ぶりに感化されまして、記者という職業に憧れを抱くようになりました。それで、漠然と「自分もレスリングの記者になろうかな」と思うようになっていたんです。

―― 自分の手で、世の中にレスリングのことを伝えたいと思われたわけですね。

はい、そうなんです。それと、もともと文章を書くこと自体、子どもの頃から好きでした。小学2年生の時には、すでにほかの子どもたちが書かないような手法、例えば戦時中の作文で「おーい、これからみんなで戦争ごっこをやるぞ!」などと呼びかけるような文から書き始めたりしていました。それが先生からも非常に高く評価されまして、「あぁ、文章というのはこうやって書けばいいんだな」ということが、その時に気づいたんですね。それが私の土台となっていまして、 今現在も活かされているなぁと感じています。

ジャカルタで行われた「新興国競技大会」のレスリング競技を取材中の宮澤(1963年)

ジャカルタで行われた「新興国競技大会」のレスリング競技を取材中の宮澤(1963年)

―― 大学卒業後、日刊スポーツに就職されました。入社試験は、どのようなものだったのでしょうか。

昭和28年の春に大学を卒業したのですが、当時は大変な就職難に見舞われていまして、私自身、その日のご飯もろくに食べることができないほどでした。あわてふためかないような暮らしをしたいと思ってはいましたが、生活費がないわけですから、どうしたってあわててしまうんですね(笑)。そんな時に、拓殖大学の先生から「東京新聞社で見習い社員を募集しているようだから、試験を受けてみないか」と言われたんです。その先生は、人口論を専門にされていて、厚生省(現厚生労働省)の人口問題の権威であるような方だったのですが、私は学生時代にその先生の授業で「優」の成績をいただいていたんです。それで声をかけていただいたと思うのですが、もちろんありがたい話でしたので、早速試験を受けに行きました。そうしたら、慶應義塾大学、早稲田大学、法政大学、日本大学といった大学を卒業した人たちが来ていて、私を入れても5、6人ほどしかいませんでした。その中で4人が採用されまして、私もその中の1人に選ばれました。しかし、約1年間東京新聞社に勤めましたが、結局、私が望んでいた記者ではなく、運動部の隣にあった校閲部での仕事でした。

そうしたところ、運動部の部長だった原三郎さんが私に声をかけてくれたんです。原さんは、1932年ロサンゼルスオリンピックのボート日本代表だったのですが、ご出身が私の故郷である神奈川県の小田原市にほど近い二宮町だということで、かわいがっていただいていました。その原さんから「日刊スポーツが採用試験をやるようだから、受けてみないか」と言われまして、それで試験を受けに行きました。ところが、100人近い大勢の人が来ていたものですから、「あぁ、これでは自分なんかは受からないだろうな」と半ば諦めの気持ちでおりました。それでも筆記試験で小論文がありましたので、それは張り切って書いたんです。配布された原稿用紙は4、5枚ほどだったのですが、書き出したらすぐに原稿用紙が足りなくなってしまいまして、「すみません、追加の原稿用紙をください」と、3回ほど「おかわり」をしました。おそらく20枚ほど書いたのではないかと思います。

―― どのようなことについて書かれたんですか?

出だしは、こうです。「今は猫も杓子も野球、野球と言う時代。しかし、野球でオリンピックに行かれるか」と。現在は野球もオリンピック競技になっていますが、当時はそうではありませんでしたから、「オリンピック至上主義」の私は、野球ではなくオリンピック競技であるレスリングの記事を書きたい、ということで、その前年に行われた日米対抗戦について事細かに書いたんです。そうしたところ、数日後、下宿先に1枚の葉書が届きまして、そこには「あなたは試験に合格されたので、いついつ面接を受けに来てください」ということが書かれてありました。

ON全盛時代には国民の多くがプロ野球に熱中した

ON全盛時代には国民の多くがプロ野球に熱中した

―― 面接では、どのようなことを聞かれましたか?

何かスポーツのことについて、いろいろと聞かれるんだろうなと予測して、面接の数日前には初めて野球観戦に行ったりもしたんです。スポーツ紙の面接を受けるのに、一番人気のあった野球を一度も観戦したことがないというのはまずいだろうなと思いまして。

ところが、実際に面接に行ってみると、編集局長から「入社試験での君の書きっぷりが見事すぎて、みんなが注目したんだよ。書いてあった内容もさることながら、以前にいた記者は専門用語を間違うことがたびたびあったけれど、君の文章はそういうところもしっかりと書かれてあった」とお褒めの言葉をいただいて驚きました。それから「君は『グランドレスリング』を『グラウンドレスリング』と書いていたが、スペルを言ってみなさい」と言われたので、私がスペルを言うと、「そうだ。君の方が正しい」と、また褒められたんです。編集局長は入社試験での私の文章を見て、「この青年は記者として十分にいける」というふうに思ってくださったようで、念願の記者になることができました。

感じ始めていた花形競技の移り変わり

“巨人、大鵬、玉子焼き”と称され人気を誇った横綱大鵬(左)

“巨人、大鵬、玉子焼き”と称され人気を誇った横綱大鵬(左)

―― 日刊スポーツというのは、当時はどのような位置づけだったのでしょうか。

東京では読売新聞の経営による「報知新聞」、毎日新聞系列の「スポーツニッポン」、それから独立してはいたけれど販売店だけが朝日新聞と提携を組んでいた「日刊スポーツ」が、当時のスポーツ紙として存在していました。その中で、日刊スポーツは昭和21年3月に、日本で初めての「日刊の」スポーツ新聞としての歴史を歩み初めた老舗のスポーツ紙という位置づけにありました。

―― 当時、「国内スポーツ」と言えば、やはり野球が盛んだったのでしょうか。

そうです。とにかく野球が人気の時代でした。プロ野球はもちろんですが、東京六大学野球もラジオで中継放送をやっていたくらいでしたからね。この2つが常に人気がありまして、そのほかは、大相撲や古橋廣之進が活躍された時代の水泳なんかにも耳目が集まっていました。

戦後世界新記録を連発し、“フジヤマのトビウオ”と呼ばれた古橋廣之進の力泳

戦後世界新記録を連発し、“フジヤマのトビウオ”と呼ばれた古橋廣之進の力泳

―― 一方でレスリングはどうだったのでしょうか。

人気という点では今ほどではありませんでしたが、それでも大学のリーグ戦でも新聞社は記事を書いてくれていました。

―― アマチュアスポーツに対しても、新聞ではスペースを割いて記事が掲載されていたんですね。

今よりもずっと取り上げられていましたね。水泳、陸上から体操、柔道、ラグビー、レスリングだけでなく、ボクシング、バレーボール、バスケットボール、テニス、フェンシングといったアマチュアスポーツも、新聞ではよく取り上げられていました。アマチュアスポーツが非常に盛んだったという時代背景もあったと思います。

―― そういった中で、宮澤さんは、やはり一番にレスリングを取り上げて、普及させたいという思いがあって、新聞記者になられたわけですね。

そうですね。ただ、同じ格闘技ということで言えば、ボクシングや大相撲、柔道などにも同じような思いを抱いていました。

日本が戦後初参加したヘルシンキオリンピックのレスリングで金メダルを獲得した石井庄八(1952年)

日本が戦後初参加したヘルシンキオリンピックのレスリングで金メダルを獲得した石井庄八(1952年)

―― レスリングは、日本が戦後初めて参加した1952年のヘルシンキオリンピックで、石井庄八さんが金メダル(フリースタイルバンタム級)、北野祐秀さんも銀メダル(フリースタイルフライ級)に輝きました。そういうこともあって、レスリングはアマチュアスポーツの中では日本で人気の高い競技だったのでしょうか。

ヘルシンキオリンピックでは、レスリングへの期待は大きかったと思います。というのも、その前からレスリングでは日米対抗戦が行われていまして、最初はアメリカの選手に日本人選手は歯が立たなかったのが、だんだんとアメリカ人選手にも善戦するようになっていたんです。戦前はオリンピックと言うと、日本では陸上と水泳が花形競技で、一番期待が高かった。体操やレスリングは、それ以下という感じでした。ところが、ヘルシンキオリンピックでは期待していたものとは異なる結果でした。特に、金メダルを期待されていた水泳の古橋廣之進は、体調不良で男子400m自由形決勝でメダルどころか、8人中8着に終わったんです。一方、レスリングは5人の選手が出場して、金メダル1人、銀メダル1人。そのほか3人も5位、6位でしたから、5人全員が「入賞」という好成績を挙げました。さらに、体操も5人中2人がメダリスト(銀1、銅1)になりました。戦前から続いていた「陸上」「水泳」という二強から、時代はそのほかの競技へと移り始めた時と言ってよかったと思います。

オリンピック団体5連覇の偉業を成し遂げた日本の男子体操を牽引した小野喬

オリンピック団体5連覇の偉業を成し遂げた日本の男子体操を
牽引した小野喬

―― 宮澤さんたちメディアが、そういう時代の流れに大きく関わっていたという実感はありましたか?

はい、ありました。なかでもレスリングにはそういう思いが強くありました。終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)から、学校などで行われていた柔道や剣道といった日本武道の全面的な禁止令が通達されました。そうした中で、広く普及したのが西洋スポーツのレスリングやフェンシングだったんです。柔道人はレスリングへ、そして剣道人はフェンシングといった具合に、似たような競技を求めていったことが大きく影響していました。そうした時代背景の中、私自身、レスリングが日本国内で大きく広がっていっていることを実感しながら、取材活動をしていました。

政治色が強かった東京オリンピック前のスポーツ事情

ジャカルタで開催された第4回アジア競技大会の開会式(1962年)

ジャカルタで開催された第4回アジア競技大会の開会式(1962年)

―― 1964年東京オリンピックの時は、記者になってどのくらいの頃だったのでしょうか。

あの時は34歳になっていましたので、記者生活がちょうど10年ほど経った頃でした。本来、記者として「脂がのった時期」というのは、もう少し後のはずなのですが、スクラップされた当時の記事を読みますと、僭越(せんえつ)ながら自分でも、ほかのどの記者が書く記事にも負けていなかったのではないかと思えるほど、内容が濃いものばかりだなと。日本人選手だけでなく、海外の選手についても各体重別に分析をして展望記事を書いたりしていましたからね。

―― それだけレスリングを専門的に書くことのできる新聞記者は、ほかにいなかったのではないでしょうか?

多くはいなかったですね。おそらく私一人だったと思います。

―― その東京オリンピックを迎える前に、実は世界のスポーツ界を揺るがす出来事が起こりました。発端は1962年にインドネシアで行われた「第4回アジア競技大会」(以下、アジア大会)でしたが、具体的にどのようなことが起きたのでしょうか?

アジア大会を開催した際、インドネシアは政府の方針で、イスラエルと中華民国(現在の台湾)を招待しなかったんです。当時、インドネシアは中国とアラブ諸国との連携強化を図っていました。そのために、宗教上の問題で対立しているイスラエルと、中国が国家として認めていない台湾に対し、代表選手団のためのIDカードを発給しなかったのです。そこで、国際オリンピック委員会(IOC)は「アジア大会を正式大会として認めることはできない」と表明したことで、大きな問題となったんです。

インドネシアのスカルノ大統領(1963年)

インドネシアのスカルノ大統領(1963年)

―― そうした中で、日本選手団はどういう判断をしたのでしょうか?

ウエイトリフティングは、国際競技連盟(IF)の意向を受けて「この大会に参加をして、2年後の東京オリンピックに出られないとなるのは困る」ということで、不参加を表明しましたが、それを除いた競技団体は「ここまで来たのだから」ということで参加する判断を下しました。
その背景には、日本がインドネシアの独立に協力し、親日国になっている開催国を見捨てるわけには行かないということもありました。ただ、大会期間中は、選手団役員のホテルに日本体育協会の関係者からは、大会の状況等についてひっきりなしに連絡が来て、その対応が大変だったそうです。結局、大会を終えて帰国後に、参加に伴う混乱の責任を負うかたちで、組織委員会会長の津島寿一さん(日本体育協会会長)と、同事務総長の田畑政治さん(日本オリンピック委員会/JOC総務主事)が辞任に追い込まれました。

―― その後、IOCから資格停止処分を受けたインドネシアは、IOCからの脱退を表明。さらに、1963年11月に「新興国競技大会」(GANEFO)を開催したことで、さらに深刻化しました。

その「新興国競技大会」には、アジアやアフリカの諸国をはじめ、当時IOCから脱退していた中国が招待されていました。日本もその大会に招待されていたのですが、翌年の東京オリンピックのことを考えると下手なことはできないということで、オリンピックの選考レベルには達していない選手を集めまして、選手団を派遣しました。

新興国競技大会を立ち上げたインドネシアのスカルノ大統領

新興国競技大会を立ち上げたインドネシアのスカルノ大統領

―― このような問題を引き起こした張本人のインドネシアのスカルノ大統領(当時)に、宮澤さんは直接お話されたそうですね。それは、どういったいきさつからだったのでしょうか。

1962年のアジア大会には、日本から大勢の報道陣が詰めかけていまして、私も日刊スポーツから派遣されて行っていました。私自身は政治的問題はあるにしても、インドネシアの選手たちには東京オリンピックに参加してほしいと思っていました。ですから、スカルノ大統領に会って、直接「ぜひ、東京オリンピックに来てください」と言いたいという気持ちがあったんです。現地では当然会見があるのだろうと思っていたのですが、特にスカルノ大統領が我々報道陣の前に出るような機会はないというんですね。そこで、伊藤忠など商社に勤めていて、インドネシアに駐在している拓大インドネシア語学科の後輩に相談したところ、スカルノ大統領に会えるということになったんです。

―― 直接「ぜひ、東京に来てください」とおっしゃったんですか?

はい、申し上げました。そうしたところ、スカルノ大統領は「東京には私の友人が何人もいます。ですから、東京オリンピックの成功を祈っています」と言ってくださいました。

―― しかし、残念ながら翌年の東京オリンピックでは、インドネシア選手団は来日しながら、IOCから大会の参加許可が下りず、開会式の日に日本を離れるという事態となりました。東京オリンピックの前後は、スポーツと政治には微妙な関係性があったということが言えますね。

インドネシアの参加が認められることを願っていましたので、それは本当に残念な出来事でした。

解説記事に示されていたメディアの役割

「毎日グラフ」の1964東京オリンピック臨時増刊号の表紙

「毎日グラフ」の1964東京オリンピック臨時増刊号の表紙

―― 東京オリンピックに向けて、日刊スポーツでは、どのような体制で臨んだのでしょうか。

社内では、前年の年明けくらいから強化体制を敷きまして、編集局次長をトップとした「オリンピック企画委員会」を設置しました。記者は全員参加というかたちでして、全社をあげて東京オリンピックに向けた準備体制を整えました。

―― 大会期間中は、国立競技場の近くに一軒家を借りて、そこを日刊スポーツの本部とされていたそうですね。

はい、その一軒家を拠点として、取材に行っていました。自宅が近い記者は帰宅していましたが、遠くて通えない記者は、その本部に泊まり込みで作業を行っていたんです。オリンピック企画の中で、私が特に掲載した意義があったと感じたのは、特別企画班(特企班)の数人の記者たちで書いた長期連載『スポーツ茶の間の科学』でした。これは、一般的によく使用されているけれども、具体的には説明されたことがないようなスポーツ関連の用語について、科学的に分析をしたうえで記事にするというものでした。

―― 例えば、どのような用語があったのでしょうか?

スポーツのシーンでよく使用される「根性」という言葉とかですよね。それには心理を専門とする先生のところに話を聞きに行ったりしたわけです。

―― それから、宮澤さんが保管している資料を拝見させていただきましたら、『日刊スポーツ東京オリンピック号』というのがあったり、あるいは小学館が発行した『小学6年生 オリンピック記念号』の表紙があったりしたのですが、オリンピック前にはこうした特別号がいくつも出て、大変盛り上がった様子が目に浮かびます。

新聞社も出版社も、こぞってオリンピック特別号を出していましたね。もちろん、大会を盛り上げるということもあったと思いますが、実際に売れ行きも良かったはずです。それだけオリンピックに関する情報を国民が求めていたということも言えるかと思います。

―― 日刊スポーツでは、全日本女子バレーボール「東洋の魔女」を取り上げたり、柔道をわかりやすく解説した「打倒ヘーシンク」というコーナーもあって、メダルの数とか、勝敗だけに特化したようなものではなく、何か「オリンピックを学ぼう」という姿勢が見える記事が多かった気がいたします。

そうですね。なにしろ日本、あるいはアジアで初めて開催されるオリンピックでしたから、広く、そして深く、読者に解説するという役割があるだろうということだったと思います。

―― 今は何かというと「メダルの数」ばかりに注目がいってしまうような報道が多いのですが、1964年の時の姿勢を学ばなければいけないかもしれませんね。

私はそう思います。それこそ、2020年東京オリンピック・パラリンピックの年になった時には、もう一度、1964年の時のような国民に説明する「解説」の役割を果たす連載を復活させるべきではないだろうかと思っているんです。日刊スポーツでは既に毎週水曜日に見開き2ページの長期連載企画が好評です。

国内外に発信した「日本の今」

東京オリンピック柔道無差別級決勝でオランダのヘーシンクに敗れた神永昭夫(左)

東京オリンピック柔道無差別級決勝でオランダのヘーシンクに敗れた神永昭夫(左)

―― さて、1964年東京オリンピックでの取材における、宮澤さんにとってのハイライトと言えば、やはりアントン・ヘーシンク(オランダ)と神永昭夫さんが対決した、柔道無差別の決勝ということになるかと思います。そもそも、神永さんとは深いつながりがあったそうですね。

私の父親が、神永さんの故郷である宮城県仙台市の出身でして、父の弟である私の叔父の家が、神永家の隣にあったんです。私も叔父の家には何度も遊びに行っていましたから、小さい頃から神永さんを知っていまして、彼が柔道家として大成していく過程を間近で感じていました。

―― ヘーシンクは1961年の第3回世界選手権(パリ・当時無差別級のみ)で、外国人選手としては初めて優勝を果たし、それ以降は無類の強さを誇っていました。ヘーシンクが東京オリンピックでも無差別に出場するということで、そのヘーシンクと対決する日本人選手は誰かということが、当時は非常に注目されていたそうですね。

はい。当時は、猪熊功さんと神永さんとで、どちらを無差別にするかで意見が分かれていました。最終的に猪熊さんが重量級、神永さんが無差別級ということで決まったのは、開幕直前だったと記憶しています。正直に言えば、日本人選手がヘーシンクに勝てる可能性は、決して高くはなかったと思います。それに加えて、神永さんは膝の故障を抱えていて、万全と言える状態ではありませんでした。それでも神永さんは、監督とコーチから「君がヘーシンクと戦うんだ」と告げられた時、顔色一つ変えず「わかりました」とだけ言って席を立ったそうです。

東京オリンピック柔道無差別級決勝で神永を抑え込むヘーシンク(1964年)

東京オリンピック柔道無差別級決勝で神永を抑え込むヘーシンク(1964年)

―― ヘーシンクと神永さんとの決勝は、どこで見られていましたか?

私は、観客席で神永さんの父君とお兄さん、結婚したばかりの神永さんの奥さまと一緒に並んで試合を見ていました。

―― その試合ばかりは、いつものように記者としてというよりも、どちらかというと家族と同じような心境で見守っていたのではないでしょうか?

そうでしたね。神永さんのご家族とも親しくさせていただいていましたので、まるで家族の一員というようにして、終始、息が止まるような思いで見ていました。

―― 試合時間が残り40秒を切ったところで、ヘーシンクの左けさ固めが決まり、神永さんは敗れました。試合後の様子はいかがでしたか?

試合会場の外にあった各国の選手控室のところまで行きましたら、部屋の中から男泣きが聞こえたんです。中には、神永さんのほかに、監督やコーチ、補欠選手など数人いましたから、泣いている声が誰のものなのかは、未だにわかっていません。ただ、私は神永さん本人が泣いたのではないと思っているんです。曽根康治コーチか、猪熊氏か?残念ながら神永さんはお亡くなりになってしまいましたが、当時周辺にいた人たちに、いつか「真相」を聞いてみたいなと思っています。

―― 振り返ってみて、1964年東京オリンピックにおいて、メディアが果たした役割りについて、どのように感じられていますか?

やはり、競技会場に足を運べない人たちの方が多かったわけですから、その人たちが東京オリンピックを知る手段として、メディアが果たした役割りというのは、非常に大きかったはずです。東京オリンピックが日本全体で盛り上がったのは、メディアあってのことだったのではないでしょうか。そして、われわれメディアも、そのことを十分に理解していました。丁寧な解説の記事が多かったのは、その何よりの証(あかし)だと思います。

レスリングで選手に厳しいトレーニングを課した八田一朗

レスリングで選手に厳しいトレーニングを課した八田一朗

―― 1964年東京オリンピックは、「戦後復興」を世界に発信した大会だったと言われていますが、メディアの視点から見て、実際には何を世界に発信できた大会だったと思われますか?

思い出されるのは、私の恩師でもある八田一朗さん(1964年当時、日本アマチュアレスリング協会会長)の言葉です。八田さんは、東京オリンピックの開幕前、私にこう言いました。
「宮澤くん、日本は確かに戦争には負けた。でも、日本には世界に決して負けていないものだってある。それは芸術であり、文化だよ。だから東京オリンピックでは、日本のスポーツが世界に劣っていないということを証明したいんだ。僕は、それができると信じている」と。

実際、その通りになったと私は思います。スポーツを通して、「日本は今、こんなにも力強く、元気にやっていますよ。決して、海外に負けていませんよ」ということを発信できた、そんなオリンピックとなったのではないでしょうか。

略称「五輪」ではなく強調したい「オリンピック」の使用

東京で開催されたパラリンピック大会の公式ポスター(1964年)

東京で開催されたパラリンピック大会の公式ポスター(1964年)

―― 宮澤さんは、東京オリンピックの後に開催された東京パラリンピックも取材をされたそうですね。

東京オリンピックが閉幕した後に、「東京パラリンピックも取材をさせてください」と自ら手を挙げました。社内では、パラリンピックにも理解がありましたので、取材に行かせてもらえることになったんです。

―― パラリンピックの様子はいかがでしたか?

オリンピックの時には、どの競技会場に行っても、スタンドには大勢の観客が詰めかけていて、報道陣も沢山いましたが、パラリンピックになった途端に、観客も報道陣もほとんどいませんでした。

―― 宮澤さんは、どのような内容の記事を書かれたのでしょうか?

私は、パラリンピックの結果や競技の内容についてではなく、大会を支える人たち、例えば選手村で選手たちのお手伝いをする学生たちや、派遣された自衛隊隊員の仕事ぶりを取材しました。選手村のベッドメイキングを担当したのは、私の母校である拓殖大学のアーチェリー部の学生でした。どの学生も口をそろえて言っていたのは、「自分たちは日当が目当てのアルバイトではありません」ということでした。ボランティアとしての誇りを持って、参加していたのだと思います。彼らには一枚の感謝状だけが残されました。

パラリンピック東京大会の車イスフェンシング競技(1964年)

パラリンピック東京大会の車イスフェンシング競技(1964年)

―― 試合を取材された競技はありましたでしょうか。

車いすフェンシングを取材しました。というのも、前年、インドネシアのジャカルタで行われたGANEFOの時に、私が取材をした選手、彼は学生だったのですが、その彼がコーチを務めていたんです。ですので、学生とパラリンピックとの心温まる交流ということで、記事を書きました。

―― さて、2020年東京オリンピック・パラリンピックまで、あと3年を切りました。今後、さらにオリンピック・パラリンピックに関する報道も増えていくと思いますが、記者の視点から日本のメディアに伝えたいこととは何でしょうか。

1964年の時もそうだったのですが、記事の内容は、あまり自国に偏り過ぎない方がいいのではないかと思います。メディアは常に真ん中に立って、日本人選手のことも、海外選手のことも、同じ目線で報道してほしい。もちろん、日本の応援記事もあっていいと思います。苦戦した中で勝利を挙げた日本人選手を称えるとかね。しかし、そればかりではなく、海外選手にも目を向けて、公平な目で見た記事を書いてほしいと思いますね。
  それと、もうひとつ。今、「オリンピック」を「五輪」と記載するメディアが非常に多いですよね。実は、私はあまり良いとは思っていないんです。そもそも、「五輪」という言葉は、1940年の幻となった東京オリンピックの開催が決定した際、読売新聞記者だった川本信正さんが「オリンピック」の略称として考案したもの。私も同じ記者として「妙案だ」と思っていました。実際、私が日刊スポーツのデスクをしていた頃は、日本新聞協会が「五輪」という言葉を推奨している節がありましたから、記者からあがってきた記事の「オリンピック」を「五輪」に訂正していたこともあったんです。しかし、後に往年のオリンピアンたちを取材する中で、「この方たちを略称である『五輪』という言葉で表現してはいけない」というふうに思ったんです。彼らは「オリンピック」を崇高していて、「オリンピアン」であることに誇りを持っているわけです。それをメディアの「文字数制限」という勝手な理由で、安易に略称で表現してはいけないなと。ですから、可能な限りでいいのですが、メディアの皆さんにはぜひ「オリンピック」という言葉を使ってほしいと思います。でないと、代表選手自身が「五輪」を口にするようになります。菅義偉官房長官と小池百合子東京都知事が全日本空手のプログラムに「五輪」を使っていたのは驚きでした。

宮澤正幸氏 インタビュー風景(2017年)

宮澤正幸氏 インタビュー風景(2017年)

―― 宮澤さんご自身、今も現役の記者としてご活躍されています。1964年と2020年、両方の「東京オリンピック・パラリンピック」を取材されますと、もしかしたらギネス記録になるのではないでしょうか?

実は、周囲からもそのことをよく言われるんです。「宮澤さん、あと3年頑張って、一緒に仕事をしましょう。そうしたら、ギネス入り間違いないですから、その時はぜひ記事を書かせてください」と、他社を含めて何人もの記者から、すでにインタビューの予約が殺到しています(笑)。

―― オリンピックは10月28日に、パラリンピックは11月29日に、それぞれ開幕まで「1000日前」という節目の日を迎えました。いよいよ近づいてきたな、という感じもするのですが、そうした中で、2度目の「東京オリンピック・パラリンピック」を成功させるために必要なことは何でしょうか?

自国開催のオリンピック・パラリンピックを盛り上げるには、やはり日本人選手の活躍が不可欠です。ですから、メダルを期待されている選手は、みんな獲得できるように努力してほしいと思います。

―― 2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けて、若い世代に期待することは何でしょうか。

当然ですが、若い人たちは、1964年の時代にあったオリンピック・パラリンピックを経験していないし、そもそも「知らない」という人も多いと思います。そういう若い人たちにとって、オリンピック・パラリンピックと言えば、夏季大会に関しては、これまでは常に海外で開催する大会で、それをテレビや新聞を通して見たり聞いたりしてきたわけです。ですから、オリンピック・パラリンピックを知ってはいるけれども、自国開催のオリンピック・パラリンピックがどういうものかということに関しては未経験。そういう中で、今から取り組んでほしいなと思うのは、海外から来た人たちへの接遇の仕方ですね。というのも、オリンピック・パラリンピックというのは、やはり開催国がどういうところなのか、ということも見られるわけです。来日した海外の選手、メディア、観客の目を通して、「日本はこういう国です」ということが、世界に発信されていく。ですから、接遇の仕方は非常に重要です。そして、いい接遇をするためには、まず語学が必要ですから、若い人たちには日常会話ができるくらいの英語を身に付けてもらいたいなと思います。スペイン語、ポルトガル語、インドネシア語も同じ。そうして、選手の活躍とともに、若い人たちの手で、東京オリンピック・パラリンピックを盛り上げていってほしいと思います。

  • 宮澤 正幸氏とオリンピック 年表
  • 世相
1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1930 宮澤 正幸氏、神奈川県に生まれる
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)
1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止
1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
  • 1948 宮澤 正幸氏、拓殖大学に入学。 レスリング部に所属し、国体、インカレにフライ級の選手として出場。
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1953 宮澤 正幸氏、東京新聞社入社
  • 1954 宮澤 正幸氏、日刊スポー ツ新聞社に入社。運動部記者として、主にレスリング、柔道、相撲、体操を担当
  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得 
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964 宮澤 正幸氏、東京オリンピック・パラリンピックを取材。
      柔道無差別級の決勝戦(神永昭夫対アントン・ヘーシンク)では、神永の家族とともに試合を観戦
  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)
1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  

  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1988 宮澤 正幸氏、ソウルオリンピック・パラリンピックを取材
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

  • 1992 宮澤 正幸氏、バルセロナオリンピック・パラリンピックを取材
1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1996 宮澤 正幸氏、アトランタオリンピック・パラリンピックを取材
  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位とな り、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催を決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)