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スポーツの変革に挑戦してきた人びと
第87回
原動力の根底にあるスポーツへの愛情

川淵 三郎

Jリーグの初代チェアマンとしてサッカーを人気スポーツへと押し上げた手腕で、分裂状態にあった日本バスケットボール界を正常化の道へと導いた川淵三郎氏。スポーツへの愛情は深く「自分にできることなら」と、日本スポーツ界の改革に大きく寄与されてきました。

2015年からは「日本トップリーグ連携機構」(ボールゲーム9競技12リーグのトップリーグが連携し、競技力の向上と運営の活性化などを目指して2005年に設立)の会長を務めるなど、現在も奔走する川淵氏に、日本スポーツ界が抱える課題とその解決策をうかがいました。

インタビュー/2019年8月9日  聞き手/佐野 慎輔  文/斉藤 寿子  写真/フォート・キシモト

無縁だったバスケットボール界からの救いを求める声

―― 「スポーツ歴史の検証」も今年で8年目を迎えました。川淵さんには7年前にインタビューさせていただきましたが、今回は初の2度目のご登場になります。それだけ川淵さんが日本スポーツ界に大きく貢献されてきた方だという何よりの証だと思います。

いやいや、そんなことはないけど、いずれにしても僕がはじめての2度目というのは、非常に光栄なことです。ありがとうございます。

―― 前回はJリーグをはじめサッカーを中心にお伺いいたしましたが、今回は日本スポーツ界全般についてお話をお伺いしたいと思っております。まずはバスケットボールのBリーグ(分裂していた二つの国内リーグを統合し、2015年に創設されたジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ)についてですが、当時混乱をきたしていた日本バスケットボール界に関わることになったきっかけは何だったのでしょうか。

小浜元孝氏(右)中川文一氏(味の素NTCにて、2010年)

小浜元孝氏(右)中川文一氏(味の素NTCにて、2010年)

はじめはプライベートな依頼でした。2014年4月に、元バスケットボール男子日本代表の監督(1979、1984~1989)である小浜元孝さんが僕のところへ来られて、「今、日本のバスケットボール界は二つのリーグに分裂していて、これを一つに統合しなければ、日本代表が国際大会に出場することができない。なんとか川淵さんの力で一つにまとめていただけないか」というお話がありました。僕は、バスケットボールとは無縁で、小浜さんともその時が初対面でした。

それでもせっかく僕の所に来てくださったわけだから、なんとか力になれないかと思い、それからいろいろと日本のバスケットボール界について調べたんです。そうしたところ、日本バスケットボール協会(JBA)が設立しプロとアマチュアが混成した「日本バスケットボールリーグ(NBL)」と、完全なるプロ化を実現させようとJBAから独立して設立した「bjリーグ」という二つのリーグがあって仲違いしていると。そして、「一国一リーグが望ましい」とするFIBA(国際バスケットボール連盟)からは二つのリーグを10月までに統合しなければ、男女ともに日本代表に国際大会への出場資格停止処分が下されることになっていました。 。

そこで二つのリーグのトップの方を紹介していただき、会合を持つことにしました。bjリーグのリーグアドバイザーは、Jリーグのアルビレックス新潟の取締役会長を務めていた池田弘さんでしたから、よく知る間柄でした。その池田さんと当時、bjリーグのコミッショナーを務めていた河内敏光さん(現横浜ビー・コルセアーズGM)、そして当時JBAの会長を務めていた深津泰彦さんと私の4人で話し合うことにしました。

アジア競技大会女子日本代表候補(2014年)

アジア競技大会女子日本代表候補(2014年)

「なんとか分裂している状態を一つにまとめられないだろうか」という話を約3カ月の間に4度にわたって行い、最後の4回目の時には一つに統合するための方向性が決定しました。そこで各リーグにそれぞれその旨を説明してもらったんです。そうしたところ、bjリーグの一部のクラブチームからは「なぜ日本代表の強化のためにリーグを一つにしなければならないのか。そもそもbjリーグの選手は日本代表にさえなれないのだから、そんなこと自分たちには関係ない」という話が出てきたそうなんです。

一方のJBAの方もなかなか話がまとまらなかったようで、結局まったく解決の糸口も見いだすことができないまま、10月にFIBAから国際大会への出場資格停止処分が下されてしまったわけです。あの時、僕の努力が水泡に帰した気がしました。選手やバスケットボールの発展を考えていない関係者に怒り心頭の状態でした。というのも、男子日本代表だけでなく、NBLとbjリーグの分裂問題に何の関係もない女子日本代表までが国際大会出場資格停止処分を食らってしまったわけです。当時から女子日本代表はアジアのトップに君臨するような強豪でした。2年後に迫っていたリオデジャネイロオリンピックの予選を突破できる可能性が非常に高かったにもかかわらず、それさえも叶わなくなると。そういうことも考えていない日本バスケットボール界に怒りがおさまりませんでした。

川淵 三郎氏(インタビュー風景)

川淵 三郎氏(インタビュー風景)

しかしその後、FIBAのパトリック・バウマン事務総長(当時)が来日し、彼と会うことになりました。僕が水面下でNBLとbjリーグの間に入って、どうにかして統合させようと奮闘している、ということを耳にして、「ぜひ、お会いしたい」と言ってきてくれたんです。すぐに会って、いろいろ話したところ、バウマン事務総長から「FIBAが日本のリーグが一つに統合できるようにタスクフォースを作るので、そのチェアマンになってもらえないだろうか」という要請を受けました。僕も「自分しかその役割ができるのはいない」と思い、二つ返事で引き受けました。

―― Jリーグのご経験はあっても、バスケットボール界とはそれまでまったく縁がなかったなかで、そこに飛び込むのに、不安はありませんでしたか?

FIBAが後ろ盾になってくれていることが大きかったですね。さらに文部科学省やスポーツ庁、JOC(日本オリンピック委員会)も僕を応援してくれていましたから、ある意味、強硬に進めていくことができるという自信がありました。

―― 実際には、どのようにして進めていったのでしょうか?

NBLとbjリーグを一つにまとめた新しいプロリーグ の設立が必要でした。プロリーグとして成功させるためには、まずは観客動員を確保しなければなりません。そのためにはホームアリーナを固定させること。つまり、各クラブチームがシーズン中、全試合の80%の使用率を持つホームアリーナを持ち、集客すると。そのことを第一回の代表者会議で話しました。しかし、「何をバスケットの素人が言っているんだ。そんなことできるわけがないだろう」というような反応でした。

JBL2009-2010シーズンを制した栃木ブレックス(現宇都宮ブレックス)の田臥雄太(2010年)

JBL2009-2010シーズンを制した栃木ブレックス(現宇都宮ブレックス)の田臥雄太(2010年)

―― ある意味まったくのアウエーの中で、日本バスケットボール界を変えていかなければなりませんでした。相当の覚悟が必要だったのではないでしょうか?

確かに覚悟は必要でした。ただ、日本バスケットボール界は10年以上もリーグが分裂している状態であったわけですから、よほどのきっかけがない限り統合はできないだろうと思ました。そうならば、バスケットボールの知識がというよりは、ガバナンスを築ける者、そのための方向性を見出せる者でなければ無理だろうと。このミッションを進めていくのに、バスケットボールの知識は必要ないと思ったので、最初の代表者会議ではこう宣言しました。

「皆さん、バスケットボールのことを何も知らない素人が何をしようとしているんだ、と思っているでしょう。あるいは、バスケットボールのことをよくご存じの皆さんに意見を聞いて、それをまとめてやるんだろう、なんて思っているかもしれませんが、僕はそんなことはしません。なぜなら、あなた方はこの10年間、何の解決策も見いだせなかったわけですからね。ですから、僕はJリーグを創設して成功裏に導いてきた経験で得たもの中から『これがバスケットボールの仕組みには適格だろう』ということを自分なりに考えて実行していきます」と。

その具体策として、5000人以上収容可能なホームアリーナを持つということを提示したわけですが、不可能と思われることは想定の範囲内でした。ですから「皆さん、そんなことできるがわけないだろう、と思っているでしょう?ではお伺いしますが、皆さんはどこにアリーナの使用の許可について話を持っていっていますか?おそらくその施設の責任者でしょう。各自治体の市長のところに行きなさい。『自分たちは地元のクラブチームとして地域貢献していきたいと思っているので、ぜひこのアリーナをシーズン全試合の80%の試合ができるように貸していただけないか』とお願いをするんです。自治体だっていかに地域を発展させていくかを考えているのだから、なぜ地域がスポーツのクラブチームを応援するのか、その大義名分をしっかりと提示することが必要なんです。地域とクラブチームがウィンウィンの関係性を築くことができるとわかれば、アリーナの使用にも理解を示してくれるはずですから、ぜひやってみてください」と話しました。約一カ月後に開催した第二回目の代表者会議では、その時点で既に10以上の自治体がアリーナを用意すると言っていた。それでようやく「川淵の言うことを聞けば、間違いない」というような雰囲気に変わっていったんです。

「日本スポーツ界のために」の思いで奔走

Bリーグ開幕戦で挨拶するJBA川淵会長(2012年)

Bリーグ開幕戦で挨拶するJBA川淵会長(2012年)

―― 実際、川淵さんでなければ、日本バスケットボール界が一つにまとまることはなかったと思います。「自分ならできる」という川淵さんの信念のようなものを感じました。

やはりJリーグの経験は大きかった。プロ化を成功に導くためには何が必要か、それがはっきりとわかっていたんです。プロスポーツで最も大事なのは「観客動員」と、そのための「ホームタウン」。バスケットボールで言えば「ホームアリーナ」ですね。この二つが絶対条件で、いかに確保することができるかなんです。

もう一つは、バウマン事務総長と強固な信頼関係を築くことができ、僕の考えにFIBAが理解を示してくれていたことも自信を持ってやれた要因でした。日本バスケットボール界を動かすために何より大きかったと思います。統合化を進めていく途中で、あるテレビ局のインタビューで「日本はリオデジャネイロオリンピックの予選に出場することができるでしょうか?」と聞かれたことがありました。その時も「絶対に大丈夫です」と断言するほど大きな自信がありました。

―― 川淵さんは、それまでまったく縁のなかったバスケットボール界の、いわゆる"火中の栗を拾う"ようなことをされたのは、どのような思いからだったのでしょうか。

最初に個人的に僕に助けを求めてこられた小浜さんの話を聞いて、「面識のない僕に直に頼み込んでくるというのは、よっぽどのことなんだろう。こんなふうにお願いをしてきてもらえるなんて、光栄なことだ。ならば自分にできることはやろう」と思いました。実際に動いていく中で「これはある意味、恨まれてでも強硬に進めていく人物がいなければ変わらないだろう。それは自分しかいない」と。そういう思いがありましたね。

Bリーグ初代チャンピオンに輝いた栃木ブレックス(現宇都宮ブレックス、2017年)

Bリーグ初代チャンピオンに輝いた栃木ブレックス(現宇都宮ブレックス、2017年)

―― スポーツに愛情を持っていらっしゃる川淵さんだからこそなせたことではないでしょうか。

それはあると思います。正直に言えば、日本バスケットボール界を再建させたからって、何か自分に得があったかというと、決してそうではなかったですからね。逆に「何を素人が」と攻撃されるだけでしたから。それでも、やっぱり「日本スポーツ界のために」という思いが一番にありました。「日本バスケットボール界のために、選手のために、自分ができるベストを尽くそう」と、その思いだけでした。

―― 川淵さんの多大なるご尽力のもと、2015年にBリーグが発足。翌2016年に開幕しました。これが日本バスケットボール界の"夜明け"となり、現在の日本代表の活躍にもつながっています。

今のバスケットボール日本代表の活躍は目覚ましいものがありますね。もともと女子日本代表は強く、2016年リオデジャネイロオリンピックでは20年ぶりにベスト8進出を果たしました。来年の東京オリンピックではメダル獲得が期待されています。一方、男子日本代表は長らく低迷が続き、1976年モントリオールオリンピックを最後にオリンピックの舞台からは姿を消していました。

八村塁(上)・馬場雄太(2019年)

八村塁(上)・馬場雄太(2019年)

しかし、今年は21年ぶりにワールドカップの予選を突破し、本戦に出場しました。これが「一定の国際競争力が必要」という考えを示していたFIBAに高く評価され、男女ともに2020年東京オリンピックへの開催国枠を獲得することができました。オリンピックで日本の男女がそろって出場するのは、モントリオールオリンピック以来、実に44年ぶりのこと。日本バスケットボール界にとっては、まさに悲願だった。

奇しくも八村塁(ペナン人の父親と日本人の母親との間に生まれた富山県出身のバスケットボール選手。高校卒業後、ゴンザガ大学で活躍。今年6月のNBA<ナショナル・バスケットボール・アソシエーション>ドラフトでワシントン・ウィザーズから9巡目に指名を受け、日本人3人目のNBAプレーヤーとなる)や、渡邊雄太(香川県出身のバスケットボール選手。高校卒業後、ジョージ・ワシントン大学で活躍。昨年、ブルックリン・ネッツで日本人2人目のNBAプレーヤーとなる)が登場したことも、日本バスケ界にとっては大きいですね。

―― Bリーグ出身の馬場雄大(富山県出身のバスケットボール選手。大学卒業後、Bリーグでプレー。今年10月にBリーグ出身者として初めてNBA契約選手となる)がワールドカップで活躍をして、NBAに挑戦していることも日本バスケ界にとっては大きいのではないでしょうか。

Bリーグというしっかりとした基盤を築いた中で、ソフト面にも優秀な選手が登場してきて、日本バスケ界を発展させていくための必要条件がそろってきたと感じますね。非常に良いサイクルになっていると思います。

Bリーグ開幕戦で挨拶する大河チェアマン(2012年)

Bリーグ開幕戦で挨拶する大河チェアマン(2012年)

―― 2016年に川淵さんはJBAの会長からエグゼクティブアドバイザーに就任。
会長には、元全日本女子バレーボール選手でJリーグ理事でもある三屋裕子さんを後任に抜擢されました。三屋さんを後任としたのは、どのような理由からだったのでしょうか。

リーグを統合してBリーグを創設する際に、FIBAからは25人以上もいた理事を全員解任し、一から組織を作りなさい、という条件が提示されていました。それを押し進めていくためには優秀なスタッフが必要でした。

そこで私がJBAの会長に就任する際、信頼のおける優秀な人材をスタッフに置きたいと思い、バスケットボールに精通した人にも10人以上会ったのですが、なかなか適任者が見つからなかったんです。

ちょうどその時に当時Jリーグの常務理事を務めていた大河正明氏が疲労困憊している僕を見かねて「何かお手伝いできることがあればしますよ」と言ってきてくれました。これは願ってもない話でしたので、すぐにJリーグの村井満チェアマンに「大河をバスケによこしてくれないか」と依頼し、彼に専務理事になってもらったんです。

また、実はその前段では文科省から「境田正樹弁護士は、非常に優秀な方ですので、いかがでしょうか」という連絡をいただいていましたので「ぜひ、お願いします」ということで、境田先生に監事になってもらいました。早い段階で境田先生が僕の片腕としてきて、その後、Jリーグから大河が助けに来てくれたことは本当に幸運でした。

日本バスケットボール協会三屋裕子新会長(右)就任記者会見(2016年)

日本バスケットボール協会三屋裕子新会長(右)就任記者会見(2016年)
 ©日本バスケットボール協会

二人の協力の下、ガバナンスを築いていったわけですが、次に副会長を誰にしようかとなった時に、適任者だと思ったのは日本スポーツ界に精通され、当時笹川スポーツ財団理事長を務めていた小野清子さん(体操日本代表として1960年ローマ、1964年東京と2大会連続でオリンピックに出場し、東京オリンピックでは団体で銅メダルを獲得。現役引退後は参議院議員として国務大臣や内閣府特命担当大臣を歴任。日本スポーツ振興センター理事長など務めた)。

そして、もう一人の副会長には古くから親交があり、信頼の置ける三屋裕子さん(元全日本女子バレーボール選手。1984年ロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得。現役引退後はバレーボール教室や講演、テレビ、ラジオなどにも出演。2004年には下着メーカー・シャルレの代表取締役社長を務めるなど幅広い分野で活躍)にお願いをしました。

三屋さんはいくつか企業の役員を務めた経験を持ち、経営者の視点も兼ね備えています。これからの時代は、そういうビジネス感覚を持った方が組織のトップに立つべきで、三屋さんはまさに適任だろうということで、僕の後任として2016年には会長になってもらいました。

JTL会長就任にこめられた"繰り返してはいけない過去"への思い

JTL川淵新会長のあいさつ(2015年)

JTL川淵新会長のあいさつ(2015年)  ©日本トップリーグ連携機構

―― 日本バスケットボール界をまとめられ、2015年には「日本トップリーグ連携機構」(JTL)の会長にも就任されました。

そもそもの話として、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長の森喜朗さん(元首相で日本ラグビー協会名誉会長)と、副総理兼財務大臣の麻生太郎さんとの話の中で、日本のボールゲームが世界で活躍できない現状では2020年東京オリンピックは盛り上がりに欠けてしまうと。日本の団体球技を強化するためには、各リーグの強化が必要だ、ということで、JTLが創設されました。実は設立当初、僕はJTLの副会長を頼まれたのですがその話は引き受けず、Jリーグも参加させなかったんです。というのも、当時のJTLは縦割りの組織構造で、各競技団体同士での連携がうまくいっていなかったので、それでは何の意味もなさないだろうと。

しかし、森さんと麻生さんのお力添えで、徐々に連携も生まれてくるようになってきました。その一方で、各競技団体のガバナンスに対して誰も口出しできないというところもありました。僕にすれば、JOCにも問題があると思っていたんです。強化費は出すけれども、各競技団体がどういうふうに運営しているか、ガバナンスの部分をまったく精査もしなければ干渉もしない。そういうことが日本スポーツ界にとってマイナスになっていました。

クラマーコーチとサッカー日本代表(東京オリンピック選手村、1964年)

クラマーコーチとサッカー日本代表(東京オリンピック選手村、1964年)

そういう中で、JTL初代会長を務めた森さんが2014年に2020東京大会組織委員会会長に就任して多忙を極められるようになり、後任の話をいただきました。

なぜ会長就任を引き受けたかと言うと、繰り返してはいけない過去があったからです。僕は現役時代、日本代表として1964年東京オリンピックに出場しました。僕たちは後に「日本サッカーの父」と呼ばれたドイツ人コーチのデットマール・クラマーの指導の下、4年をかけて強化を図り、東京オリンピックで強豪アルゼンチンを破るという快挙を成し遂げてベスト8進出を果たしました。日本は次の1968年メキシコオリンピックで銅メダルを獲得しましたが、これは東京オリンピックの遺産があったから。実際、出場メンバーは東京オリンピックとほぼ同じでした。結局、日本サッカー界は東京オリンピック以降、選手の育成・強化をまったく行ってはいなかったんです。そのためにサッカー日本代表はメキシコオリンピック以降、28年間、オリンピックに出場することができないという事態に陥りました。

2020年東京オリンピックでは、同じ轍を踏んではならないと思ったんです。今は東京オリンピックのために強化費がつぎ込まれているわけですが、東京オリンピックのことだけではなく、それ以降も成長し続けられるように、今のうちに土台を築いていく必要がある。そういう組織をつくっていかなければならないと思ってJTLの会長就任のお話を引き受けました。日本スポーツ界が少しでも良くなるのであれば、文句を言われて嫌な思いをしてでも、僕は遠慮なく口出ししていくつもりです。

―― 日本スポーツ界には厳しいことを言わないという風潮があります。しかし、組織を育てていくためには、嫌われてでも言うべきことは言い、川淵さんが重要視されているガバナンスを大事にしていかなければならないと思います。

日本スポーツ界は、そのことがわかっていない人が多いような気がしますね。各競技の普及促進、発展、代表の強化という点において、どこの競技団体も短期、中期、長期と計画を立てていると思います。しかし、それが経営的視点にのっとって実行に移せているのかどうか。最も大きい課題は、人材の確保。優秀な人材がいて初めて運営に対する企画立案ができるわけです。しかし、優秀な人材を確保するには、やはり資金も必要です。ところが現在、競技団体は資金難というところが少なくありません。だから優秀な人材が集まらず、ガバナンスが成り立たないという負のスパイラルに陥っています。この負のスパイラルから抜け出すには、その競技のことに精通しているかどうかというよりも、スポーツビジネスとしてその競技をどう捉えていくのかという視点を持った人材が必要です。これなくしては競技の普及・発展はありません。ビジネス感覚を持った人が組織のトップに立って運営していくだけで、日本スポーツ界は良い方向へと変わっていくはずです。

J1ヴィッセル神戸でプレーするイニエスタ選手(2018年)

J1ヴィッセル神戸でプレーするイニエスタ選手(2018年)

―― そうしたことを先行して行ってきたのが、Jリーグではないでしょうか。

はい、そうです。しかし、一方でJリーグのクラブを見ると、これまでは出資企業の役員がトップに就くことが多く、本当にスポーツをビジネスとしてとらえられている人はほとんどいませんでした。そんな中で三木谷浩史さん(楽天会長兼社長)がヴィッセル神戸の会長に就き、元スペイン代表のアンドレス・イニエスタを引き抜いたり、世界最強クラブの一つバルセロナ(スペイン)と連携を図るなど手腕を発揮しています。

さらに大手通販販売会社「ジャパネットたかた」の創業者である高田明さんが代表取締役社長に就任した(2019年11月3日、2020年1月1日で退任することを発表)V・ファーレン長崎では、「長崎スタジアムシティプロジェクト」が動き始めていて、2023年の開業を目指しています。これは商業施設やオフィスなどを併設し、「試合のない日にも人が集まる次世代スタジアム」をつくり、そのスタジアムを中心にして広がるスポーツ・地域創生事業で、非常に注目されています。Jリーグのクラブにも、そういうビジネス感覚に優れたトップが出てきましたので、「これから日本のサッカー界は変わっていくな」と非常に大きな期待を寄せているんです。

―― 今後、スポーツビジネスの感覚を持った優れた人材を育成するためには、どのようなことが必要でしょうか。

アメリカには学部として「スポーツビジネス」を設置している大学があります。しかし、日本にはほとんどありません。 早稲田大学に「スポーツ科学部」がありますが、スポーツビジネスを専門とする学部ではありませんので、やはりアメリカの大学とは規模が違います。ぜひ日本の大学にも「スポーツビジネス学部」を創設してもらって、そこを卒業した若い人たちを優秀な人材として各競技団体が採用していくような"人材供給の場"をつくるべきだと思います。

川淵 三郎氏(インタビュー風景)

川淵 三郎氏(インタビュー風景)

―― 日本スポーツ界全体の課題についてはいかがでしょうか?

非常にたくさんあると思いますが、一つは子どもたちのスポーツ環境です。かねがね僕が提言してきたのは、アメリカのようなシーズン制の導入。春から夏にかけてはベースボールをやって、秋から冬にかけてはバスケットボールをやるといったような、1年に複数のスポーツを経験する環境があり、有望なこどもはその中から選び抜いた道でプロを目指すことが必要だと思います。ただ、そのためにも指導者の育成が第一に不可欠です。日本人には頭ごなしに叱ることを良しとする指導者があまりにも多い。

まずは、子どもたちがスポーツを好きになること。これなくして日本スポーツ界の発展はないわけですから、スポーツ好きの子どもたちを増やしていくために指導者を養成していかなければなりません。トップアスリートの育成ばかりに躍起になっていては日本スポーツ界は衰退していきます。スポーツは「する」人、「見る」人、「支える」人がいて成り立つわけですが、トップアスリートは「する」人のごく一部でしかないわけです。そういう視点におけるスポーツ政策こそ、スポーツ庁の役割だと思います。

ウィルチェアラグビー(リオデジャネイロパラリンピック、2016年)

ウィルチェアラグビー(リオデジャネイロパラリンピック、2016年)

―― 来年には2回目の東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。特にパラリンピックが成功してこそ、ということが言われていますが、パラ教育に関してはどのように考えられていますか?

障がい者だけでなく、健常者も楽しめるゆるスポーツ競技(年齢や性別、運動神経や運動経験、障害の有無にかかわらず、誰もが楽しめるように考え出されたスポーツ)は、これからどんどん愛好者が増えていくと思いますね。ただ、日本スポーツ界の問題の一つは、スポーツが心から好きで、生活の一部にとり入れていくような文化がまだ醸成されていない。

東京オリンピック・パラリンピックを見て、「自分もやってみたい」と思う人は多いと思うんです。そうした時に、実際にやれる場をどういうふうに提供していくかが大切で、それこそが普及促進に大きく結びついていくと思います。特にパラリンピック競技においては、これまでは車いすバスケットボールや車いすラグビーなどでは使用禁止 とする体育館も少なくありませんでした。都内のある体育館で調査したところ、車いす競技で、体育館に大きなダメージを及ぼすようなことはないんです。そういう事実をもっと広め、パラリンピック競技にもスポーツ施設はオープンにすることが常識化されるような働きかけをしていかなければなりません。東京オリンピック・パラリンピックを見て「面白かったね」で終わらせずに、その後の普及促進に結びつけるという意識を各競技団体の関係者が持つことが重要です。

JTLのイベント「ボールで遊ぼう」(2019年)

JTLのイベント「ボールで遊ぼう」(2019年)
©日本トップリーグ連携機構

―― 最後に、未来の日本スポーツ界に託したい思いを教えてください。

自宅を一歩出たら、誰でもしたい時に気軽に集まってスポーツが楽しめるような場が増えていくといいなと思います。理想は、たくさんの高層マンションが立ち並んでいるところに、スポーツの競技施設がいくつもあって、週末にはさまざまなスポーツのリーグ戦を部屋の窓から楽しめるような、それくらい街にスポーツがあふれるようになるといいなと。

すべての人にとって日常生活の中にスポーツがあって、気軽に、心の底から楽しめるような日本の社会になってくれると嬉しいですね。

  • 川淵 三郎氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

  • 1936 川淵三郎氏、大阪に生まれる
1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

  • 1961 川淵三郎氏、古河電工に入社
1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964 川淵三郎氏、東京オリンピックに出場
  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)
1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長 に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  

  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1980 川淵三郎氏、ロサンゼルスオリンピック 日本代表監督に就任
  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1988 川淵三郎氏、JFA理事に就任
  • 1991 川淵三郎氏、Jリーグ初代チェアマンに就任
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

  • 1993 川淵三郎氏、Jリーグが開幕し、国立競技場にて開幕戦で開幕宣言を行う
1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2002 川淵三郎氏、JFA第10代会長に就任
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2006 川淵三郎氏、FIFA功労賞を受賞
2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008 川淵三郎氏、JFA名誉会長に就任。日本サッカー殿堂入り
  • 2008リーマンショックが起こる
  • 2009 川淵三郎氏、旭日重光章を受章
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

  • 2012 川淵三郎氏、JFA最高顧問に就任
  • 2013 川淵三郎氏、東京都教育委員に就任
      川淵三郎氏、首都大学理事長に就任
2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2015 川淵三郎氏、ジャパン・プロフェッショナル・バスケットリーグ理事長に就任
      川淵三郎氏、日本バスケットボール協会会長に就任
      川淵三郎氏、日本トップリーグ連携機構会長に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2019 川淵三郎氏、大学スポーツ協会顧問に就任