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おうちチャレンジデー
スポーツ界と新型コロナウイルス感染症
第93回
コロナ禍における日本スポーツ界が進むべき道

泉 正文

日本水泳連盟、日本体育協会(現・日本スポーツ協会)、日本オリンピック委員会などで長きにわたって要職につき、日本スポーツ界を支えてこられた泉正文氏。

現在も日本スポーツ協会副会長兼専務理事、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事などを務め、日本スポーツ界発展のために奔走されています。泉氏のスポーツとの出会いから、コロナ禍における今後のスポーツ界の展望など、多岐にわたって伺いました。

聞き手/佐野慎輔  文/斉藤寿子  写真/フォート・キシモト  取材日/2020年8月20日

スポーツで培われた"限界を超える力"

―― 新型コロナウイルス感染拡大は、全世界に大きな影響を与えています。泉さんご自身は何か変化はありましたでしょうか。

"変わった"というよりも"変えざるを得ない"という感じですね。特に、人間は体を動かすことがいかに大切かを痛感しているところです。これまで平日は毎日通勤していて、6000~7000歩は歩いていました。でも、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、一時はそれがピタッとなくなってしまいました。しかも自宅にいると、3食の食事を欠かさず、あまり動かないから、体の調子が少しおかしくなってきたんです。肩が回らなくなったりして、異変が出てきました。それでこのままではいけないと、毎朝、体温、血圧、体重を測るようになりました。こんなに真面目に自分自身の健康チェックを続けたのは初めてです。もう4、5カ月になりますが、これだけやっていると習慣になり、今は逆にやらないと一日が始まらないくらいです。



幼少期、スキーに親しむ

幼少期、スキーに親しむ

―― それだけご自身の体に関心が強いというのも、泉さんがスポーツに関わってこられてきた賜物だと思います。そもそも泉さんがスポーツと関わるようになったのは、いつ頃だったのでしょうか。

私は北海道(上川郡美瑛びえい町)出身ということもあり、子どもの頃は冬になるとスキーやスケートを盛んにやっていて、自然とスポーツが身近な存在でした。
本当は中学校では器械体操をやりたかったのですが、実はその頃すでに右腕を2度骨折していて、腕を真っすぐ伸ばすことができなかったんです。顧問の先生から「残念だけど、この腕じゃ体操は無理だ」と言われてしまいました。それで柔道部に入りました。とは言っても、かじった程度で、本格的ではありませんでした。
高校では柔道部出身ということで、レスリング部に誘われて入部しました。レスリングには熱中しましたね。私のスポーツの原点というのは、この高校時代のレスリングにあると言っても過言ではありません。たくさんの合宿を経験して自分自身の心身の限界を超えるという体験をし、「自分が限界と思っていた壁は、意外にも超えられるものなんだ」ということを学んだんです。



―― 長く日本水泳連盟の役員をされてきたし、体型ががっちりされているので、何かスポーツをされていたのかなということは予測していましたが、レスリングというのは意外でした。

私は長く水泳界の仕事に従事してきましたので、レスリング出身と言うと、みなさん驚かれますね。水泳部出身と思われている方も少なくないので、「種目は何でしたか?」と聞かれた時には「フリースタイルです」と答えるようにしているんです(笑)。



早大時代、体育祭にて(旧国立競技場)

早大時代、体育祭にて(旧国立競技場)

―― なるほど。水泳のフリースタイル(自由形)と、レスリングのフリースタイル(全身を使った攻防が可能。一方の「グレコローマンスタイル」は上半身に限られた攻防)ですか!(笑)。

はい、そうなんです。でも、レスリング部だったのは1年生の時だけでした。家庭の事情で2年生の時に札幌市に転居しまして、高校も転校したんです。ところが、転校先の高校にはレスリング部がありませんでした。それでもどうしても諦めきれなくて、自分でレスリングの同好会を作って活動していました。前の高校みたいに本格的な練習はできませんでしたが、それでも部員も5、6人集まってくれて、みんな一生懸命に練習してくれました。
大学に入ってからもレスリングがやりたくて、進学した早稲田大学のレスリング部の体験入部に参加しました。でも、当時の大学のレスリング部はどこも強くて、早大レスリング部もかなりレベルが高かったんです。3日間体験してみて、「これは私には無理だ」とわかり、入部することは諦めました。

―― レスリングの代わりに、何かほかのスポーツはされたんですか?

その後、長い間、スポーツとは無縁の状態になってしまいましたね。というのも、時代的にもちょうど学生運動が激しさを増していた頃で、大学に行くことさえもなかなかできなかったんです。それで仕方なくアルバイト三昧の生活をしていました。無事に大学を卒業し、保険会社に入社しまして、12年間、自分なりに頑張りました。「諦めずに、体力的にも精神的にも限界に挑戦する」というレスリングで養われたことが生かされていたと思います。真剣にやったのはわずか1年間でしたが、それでもその後の私の人生にとってその1年間は非常に大きなものでした。

大学の友人の誘いをきっかけにできた水泳との縁

ハワイにて、丸笹、大塚ご夫妻と(左から大塚氏、丸笹夫妻、大塚夫人、泉夫妻)

ハワイにて、丸笹、大塚ご夫妻と
(左から、大塚氏、丸笹夫妻、大塚夫人、泉夫妻)

―― 35歳の時に保険会社からスイミングスクールの運営・管理会社に転職されました。まったくの畑違いの職種ですが、これは何がきっかけだったのでしょうか。

大学の同級生(大塚勇さん、現スウィン埼玉スイミングスクール会長)から「埼玉県に新しいスイミングスクールを作るから、手伝ってくれないか?」と声がかかりました。それでも私は保険会社の仕事で一生懸命でしたから、2、3年、断り続けていました。そんなある日、その同級生が「今度の日曜日、水泳の大会があるから見に来ないか?」と言うものですから、見学に行ったんです。それが運の尽きでした(笑)。大会の後、一緒に食事をしまして、私が「水泳もなかなか面白いもんだなぁ」と言ったら、いつの間にか転職せざるを得ない状況になりまして……。もう仕方ないので、「これも縁なのかな」と思って、転職することにしたんです。その後に、当時の北関東イトマングループの丸笹治彦代表や現イトマン名誉会長の奥田精一郎さんなど、日本水泳界の重鎮に大変お世話になりました。

―― 突然、それまで縁もゆかりもなかった水泳界に飛び込まれたわけですが、実際にはどんなお仕事をご担当されたのでしょうか。

私はスクール運営の傍ら開発担当として、新店舗の開拓をしました。市場調査に基づき土地を探して、地主さんを説得、リースバック方式で延べ18か所ほどのスイミングスクールを作りました。



ミュンヘンオリンピック競泳女子100mバタフライで金メダルを獲得した青木まゆみ(1972年)

ミュンヘンオリンピック競泳女子100mバタフライで金メダルを獲得した青木まゆみ(1972年)

―― その頃はちょうどバブル全盛期の1980年代後半で、日本の経済が右肩上がりの時代だったことも大きかったと思いますが、スイミングスクールの数がどんどん増えていきました。日本水泳界の底辺が広がっていった重要な時期だったのではないでしょうか。

そうですね。子どもたちの水泳の拠点が、学校からスイミングスクールへとどんどん移り変わっていった頃でした。その引き金となったのが、メダルなしに終わった1964年東京オリンピックでの日本水泳陣の惨敗という結果にありました。4年後の1968年メキシコシティオリンピック(メキシコ)でも日本の水泳陣は誰一人メダルを取ることができなかったんです。

そこで「どうすれば、日本の水泳が強くなるのか?」ということが問われた時に、強豪選手を輩出し続けているアメリカと同じようにスイミングスクールが必要なのではないかという声があがったんです。それでスイミングスクールがつくられるようになり、1972年ミュンヘンオリンピック(ドイツ)ではスイミングスクール出身の青木まゆみさんが金メダル(女子100mバタフライ)を獲得。そこでスイミングスクールの必要性がさらに高まったのでしょう。その後、一気に全国に拡大していきました。



ソウルオリンピック競泳男子100m背泳で金メダルを獲得した鈴木大地(セントラルスポーツ所属/当時)(1988年)

ソウルオリンピック競泳男子100m背泳で金メダルを獲得した鈴木大地(セントラルスポーツ所属/当時)(1988年)

―― 田畑政治さん(新聞記者。1932年ロサンゼルスオリンピック<アメリカ>では 競泳日本代表監督を務め、1964年東京オリンピックの招致活動にも尽力した。同大会での惨敗を受け、1968年にはオリンピックサイズの50mプールを屋内に備えた東京スイミングセンター(東京都豊島区)の設立にも深く関わった。日本水泳連盟会長、日本オリンピック委員会委員長などを歴任)、山田輝郎さん(製薬会社のロート製薬社長時代の1965年に山田スイミングクラブを創設。1972年ミュンヘンオリンピックの金メダリスト青木まゆみを輩出した)、後藤忠治さん(1964年東京オリンピックの競泳4×100mリレーで4位入賞。1970年にセントラルスポーツクラブを創業。現同社代表取締役会長)などが、スイミングスクールの事業を拡大し、現在の日本水泳界の礎を築かれました。これまでスイミングスクールからは、数多くのオリンピックメダリストが輩出されてきたことを考えても、非常に大きな功績だったと思います。

今では、中学校、高校のクラブ活動で水泳部に力を入れているというのは全国でも一部の伝統校だけで、水泳といえば、子どもの頃からスイミングスクールに通うというのが通例となっています。

―― 3、4歳の頃から自分の子どもをスイミングスクールに通わせるという家庭も少なくありません。それほど日本人にとって、スイミングスクールは身近な存在となっています。

スイミングスクールの普及が基盤となって、今では小学生の大半は25mを泳げる状況になっており、水難事故の減少に貢献しています。これだけ泳げる人の割合が高いのは、世界でも日本が随一だと思います。というお話の中、恥ずかしながら実は私は泳げないんです(笑)。それこそバタフライなんてとんでもない話で、平泳ぎもなぜかどんどん沈んでいってしまいます。ですから、水泳関係者の皆さんの前では、プールに入ったことがありません(笑)。



菅原平さんの卒寿を祝う会(菅原平氏/左から2人目、泉氏/右から2人目)(2014年)

菅原平さんの卒寿を祝う会(菅原平氏/左から2人目、泉氏/右から2人目)(2014年)

―― 日本水泳連盟の副会長、専務理事を歴任された泉さんが水泳部の出身でもなければ、泳ぎを苦手とされているとは、二重の驚きです。なぜ、日本水泳連盟の役員を務められるようになったのでしょうか。

友人の誘いで転職した先が、スイミングスクールの大手の一つイトマングループの傘下にあったということが大きかったですね。実は当時のイトマングループには水泳競技で活躍した優秀な先輩たちがたくさんいました。その中のお一人で、1968年メキシコシティオリンピックで水球日本代表チームの監督を務めた菅原平さんが、私に「連盟の仕事を手伝ってみないか」と声をかけてくれたのがきっかけでした。最初は「月に1回程度でいいから」ということでしたので、「それくらいなら」とお引き受けしたんです。当時は指導者養成を担当していたのですが、月に1回が週に1回となり、いつのまにか毎日日本水泳連盟事務局に通うようになりまして、今に至るという感じですね。

―― 水泳部出身ではない泉さんが、指導者養成を担当するというのは、大変なご苦労もあったのではないかと想像します。水泳関係者から「なんで素人が担当なんだ」みたいなことを言われるなど、軋轢あつれきもあったのではないでしょうか。

浜松国際プール開所式(古橋廣之進氏/右から4人目、佐野和夫氏/左から4人目、青木剛氏/左から3人目、泉氏/左から2人目)(2009年)

浜松国際プール開所式(古橋廣之進氏/右から4人目、佐野和夫氏/左から4人目、青木剛氏/左から3人目、泉氏/左から2人目)(2009年)

ありがたいことに、そういう軋轢みたいなものを感じたことは一度もありませんでした。というのも、当時から日本水泳連盟には水泳部出身者ではない人も受け入れるような懐の深さがありました。
私が連盟の仕事をさせていただくようになった頃は、会長は古橋廣之進さん(戦後の日本水泳界を牽引したスイマー。日本大学出身。自由形で全盛期の1948年ロンドンオリンピック<イギリス>には敗戦国の日本は出場することができなかったが、オリンピック決勝と同じタイミングで行われた日本選手権では400m自由形、1500m自由形で当時の世界記録を上回った。何度も世界記録を更新し、"フジヤマのトビウオ"と呼ばれた)が会長を務められていたのですが、古橋さんの後は、林利博さん(日本大学出身。競泳のスターターとして活躍。2003~2008年の間、日本水泳連盟会長を務めた)、佐野和夫さん(慶應義塾大学出身。大学時代、工学部体育会に水泳部「銀泳会」を設立。2008年北京オリンピック<中国>では日本水泳選手団団長を務める)、鈴木大地さん(1988年ソウルオリンピック<韓国>100m背泳ぎ金メダリスト。順天堂大学名誉教授、日本水泳連盟会長などを歴任し、2015年に初代スポーツ庁長官に就任)、そして現在の青木剛さん(早稲田大学出身。1992年バルセロナオリンピック<スペイン>、2000年シドニーオリンピック<オーストラリア>、2004年アテネオリンピック<ギリシャ>で日本水泳代表監督を務め、日本水泳界の復活に尽力した)と、5人の会長の下でお手伝いをさせていただきました。昨年までの33年間のうち28年間理事を務めさせていただきました。

日本水泳界の転機となった2000年"千葉すず代表選考訴訟"

泉正文氏(当日のインタビュー風景)

泉正文氏(当日のインタビュー風景)

―― 泉さんが専務理事・副会長を務められた間、日本水泳連盟はさまざまな改革を推し進めました。いち早く改革に着手し、理事会などもまだ他の競技団体は非公開だった時期に、水連ではオープンにされていたりと、サッカーに並んで日本スポーツ界では先陣を切って改革してきました。それは日本スポーツ界の中でも歴史が古い競技としてのプライドを持ちながらも、改革をしなければ生き残っていくことはできない、という危機意識をいち早く持たれていたからだったのでしょうか。

水泳に限った話ではありませんが、当時は日本スポーツ界でさまざまな問題が浮上してきて、改革をせざるを得なかった時代でした。

特に水泳は1964年東京オリンピック、1968年メキシコシティオリンピックで日本水泳陣が惨敗で、1972年ミュンヘンオリンピックでは金メダルを2個獲得したものの、その後も1984年ロサンゼルスオリンピックまで一つも金メダルが取れない状況が続いていました。1985年に古橋さんが会長に就任しましたが、その頃は本当に苦しい思いをされていたと思います。

そんな日本水泳連盟にとって最も大きな転機となったのは、2000年シドニーオリンピックの選考会で起きた訴訟でした。当時、日本女子のエース的存在だった千葉すずさんが選考会だった日本選手権で国際水泳連盟が定めた「五輪A標準記録」を突破し、さらに優勝しながらも、落選したんです。これを不服とした千葉さんが、スポーツ仲裁裁判所(CAS)に提訴しました。当時、オリンピックの日本代表選手の選考は、古橋さんが議長を務め、選手選考委員会が決めていました。当時は明確な選考基準はあったものの、「この選手はなかなか筋が良くて将来性があるから」ということを含めて決めていたような時代でした。CAS(Court of Arbitration for Sport)から裁定が下された後、日本水泳連盟は京王プラザホテルで記者会見を開き、日本水泳連盟が勝訴したものの選考基準の不徹底さを指摘され、訴訟費用の一部を負担するという言い渡しがあったことを説明しましたが、あの時のマスコミの数には驚きましたね。それほど日本中が注目していた訴訟でした。

―― 当時は選手の千葉さん側につくマスコミが圧倒的に多く、もちろん国民の大半も千葉さんを応援していましたから、日本水泳連盟が孤立してしまったような状態でした。ただ、日本水泳連盟はきちんとCASの裁定を真摯に受け入れる姿勢を示していました。今にすれば、これが大きかったと思います。マスコミや国民が、その後、日本水泳連盟に対して見守るかたちをとり、水泳人気も下火にはなりませんでした。

私もスイス・ローザンヌにあるCASにまで行きましたけれども、日本水泳連盟としては、しっかりと対応していこうという意識が強かったですね。

―― また、この訴訟がきっかけとなって、日本にスポーツ裁判所(日本スポーツ仲裁機構)が設立されましたし、何より日本水泳連盟が真っ先にオリンピックの選手選考の透明化に取り組みました。あの"千葉すず代表選考訴訟"は、日本の水泳界にとってはもちろん、ひいては日本スポーツ界にとっても、非常に大きな転機となったことは間違いありません。

千葉さんの訴訟をきっかけに、日本水泳連盟ではオリンピックの年に行われる日本選手権での「五輪A標準記録を突破」「2位以内」という選考基準を設けました。実は、そのことが日本水泳の復活にもつながったんです。選考基準を明確にしたことによって、選考会で好記録を出す選手が次々と出てきまして、日本の水泳のレベルがグンと引き上がりました。明確な目標タイムがあることで、練習にも力が入り、意欲がかきたてられたのだと思います。世界で戦える選手が出てきたことによって、スポンサードを申し出る企業も一気に増えました。日本水泳連盟の財源が潤沢となり、強化費も増え、いい選手がどんどん生まれていく……といったような好循環が生まれたんです。



―― 日本水泳連盟にメスを入れて改革を押し進めることができたのは、水泳部出身ではない泉さんだったからこそ成し遂げられたことだったのではないでしょうか。

もしかしたら、そうかもしれませんね。私にはしがらみがありませんでしたので。日本水泳連盟の「70歳で定年」という規定も、文部科学省の指導のもと私が提案をしたことで、お世話になった古橋さんをはじめ、重鎮の皆さんには退任していただきました。

―― 古橋さんも懐の深い方でしたよね。「70歳定年」と改訂された時、「自分たちが決めたことだから」と、すんなりと退任されました。

そうでしたね。また、文部科学省の方からも「役員は70歳で定年」ということはさんざん言われていましたので、時代的にも致し方なかったことだったと思います。でも古橋さんをはじめ、皆さんは非常に協力的でしたので、こちらとしてもありがたかったですね。皆さんの協力があって、組織の中の新陳代謝ができたことが、日本水泳界にとってはとても良かったと思います。

「日本体育協会」から「日本スポーツ協会」への名称変更の意義

リオデジャネイロオリンピック代表選考会を兼ねて行われた日本選手権。中央は池江璃香子選手(2016年)

リオデジャネイロオリンピック代表選考会を兼ねて行われた日本選手権。中央は池江璃香子選手(2016年)

―― 今回の新型コロナウイルス感染拡大で、スポーツ界も変革が求められています。各競技団体も、さまざまな対応が求められていると思いますが、日本水泳連盟は今、どのような状況でしょうか。

今年予定されていた日本選手権大会をはじめ、中学生、高校生が対象のジュニアの大会もすべて中止に追い込まれました。ようやく9月から感染拡大防止ガイドラインを守りながら各都道府県レベルでの大会が開催され始めたところです。その地方大会での記録をもとに、日本ジュニアランキングを決めていくことになりました。
来年に延期された東京オリンピックについては、来年4月1日からの日本選手権大会での一発選考で代表を決めます。

こうして少しずつ、今後に向けての準備が進められていますが、現段階で最も悩ましいのは、選手の練習場所が十分にない、ということです。特に緊急事態宣言が発令された4、5月は全国すべてのスイミングスクールが閉められました。水泳は水がないところで泳ぐわけにはいきませんから、代替場所を作ることが非常に難しい。選手にとっては、とても厳しい状況に陥っています。一方、スイミングスクールの方も、2カ月間閉館している間は収益がゼロでしたから、経営的には非常に厳しいものがあり、とても選手の強化費にまでお金を回すことができない状態になっています。子どもたちの育成・強化の拠点とされてきたスイミングスクールですが、「強化コースを辞めざるを得ない」というスイミングスクールも増えてきています。それからスポンサードしてくださっている企業の経営も厳しいですし、日本水泳連盟自体も収益が減少しています。大会の収益の大部分は、入場料なのですが、大会自体が中止となっていますし、行われたとしても、9月上旬の日本学生選手権大会も無観客ですので入場料が入ってこないんです。さらに、これだけ大会が中止となると、連盟の競技者登録者数も減少傾向にあります。そうすると、当然、登録料も入ってきません。さまざまな対応策を図っていますが、苦しい状態が続くと思います。


国体ラグビー会場にて。左が森日本体育協会会長(当時)。右が泉氏。

国体ラグビー会場にて。左が森日本体育協会会長(当時)。右が泉氏。

―― 競技団体を維持していくためには、財源を確保することが欠かせない要素です。"Withコロナ"の時代において、財源確保をどうお考えですか。

いかに自己財源を増やすサイクルを構築していくかが、より重要な時代となるのではないでしょうか。国からの補助金やスポンサー企業にばかり頼るのではなく、各競技団体自体が財源を確保していかないといけないと思いますね。そのための策を、これから真剣に考え、取り組む必要があると思います。
YouTubeなどを活用するなど、今の時代にあった方法を模索し、新しいファンの開拓を見据えた戦略も重要になってくるでしょうね。



―― こうしたスポーツ界が変革を求められた時代において、日本スポーツ界の総本山である日本スポーツ協会(以下、JSPO)が果たす役割も大きいと思います。JSPOの前身である日本体育協会の時代から専務理事を務め、現在は副会長を兼任されている泉さんは、どのようにお考えでしょうか。

一人でも多くの人にスポーツの楽しさを広げていくことがJSPOが果たすべき最大の役割という点は変わりありません。それを踏まえたうえで、例えばスポーツを医療費の削減につなげていくですとか、さまざまなことに派生させていくような幅広い戦略がより必要になってくるのだろうと思います。



日本スポーツ協会名称変更シンポジウム

日本スポーツ協会名称変更シンポジウム

―― 日本体育協会がJSPOへと名称を変更したのは、2018年4月のことです。重鎮の中には、「体育」から「スポーツ」に変更することを良しとしない方たちも多かったと思います。しかし、JSPOは名称変更に踏み切り、その中心にいたのが専務理事の泉さんでした。

名称を変えるだけで、実に3年の歳月を要しました。実は前にも一度、JSPOへの名称変更を提案したことがあったんです。ところが、当時日本体育協会の会長だった森喜朗さん(第86代総理大臣、日本ラグビーフットボール協会会長などを務め、現在は東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長)の「時期早尚」という発言で先送りになりました。当時各競技団体にアンケートを取ったところ、JSPOへの名称変更に賛成の人は、およそ半数でした。一方、再度提案した2015年の時には約7割が賛成だったんです。その頃は、「体育の日」を「スポーツの日」に名称を変更しようというようなことも盛んに言われていましたので、「体育」という名称が時代にそぐわないことを認識されていた方が大勢いたのだと思います。それでも名称変更にこぎつけるまでには、3年かかりました。



大日本体育協会(現日本スポーツ協会)を設立した嘉納治五郎(左)

大日本体育協会(現日本スポーツ協会)を設立した嘉納治五郎(左)

―― "日本近代スポーツの父"として多くの功績を残した嘉納治五郎さんが発足時に付けた「大日本体育協会」、それを継承した「日本体育協会」という名称には、大きな意義があったと思いますので、最後まで反対する方たちの思いも理解できます。
ただ、一昔前は「体育」の中に「スポーツ」がありましたが、今は「スポーツ」の中に「体育」があるという考え方が一般的になっています。つまりスポーツを楽しむことが根底にあって、そのうえで体や精神が鍛えられる体育も大切なんだと。名称変更は、これからJSPOが進んでいく道を、国内だけでなく世界に示す重要な意義があったと思います。


おっしゃる通りです。具体的な戦略については、スポーツ庁が2017年に策定した「第2期スポーツ基本計画」(2011年に制定された「スポーツ基本法」の指針と具体的施策を示したもの。2017年4月~2022年3月の5年間における計画)にある通りです。スポーツ立国の実現に向けて、老若男女、全国民がスポーツによって楽しく健康で活力ある人生を送ることができるように、JSPOとしても注力していきたいと思っています。

―― しかし、地方では未だに「体育」の名称を外すことに頑なに反対している競技団体も少なくありません。

47ある地方の協会において、「体育協会」から「スポーツ協会」へと名称を変更したのは約7割の33にとどまっています。名称変更を拒む方は「体育は必要なんだ」と言われるのですが、私共は体育が必要ないなんて全く思っていないんです。「おっしゃる通り、体育はとても重要です。しかし、現在のスポーツを取り巻く環境を考えると、前面に押し出すべきはスポーツです。体育の価値を残しつつも、スポーツの中の一部分であることをご理解いただきたい」ということを懇切丁寧に説明してはいるんですけども、なかなか価値観を変えるのは、難しいですね。ただスポーツに対する考え方は浸透されてきていますので、いずれ全国的に名称変更に踏み切っていただけると思います。

初期の日本スポーツ少年団の活動風景

初期の日本スポーツ少年団の活動風景

―― 泉さんは昨年、日本スポーツ少年団本部長に就任されました。今後の青少年のスポーツについては、どのようにお考えでしょうか。

「スポーツ少年団」は1964年東京オリンピックの2年前の1962年に創設されました。それから約60年間、スポーツによる青少年の育成を図ってきたわけですが、現在も全国に3万1000の単位団(スポーツ少年団)があります。
ただ残念ながら全盛期には100万人以上いた登録者が、今では約70万人となりました。子どもの人口が減少傾向にありますので、仕方ないところもあるのですが、これからはスポーツ少年団も変革の時代にあると思っています。

例えば、学校での部活動というのは徐々に厳しくなってきています。少子化が進んでいる状況もありますし、教員の負担の大きさを考えますと、もう1校だけで複数の部活動をするというのは難しい。
ですから学校の部活動と、スポーツ少年団、さらには地域にある総合型スポーツクラブをうまく融合させていきたいと思っているんです。これまでは体育の授業も部活動も、学校の先生にすべておんぶにだっこ状態でお願いしていましたが、そうではなくて、地域で子どもたちを育てていこうと。私は、JSPOの日本スポーツ少年団本部長でもあると同時に、総合型地域スポーツクラブ育成委員会の委員長でもありますので、喫緊の課題として取り組んでいきたいと思っています。現在は、「学校」「スポーツ少年団」「地域スポーツクラブ」の3つを、どのようにうまく活用していけるかを模索しているところです。

第一段階として考えているのは、各スポーツ少年団が複数の種目を運営できるような仕組みです。そうすると、地域の総合型スポーツクラブとも融合できるようになると思います。

そしてもう一つの問題は、スポーツ少年団の年齢層の幅の狭さです。1962年に創設された当初は、中学生を対象とした組織を目指していたのですが、中学生は学校の部活動に入ることが一般的になってしまいました。そのため、今スポーツ少年団は主に小学校高学年が対象の中心となっています。世代の幅も広げて、スポーツ少年団を「多種目型」「多世代型」の組織に作り直していきたい。学校の部活動を拠点にすると、どうしても小学校、中学校、高校と、それぞれ数年でいったん途切れてしまいますよね。そうではなくて、地域を拠点にすれば、小学生から高校生まで一貫して育成していくことができます。また、子どもの頃は多種目に挑戦して、その中から自分に合った種目を選択していくということもできます。そうなると、強化という視点でもメリットがあるのではないかと思っています。

ただ、学校での部活動にも、これはこれで良さがありますから、部活動をすべてなくすことはしたくないと思っています。例えば、放課後1時間は学校の友人同士での部活動を楽しみ、その後はそのまま学校の体育館でスポーツ少年団、あるいは地域の総合型スポーツクラブとして違う競技をやるということもできると思うんです。そうすれば、学校の体育館を有効活用できますし、またさまざまな指導者とかかわりを持つことによって、閉鎖的な環境で陥りやすいハラスメントの問題解決にもつながるのではないかと思っています。そのためにも、もっと学校を開放していただきたいなと。文部科学省では学校を地域に開放していいことになっているのですが、実際はなかなか進んでいません。というのも、事故が起きた時の責任を誰が持つのか、ということがネックになっているんです。ですから、ここは行政の方からもうまく指導していただき、そこに地域の皆さんがうまくリンクしていけたらと思っています。



新潟国体開会式で国体委員長として天皇皇后両陛下(当時)へのご説明役を務める泉氏(左)(2006年)

新潟国体開会式で国体委員長として天皇皇后両陛下(当時)へのご説明役を務める泉氏(左)(2006年)

―― それは理想的な仕組みですね。JSPOとしてはもう一つの喫緊の課題として、国民体育大会(以下、国体)があります。地方では人口の減少、高齢化が著しく進み、とても一つの県で多種目にチームを送り込むことが難しくなってきています。また、現在は47都道府県が持ち回りで開催していますが、経済的に厳しい地域もあります。それを隣県同士で、あるいはいくつかの近隣県でのブロック開催という形をとってもいいんじゃないかなと思うのですが、いかがでしょうか。

国体の名称は2023年の佐賀大会(※)から「国民スポーツ大会」に変更となることが決定しています。それに伴って、名称だけでなく中身も変えていくべきだろうと思います。


13年後(2033年)には47都道府県持ち回りの2巡目が終わり、3巡目に入るのですが、そこに向けて国体をどうするべきか、ということも国体委員会で議論しています。以前は「道州制」という案が上がったこともありましたし、実際に四国では2県にまたがって共同開催をしています。開催する県によっては、施設がない競技について県外開催する例も多くあります。できる限り縛りを少なくして、経済的にも負担がかからないようにしていくことが必要になってきています。

※2020年開催予定の鹿児島国体がコロナ禍で中止され、23年が鹿児島開催、23年開催予定の佐賀は24年に繰り下げで開催される予定。ただし国民スポーツ大会の名称は佐賀大会からになる



日本体育協会(現日本スポーツ協会)・日本オリンピック委員会創立100周年記念シンポジウム(2011年)

日本体育協会(現日本スポーツ協会)・日本オリンピック委員会 創立100周年記念シンポジウム(2011年)

―― 今後のJSPOについて、ロードマップというのは描かれているのでしょうか。

JSPOは2011年に創設100周年を迎えました。その時にJSPOは「スポーツ宣言日本」を採択しました。最大の目標はそこにあります。また、具体的に何をどうするのかということについては、2018年に「日本スポーツ協会スポーツ推進方策」という計画書を作成しました。そこには、何をいつまでにどうするのかということが具体的に明記されています。この計画書も、スポーツ基本計画の改定にあわせて、4年に一度見直していくことになっています。


―― 一昔前まで、JSPOは広報活動がとてもうまいとは言えませんでしたが、今ではさまざまなメディアを活用して、うまくJSPOの活動を広げているなと感じられます。ホームページも見やすくなりましたし、時事通信社とオフィシャルパートナーおよび国体パートナー協賛契約を締結もしましたし、最近では動画チャンネル「JSPO TV」も配信しています。

実はJSPOでは今、協会内でイノベーションを起こそうとしています。ある日本のシンクタンクに投資費用を支払って、収益をあげられる新規事業の提案を依頼しているんです。

―― そういう部分に費用を充てるというのは、一昔前のJSPOではちょっと考えられなかったことですね。

本当にそうです。非常に画期的なことをしていると思います。やはりこれからの時代は、国からの補助金に頼り切るのではなく、自分たちで収益をあげられるような組織に変わっていかないと生き残っていけないだろうと思っています。そして逆に、私たちJSPOが国をリードするくらいの気持ちでやろうじゃないかということで、さまざまな部分でイノベーションを図ろうとしています。

―― メディアへの露出度も、最近では増えてきているように感じますが、それも意図的にということなんでしょうか。

はい、そうです。日本のスポーツ界全体に言えることですが、これまではメディアとの付き合い方がどうも下手で、私たちとしては何かを隠そうとしているわけではなかったのですが、誤解を招いて批判されることもありました。しかし、私は組織運営で一番大事なのは「嘘は言わずに、何でもきちんと公開していくこと」だと思っています。いろいろな人のご意見をいただきながら、可能な限り情報を公開し、オープンな組織にしていきたいと思っています。

さらなる日本スポーツ界発展のために

泉正文氏(当日のインタビュー風景)

泉正文氏(当日のインタビュー風景)

―― 新型コロナウイルス感染拡大は、スポーツにもさまざまな影響を及ぼしています。しかし、この状況を「災い転じて福となす」ということも決して不可能ではありません。アシックス代表取締役会長の尾山基さんがおっしゃっていたのですが、実は今、自転車やウォーキングシューズのネット販売が好調なんだそうです。また、オンラインでヨガを習う"ネットヨガ"なども人気だそうですね。コロナ禍で自粛生活が続いているからこそ、運動したいという意欲に掻き立てられているということも言えるかと思います。こうした動きをうまくビジネスと結びつけることが、今後のスポーツ産業界では求められていくのではないでしょうか。

そう思いますし、またそうせざるを得ないと思います。コロナ禍においても、普遍的なスポーツの価値というものは何ら変わりありません。
約1世紀前、1918年から1920年に「スペイン風邪」、今でいうインフルエンザが世界で大流行した際、日本でも約2400万人が感染し、約39万人の方たちが亡くなられています。当時の日本の人口は約5500万人でしたから、ものすごい割合ですよね。世界ではヨーロッパを中心に、もっとひどい状況でした。ところが、1920年にはアントワープオリンピック(ベルギー)を開催していて、日本を含めて29カ国が参加しているんです。

今回の新型コロナウイルス感染拡大によって、日常からスポーツシーンがたちまち消え、現在も元には戻っていません。しかし、スペイン風邪の時がそうだったように、必ずやスポーツの復活の時が来ます。今は"我慢の時期"です。とは言っても、何もしないで待つのではなく、コロナの感染拡大が収束し、反転攻勢の時に向けて、しっかりと準備していく時期だと思います。現状を踏まえたうえで新しい様式の中で、どのようにしてスポーツを産業に結びつけていくのか、あるいはスポーツの価値を示していくのかを考え、行動に移していかなければいけません。

本来、スポーツの醍醐味というのは"三密"であることの楽しさにあります。ですから、いずれ"三密"が解禁される日が訪れることを信じて、それまではさまざまなやり方を考案していくいい機会だととらえて、"コロナ禍の産物"を増やせていけたらと思っています。それこそ来年に延期された東京オリンピック・パラリンピックを、この"コロナ騒動"の中でどのようにして開催にこぎつけ、そしてレガシーを遺していくのか、ということを"官"も"民"も一緒になって知恵を絞っていくことが今、求められているのではないかと思います。



嘉納治五郎の後を受け大日本体育協会第2代会長を務めた岸清一

嘉納治五郎の後を受け大日本体育協会第2代会長を務めた岸清一

―― 改めて日本スポーツ界が歩むべき道について、泉さんのお考えをお聞かせください。

私自身の課題をあげるとすれば、地域スポーツのあり方です。「学校」「スポーツ少年団」「地域スポーツクラブ」を融合させたシステムを構築していくこと。それをある程度形にするまでは、私自身の責任として、しっかりと取り組んでいきたいと思っています。
そしてもう一つ非常に気になっているのは、未だに日本スポーツ界に蔓延しているハラスメントの問題です。2009年の時には1年間でELNET(新聞記事やWeb記事のクリッピングサービス。日本 最大級のデータベース)に掲載された体罰、セクハラなどのスポーツ界の不祥事件は126件でした。その10年後の2018年の時は、4444件に増えています。実に44倍です。実際の現場では、そうしたハラスメントの問題は確実に減少してきていると思います。それでもこれだけ表面化した件数があるということは、改善するまでにはまだまだ努力不足ということ。これは由々しき問題です。
日本オリンピック委員会(JOC)、日本スポーツ振興センター(JSC)、JSPO等の各団体がばらばらに取り組むのではなく、スポーツ庁とも連携を図りながら、一緒に力を合わせて取り組んでいかなければなりません。専門家の力をお借りして、迅速に改善していくシステムを構築していくこと。これも、地域スポーツのあり方と並ぶ大きな課題と認識しています。

―― 最後に、次世代に継承したいことを教えてください。

日本スポーツ界の発展にご尽力された偉大な先人たちが歩んできた歴史を、今の若い世代にきちんと伝えていく必要があると感じています。例えばJSPOの前身である日本体育協会の歴史において欠かすことのできない嘉納治五郎さんや岸清一さんを知っている人は、今の日本にどれくらいいるのかなと。あるいは水泳界で言えば、古橋廣之進さんや田畑政治さん。先陣たちがこういうことをしてこられたから今があるということを伝えていきたいですね。また、日本スポーツ界にある貴重な知見を、もっと世界に発信していけたらと思っています。特に発展途上国に対しても、スポーツを通じて日本ができる国際貢献はまだまだあるはずです。スポーツで世界とつながる。そんな活発な議論ができる世の中になることを切に願っています。

  • 泉 正文氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1948 泉正文氏、北海道に生まれる
  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)
1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)
1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1972 泉正文氏、早稲田大学を卒業し、安田生命保険相互会社に入社
  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1984 泉正文氏、北関東イトマンスイミンググループに転職
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1991 泉正文氏、日本水泳連盟理事に就任
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)
1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1999 泉正文氏、日本水泳連盟常務理事に就任
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2003  泉正文氏、日本体育協会(現・日本スポーツ協会)常務理事に就任
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2005 泉正文氏、国民体育大会委員長に就任
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
  • 2009 泉正文氏、日本水泳連盟専務理事に就任
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

  • 2012 泉正文氏、ロンドンオリンピック水泳選手団チームリーダーに就任
2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2015泉正文氏、水泳連盟副会長に就任
    泉正文氏、日本体育協会(現・日本スポーツ協会)専務理事に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

  • 2016 泉正文氏、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事に就任
2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2019泉正文氏、日本水泳連盟顧問に就任
    泉正文氏、日本スポーツ協会副会長兼専務理事に就任