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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」
パラリンピアンかく語りき
第36回
車いすのフロントランナー

伊藤 智也

社員の先頭に立つ若き経営者が34歳で突然発病。「再発すれば余命3年」と宣告された。告げられた病名は「多発性硬化症」。体温を上げると病状が悪化するというスポーツ厳禁の病だった。

35歳でひょんなことをきっかけとして入った車いす陸上競技生活。ついには北京パラリンピックで金メダリストにまで登りつめた。そんな伊藤が、幼少期から障がい者スポーツの未来までを赤裸々に語った。

聞き手/山本浩 文/白鬚隆幸 構成・写真/伊藤智也、フォート・キシモト 取材日/2015年3月4日

スポーツ万能な子どもだった

―― 引退後も鈴鹿市では、よく身体を動かす日々が続いているのですか?

もう、まったく動かしていないですね。本来の僕の病気そのものが体温を上げると再発するという性質なもので、スポーツそのものが向かないのです。もう現役引退と同時に、動かすことから遠ざかっています。

―― そうすると、いろいろと用意されていた筋トレの器具やバーベルとかは、もう隅に置かれたままですか?

それが名残惜しくてトレーニングルームは、そのままにしてあります。



子どものころ(前列左)

子どものころ(前列左)

―― お生まれになったところが、今のお住まいなのですね。小さいころは、どんなお子さんだったのですか?

変わった子どもでした。甘いものが異様に好きな子どもだったらしく、法事とか、結婚式とか、お祭りとかあると近所の人が甘いものをウチに持って来てくれるくらい甘党でした。性格的には、周りの人と同じことをやるのが嫌な子どもでもありました。

―― たとえば活発で、近所の子どもを集めて何かをやるようなタイプでしたか?

そうですね、小学校6年のとき、野球のリトルリーグに誘われたことがあったのですが、自分の友だちも一緒だったら入ると言ったら、「君だけだ」と言われ、「それだったら入らない」と断ったことがありました。そして友だちと野球チームを作り、打倒リトルリーグを目指しました。今でいえばリーダーシップを取るような子どもでしたね。

―― 私は伊藤さんより10歳年長なのですが、学校には土俵があって相撲が盛んでした。あとは野球、そして陸上に水泳くらいでした。伊藤さんは野球だったのですね。

野球オンリーでしたね。地域的にサッカーや陸上は盛んじゃなかった。野球かバレーボールでしたね。

―― リトルリーグに誘われたということは、どこを認められていたのでしょうか?

打撃はそうでもないですが、守備が上手かったようですね。まあ自惚れですが、守備でミスをしたことはないですね。

―― ということは身体の動きは、シャープでスピードもあったのですね。

スピードはありましたね。小学校のときは運動会で1位以外は取ったことがなかったですね。

―― いろいろな意味でバランスの良いお子さんだったのですね。

そうですね。将来は絶対にプロ野球の選手になると思っていました。

中学校で第一の転機を迎える

―― 中学校に進まれても、当然野球をするのですね。

もちろん野球部に入りました。1年生でレギュラーです。ところが、そのころ生活に翳かげりが出てきます。2年のときにオイルショックがあり、家業が傾いたのです。そこで母親が1人で小さな家業をして、父親が運送屋に働きに出ました。私の父は身長が150cmしかなく、荷物の積み降ろしが苦手でした。そこで「父さん、俺が手伝うよ」と僕が荷物の積み降ろしを手伝うようになりました。仕方なく野球部の練習を休むことが多くなり、野球部の顧問が「練習に出て来ないなら伊藤は使わない」と言い出し、ついに卒業するまで部内の紅白戦まで出してくれなくなりました。

―― お父さんの仕事を手伝われて、身体も大きくなったでしょう。

確実に中学生離れの身体になりました。身長も174cmありました。

―― かなり大きいですね。そして、中学校卒業後の進路は?

高校に進学する余裕はなかったです。家計を助けるために、すぐ就職しました。

社内大会で野球、マラソンのヒーローに。そして19歳で独立へ

伊藤智也氏(当日のインタビュー風景)

伊藤智也氏(当日のインタビュー風景)

―― そうすると、就職されてからはスポーツとは縁が切れたわけですか?

ところがですね。私が就職したのが、かなり大きな企業で社員の厚生活動でスポーツが盛んでした。工場対抗の野球大会、マラソン大会、駅伝大会などに借り出されるわけです。

―― マラソンもされていたのですか?

マラソンとか駅伝大会は、年に1回でしたが、駅伝では毎回第1走者でしたね。野球でもかなり活躍した記憶があります。

―― そうするとスピードもあって持久力もあるという、かなり希有な例ですね。

まあ、両方とも中途半端ですが、社会人レベルでは突出した力はあったと思います。

 

―― その後独立され人材派遣会社を立ち上げらますが、それは何歳のときですか?

19歳です。

―― 今の19歳の学生を見ていると信じられないような思いですが。

僕の場合は、家業が自営業ですし、大きな企業に勤め、下受けの窓口になっていたので、出入りする業者さんとの接触もあった。下請けの社長さんからお話を聞く機会も多く、開業に向けての土台が作られました。

―― どんな企業を立ち上げられたのですか?

17歳のときにコンピューター制御の機械が出始めて、そのプログラミングをやりたかったのですが、大卒の理系を出た人しかできなかった。そこで猛勉強して、半年でモノにしたのです。それを自分でやってみたくて、最初は1人で会社を立ち上げました。

―― 安定した大企業を飛び出すには勇気がいったのでは?

当時の僕の月給が7万円くらい。ところがプログラマーの人の月収は70万円くらいでした。同じ仕事で自分の好きな時間に仕事ができ月収が10倍も違う。そんな計算での起業ですから、勇気というよりも、やらなければ損、という感じでした。

―― 負けず嫌いだったのですね。

今から思えば、そうかもしれません。でも当時は自分に有利なことを、なんでやらないんだ、という感じでしたね。あまり金儲け、という考えはなかったですね。

順風満帆(じゅんぷうまんぱん)の社長時代、それが病気のために突然一変する

経営者時代 ライオンズクラブ総会にて

経営者時代 ライオンズクラブ総会にて

―― 会社を立ち上げられてから、右肩上がりの成長をされたのですね。

そうですね。全国的に需要も多かった仕事ですし、日本中がどんどんコンピューター制御の機械に向かっていましたから。1人で始めて3年ほどで社員200人の会社になりました。

―― その間、まったくスポーツはやっていませんでしたか?

まったくやっていません。仕事一本でした。毎日、図面を書いていました。

―― それが何年くらい続いていたのですか?

8、9年ぐらいでしょうか。

―― テレビでスポーツを見るとか、新聞・雑誌でスポーツを読むこともなかったですか?

なかったですね。仕事一本。ものすごく忙しくて体調管理をすることもなかった。仕事自身が1人歩きしていました。

―― 猛烈社長だったわれですね。

いや、仕事が図面関係なので周りに年配の方の方が多く、力を貸していただいている、というスタンスでした。

―― そのような会社を経営しているころに発病されたわけですね。最初の兆候は?

34歳の夏の日です。タクシーで打ち合わせに行ったとき、車から降りようとしたら、転んだのです。あれ、どこかに躓いたかなと思い、すぐに立ち上がって、喫茶店に入り打ち合わせを終え、帰ろうと思ったら身体が動かない。すぐ救急車を呼んで病院に行きました。そうしたら、いきなり検査入院です。結果を告げられました。多発性硬化症という病気だと。

―― それで、その後どうなると言われたのですか?

「歩ける可能性は非常に少ない、目が見える期間も短いでしょう」と言われました。「この病気は、最初に失明するのが一般的だ」と告げられました。実際、入院して1週間で失明しました。

―― 入院期間は、どれくらいだったのですか?

約2年ですね。

―― 社員200人の会社は、どうされたのですか?

入院後、半年で退社し、株も全部譲渡して、まったく会社とは関係なくなりました。それでもあだ名で『会長』とか呼ばれていましたが。失明のほか、喉の障害で口もきけない、両手足も動かない。耳だけ聞こえましたが、もう植物人間状態です。「合併症をおこせば余命3年」と言われました。もう、どうでもいいや、という心境ですよ。

―― その状態が、どのくらい続いたのですか?

半年です。その後、ようやく奇跡的に右目が見えるようになり、その後だんだんと話せるようになったり、手も動くようになりました。

―― それは、奇跡的な回復なのですか?

当時の主治医の先生からは、「奇跡的だ」と言われました。

―― 伊藤さんの障害は、現在どこまで回復しているのですか?

みぞおちの下からは障害が残っていて動きません。

車いすの注文ミスから競技者生活にはいる

―― 凄い回復力ですね。それからどうされたのですか?

車いす生活が確定したので、とりあえず車いすを買わなくちゃということになり、一緒に入院されていた方のご子息が福祉機器関係に勤められていて、「うちの息子の会社で買ってよ」という話になりました。その息子さんが持ってきたカタログを見て「これかっこいいな。これにします」と注文したのです。車いすの採寸に来たメーカーの方が、その人が後に僕の師匠になるのですが、「伊藤さん、本当にこれ買うのですか?」と聞いてきた。実物を見たらかなり大きくて「これじゃあコンビニで買い物もできないな」。そこで初めて気がついたのです。僕が欲しいのは普通の車いすだったのに、注文したのはレース用の車いす。その方はわざわざ神戸からきているというし、こちらのミスなので、「じゃあ普通の車いすとレース用のものと2つ買います」とお願いしてしまったのです。

―― 長くて3輪のやつですね。それで、その車いすはどうしたのですか?

2カ月後に届いて、病室の片隅に置いておいたのですが、看護士さんは「へ?伊藤さん、マラソンやるんだ」と不思議そうな顔をしている。だって体温を上げるのが厳禁な病気を患っているのですから。

2005年 長良川ふれあいマラソン)

2005年 長良川ふれあいマラソン

―― それで、車いすマラソンに出たきっかけは?

車いすを注文してから半年後くらいですか。入院して1年後ですね。例のメーカーの方が、「木曽三川公園で長良川ふれあいマラソンという小さな車いすマラソンがあるので、伊藤さん出てみませんか」と誘ってくれたのです。まあ、せっかく買ったのだから1回ぐらい出てみるか、といった軽い気持ちでした。
ところが出てみたらハーフマラソンで、トップが40分くらいで走ったところを僕は1時間45分かかった。なめていたのですね。気持ちの上では自分は障がい者になっていなかった。途中で筋肉痛に見舞われましたが、リタイヤするのが嫌で走り切った。するとトップの人よりも声援が多かったのです。「がんばれ、最後まで走り切れ」と言われ余計に惨めになりました。最新鋭の車いすには「惨めなレースでごめんな」と謝り、自分は血まみれでゴール。実は、こけたのではなく、腕を張った状態でこぎ続けることができず、車輪の外側に付いているハンドリムで腕の内側が擦れて出血したのです。

―― それでムクムクと闘争本能に火がついたのですね。

傷が癒えた2、3日後から主治医が病院に来る前、早朝30分ほど走るようになりました。でも30分走ると、帰って来なくてはいけませんから、倍以上の時間はかかりました。

―― もちろん、主治医には内緒ですね。

洗濯物が多い患者さんだな、と思われていたようです。

―― 初めてのレースから退院までは、どのくらい?

1年ほどです。その間にもレースに出ていました。

本格的に競技生活に入る。
彗星のようにトップアスリートに

―― 2回目は、どんなレースに出たのですか?

レースに出るには申込書に主治医の署名と印鑑が必要なのです。これをもらうのが一苦労でした。万策つきてリハビリの先生に「伊藤さんの生き甲斐なので生きる情熱を奮い立たせるためにお願いします」とお願いしてもらったのですが、ドクターが飛んで来て「伊藤さん、何ですか、これ」って言われ、「これを最後にしますからお願いします」と頭を下げて許してもらいました。そうしたら、「何かあるといけないので、私も行きます」とドクターが応援に来てくれました。

―― どこのレースだったのですか?

大分国際車いすマラソンです。

―― あの有名な大分の?

はい。無謀な戦いでした。陸上連盟の登録選手で持ちタイム2時間でないと本来出られないのです。申込書に「2時間で走れますか?」とあったのでチェックしました。当日は、タイムの足切りはなかったのですが、「すみません、今日は調子が悪くって」と平謝りでした。でも完走できました。

―― それはそうですよね。タイムはどのくらいだったのですか?

2時間51分でした。

―― 達成感はあったでしょう?

半端なかったです。それは、少し後に劣等感に変わるのですが、直後の達成感は凄かったですね。42.195km走り終えた感動は。これがターニングポイントになりました。

―― レース展開は、どんなだったのですか?

最初の大分エントリーですから、最終列スタートで、「おい、何やっているんだよ?」という感じでした。

―― 大分だと風が強かったでしょう?

風も強いし坂も多い。

―― 応援に来ていてくれた主治医のドクターの先生は、何と言っていましたか?

もう関係者は、全員泣いていました。もちろん、私も泣きました。ドクターは「よく無事で帰って来てくれた」と。両親は「こんな身体になったのに、よくぞここまで回復した」ですよ。

―― それで、このマラソンをきっかけに本格的に競技を始めたわけですね。

そうですね。三重に帰って来て退院しました。翌日から、距離にして毎日60kmを5、6年走りましたね。最初のころは時速10~20kmです。まるまる1日走っている感じです。そのうち時速30km出せるようになり、マラソンも1時間30分で走れるようになりました。そのころ「日本代表にならないか」と声をかけていただきました。

―― 研究もされたでしょう。

研究はしました。フォームもそうですし、どうすれば身体と筋肉が一番効果的なのか、メンタルでいえば、どんなときに呼吸が安定するかとか。

―― そういった考え方が、身体と一体になるのは、いつごろなのでしょうか?

2年ほど経ってからですね。

―― その間、コーチはいなかったのですか?

いなかったです。1人でトレーニングしていました。

―― 何かの映像で見たのですが、お1人で横になり重いバーベルを持ってトレーニングしていた。そうしたトレーニングが退院したあとに始まるのですね?

そうです。日がな一日ですね。

―― どんなところを意識しましたか?

まず糖分、炭水化物を抑える。筋肉が付くようタンパク質を摂る。ただやみくもではなく必要な筋肉だけを付ける。食事を摂る時間とか、内容も考えました。

―― 好調なときは筋繊維一本一本のコンディショニングも分かるくらい?

そうですね、本当のピークのときは、全部分かりましたね。このあたりで乳酸に変わるとかね。

―― それで競技の方は、どう参加されていたのですか?

自分の練習レースの結果を、インターネットで検索して比較すると、世界での自分のランキングなどが分かって来るので、僕はレースに出ていないのです。もう、あんな恥ずかしいレースは御免だ、ということで。そこまで自分1人でトレーニングを積んだ。陸上関係者にすれば、突然僕が出て来たのでびっくりしたと思いますよ。

―― ああ、ここまで上がって来た、とレースに出なくても分かっていたということですね。

全部分かっていました。これなら日本代表だと。

―― モチベーションにもなっていましたね。

だから、この1カ月でこの選手を抜くぞ、抜くためには坂道トレーニングをやろう。そんな目標を立てて練習していることは誰も知りませんからね。

―― それが何年くらい続いたのですか?

2年くらいですね。

大分の仇は大分で。
2位になりプロのアスリートを意識する

2006年 大分国際車いすマラソン大会

2006年 大分国際車いすマラソン大会

―― それで、努力の結果が出たのは、どの大会ですか?

大分です。大分の借りは大分でしか返せませんから。

―― 以前に大会に出ていたことは知られていましたか?

誰も僕のことをまったく知りませんでした。「お前は誰だ」という感じで。

―― 年齢はいくつでしたか?

37歳になっていました。

 

―― 気持ちよかったでしょ。

それでも1位になれなかったのです。トラック勝負にせり負けた。負けるわけがない、と思っていた選手に抜かれた。今考えれば当たり前です。すっと僕の後に付いて来た選手に最後でせり負けた。スリップ・ストリームです。そんなことも知らなかった。また勉強ですよ。風よけの後ろで走っている選手は60%の力で走っていますからね。

―― そのころからアスリートとしてやっていこうと意識しましたか?

そうですね。有名な健常者のスポーツマンとどんなに努力しても無名のままの障がい者アスリート。障がい者アスリートの方が多くの犠牲を払っているかもしれません。自分は障がい者として何かアクションを起こさないといけない、と思いました。自分が障がい者アスリートとしてやっていく以上、1つのライフワークとして障がい者スポーツを認めさせていく。そうでなければ気が済まないと思いました。

―― 障がい者スポーツがプロのカテゴリーになるような社会構築ですね。

そう思い立ったのは37歳、38歳のころだったと思います。2002年にNPO法人ゴールドアスリーツを作って、たくさんのスポンサーを集め、障がい者アスリートにプロ宣言をさせ、プロ陸上競技の選手を作ろうとしました。

―― そのNPO法人から何人くらいのプロ選手が出てきましたか?

残念ながらプロ選手は生まれませんでした。なぜかというと、日本選手でプロになっても世界で勝てる選手がいなかったからです。「世界で戦える」と「世界で勝てる」とは違うのです。そこで僕個人がゴールドアスリートを飛び出て自らスポンサーを集めて、プロ宣言をし、新聞とかテレビに出て、晴れてプロの車いすアスリートとしてデビューしたわけです。

―― 2000年のシドニーパラリンピックのころですね。自信はあったのですか?

自信はあったのですが、病気のほうが安定していなかった。急性期と寛解期を繰り返していて、この状態で出場し、結果を出せるか不安だったので出場を断念しました。

2004年 アテネパラリンピックでの激走

2004年 アテネパラリンピックでの激走

―― そうすると伊藤さんのパラリンピックデビューは、2004年のアテネですね。その前に世界選手権に出られた?

2002年のニュージーランドの世界選手権です。このときはマラソン、1500m、5000mに出場しました。

―― トラック競技には初めて出場したのですね。

初めてのレースなのでルールも知りませんでした。当時のレギュレーションでは、マラソンだけの出場は不可だったのです。長距離ランナーは3種目出てください、との国際パラリンピック委員会(IPC)からのお達しだった。

 

―― それでは、全種目に出たいわけではなかった?

トラックは、国内でも一度も走っていませんでしたから。

―― ロードとトラックは、どこが違うのですか?

基本的には、ロードは世界中同じですが、トラックだと地面の性質がスタジアムによって異なります。固い方が走り易くスピードも出る。そんなことも知りませんでした。マラソンだけ出られればいい、と思っていましたから。

―― レース展開の難しさもあったでしょうね。

最初、なんでこんなに遅く走っているのか、と思いましたよ。皆、先頭を走りたがらない。完全に駆け引きでライバルを風よけに使って最後の1周にかけるわけです。こちらは初めてなので、そんなことも知らなかった。

―― 伊藤さんは、大きな大会前に練習量を増やすとか、していましたか?

トレーニング量、方法とも、まったく変えなかったですね。ただ、パラリンピックよりも世界選手権の方が緊張しましたし、ガチ勝負でした。パラリンピックは出場制限があり、前の世界選手権で出場枠が決まる。だからパラリンピックは、『お祭り』みたいな気分が強かったですね。

初めてのパラリンピックでの苦い思い出

―― そうするとアテネのパラリンピックは、お祭り気分で出た?

ただ世界選手権だと、観客は3万人程度。パラリンピックだと8万人ですからね。初めてのときは、それなりに緊張しました。

―― 最初のレースは何だったのですか?

開会式のあと、最初の決勝種目が1500mでした。3日目くらいでしょうか。実は、開幕前に大失敗をしました。世界選手権なんかで勝っていたので練習中からメディアの方の取材も多く、「伊藤さん、キレキレですね」とか言われてオーバーワーク。そのうちに右肩に激痛が走りました。すぐにドクターに看てもらうと「腱板が切れている」と言われた。これじゃあ走れない、と思って、「痛み止めの注射を打ってください」とお願いした。「3分くらいのレースならなんとかなる」と言われて、注射を打ってレースに出ました。そして作戦を変更。スタートダッシュして先行逃げ切りの作戦にしたのです。痛み止めの効き目が切れたら終わりですからね。猛烈ダッシュで最初のコーナーに突っ込んだのですが、普段より少しスピードが速くて遠心力に負けて転倒してしまったのです。そこで2カ所骨折してしまいました。

―― それで残りの5000mとマラソンは棄権したのですか?

いえ、出ました。両方とも4位でした。

―― そうするとアテネパラリンピックは、負傷した上にメダルも取れず、散々でしたね。

いや、これには後日談があって、帰国した後の方が大変でした。鈴鹿市に帰ったら親戚の女の子が花束を持って待ってくれていたのですが、なにか雰囲気が暗い。車で迎えにきてくれた父親に「お前がアテネに行っている間に社長が亡くなり会社が倒産した。お前は保証人になっているのか?」と聞かれたので、数億円の借金の保証人になっている、と答えると「会社が大変なことになっている」と会社まで送ってくれました。すると社員が「会長、債権者が押し掛けて大変です」とのこと。とりあえず僕の手持ちの金を当座必要な人に渡して預金口座からお金を下ろそうとしたら口座に42円しか残っていません。アテネに行く前に通帳と印鑑を預けておいたので、すべて引き下ろされていました。結局、この騒ぎの収拾で12月までかかり、負傷の手当に十分な治療ができず、元の身体に戻らなくなってしまいました。

―― それでマラソンを辞め、トラックアスリートになったのですね。

もう持久力のトレーニングはやめて筋力トレーニングだけをメインにしました。1日5時間から6時間やりました。

アテネで得た友情を形にするため北京に向かう

2008年 北京パラリンピック400m T52で金メダルを獲得

2008年 北京パラリンピック400m T52で金メダルを獲得

―― 次の2006年の世界選手権から2008年の北京パラリンピックまでは順調だったのですか?

まずまず順調でした。世界選手権にも勝てましたし。

―― それで北京は、どういったモチベーションで臨んだのですか?

実はアテネの1500mのレースで転倒したおり、1人の選手を巻き添えにしてしまいました。黒人の大きな選手だったのですが、シドニーの1500mで優勝していた選手で、しかもアテネでは1500m1種目に絞っていたのです。どう見ても転倒した僕が悪いので、怖かったけれども車いすから降りて、5mくらい匍匐前進(ほふくぜんしん)をして謝りにいったのです。
その彼は「ミスター・イトー、これがレースだよ。もし君があのコーナーを回っていたら、たぶん誰も追い付けなかっただろう。ナイス・チャレンジだった」と言うのです。"あなたは僕を許すのか?"と思いました。彼は「君たちとパラリンピックのスタートラインに立てたのが僕の誇りなのだ。世界一の男を決めるレースなのだよ」と言う。
そのとき初めて「ああ、速いだけでパラリンピックのスタートラインに立ってはいけないんだ。人格もあり、優しさもあり、人を包み込むような温かみのある人だけがスタートラインに立てるんだ」と教えられたのです。その彼と「4年後にも北京のスタートラインで逢おう」と約束していたので、絶対に北京には行きたかった。実は、アテネの2年後、彼は亡くなってしまったのです。彼には逢えなくなったけど、人間とはこうあるべきだ、と教えてくれたことを形にすることが僕の責任であると思っていました。

―― そうやって自分を追い込んで獲得した北京の金メダル、涙は出なかったですか?

涙は出なかったですね。どちらかというとホッとした気持ちが強かった。嬉しいのはもちろんですが、車いすレースは、よほどの大番狂わせがないと、勝者は決まっているのです。集中力は必要ですが、そんなに緊張はしませんでした。

後進のために現役引退を4年間延長する

2008年 北京パラリンピック

(左)2008年 北京パラリンピック 800m T52で金メダルを獲得
(右)2008年 北京パラリンピック 400m T52 金メダルの伊藤智也(右)と銀メダルの高田稔浩(左)

―― 北京で金メダルを取って達成感で満腹になったのでは?

本当は、表彰式を終えて引退したかっです。もう45歳でしたから。でも、"ここで辞めていいのか?"と疑問に思ったわけです。北京の金メダルは、僕のセカンドキャリアにとっても大きいし、自信にもなった。それは目の前の大きくて高いチャンピオンというものを破って、抜き去ることでしか得られない自信なんですね。今、金メダリストになった僕は、後進のために大きくて高い壁にならなければいけないだろうと。4年後には正々堂々と戦って惨めな負け方をしないで引退しようと思ったわけです。

―― それで残り4年間のモチベーションを保ったわけですね。

絶対に勝つ、ではなく、どこかに負けてもいいんだ、という気持ちの中の4年間でした。そういう部分では辛い4年間でもありました。

2012年 ロンドンパラリンピックで銀メダル3個を獲得

2012年 ロンドンパラリンピックで銀メダル3個を獲得

―― 結局、ロンドンでは金メダルには届きませんでした。ホッとされたでしょう?

ロンドンは、ホッとしたというより、ああこれで競技から離れることができるのだ、と思いましたね。

―― 北京を頂点にして伊藤さんのアスリート人生は、なだらかな下り坂だったのですね?

ここで次の人生にスィッチする、切り替えるということです。セカンドキャリアがスタートしました。

―― そうとう充実したプロフェッショナル・アスリート人生でしたね。

幸せな人生だと思います。

引退後、2020東京オリンピック・パラリンピック開催が決定

講演会にて

講演会にて

―― しかも人生を切り替えられた直後に、2020東京オリンピック・パラリンピック開催が決まりましたね。

「選手として出るんでしょ」と言われています。会う人からは、100%質問されます。僕の経験がお役に立つのならば、貢献というのは大袈裟ですが、何らかの形でお手伝いしたいですね。

―― 年度が変わって障がい者スポーツが、厚生労働省の管轄から文部科学省の管轄に移りました。近い将来、スポーツ庁もできるようですが、そういう構想の中で、どういう変化があると思われますか?

健常者と障がい者のスポーツがひとくくりにして、同じ土俵で渡り合っていけるのか心配ですね。そもそも障がい者スポーツは、脊髄損傷による障がい者が中心です。それがノーベル医学賞を受けた山中教授のiPS細胞の研究で再生医療の発展が期待されています。もし再生医療が飛躍的に発展したら、障がい者が健常者になります。これは一般の社会では素晴らしいことですが、障がい者スポーツにとっては一大問題になると思います。まあ、2020年には、そこまでは行かないでしょうが、30年後の医学の進歩は想像できません。なかなかパラリンピックの将来は簡単には論じられないですね。

―― 一方でパラリンピック開催によるユニバーサルデザイン、バリアフリーの体勢をもっと充実させなければいけません。

そういったものを充実させるのは必要なことですが、その建物に行くアクセスも充実しないと意味がない。それとハード面ばかりではなく、ソフト面というか人の心もユニバーサルデザイン、バリアフリーにしないとダメですね。これは高齢化社会を迎える日本にとっても大切なところです。社会全体の総合知識、総合資産を充実させないと、先進国の仲間入りはないと思います。

―― 一般のスポーツの世界では、功成(こうな)り名を遂げた人を"アンバサダー"と呼び、その世界で経験したことをフィードバックする仕事があるのですが、おそらく今、伊藤さんがやってらっしゃることもそうした仕事ですよね。

そんな高度なものではないですが、まあ愚痴ばかり言って、行く先々で嫌われています。

2012年 ロンドンパラリンピック

2012年 ロンドンパラリンピック

―― 2020年は1つの関門にすぎませんね。

1つの小さな未来への出口政策をとるためのきっかけでしかないと思います。会議に来ても東京の方は"レガシー"を強調されるのですが、本質のレガシーは今から始まるものです。極めて貴重なものと言われますが、それではあなたのレガシーって何なのですか、と聞くと答えられない。ロンドンで上手く行ったので東京でも追随しているのでしょうが、未来に残すために所詮は、スポーツの祭典なんだ、ということを忘れてはいけないと思いますね。

―― のどの声帯は、腱板のように切れないと思います。伊藤さんがアンバサダーの役割を理解しながら、言いたいことをドンドン積極的に言って2020年が成熟した大会になるように願っています。

そうですね、そうしたいと思います。

―― ありがとうございました。

  • 伊藤 智也氏の略歴
  • 世相
1888
明治21
ドイツで聴覚障がい者のためのスポーツクラブが創設
1910
明治43
ドイツ聴覚障害者スポーツ協会が創設
1924
大正13
国際ろう者スポーツ連盟(CISS)が設立
 第1回国際ろう者スポーツ競技大会(現、デフリンピック)がパリにて開催される。これが国際的な障がい者のスポーツ大会の始まりとなる

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピックにあわせて、ストーク・マンデビル病院内で車いす患者(英国退役軍人)による アーチェリー大会を開催。これがパラリンピックの原点となる。

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
第1回国際ストーク・マンデビル大会が開催される

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1959
昭和34
東京身体障がい者更生指導所を東京都新宿区に開設
1960
昭和35
国際ストーク・マンデビル大会委員会(ISMGC)設立
ローマで第1回パラリンピックと位置づけられる国際ストーク・マンデビル大会(世界車いす・切断者競技大会)を開催
1962
昭和37
国際身体障がい者スポーツ大会の開催に向け、準備委員会が設立される

  • 1963伊藤智也氏、三重県に生まれる
1964
昭和39
東京オリンピック、国際身体障がい者スポーツ大会を開催
 財団法人日本肢体不自由者リハビリテーション協会(現・公益財団法人日本障害者リハビリテーション協会)設立

  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
財団法人日本身体障害者スポーツ協会(現・公益財団法人日本障がい者スポーツ協会)設立
第1回全国身体障害者スポーツ大会、岐阜県にて開催される。これが全国的な競技会の始まりとなる

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
財団法人日本肢体不自由者リハビリテーション協会、財団法人日本障害者リハビリテーション協会に改称催

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和45
国際身体障がい者スポーツ大会が、初めて国際ストーク・マンデビル競技連盟(ISMGF)と国際身体障がい者スポーツ機構(ISOD)の共催で行われる。
脊髄損傷者に加え視覚障がい者と切断の選手が出場するようになる。

  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
視覚障がい者の国際的なスポーツ団体である国際視覚障がい者スポーツ協会(IBSA)が設立
1981
昭和56
財団法人日本障害者リハビリテーション協会、障害者リハビリテーション振興基金を創設

  • 1982伊藤智也氏、人材派遣会社を設立、従業員200名の経営者となる
  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
国際身体障がい者スポーツ大会、冬季大会がインスブルックで開催
21カ国から419名の選手が参加

1985
昭和60
国際オリンピック委員会(IOC)は国際調整委員会(ICC)がオリンピック年に開催する国際身体障がい者スポーツ大会を「Paralympics(パラリンピックス)」と名乗ることに同意する

1986
昭和61
聴覚障がい者の国際スポーツ団体である国際聴覚障がい者スポーツ協会(現、国際ろう者スポーツ委員会=ICSD)と、国際精神薄弱者スポーツ協会(現、国際知的障がい者スポーツ連盟=INAS-FID)がICCに加盟

1987
昭和62
財団法人日本障害者リハビリテーション協会、総合リハビリテーション研究大会を開催

1988
昭和63
国際調整委員会(ICC)主催により、ソウルパラリンピック開催。
61カ国から3,057名が参加。日本選手141名参加。金メダル17個、銀メダル12個、銅メダル17個獲得
1989
平成元年
国際パラリンピック委員会創設
1992
平成4年
バルセロナパラリンピック開催
日本選手75名参加。金メダル8個、銀メダル7個、銅メダル15個獲得
1995
平成7
アトランタプレパラリンピック開催

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタパラリンピック開催
日本選手81名参加。金メダル14個、銀メダル10個、銅メダル13個獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野パラリンピック開催

  • 1998伊藤智也氏、多発性硬化症を発症
1999
平成11
日本パラリンピック委員会創設。財団法人日本身体障害者スポーツ協会、財団法人日本障害者スポーツ協会に改称

  • 1999伊藤智也氏、車いす陸上競技を始める
2000
平成10
シドニーパラリンピック開催
日本選手151名参加。金メダル13個、銀メダル17個、銅メダル11個獲得

  • 2002伊藤智也氏、障がい者スポーツの発展、育成の為のNPO法人ゴールドアスリーツ設立症
    伊藤智也氏、日本選手権シリーズにてマラソン優勝3回、5000m優勝2回、1500m優勝2回
  • 2003伊藤智也氏、世界選手権(ニュージーランド)にて金メダル3個、銀メダル1個獲得
    伊藤智也氏、ジャパンパラ競技大会にて金メダル3個獲得
2004
平成16
アテネパラリンピック開催
日本選手163名参加。金メダル17個、銀メダル15個、銅メダル20個 獲得

  • 2004伊藤智也氏、アテネパラリンピックにて5000m、マラソンともに4位となる
  • 2005伊藤智也氏、プロ車いすランナーへ転向
    伊藤智也氏、全国はまなす車椅子マラソンにて1位、日本選手権シリーズ1500m、800m、400mで優勝
    伊藤智也氏、世界初、障がい者としてギリシャマラソン博物館殿堂入りを果たす
2006
平成16
トリノパラリンピック開催

  • 2006伊藤智也氏、ジャパンパラ競技大会にて金メダル2個獲得。800mで日本記録樹立
    伊藤智也氏、世界選手権(オランダ)にて銅メダル3個獲得
    伊藤智也氏、大分国際車いすマラソンにて1位となり、日本記録樹立
2007
平成19
総合リハビリテーション研究大会、30周年を迎える
2008
平成20
北京パラリンピック開催
日本選手162名参加。金メダル5個、銀メダル14個、銅メダル8個獲得

  • 2008伊藤智也氏、北京パラリンピックにて金メダル2個獲得。
    400m T52、800m T52で世界新記録を樹立
    伊藤智也氏、九州チャレンジカップにて金メダル2個獲得。
    400m T52で日本記録、800m T52で世界記録樹立
  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーパラリンピック開催

  • 2011伊藤智也氏、世界選手権(ニュージーランド)にて金メダル2個を獲得
  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンパラリンピック開催
日本選手134名参加。金メダル5個、銀メダル5個、銅メダル6個獲得

  • 2012伊藤智也氏、ロンドンパラリンピックにて銀メダル3個を獲得し、選手生活を引退する

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オリンピック・パラリンピック年表