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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」

戦前の冬季オリンピックの歩みと日本の参加史

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2022.01.31

第1回大会は参加を見送った

1924年にフランスのシャモニー・モンブランで開催された「国際冬季スポーツ週間」

1924年にフランスのシャモニー・モンブランで開催された「国際冬季スポーツ週間」

 日本が初めて冬季オリンピックに参加したのは1928年、スイスのサンモリッツで開催された第2回大会である。

 1924年にフランスのシャモニー・モンブランで開催された「国際冬季スポーツ週間」、のちに第1回冬季オリンピックとして追認された大会には参加していない。前年9月に起きた関東大震災の影響で派遣準備ができなかったと言われているものの、何より日本の冬季スポーツは草創期で統括組織もない状況だった。翌1925年以降、日本でも冬を代表するスキーとスケートが組織化されてオリンピック参加に道が開かれていくが、その前に、第1回冬季オリンピックについて触れておきたい。

クーベルタンは冬季競技を認めなかった

オリンピックの創始者ピエール・ド・クーベルタン男爵

オリンピックの創始者ピエール・ド・クーベルタン男爵

 近代オリンピックを創始したフランス人貴族ピエール・ド・クーベルタンの理想は古代オリンピアの競技大会にあった。若い男性が鍛えられた肉体を誇示し、燃える太陽の下で走り、投げ、跳びはね、そして組み合う。もとより地中海に臨むギリシャには冬のスポーツなどない。その当時、すでに欧州ではスキーやスケートが競技スポーツとして発展し、競技大会も開かれていたが、古代オリンピックを模範とするクーベルタンの「近代オリンピックに冬の競技はいらない」という考えに変わりはなかった。

 1908年第4回ロンドン大会ではフィギュアスケートが公式競技として実施された。この頃までに、英国を代表する百貨店ハロッズのあるナイトブリッジに欧州初の屋内スケートリンクが完成し、ロンドンっ子に親しまれていた。組織委員会は屋内リンクと当時の取り決めである「(オリンピックの)実施種目は近代スポーツに限る」という一項に目をつけ、夏の大会に冬季競技をプログラミングしたのだった。

 フィギュアスケートには6カ国から21選手が参加した。クーベルタンは著書『オリンピック回想録』(伊藤敬訳)に書いている。「大会は『冬季競技』の名のもとに、付随的な競技を伴った。それは十月、ボクシング、人工氷上でのスケート、サッカー、ホッケーなどである。これは必ずしも適切な対応ではなかったが、イギリスのスポーツの季節的な慣例を考慮すると、そうせざるを得なかった」

 ボクシング、サッカー、ホッケーを冬季競技と言うかはともかく「人工氷上スケート」を「必ずしも適切な対応ではなかった」「イギリスのスポーツの季節的な慣例」とするあたりにクーベルタンの憮然とした様子がのぞく。

 このロンドン大会をきっかけに国際オリンピック委員会(IOC)の場でも「冬季競技のオリンピック化」が話題にのぼり、第1次世界大戦とスペイン風邪終息後の1920年、ベルギーのアントワープで開催された第7回大会にはフィギュアスケートに加えてアイスホッケーも実施された。そして19216月のIOCローザンヌ総会で議題として「冬季オリンピック開催」が登場。フランスやスイス、カナダなどのIOC委員の強い主張によって、19226月のパリ総会においてIOCが支援して実験的に独立した国際冬季競技大会を開催、その結果によって冬季大会の独立を決める事になった。

 この時、おもしろいことにノルディック(北方の)スキーを国技とするノルウェー、隣国スウェーデンが強く反対している。実質的な世界選手権とされた「ホルメンコーレン大会」を主催するノルウェーにはオリンピックに「世界一」の称号が取られてしまう事への恐れが生まれ、スウェーデンを巻き込んだ抵抗に至ったと言われている。

1924年は実験的な開催だった

 実験的な「国際冬季スポーツ週間」は1924年1月25日から25日までの12日間、フランス・オリンピック委員会が中心となって南フランスのジャモニー・モンブラン地方で開催された。正式名称は「第8回オリンピアードの一部として、IOCが最高後援者となり、フランス・オリンピック委員会がフランス冬季競技連盟とフランス・アルペンクラブ共同でジャモニー・モンブラン地方で開催する冬季スポーツ大会」と言う長いものだった。

 スキー、スケート、アイスホッケーにボブスレーの4競技14種目を実施、16カ国から女子13人を含む258選手が参加した。デモンストレーションとしてバイアスロンの前身であるミリタリー・パトロールトカーリングも行われている。抵抗していたノルウェーは得意のスキーなどで金4、銀7、銅6と参加国最多17個のメダルを獲得した。フィンランドが金4、銀3、銅3、スウェーデンも金1と北欧勢で14種目中9種目に優勝した事は特筆してよい。北欧こそ冬季競技の中心だと示した。

 またフィギュアスケートにはノルウェー・オスロ出身の11歳、ソニア・ヘニーが登場して人気を集めた。ソニアは次の第2回大会からオリンピック3連覇。後に米国に移住、女優としてハリウッド映画に出演している。

 実験は成功だった。翌1925年、IOCはプラハ総会でシャモニー・モンブランを第1回冬季オリンピックとして追認。合わせて28年にサンモリッツで第2回大会を開催すると決めたのである。

同じ25年、クーベルタンはIOC会長をベルギー出身のアンリ・ド・バイエ=ラツールに託し、オリンピックの表舞台から退場した。それと引き換えのように冬季競技はオリンピックに迎えられた。ただ、夏季大会が古代オリンピックの伝統を引く「オリンピアード競技大会」と呼ばれ、開催が中止されても回数を数えるのに対して、冬季の名称は「オリンピック冬季競技大会」であり、回数は実際に開催された大会しか数えない。メダルや賞状も別デザイン。IOCがクーベルタンの意思を慮ったのかもしれない。

冬季オリンピックの歴史が幕開け。初参加した日本スキーチーム

1928年サンモリッツ 開会式に出かける日本のスキー選手

1928年 サンモリッツ オリンピック冬季競技大会 開会式に出かける日本のスキー選手

 1928年第2回大会は初めて「オリンピック」の名を冠して開催された。会場となったサンモリッツは欧州のほぼ真ん中に位置し、すでにスキー・リゾートとして知られた地域であった。開会式ではスイスのエドムント・シュルテス大統領が開会を宣言し、スキーのハンス・アイデンベンツが選手宣誓している。第1回大会実施の4競技にスケルトンが加わって5競技14種目。参加は25カ国464人に増え、日本から6選手が初参加した。

 選手たちを派遣したのは、大日本体育協会ではなく1925年発足の全日本スキー連盟(SAJ)。24年に創設された国際スキー連盟(FIS)に26年に加盟した国内スキー界の統一組織である。発足時に常務委員として加わった広田戸七郎監督に率いられたノルディックスキーの代表6人の内訳は早稲田大学の現役、OB5人に北海道帝国大学の学生1人。広田も北大出身で両校関係者は派遣費調達に苦労した。

 シベリア鉄道経由で欧州へ。サンモリッツに入る前にイタリアのコルチナ・ダンペッツオで開かれた国際学生大会に出場し、初日のクロスカントリー16㎞で矢沢武雄(早大)が4位、竹節作太(早大)6位、翌日の滑降でも永田実(早大)が4位、矢沢6位と健闘した。意気揚々と臨んだオリンピック本番、しかしそううまく事は運ばなかった。クロスカントリー50㎞では永田が完走30人中24位、18㎞は完走44人中矢沢の26位が最高だった。ジャンプでは伴素彦(北大)が38位、麻生武治(早大)は2本とも転倒で記録なし。複合でも伴、麻生ともに記録なしに終わった。

 当時の日本選手は独学といえば聞こえはいいが、見様見真似で勝手に滑っていたに過ぎない。ワックスの知識もなく、夜間、先進国の宿舎の窓から覗き見て驚いた逸話が残る。また、国産スキー板は桜材で折れやすいため山のようにスキーを現地に持ち込み、密輸業者に疑われたという笑えない話もあった。ただ彼らは大会後、オスロに赴き、先進国ノルウェーで大きな知識を得て帰国。ジャンプでは第3回レークプラシッド大会で安達五郎(札幌鉄道局)が8位、第4回ガルミッシュ・パルテンキリヘン大会では伊黒正次(北大出身)が7位に入り、戦後の飛躍につなげた。

スケート代表に時代を思う

1936年ガルミッシュパルテンキルヘン大会に冬季オリンピック日本人最年少出場した稲田

1936年ガルミッシュパルテンキルヘン大会に冬季オリンピック日本人最年少出場した稲田

 日本のスケートの興隆に、あの『武士道』で知られた国際連盟事務次長、新渡戸稲造の存在があった事はもっと知られていい。1891年春、ドイツ、米国での留学から戻った新渡戸は母校、札幌農学校(現・北海道大学)に3足の米国製スケート靴を持ち帰った。学生たちは結氷を待ちかね、争うようにスケートに親しんだ。もちろん3足では足りず、本物をまねて靴業者に造らせたり、下駄に刃を付けた「下駄スケート」を使ったり、やがて米国に注文する者が現れるなど、寒い北海道を中心に普及していった。

 大日本スケート競技連盟設立は1929年。翌年1月から全日本選手権が始まり、3シーズン目の32年第3回大会にスピード4選手、フィギュア2選手が参加した。スピードは世界との差が大きく誰ひとり決勝に進めなかったが、このスピード4選手中3人が満洲体育協会の所属だった事は知っておかねばならない。

 かつて満洲と呼ばれた中国東北部は戦前、日本が侵攻、占領した辛い歴史が残る。一方で日本は産業育成に力をいれ、不毛の地と言われた土地を開墾していった。真冬には零下30度にもなる地域で、早くから氷上のスポーツが奨励され、盛んに競技大会も行われていた。第3回大会代表選手たちは、そうした土地柄で育った。短距離の石原省三はその後、早大に進学し36年第4回大会でも代表入り。得意の500mで4位となり、日本の冬季オリンピック史上初の入賞(当時は6位まで)を果たした。

 日本におけるフィギュアスケートは1877年ごろ、宣教師として来日した米国人が仙台市にある五色沼で教えたのが始まり(所説あり)とされる。第3回大会では老松一吉(大阪朝日ビル)が9位、帯谷龍一(慶大出身)が12位だった。第4回大会には大阪の小学6年生、12歳の稲田悦子が出場。白いコスチュームに赤いカーネーションをつけて滑走、人気を集めた。出場26人中10位に終わったが、この大会でオリンピック3連覇を果たしたソニア・ヘニーは「いずれ稲田の時代が来る」と話したという。しかし、戦火の拡大によって、次の1940年第5回札幌大会は返上。戦争が全盛期を黒く塗りつぶした事は残念でならない。

 第4回大会にはアイスホッケーも参加。当時圧倒的な強さを誇った満洲医科大学チームを中心に編成された。氷上スポーツの代表選手に時代を思うのは私だけではあるまい。

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  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。