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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

よく闘った『ビリの英雄』
~ムサンバニとカルナナンダ

【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】

2020.07.01

「オリンピックで最も重要なことは勝つことではなく、参加することにある」

オリンピックの精神を伝える創始者ピエール・ド・クーベルタンの言葉として、今も昔も、しばしば引用される。しかし、正確にはクーベルタンではなく、1908年第4回ロンドン大会の際、米国選手団に帯同していたペンシルベニア大司教、エチュルバート・タルボットが日曜ミサで発した言葉である。

ロンドン大会はスポーツの世界でも台頭する米国と長く君臨してきた英国との感情が対立、爆発したオリンピックであった。綱引きでの異議申し立てに始まり、陸上競技400m決勝でピークに達した。

伝統の800、1500mで米国選手に優勝をさらわれた英国には「400mこそ」との思いが強かった。レースは米国3人、英国1人の4選手が出場して始まった。米国の2選手がリード、もはや順位は動かない状況で突然、英国人で構成された審判団が「レース無効」を宣言した。トップ争いで走路妨害の反則行為があったという。審判団はトップだった選手を失格として再レースを提案したが、米国は反発してボイコット。結局、英国選手が1人で再レースを走って優勝したものの、2、3位がいない汚点レースとなった。

タルボットはこうした状況を憂慮、レース直後の7月19日、ロンドンのセントポール寺院の日曜ミサに各国・地域の選手や役員を招き、「参加の意義」を説いたのだった。

「参加する」だけでなく「よく闘え」

説教から5日後の7月24日、クーベルタンは英国政府主催のレセプションで参加選手団の役員を前にタルボットの言葉を引用してスピーチした。

「オリンピックで最も重要なことは、勝つことではなく、参加したということである。これは人生において最も重要なことが、成功するかではなく、努力したということと同じである。本質的なことは勝ったかどうかではなく、よく闘ったどうかである」

冒頭の言葉は1932年ロサンゼルス大会の男子選手村ロビーに掲げられ、「オリンピックの理想を表す標語」として広まった。

クーベルタンの姪の息子でフランスの名門貴族、クーベルタン家の家督を継いだジョフロワ・ド・ナヴァセルを北フランス・ミルヴィルの屋敷に訪ねたとき、クーベルタン研究家としても知られていた彼はこう話してくれた。
「誤解してはいけない。ただ参加することに意義があるのではなく、よく闘うことが大切だとピエールは言いたかったのだよ」

競技大会に「競う」という要素がある以上は勝ち負けが存在し、勝利をめざすことは言うまでもない。しかし勝っておごらず、負けて悔やまず、全力を尽くして闘う。それこそクーベルタンが理想とし、何よりも言いたい「スポーツマンシップ」にほかならない。

速くはないが、懸命に泳ぐ

ムサンバニの力泳

ムサンバニの力泳

前置きが長くなった。私たちは「よく闘った」選手に「よくやった」「がんばったね」と言葉をかけ、大きな拍手をおくる。オリンピックでもそうした選手がたくさんいた。その代表選手を2人、紹介するとしよう。

2000年シドニー大会競泳に出場した赤道ギニアのエリック・ムサンバニ(2000年当時、日本のメディアはモウザンバニと記述)の泳ぎは、なんと表現したらいいのだろう。ちょっとクロールで泳げるようになり、50mなら何とかいけるぞという、たまにトレーニングジムで見かける人の姿のようだ……。

9月18日、ホームブッシュベイのオリンピックプールでは競泳男子100m自由形予選が始まった。第1組のレースに登場したのは3人だけ。いずれも持ちタイムがオリンピック参加標準記録に達しておらず、各加盟国・地域に男女1人ずつ与えられる特別枠、ワイルドカードで出場した選手たちだ。

3人はスタート台にあがった。もちろん、スタートの合図を待って一斉に飛び込まなければならない。ところが、ニジェールとタジキスタンの選手2人は「ヨーイ」の声で飛び込んでしまった。初めて経験する舞台で舞い上がったのか、フライイングで失格。残ったムサンバニはひとりで泳ぐ羽目になった。

スタートはうまくいった。水しぶきを高くあげて腕を振りまわす。脚もバタバタ。トップ選手のような美しいフォームとはかけ離れていたが、悪くはない。ただ、速くは進めないのだ。それでも懸命に泳いだ。

ムサンバニが本格的に競泳を始めて、まだ7カ月あまり。バスケットボールの選手で、赤道ギニアがシドニー大会の競泳に代表選手を送ろうと公募したとき、所属するスポーツクラブが応募した。ムサンバニが代表になれば補助金をもらえるとクラブはもくろんだようだが、ムサンバニには関係のない話だ。

2000年5月、彼は選考会場である首都ボレカのホテルに行った。わずか長さ12mだが赤道ギニア唯一のプールがある。来たのは彼ともう1人、パウラ・バリラ・ボロパという雑貨店に勤める女性。2人は役員の前で泳いでみせるだけでよかった。

1978年生まれのムサンバニは、12歳のとき初めて海で泳いだ。母の実家のある村だ。そんな彼に役員がパスポートを用意するようにいい、「トレーニングを続けなさい」と告げた。海と川で泳ぐ。週末にホテルのプールで2、3時間。それがトレーニングのすべてだった。

史上最も遅いスイマーの誇り

赤道ギニアを発ち、ガボンの首都リーブルビルからパリ、香港と飛行機を乗り継いでシドニーへ3日間の旅。アフリカから遠く、目新しいことばかりで不安だらけだが、「国を代表することが誇らしく」うれしかった。

オリンピックプールを初めてみて驚いた。想像を絶する大きさだ。米国チームと練習が一緒になり、そこでも驚いた。何もかもが自分とは違う。彼らの動作を見ながら、飛び込みのやり方や手、足の使い方、そしてターンの方法まで。「すべてはシドニーで学びました」とムサンバニは言った。

さてレース。慣れていなかったクイックターンをうまく成功させると後半の50m。そこから苦しくなった。腕が上がらず下半身は下がり、まるでもがいているようだ。

そのとき、スタンドから声援が飛び、大きな拍手が起きた。後は「ガンバレ」「ガンバレ」の合唱に押されて夢中で泳いだ。ライフセーバーに見守られ、なんとかゴールにたどり着いたときはすっかり疲れ果てていた。

1分52秒72。優勝したオランダのピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドの記録48秒30から1分以上も遅い。オリンピック史上最も遅い記録である。それでも、会場を揺るがす拍手をうけて、ムサンバニには笑顔があふれた。「泳ぎきることが目標だったから、金メダルを獲ったようにうれしい」と胸を張った。赤道ギニア新記録でもあった。

テレビの中継やニュース、新聞報道で取り上げられて、ムサンバニはファン・デン・ホーヘンバンドよりも、3つの金メダルを獲得した地元オーストラリアのイアン・ソープよりも世界中の注目を集める人気者になった。スポーツ用品メーカーのスピードがスポンサー契約を申し出、サメ肌繊維の高速水着を提供した。史上最も遅いスイマーが胸に「SPEEDO」のロゴが入った水着で泳ぐ。冗談みたいだが彼に屈託はない。「みんなの目が自分に注がれ、これ以上の誇りはありません」

ムサンバニはその後、数々のスポンサーの支援をうけて練習を重ね、4年後のアテネ大会前には56秒台の記録で泳げるまでになった。しかし、アテネにはビザ取得の不手際で出場できなかったことが惜しまれる。

ビリの英雄は陸軍伍長

『ビリの英雄を偲ぶ会』―風変わりな名前の小さなパーティーが在日スリランカ大使館で開かれたのは1997年10月19日だった。いまは東京・高輪に移転しているが、当時は赤坂の霊南坂教会のそばにあった。

休日の大使館が開放されて、ヒゲで知られた人気講談師の田辺一鶴が自作の講談『ビリの英雄』を熱演。ナワラットナラージャ大使のチャンドリカ夫人が自慢のクッキーを焼き、スリランカの誇りである紅茶とともにふるまわれて、33年前に芽生えた日本とスリランカの友情を語りあった。縁あって私も話の輪に加わり、ほのぼのとした優しさに包まれたことを覚えている。

話の主人公はラナトゥンゲ・カルナナンダ。1964年の東京オリンピック陸上競技に出場したセイロン(当時)の長距離選手、セイロン陸軍伍長である。

1964年10月14日、夕暮れの東京・国立霞ヶ丘競技場。男子10000mには38選手が出場、オリンピック史上に残る逆転劇が演じられた。

終始、先頭に立ってレースを引っ張ったのはオーストラリアのロン・クラーク。19歳で1956年メルボルン大会の聖火最終走者を務めた青年は10000mの世界記録を幾度も更新する世界有数のランナーに育っていた。長身で胸を張って走るクラークをマークするように、小柄なチュニジアのモハメド・ガムーディー、エチオピアのマモ・ウォルデ、そして米国のビリー・ミルズが続く。日本の円谷幸吉たちは少し遅れた。

残り2周で、マモが遅れた。クラークとミルズが先頭を争い、ガムーディーが追って最後の1周へ。第2コーナーで周回遅れの選手を抜くためにクラークが右に出た。ミルズが弾かれて外に飛び出した。この瞬間、ガムーディーが2人の間を割って入り、一気に抜け出した。追うクラークがスピードを上げるが、差は縮まらない。

ガムーディー勝利と思われたその時、外から一気に抜き去っていったのがミルズ。米国先住民族スー族の血を引く驚異のスプリント力が最後の最後に生きた。28分24秒4、オリンピック新記録での優勝だった。「世紀の」と称された逆転劇である。

『ゼッケン67』カルナナンダはそうした争いの埒外にいた。レースの1週間ほど前、風邪をひいた。レース当日になっても熱はさがらない。しかし、この28歳になるセイロン記録保持者は祖国の名誉をかけ、故郷で待つ妻と娘のために出場した。

何があっても走り続ける

カルナナンダに大きな拍手が贈られた(写真:共同通信)

カルナナンダに大きな拍手が贈られた(写真:共同通信)

スタートから2周、3周と世界のトップランナーに遅れまいと走った。しかし、思うように体が動かない。だんだん先頭から離れていき、やがて周回遅れになった。そのうち、肩を並べて走っていた選手がひとり、ふたりとレースを止めて残るは29選手となった。

だが、「ビリのランナー」はレースを捨てない。「どんなに遅れようと、どんなに体調が悪かろうと、ただ一生懸命に走るだけだ」―それが出ると決めた以上、自分に誓ったことだ。

もう終盤、いきなり大歓声に包まれた。ミルズ、ガムーディー、クラークが激しく争って、ミルズの逆転勝利に国立競技場はわきに沸いたのだ。ビリのカルナナンダにも興奮は伝わっていた。しかし、彼は表情も変えずに走る。1周、2周、ミルズから遅れること3周、時間にしておよそ4分遅れ。28位の日本の渡辺和己からも離され、残り3分間はたった1人で陽の落ちたトラックを走り続けた。

いや1人ではなかった。国立競技場を埋めた観衆が声をあげて『ゼッケン67』を応援し、"一緒に走り"だした。はじめは冷やかし、やがてその声は大きなうねりになった。そして力を振り絞ったカルナナンダが最後のラストスパートでゴールしたとき、7万観衆からはミルズよりも、6位入賞した円谷よりも、さらに大きな拍手が起きた。

「とても苦しかった。でも、観客の拍手はぼくをこのうえなく元気づけてくれた」

一夜明けて、「ビリ」でゴールしたカルナナンダは「英雄」となっていた。代々木の選手村を訪ねて、3周遅れになりながら最後まで走りぬいた強さを讃える人が相次いだ。「感動しました」と日本人形を手渡してくれた女性もいた。

日本全国から手紙や贈り物もたくさん寄せられた。「初めて真のオリンピック精神を感じました」「クーベルタン男爵が生きていたなら、あなたに"心のメダル"を贈ったでしょう」などなど、賛辞であふれた。大会組織委員会は、人々に感動を与えたとして特別なメダルを贈った。

日本滞在中、東京・北区立赤羽西小学校から運動会のゲストに招かれた。小学生との交流は、小さな子供を持つ父親には何にも増したご褒美となった。「ぼくは本当にしあわせ者だ」―─はにかむ人は、善意の人々から贈られたお金を「パラリンピックの一助に」と厚生省パラリンピック局に寄託するのである。

教科書に載った周回遅れの走者

東京大会から7年後、最後まで走りぬいたヒーローは『ゼッケン67』として日本の教科書に載った。光村図書出版の『小学新国語四年下』―1971年度版から76年度版、全国で多くの小学生がこの教科書で学んだ。教科書には走りぬく姿がこう描かれた。

1964年、東京オリンピックの陸上1万メートルレース。
トップを争う選手たちが、次々とゴールしていく。
レースは終わった。
しかし、「ゼッケン67」を付けたランナーは、まだ、走るのをやめない。
「周回遅れか」「がんばれよ」……やじを含んだ声が、観客席からあがる。
それでもランナーは走り続ける。
だれもいないトラックを、1周、2周、さらに3周……。
彼のゴールは、まだ終わっていなかったのだ。
勝利のためでも記録のためでもなく、自分自身のゴールに向けて走るこのセイロンのランナーに、やがて観衆は大きな声援を送り始めるのだった。

1973年当時、青山学院初等部でもこの教科書を使った。4年生のあるクラスでは代表者がカルナナンダに手紙を書き、1972年に国名変更されたスリランカ駐在の吉岡章大使を介して文通を始めた。彼は現地の日本人学校でもヒーローで、日本大使館ではたびたび交歓会が開かれたという。しかし、交わりは翌1974年12月で終了した。この年、彼は水難事故で帰らぬ人となった。東京の感動から10年の歳月が流れていた。

カルナナンダの名が甦るのは1996年。アトランタ大会を前にして、NHKがオリンピック特集で取り上げた。番組を見た人が呼びかけ、1997年の『ビリの英雄を偲ぶ会』に結び付いていく。赤羽台西小学校の同窓生や教科書掲載に携わった人たちがいた。選手村に会いに行き、手紙を書いた人も集まった。「もう一度教科書に……」と話が出た。

教科書に戻るまで、20年近い月日が流れた。東京に再びオリンピックの聖火が来ると決まり、2016年度版光村図書出版の教科書に採用された。今度は国語ではなく、中学3年の英語。『ナンバー67』と題名を変えて、『ゼッケン67』の英訳文が掲載された。

歳月は人を変え、世の中を変える。しかし心に残る「英雄」の姿は、変わりはしない。あの1964年、小学4年生の私はテレビの中継に目を凝らした。カルナナンダの走りを見た思いを、いま、こうして綴っている。

おぼれそうになっても、周回遅れでも、彼らは自分のすべてを出しきり、よく闘い抜いた。クーベルタンの思いを体現した姿は、『ビリの英雄』として多くの人の心のなかに生き続ける……。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。