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指導者としての金栗四三

佐藤 次郎 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】

2020.05.13

「みんなで伸びていこう」の精神で

NHKの大河ドラマ「いだてん」で、あらためてその偉大な足跡にスポットライトが当たったのが金栗四三だ。1912(明治45)年のストックホルム大会で、三島彌彦とともに日本初のオリンピアンとなった長距離走者。三度のオリンピック出場を果たし、日本のマラソンの魁として知られているが、この人物の偉大さは草分けランナーとしての活躍にはとどまらない。むしろ、その後の足跡にこそ、より大きな価値があったと言うべきだろう。すなわち、長距離走や女性スポーツの発展に力を尽くした功績である。

1912年ストックホルム大会開会式で旗手を務める金栗四三

1912年ストックホルム大会開会式で旗手を務める金栗四三

はたちの東京高師学生として出場したストックホルム大会のマラソン。27km前で無念のリタイアとなり、帰国して雪辱を期した練習が始まるのだが、驚くのは、その時点でもう指導や普及を考えた行動をとっているところだ。

ストックホルムの反省から取り組んだ千葉の海岸での耐熱練習。それに効果があるとわかると、さっそく二回目からは大日本体育協会に話をもちかけ、体協の夏季練習会という形にした。顕著な効果があるのなら、自分一人でやるのではなく、多くの仲間や後輩にも勧めようと思ったからである。はたちそこそこの若さで、次のオリンピックに向けてさらに力を伸ばしていこうという時期。いい練習方法を工夫したのなら、ライバルには教えたくないというのが人情だろう。ところが金栗は、そんなことにはいささかもこだわらず、「いい練習ならみんなでやればいい」と考えたというわけだ。

東京高師の研究科に進んでからは、各地の師範学校を回って長距離走・マラソンの指導・普及に取り組んだ。高師の先輩が教師を務めている学校はもちろん、伝手のない学校に出かけて、話をさせてもらいたいと頼み込むこともあったという。自分だけが頑張っても、海外に伍していくのが難しいのなら、できるだけ多くの後輩を育てて層を厚くしていこうと考えたのである。若いとはいえ、初のオリンピック選手としての知名度は高い。この全国行脚は、たくさんの少年に陸上競技への志を抱かせたろう。

高師を出て、師範学校などで地理の教師を務めるようになると、指導への情熱はますます増していった。御殿場で合宿を開き、後輩たちを集めて、いまでいう高地トレーニングを行ったのもその一環だ。また、東京がみやことなって五十年の節目を記念する「奠都記念東海道五十三次駅伝競走」を実現させたことや、教え子の秋葉裕之と挑んだ下関―東京間1200km走破も、日本長距離界の底上げを考えてのチャレンジだったに違いない。ランナーとしての絶頂期を迎えようとする20代半ばのころ。たいていの選手は、オリンピックで雪辱を果たすために、まずは自分自身の強化を第一と考えるに違いない。だが、金栗は、全体のレベルアップを優先して指導にあたり、自分の工夫をすべてライバルたちにも伝えた。「みんなで強くなろう」という姿勢は常に変わらなかった。

奠都記念の東海道五十三次競走で悟ったのは、長距離走者をたくさん育てるのに駅伝競走は最適だということだった。そこから浮上したのが箱根駅伝のアイディアである。いまや正月の風物詩ともなっている国民的行事。その創設も、できるだけ多くの選手を育て、日本の長距離を発展させていくという考えのもとに行われたものだった。「全体のレベルアップ」「みんなで強くなる」を第一に考えてきた金栗四三の功績がいかに大きかったかは、この一事だけでも明らかと言えるだろう。

そしてもうひとつ、長距離走を盛り立て、広く普及・発展をはかっていったことと並んで高い評価を受けているのが、女性スポーツ発展への貢献である。

二度目のオリンピック出場となった1920(大正9)年のアントワープ大会。足の痛みや雨に悩まされての16位と、結果はまたしても不本意なものとなったが、この遠征でも金栗は取り組むべき課題をつかんでいた。自分の競技に関してではない。女性のスポーツをもっと盛んにすべきということだ。

アントワープ出場後、金栗はドイツに立ち寄った。第一次世界大戦が終わって二年足らず。敗戦の傷跡はドイツ全土を覆っており、苦しい生活状況があちこちに見てとれた。が、それでも市民はスポーツを楽しんでいた。その中では女性も溌剌と躍動していた。苦しい生活の中でもスポーツを忘れず、復興への活力を育んでいるドイツの市民たち。しかも、女性も男性と同じように、たくましく、元気いっぱいにスポーツを楽しんでいる。そこに金栗は強い感銘を受けた。スポーツのすそ野を広げていくことに心を砕き、多くの若者を競技の世界へと誘う努力を続けてきた人物は、その光景が持つ意味を見逃さなかったのである。

国民こぞってスポーツに取り組めば、社会の活力はよりいっそう高まる。しかも、母となって子どもを育てる女性の間で盛んになれば、スポーツを愛する心はずっと受け継がれていくに違いない。こう思った金栗は、アントワープ大会翌年の1921(同10)年、東京女子高等師範学校の教師となり、教育の現場で女生徒たちをスポーツへと導き始める。

当時、日本の女性スポーツはまだ揺籃期にあった。テニスや体操が明治の末から女学校などで行われていたほかは、1919(同8)年に女子中学校排球競技会が、1920(同9)年には女子水泳大会がそれぞれ開かれたという記録が残っている程度だ。若い世代も含め、女性の大半はスポーツと縁の薄いままだった。金栗はそうした中で、女性の間にスポーツを広めていく重要性を見抜き、自らその先頭に立ったのである。

金栗の生涯を克明に追った伝記「走れ二十五万キロ マラソンの父 金栗四三伝」によれば、東京女高師ではまずテニスに力を入れ、さっそく新聞社も巻き込んで初の女子テニス大会を開いた。さらに女学校陸上競技大会も開催。放課後の活動も奨励し、たちまち学校挙げてスポーツに取り組む態勢をつくり上げてみせたという。

これと軌を一にするように、各地で女子スポーツ大会が盛んに開かれるようになったのがこの時期。1923(同12)年には関東女子体育連盟が、翌1924(同13)年には日本女子体育協会が設立され、普及・発展への体制も整っていった。二度のオリンピック出場で知名度抜群だった金栗が先頭に立って旗を振ったことは、女性スポーツ振興にまたとない追い風となったに違いない。

1924年パリ大会へ向かう船上で練習する金栗

1924年パリ大会へ向かう船上で練習する金栗

1924年には三度目となるパリオリンピックに出場した。結果はまたも途中棄権。これを最後に、競技の一線からは身を引く。だが、指導と普及には変わらず力をそそいだ。いったん郷里の熊本に帰った時も、県内を回って子どもに走りを教え、競技を志す若者の強化育成にもいそしんだ。長距離などの陸上だけでなく、他の競技の普及にも力を入れたのは、スポーツ全体の振興を大事にしてきた金栗らしいところだ。

もちろん女性スポーツのことも忘れなかった。1936(昭和11)年に、1940(同15)年の東京オリンピック開催が決まると、その準備に加わるために再び上京。あわせて、十文字高等女学校で教鞭をとった。ここでも放課後のスポーツに力を入れたという。

最初に東京女高師で取り組んだ時から15年ほど。女性スポーツは見違えるほど盛んになっていた。日本女子が初めてオリンピックに参加したのは1928(同3)年のアムステルダム。その時の女子選手は、陸上・800mで銀メダルを獲得した人見絹枝ただ1人だった。それが、1932(昭和7)年のロサンゼルスでは16人になり、1936(同11)年のベルリンでは17人にまで増えた。ベルリンでは水泳の前畑秀子が金メダルにも輝いている。久しぶりに東京に戻った金栗は、自らの奮闘も力となって実現したこの隆盛を見て感慨無量だったのではないか。

1940年の東京オリンピックは戦火の拡大によって、開催返上・中止となった。だが、金栗はさらに別の女学校に移って終戦時まで教壇に立った。若いころから指導・普及活動に心を砕いてきた身として、戦時のような苦しい時でもスポーツの精神を忘れてはならないと自らに言い聞かせていたのだろう。

1928年アムステルダム大会陸上女子800m銀メダルの人見絹枝

1928年アムステルダム大会陸上女子800m銀メダルの人見絹枝

戦後、熊本に戻った金栗は、熊本県体育会(のちに熊本県体育協会)を発足させて初代会長となり、熊本陸上競技協会の会長も務めるかたわら、熊本県の教育委員となり、県教委の初代委員長の座についた。これはいかにも金栗にふさわしい仕事だったといえる。その指導は常に、競技力の強化のみにとどまらず、人間教育の一環として行われてきたように思えるからだ。しかもそれは、大所高所から教えさとすのではなく、教える側と教えられる側がともに同じグラウンドに立ち、ともに汗を流す形で行われてきた。「みんなで強くなろう」「みんなで伸びていこう」。金栗の姿勢は終始一貫していたのである。

1983(同58)年、92歳で永眠。陸上・長距離の指導・普及に、さらにスポーツ全体の振興にすべてをそそいだ生涯だった。その思いはいまもなお、さまざまなマラソン大会や箱根駅伝などに生き続けている。日本で一番最初に女子駅伝大会が行われたのは郷里の熊本。女性スポーツを盛んにしたいという願いも、地元をはじめとして、しっかり受け継がれてきたというわけだ。「みんなで伸びていこう」の精神はスポーツ界のあちこちにその成果を残している。

三度のオリンピック出場はいずれも不本意な結果で終わっている。それでも、金栗は笑顔を絶やさずに指導や普及にあたってきた。おそらく彼は、日本のスポーツ界全体が発展していくなら、自分個人の栄誉などいらないと思っていたはずだ。

  • 佐藤 次郎 佐藤 次郎 スポーツジャーナリスト
    笹川スポーツ財団 評議員

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