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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

金栗四三
マラソンにすべてをそそいだ「不動の大岩」

【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】

2018.10.18

金栗四三かなくり しそうはオリンピックに3度出場した。そのすべてが不本意な結果で終わっている。1回は完走したものの16位、残る2回は途中棄権だ。が、この長距離ランナーは深い失意をそのままにはしておかなかった。それを次への糧として生かそうとする姿勢を常に保っていた。のちに「日本マラソンの父」と呼ばれ、日本長距離界の育ての親としての足跡を残すことになったのは、まさしくその姿勢ゆえに違いない

1912年ストックホルム大会の開会式で「NIPPON」のプラカードを持ち行進する金栗四三

1912年ストックホルム大会の開会式で「NIPPON」のプラカードを持ち行進する金栗四三

新時代の文化が花開き、欧米に肩を並べる強国を目指して日本がひた走り始めたころ、金栗は熊本県春富村(現和水町)に生まれた。1891(明治24)年夏である。高等小学校時代に往復12kmの道を走って通って培った健脚を競技で生かすようになったのは東京高等師範学校に入ってからだ。当時の校長が日本の近代スポーツを育て、オリンピック運動のさきがけともなった嘉納治五郎かのう じごろうだったのも、選手として大きくはばたいていくうえでの力となったことだろう。

マラソンでオリンピック出場のチャンスをつかむのは早かった。陸上短距離の三島彌彦みしま やひことともに日本初のオリンピアンになったのは、東京高師在学中に迎えた1912(明治45)年のストックホルム大会だ。

船とシベリア鉄道による長旅は、途中で「もう日本に帰ろう」とこの頑張り屋に弱音を吐かせるほどつらいものだった。そうしてやっとのことで初の五輪大会に臨んだのだが、結果はといえば、出場した68選手のちょうど半分しか完走できなかったという暑さもあって、26.7km地点での無念の棄権となっている。初のオリンピック、初の国際大会出場であり、すべてが手探りの中では、それも致し方のないことだったかもしれない。この時、はたちのランナーは世界の壁の厚さをいきなり目の前に突きつけられたのだった。

1912年ストックホルム大会マラソンスタート直前。中央が金栗

1912年ストックホルム大会マラソンスタート直前。中央が金栗

ここから不屈の努力が始まった。どうすれば世界と互角に戦えるのか。マラソンを思うように走り切るためにはどんな練習が必要なのか。日誌に「残念至極」と書きつけた屈辱を晴らすための試行錯誤に、敢然として取り組み始めたのだ。

翌日の日記に、金栗は「失敗ハ成功ノ基ニシテ又他日、其ノ恥ヲ雪グノ時アルベク」と書いている。「マラソンというのは耐久力ばかりではだめだ。スピードもいる。練習を根本的に建直してやれば日本人に決して不適当な種目ではないと(いうのが)その時の私の感想だったのである」とは、のちに新聞紙上で語ったことだ。惨敗のショックをあえて吹っ切り、すぐさま次を目指した潔い切り替え。再出発の決意はそれだけ固かったのである。

そして、その再スタートには大きな意味が含まれていた。それ以降の努力が、金栗四三という一人の選手のためだけではなく、あとに続く多くの走者たちを生み、育てるための原動力になったということだ。

まず実行したのは「耐熱練習」だった。真夏に千葉県・館山の海岸に赴き、二カ月にわたって炎天下で走る練習を積み重ねた。ストックホルムの失敗の直接原因は暑さに適応できなかったこと。そこで、まずは暑さの壁を乗り越えるところから再挑戦を始めたというわけだ。

冬になると、今度は「耐寒訓練」として厳寒の中で走った。どんな環境でもそれなりに力を発揮できるようにという狙いである。

1924年パリオリンピックへ向かう船の甲板で練習する金栗四三

1924年パリオリンピックへ向かう船の甲板で練習する金栗四三

東京高師の研究科に進んでからは、自らを鍛えるだけでなく、広く人材を発掘して発展の土台づくりをする活動にも打って出た。全国の師範学校にいる先輩、後輩に手紙を書いたうえで現地を訪ね、自らの練習法を惜しげもなく公開して長距離走の基本を教えたのである。まだ20代前半という若さ。普通なら自分の練習だけで頭がいっぱいのはずなのだが、その時点でもう、競技を広く普及させて全体の層を厚くすることまで考えていたというわけだ。世界の壁に挑むには、一人が強くなるだけでは到底足りないと悟ったのだろう。若いうちから、常に国のこと、全体のことを考えて行動していた姿勢からは、明治人ならではの気骨が伝わってくる。

こうして「みんなで強くなる」「全体のレベルを上げていく」という方向性がはっきりと定まった。夏の耐熱練習にさまざまな学校から参加者を集めたのをはじめとして、幅広く多数の選手に声をかける合同練習会をしばしば組織するようになった。競技会ではライバルともなる選手たちではあるが、そんなことはいっさい気にせず、全体のレベルアップをまず第一に考えたのである。

ストックホルム大会の次、すなわち1916年(大正4)に予定されていたベルリンオリンピックは、第一次世界大戦のために中止された。あれだけ渇望した「恥ヲソソグ」機会は目の前からふいと消えた。さまざまな工夫を練習に取り入れて、間違いなく力をつけていたのに、しかも24歳と年齢的には最もいい時期を迎えていたのに、雪辱のチャンスはいとも簡単に扉を閉めたのである。

が、それでも努力は変わりなく続いた。それが、日本の長距離界全体を前に進める力になると確信していたからに違いない。

東京高師を卒業し、神奈川師範や独逸学協会中学で地理の教師として教えるようになってからは、さらに陸上界を盛り上げ、活性化させるためのさまざまなアイディアを考えては実行に移した。御殿場で練習会を開き、連日富士登山を繰り返したのは、上り坂での鍛錬と高地トレーニングの効果をそれぞれ期待してのことだ。富士登山マラソン競走も行った。強化の役に立ちそうなことは、なんであれためらわずにどんどん試みるのが金栗流だった。

そんな中で、彼のあくなき意欲が日本の陸上界に大いなる発展のきっかけをもたらすこととなる。駅伝競走の草分けとなったのである。

2018年箱根駅伝のスタート

2018年箱根駅伝のスタート

日本で初めて「駅伝」の名を冠した「奠都記念東海道五十三次駅伝競走」が企画されたのは1917(大正6)年のことだ。金栗は中心人物の一人として壮挙の実現に力を尽くした。レースには関東と中部の選抜2チームが参加し、金栗は関東のアンカーとして力走した。これを皮切りに、彼は世間の注目を集める駅伝や超・長距離走を次々と発想しては実現し、マラソン人気を飛躍的に高めていく。

1919(大正8)年には下関―東京間の1,200kmを走破する計画を立て、教え子の秋葉裕之と二人で20日間かけて走り抜いた。この年には日光―東京間130kmを10時間で走破してもいる。いまでこそ、ウルトラマラソンのような超・長距離走は盛んに行われるようになっているが、彼はといえば、数十年前に早くも新たな分野を切り開いていたのだ。

もうひとつ、これを忘れるわけにはいかない。1920年(大正9)に第一回大会を開いた「関東大学箱根往復駅伝競走」、すなわち箱根駅伝の創設である。仲間とともに思い立ち、大会実現に尽力したことによって、マラソン人気、長距離走への注目はまた一段と上がった。のちに最優秀選手賞として「金栗四三杯」が贈られることになったのは、箱根創設の功績を長くたたえるためだ。

この年、金栗はアントワープ大会で二度目のオリンピック出場を果たす。初参加の時はたった2人だった日本選手団は15人に増えていた。金栗には優勝の期待がかけられていた。が、今度は雨と、それによる冷えが左脚痛を招いて夢を阻んだ。メダルははるかに遠い16位。ふだんの力を出せば上位争いは間違いなかったのだが、またしても不運が立ちふさがったのである。

すれ違い続きだった金栗とオリンピック。4年後のパリ大会にも33歳の誕生日を前にして出場したが、またも暑さで途中棄権となった。金栗は、このオリンピックを最後に競技の一線を退く。あれほど固く決意したストックホルムの雪辱はついに果たせなかった。「身心の疲れのため、遂に中止の止むなきに至つた」とは大会後に書き記した記述。素っ気ない文章に、かえってその悔しさが浮いて見えるようだ。

1924年パリ大会のマラソンで、元気よく飛び出した金栗

1924年パリ大会のマラソンで、元気よく飛び出した金栗

ただ――。三度にもわたった不本意な結果の裏には、常に怠らなかった膨大な努力と工夫が積み重なっていた。それは日本の長距離界を隆盛へと導く太くて広い道につながっていた。耐熱練習、高地練習、合同練習会、駅伝の創設、試行錯誤で生み出した数々のトレーニング方法。そのどれもが、多くのすぐれた選手の発掘・育成に直結していた。金栗四三という希代のランナーがいなければ、挫折を乗り越えようとするその固い決意と覚悟がなければ、長距離走の発展はもっと遅れていたのではないか。オリンピックでの栄光と引き替えるかのようにして、彼は日本陸上の牽引車の役割を果たしたのである。

若き先駆者として道を切り開いた金栗。一線を離れてからもマラソンの普及・発展に力を尽くす日々だった。1983年(昭和58)、92歳で永眠するまで、エネルギッシュに活動し続けた。「マラソンの父」という称号はいかにもこの人物にふさわしい。彼はまさしく愛児に対するように、日本のマラソンを慈しみ育てたのである。

「數年の努力、研究、此の間練習もするし、又競走もする、勝つ事もありて喜ぶ、又敗ける事もあつて悲む、却々變化が多い、然して此の變化の中にあつて、丁度大岩が聳立して不動の姿勢を取つて居る様にある人は甚尠少である、大部は小岩の如く、風雨に遭遇すると、破壊し轉げ落ちて、其のあとを止めない、吾人は此の小岩となりたくない、此の大岩となりたい」

ストックホルム大会出場の後、出版した著書「ランニング」の中で金栗はこう書いている。若くして痛恨の屈辱的失敗を味わった後、金栗四三は「聳立して不動の姿勢を取つて居る」大岩の如く、長距離走のために力の限りを尽くす人生を送った。その日々は、まさしく不動の大岩のように、いささかのブレも迷いもなく、固い信念に従って真っすぐに過ぎたのである。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐藤 次郎 スポーツジャーナリスト

    1950年横浜生まれ。中日新聞社に入社し、同東京本社(東京新聞)の社会部、特別報道部をへて運動部勤務。夏冬6 回のオリンピック、5 回の世界陸上選手権大会を現地取材。運動部長、編集委員兼論説委員を歴任。退社後はスポーツライター、ジャーナリストとして活動。日本オリンピック・アカデミー(JOA)正会員。ミズノ・スポーツライター賞、JRA馬事文化賞を受賞。著書に「東京五輪1964」(文春新書)「砂の王 メイセイオペラ」(新潮社)「義足ランナー 義肢装具士の奇跡の挑戦」(東京書籍)「オリンピックの輝き ここにしかない物語」(東京書籍)「1964年の東京パラリンピック」(紀伊国屋書店出版部)など。