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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」

日本のソフトボールと宇津木麗華の国籍変更

【2020年東京オリンピック・パラリンピック】

2022.09.27

 2008年北京オリンピックのソフトボール決勝で、日本は世界ランキング1位のアメリカに勝利し、ついに長年の夢だったオリンピックの金メダルを獲得した。2日間で合計3試合を1人で投げ抜いたエース・上野由岐子の力投は、「上野の413球」として、語り継がれることとなった。あれから13年が経つ。北京大会を最後にオリンピックからはずされたソフトボールは、東京2020大会で野球とともに復活した。そして決勝のマウンドには、やはり上野の勇姿があった。

 オープニングラウンド(予選リーグ)初戦の相手はオーストラリアだった。上野の好投と3本のホームランで、81のコールド勝ちを収める。

 2戦目のメキシコ戦では、先発した上野が7回、同点に追いつかれたところで20歳のサウスポー・後藤希友に後を託した。後藤はきっちりと抑え、日本はサヨナラ勝ちで連勝。横浜スタジアムに場所を移した3戦目のイタリア戦では、2本のホームランなどで順調に3つ目の勝利。

 4戦目のカナダ戦は、延長戦となった。ノーアウトで2塁にランナーを置く「タイブレーカー」から1アウト満塁のチャンス。主将の山田恵里が放ったライナー性の打球がセンター前へはずむ。サヨナラ勝ちである。

 リーグ最終戦はアメリカとの対戦となった。ともに4勝無敗同士の対決だ。ただ、この試合は予選通過1位・2位を決める戦いではあるが、上位2チームが決勝に進出し、決勝の組みあわせも日米対決となるため勝敗に意味はない。両者とも決勝を見据え、この一戦ではなるべく手の内を見せず、相手の出方を探りあいながらデータをとるゲームとなった。日本は先制するも、6回・7回と続けて失点し、21でアメリカが試合を制した。

 2021年727日、アメリカとの決勝。マウンドに立ったのは上野だった。初回、やや制球が乱れたが、1アウト3塁のピンチを切りぬけると、その後は、ほぼ完璧といえる投球。変化球を駆使して、アメリカに打たせない。

 アメリカの先発は、キャット・オスターマン。4回表、渥美万奈の2塁打で日本が先制点をつかむ。続く5回には、アメリカのエース、モニカ・アボットを藤田倭がとらえる。ライトへのタイムリーヒットで貴重な2点目を追加した。

 6回、この日2本目のヒットを打たれたところで、上野は後藤と交代した。決勝までの4試合にリリーフで登板し、強気なピッチングを続けていた後藤が、決勝でピンチを迎えた。1アウト12塁。アメリカの3番打者が放った強烈なライナーが、サードの山本優を直撃し、手首に当たったボールは後方へ飛んだ。このボールを、ショートの渥美がノーバウンドで捕球して2塁へ送りダブルプレー。奇跡のようなファインプレーがピンチを救い、試合の流れを日本に引きよせた。

東京2020大会で優勝し、上野由岐子と抱き合う宇津木麗華監督

東京2020大会で優勝し、上野由岐子と抱き合う宇津木麗華監督

 最終の7回、上野は再びマウンドに上がった。気迫のこもったピッチングで最後のバッターをキャッチャーフライにしとめ、ゲームをしめくくった。

 スコアは20。アメリカを完封して、日本は栄冠をつかみとった。両手を上げてガッツポーズをする上野のもとへ仲間たちが集まり、歓喜の輪が広がった。右手の人差し指を天に突きあげ、「世界一」のポーズ。皆、満面の笑みで、勝利の喜びを分かちあった。宇津木麗華監督は上野と抱き合った。2人の目からは、大粒の涙が流れた。

 13年前、2008年北京大会で夢の金メダルを獲得した26歳の上野は、自身の夢をかなえたことで満足して進む道を見失い、ソフトボールをやめることまで考えたという。いわゆる「燃えつき症候群」である。   

 次の目標を見つけられない状態の上野に声をかけたのは、所属チーム・ルネサス高崎の監督だった宇津木麗華だった。

 宇津木麗華は中国・北京出身で、かつて任彦麗という名であった。小・中学校時代は陸上・やり投げの選手として強肩を誇っていた。そんな任を北京にある体育学校のソフトボールの監督が見て興味をもった。ボールを手渡し、投げてみてくれと言う。任が投げると60m先まで届いた。監督はすぐに任をソフトボールに誘った。3カ月後、任はソフトボールのユニフォームを着ていた。14歳のときである。

 翌年、日中スポーツ交流の一環として、ソフトボール日本代表チームが初めて中国を訪れた。そのなかに26歳の宇津木妙子がいた。

 宇津木妙子が小学校5年生のとき、地元埼玉県の学校に1964年東京オリンピックの聖火がやってきた。その際、妙子はトーチを持って校庭を1周走ったのだ。この体験は彼女をスポーツに向かわせるきっかけとなった。中学校でソフトボール部に入り、高校でも続ける。インターハイや国体に出場し、卒業するとユニチカ垂井に入社してソフトボール部に入る。入社5年目、日本リーグで優勝。翌年には連覇した。そして日本代表に選ばれるようになった。

 任彦麗がソフトボール日本代表の宇津木妙子を見たのは、中国南部の都市・南寧の競技場だった。当時、そこに外国人が来ることが珍しいとみえて、5000人もの観客が詰めかけていた。任もその観客席にいた。北京のジュニア選手として合宿に来ていたのだ。

 この頃、ソフトボールでは日本が中国をリードしていた。任は日本チームの選手たちの動きに魅了されていた。投げる、打つ、走る、どのプレーを見ても美しい。とりわけ注目したのは、強烈なヒットを放った三塁手の宇津木妙子だった。このときから宇津木は任の憧れの選手になった。任自身、チームで三塁手への転向を申し出た。

 任彦麗が17歳のとき、中国ジュニアチームが日本に遠征した。キャプテンは任だ。そのとき、宇津木妙子と任彦麗は「正式に」出会った。

 直後にカナダで世界ジュニア選手権が開催され、宇津木は日本チームのコーチ、任は中国チームの主砲として参加した。任は憧れの宇津木の部屋を訪れ、ソフトボールの技術について指導を願い出た。日本語がうまく話せなかったため、会話は筆談で行われた。そのときの任の真剣な表情を宇津木は忘れられないという。

 宇津木の指導のおかげか、任は6割を打ち表彰された。やがて任は中国ナショナルチームに入り、国際大会に出るようになる。宇津木と会う機会も増えた。中国チームは力をつけ、この頃から日本との差は拮抗。そして、徐々に中国が勝つことが多くなっていく。

 1986年、宇津木が日立高崎の監督に就任すると、任はそのチームに憧れ、宇津木に手紙を書いた。慣れない日本語でおかしな表現は多かったが、熱のこもった感動的な手紙だった。それは宇津木の心を打ち、任の来日が決まった。1988年の春、家族、恋人、中国のチームを捨て、任彦麗は日本へやってきた。

 任は宇津木の実家に同居した。午前中、群馬の短大で日本語を学び、午後は練習に参加した。だが、日本語で苦労した。

 食事も合わないことが多かった。中国人であるというだけで中傷や罵倒を受けた。試合中、うまく打てないとスタンドから「中国へ帰れ!」という声が聞こえた。

 宇津木と任がぶつかることもあった。宇津木は任を殴ったこともある。だが、いつしか任はチームにも日本にもなじんでいった。すると、活躍する場面が増えた。とにかくよく打つのだ。

 任は国体に出たがった。そのために日本国籍をとりたいと言った。宇津木に言って帰化申請をした。帰化は認められ、任は中国の国籍を捨てて日本人になった。名前も変えることになった。宇津木妙子に憧れていたため、宇津木の姓を名乗りたいと願った。聞くと「よかったらどうぞ」と言われた。

 1995年、任彦麗は宇津木麗華になった。

 現在、スポーツ選手の国籍変更は珍しいことではない。卓球では多くの国に中国から国籍を変更した選手がいる。アフリカ出身のマラソン選手が中東の国の選手として活躍することもある。国籍変更の理由として多いのが「活躍の場を求める」ケースだ。中国の選手が卓球でオリンピックや世界選手権に出場することは、選手の層が厚いため非常にハードルが高い。そこで選手層が比較的薄い国に移籍して国際大会出場の機会を得るのである。また、前述したマラソン選手の場合は、「金銭的な理由」によることが多い。中東のオイルマネーによって、それまでよりはるかに良い待遇を得ることができるのだ。

 ところが任彦麗=宇津木麗華のケースは、これらとは動機が異なる。当時のソフトボールの日本と中国の実力の差は、それほど大きくない。また、日本のチームが金銭面で好条件を提示して勧誘したわけでもない。彼女のケースは、「宇津木妙子への憧れ」、あるいは「ソフトボールのメタファーとしての宇津木妙子」という一種の神格化がモチベーションになったと理解できる。国籍変更の理由としては希有なケースといえよう。

 1996年はアトランタオリンピックの年だ。宇津木妙子は全日本チームのコーチに就任した。宇津木麗華も選手に選ばれた。妙子とともにオリンピックに出場できるとあって、麗華の心は燃えていた。メンバー全員でメダル獲得に向けて動き出した。

 ところが、オリンピックまであと1か月と迫った頃、麗華のオリンピック出場が取り消された。中国が拒否したのだ。オリンピック憲章は、新たな国籍を取得した選手が3年以内にオリンピックに出場するにはもとの国の承認が必要と定めていた。もとの国・中国は麗華の力を知り、恐れたのだ。

 麗華の失望は大きかった。33歳、もうチャンスはないかもしれない。だが、決まりは決まりだ。ただ、泣くしかなかった。

 アトランタで中国と戦ったときの日本チームは強かった。「麗華の分もがんばろう」と言って麗華のユニフォームをベンチに持ち込んで戦った。そして30で勝った。試合が終わるとメンバーはすぐに日本に電話して、麗華に勝利を報告した。

 だが、決勝トーナメントではオーストラリアに敗れ、結果は4位。メダルを手にすることができず、メンバーは涙を流した。金メダルはアメリカ、銀は中国、銅はオーストラリアだった。

2000年シドニー大会のアメリカ戦でホームランを放ち、笑顔でダイヤモンドを走る宇津木麗華

2000年シドニー大会のアメリカ戦でホームランを放ち、笑顔でダイヤモンドを走る宇津木麗華

 2000年9月、妙子と麗華はシドニーにいた。オリンピックの開会式、麗華は日本選手団の派手なデレゲーションユニフォームを着て入場した。妙子は日本代表チームの監督に就任していた。だが、麗華はケガと不調に喘いでいた。疲労も重なりぼろぼろになっていた。

 予選リーグを7戦全勝で1位通過し、迎えた準決勝。相手は地元オーストラリア。麗華はソロホームランを放った。うれしそうにダイヤモンドをまわり、手でホームベースにタッチした。この1点が決勝点となり、日本は10で決勝に進んだ。麗華は「銀メダル以上」を確定させた。

 決勝のアメリカ戦、またしても麗華はホームランを打った。4回、10とした。だが5回、1点を返され、そのまま11で延長に突入。8回裏、日本にエラーが出た。結果は無念のサヨナラ負け。あと1歩のところでメダルの色が変わってしまった。だが、銀メダル。次につながる色だ。

東京2020大会で優勝を決め、胴上げされる宇津木麗華監督

東京2020大会で優勝を決め、胴上げされる宇津木麗華監督

 4年後の2004年アテネオリンピック。日本チームは妙子総監督、麗華監督兼選手で臨んだ。メンバーには上野由岐子もいる。だが、日本の予選リーグの通過順位は3位だった。ソフトボールでは予選リーグを1位か2位で通過しないと優勝は厳しい。麗華は選手としても活躍したが、結果は銅メダル。

 そして2008年北京大会、日本はついに世界の頂点に立った。

 次にオリンピックでソフトボールが行われたのが、2021年に行われた東京2020大会。13年ぶりのゲームで、日本は連覇を飾った。

 試合後、宇津木麗華監督は上野由岐子と抱き合い涙を流し、アメリカチームのケン・エリクセン監督とも抱き合った。エリクセン監督は、麗華監督の采配を絶賛した。

 オリンピックのソフトボールは、2024年パリ大会では実施されない。もしかしたら東京2020大会が最後になるかもしれない。その記念すべき大会のソフトボールで、かつて任彦麗という中国人だった宇津木麗華は、日本に最高のプレゼントをくれた。

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スポーツ歴史の検証
  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。