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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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セミナー「子供のスポーツ」
スポーツ界と新型コロナウイルス感染症
第102回
ソフトボールを通して伝えたい“生きる力”

宇津木 妙子

現役時代はチーム最年少の21歳で世界選手権に出場するなど活躍し、引退後は日本ソフトボール界初の女性監督として草分け的存在となった宇津木妙子氏。日本リーグの三部だった日立高崎(現ビッグカメラ高崎)をわずか3年で一部へ昇格させ、その手腕を買われて日本代表監督に抜擢され、オリンピックでは2000年シドニー大会で銀メダル、2004年アテネ大会では銅メダル獲得へと導きました。

2004年には日本人では初めて国際ソフトボール連盟に指導者として殿堂入りしました。現在もソフトボールの普及活動に奔走されている宇津木氏に、ソフトボール界や日本スポーツ界についてうかがいました。

聞き手/佐野慎輔  文/斉藤寿子  写真/宇津木妙子、NPO法人ソフトボール・ドリーム、フォート・キシモト
取材日/2021年2月1日

震災の時もコロナ禍でも止めないソフトボールの歩み

―― 新型コロナウイルスの感染拡大によって、人々のライフスタイルも大きく変わりました。宇津木さんご自身はいかがでしょうか。

今まではソフトボールを通じてずっと外に出る生活でしたので、これほど自宅にずっといるという生活は人生で初めての経験でした。最初はどうしていいのかわからず、大きなとまどいがありました。とにかく体を動かしたいということで、午前中はベランダで縄跳びをしたり、午後は家中の掃除をしたりしていました。あとはもともとお風呂が好きなので足指マッサージをしたり、本を読んだりして、ゆっくりする時間もつくったりしていました。一番大変だったのは食事ですね。毎日、3度の食事を用意するって、こんなにも大変なんだなと。この齢になって、ようやく母の大変さがわかったような気がしました(笑)。と同時に、自分がどれだけ好きなことを思い切りさせてもらっているのかということを改めて感じ、感謝しなければいけないと思いました。また、自分を見つめ直すいい時間でもあったと思います。過去の自分を振り返ったり、ほかの指導者の方の本を読んだりと、有意義な時間を過ごせたと思います。



ソフトボール・チャレンジ・プロジェクト

ソフトボール・チャレンジ・プロジェクト

―― このコロナ禍でも、宇津木さんが理事長を務めていらっしゃるNPO法人ソフトボール・ドリームは、さまざまな活動を展開しています。このソフトボール・ドリーム設立は、何がきっかけだったのでしょうか。

NPO法人ソフトボール・ドリームを立ち上げたのは、2008年北京大会以降除外されていたソフトボールのオリンピック実施競技への復活、それからソフトボールを通して社会貢献をしたいということが目的でした。実は設立は私からではなく、支援してくださる人たちからの提案がきっかけだったんです。

 

それもソフトボールにまったく関りのない方たちが「ソフトボールを盛り上げていきましょう」と言ってくださって始まったものでした。ところが、ちょうど役所に提出する書類がすべて整ったタイミングで起きたのが、2011年3月11日の東日本大震災でした。それで私自身は「こういう時期に立ち上げるのは、どうなんだろう」と悩んだのですが、逆にほかの理事たちに「こういう時期だからこそ、立ち上げる必要があるんですよ」と背中を押していただきました。それで、その年の6月9日に設立の運びとなりました。初めての事業として翌2012年4月に行ったのが、被災地の一つ、宮城県気仙沼市での「復興祈願 第1回宇津木妙子杯中学生交流ソフトボール大会」でした。宮城県と岩手県から6チームが参加してくれて試合を行ったのですが、正直行く前は「どんなふうになるのかなぁ」と少し不安がありました。でも実際に行ってみると、逆に私たちの方が元気をもらえたくらい笑顔あふれるイベントになりました。この大会は、2019年まで9年間続けてきたのですが、昨年は新型コロナウイルスの影響で中止となってしまいました。コロナが収束したらまた開催したいと思っています。



宇津木監督のノック(2004年アテネオリンピック)

宇津木監督のノック(2004年アテネオリンピック)

―― 昨年はコロナ禍でも、千葉県や富山県でソフトボール教室を開催されたり、高校生に「ソフトボールチャレンジ動画」を募集する「ソフトボールチャレンジプロジェクト」を立ち上げ、応募した高校にはすべてメッセージを返し、何校かは直接訪問をして指導も行っていらっしゃいます。

昨年、春の段階では、高校生の大会がすべて中止となったんです。それで「大会の代わりに、高校生たちが自ら考えて、みんなで力を合わせて達成していくというようなことができないかな」と思ったんですね。そこでイベント会社にも協力していただいて、チャレンジ動画を募集したところ、すぐに何校から「チャレンジしました!」という動画が送られてきたんです。

 

その後、次々と全国から応募がありまして、なかでも素晴らしいチャレンジをしてきてくれた高校には、記念品を持ってサプライズ訪問をしたんです。それで一緒に練習をし、ノックを通して高校生たちと会話をしました。「今、苦しいよね。しんどいよね。でも、苦しいのは自分一人だけじゃない。そのなかで、この一球を捕れば、また次の一歩に進めるんだぞ。そうやって夢を叶えていくんだよ」というようなことを思いながら一球一球ノックしていると、私の思いが伝わるんでしょうね、選手たちの目が変わってくるんです。顧問の先生も「見たことがない」と言うほど、真剣な眼差しを向けてくるんですね。とてもいい時間を過ごすことができました。



母親の言葉がきっかけとなったソフトボールへの道

小学校の校庭で聖火トーチを掲げる(1964年)

小学校の校庭で聖火トーチを掲げる(1964年)

―― 宇津木さんがソフトボールを始めたのは中学生の時だそうですが、それよりも前にオリンピックと関りがあったそうですね。

私が小学5年生の時に、1964年東京オリンピックが開催されたのですが、その年に私が通う小学校に聖火リレーのトーチが寄贈されたんです。それを持って校庭を走って、最後には聖火ランナーのように高々とトーチを掲げている写真が学校に残っていまして、大人になって訪れた時に見つけて驚きました。実は、私はその時のことをまったく覚えていないんです。でも、校長室に飾られていた写真は確かに私だったんですよね。ただ、なぜ6年生でなく5年生、しかも男子ではなく女子の私が選ばれたのか……いまだに不思議に思っています。



―― それだけ当時から活発な女の子だったんでしょうね。

体は小さかったのですが、よく女の子をいじめる男の子とケンカをしていましたから「女番長」と言われていました(笑)。とにかく正義感が強かったですね。後輩や障がいがある子などに対しては「守らなくちゃ」という気持ちがありました。また、先生にもズバズバ意見を言う子どもでした。



川島中学ソフトボール部(中列右端)

川島中学ソフトボール部(中列右端)

―― 中学校でソフトボール部を選んだ理由は何だったのでしょうか。

まず私がスポーツに対して強い思いを抱くようになったのは、母親の存在が大きくありました。私は5人兄弟の末っ子だったのですが、母親からよく上の兄弟たちと比較をされていたんです。一番ショックだったのは、小学1年生の時。初めての授業参観の時に先生から「もう少し勉強してもらわないと困ります」と言われたんです。兄や姉の時には一度もそんなこと言われたことなかった母はとても恥ずかしかったようで、帰宅して私にこう言ったんです。「あんただけ、なんで?」。この一言が子どもながらにショックで、「いつか母を見返してやる!」と思いました。ただ、勉強はできなかったので、自分はスポーツでという気持ちがずっとありまして、中学校入学の時には「スポーツで母親に喜んでもらおう」という気持ちがありました。
それで最初はいろいろな部を体験しました。最後に行ったのがソフトボール部だったのですが、顧問の先生がこう言ってくれたんです。
「同じ親から生まれても、人間一人ひとりみんな違う個性がある。だから宇津木の個性をソフトボールを通して磨き、伸ばして、頂点を目指して頑張れ」。その言葉を聞いて「あぁ、この先生いいなぁ。私は勉強はできないけれど、走ることは得意だし、元気もある。それでやれるんじゃないかな」と思って、入部を決めました。練習は厳しかったですね。それと、いろいろなルールもありました。用具の管理、挨拶、時間厳守、整理整頓と、1年生の時は覚えなければいけないことがたくさんあって大変でした。でも、それらはすべて「一人でやっているんじゃない。仲間があってのソフトボールなんだ」ということを教えてもらっていたんです。



星野女子高ソフトボール部

星野女子高ソフトボール部

―― 中学校卒業後は、強豪校の星野女子高校(現星野高校。埼玉県・川越市)ソフトボール部で活躍されて、実業団のユニチカ(元大日本紡績。1969年よりユニチカ。日本の代表的な繊維企業。女子バレーボールでは日紡貝塚が有名)垂井(岐阜県・垂井町)ソフトボール部に入られました。入社してすぐに自らキャプテンに手をあげたというのは本当だったのでしょうか。

その年、星野女子高校からユニチカ垂井に入ったのは高校時代からエースピッチャーとして活躍していた選手と私の2人でした。私自身は自分の目で見て「ここに入りたい」と思って入ったつもりだったのですが、先輩たちからは「あんたはエースピッチャーの付録みたいなものだよ」と言われたんです。
「それは違う」と言うと、「エースのあの子を取るために、あんたも入れただけなんだよ」と。確かにエースだった彼女は東日本でNo.1と言われていて、ユニチカでもすぐにレギュラーになったくらいの実力がありました。だから本当に自分は付録だったのかと思うと、もう悔しくて悔しくて……。
しかも「見返してやる」と思って練習をしようとすると、「新人が個人練習するなんて生意気だ」と言われて練習をさせてもらえなかったんです。私は総務課に配属していましたので、総務部長に「自由に練習ができないのはおかしい。この環境を変えたいので、私をキャプテンにしてください」と訴えたんです。そしたら総務部長は「面白い新人だなぁ」と笑ってくれましたが「キャプテンはまだ早い」と言われてしまいました。ようやくキャプテンにしてもらったのは3年目でした。



ユニチカ垂井時代

ユニチカ垂井時代

―― ユニチカ時代の最後は、寮母もされたそうですね。宇津木さんご自身もまだ20代後半と若かかっただけに、ご苦労も多かったのではないでしょうか。

当時、寮には中学校や高校を卒業したばかりの若い女性がたくさんいて、みんな働きながら資格を取得しようと頑張っていました。若いだけに寮のルールを破ったり、親とうまくいかなかったりと、問題が起きるのは日常茶飯事でした。それでも、寮母を引き受けたのは、「寮生にソフトボール部を応援してもらいたい」という気持ちがあったからです。というのも、私が入社した当初はソフトボール部と寮生との間には距離があって、ソフトボール部員の間には「ソフトボールで選ばれた私たちと、寮生とは違う」というような感じがありました。
でも、私は「それは違うだろう」と。「同じユニチカの社員同士、寮生にもソフトボール部を応援してもらいたい。そうなれば、私たちにも張り合いができるだろうし、寮生も私たちの練習を見て『頑張ろう』と思ってくれるんじゃないか」と思ったんです。それで寮母になってからは、寮生の間にソフトボール部の後援会をつくってもらったりして、つながりをつくるようにしました。



1974世界選手権で銀メダルを獲得

1974世界選手権で銀メダルを獲得(後列左から4人目)

―― そのユニチカ時代には、最年少の21歳で日本代表に選ばれ、1974年の世界選手権に出場。銀メダルを獲得しました。

私が選ばれたのは、ただ元気があったからだけだったんです。練習のたびに先輩たちとの実力の差を思い知らされて、何度も代表を辞退しようとしたほど下手でした。だから「元気だけが取り柄の自分が、このチームにいていいのだろうか」と悩んでいたんです。
でも、その時コーチが「宇津木、チームにはいろんな選手がいていいんだぞ。オマエができることってなんだ?」と言ってきたんです。「私ができることは"元気"です」と答えたら「じゃあ、それを精一杯アピールすればいいじゃないか。思い切り声を出して盛り上げてみろ」と言われたんです。そう言ってもらえたおかげで、最後まで必死になってついていくことができました。



―― その世界選手権では初めて"世界"を目の当たりにしたわけですが、いかがでしたか。

当時もアメリカが強かったのですが、特に身長が2m近くあったエースのジョン・ジョイスのボールはまったく打てませんでした。私たち日本チームは、アメリカとの決勝ではテキサスヒット(野球やソフトボールで内野と外野の間にゆるく舞い上がって落ちる安打のこと。アメリカのテキサス州のリーグ出身の選手が良く打ったことからこの名がついた)1本に終わったんです。私も代打で出してもらったのですが、3度、打席の中をクルクル回って、見事な三球三振に終わりました(笑)。その時に"変化球"というものを初めて見ました。「ソフトボールで、こんなにもボールが上がったり下がったりするものなんだ」と。その後、1978年、1982年と日本は政治的理由で世界選手権を棄権しました。そのため、私が次に世界を目の当たりにしたのは、現役引退後でした。私が28歳の時にジュニア日本代表のコーチとして第1回ジュニア世界選手権に出場したのが、1985年でした。この大会で日本は男女アベック優勝したのですが、"制球力の良いピッチャーと手堅い守備で"守り勝つ"スタイルなら、日本は世界に勝てる"と言うことを確信しました。その時の経験が、その後の指導者人生の礎を築いてくれたと思います。



父と交わした約束からスタートした監督の道

監督のオファーをくれた日立高崎の佐々木氏(左)と

監督のオファーをくれた日立高崎の佐々木氏(左)と

―― 指導者としての道を歩もうと思ったのは、何がきっかけだったのでしょうか。

当時は女性の監督は一人もいませんでしたし、自分が指導者になろうとはまったく思っていませんでした。ただ、第1回ジュニア世界選手権後、私はユニチカを退職して埼玉県の実家に戻っていました。4年後の第2回ジュニア世界選手権に向けたチームも少し指導していたのですが、そのチームには東京女子体育大学や日本体育大学の学生が多くいましたので、大学の練習も観に行っていたんです。それと、時々リーグの試合も観に行っていました。仕事がなく、時間だけはありましたから、いろいろなところに顔を出していたんですね。

 

そうしていたところ、日立高崎の総務課長さんからお電話をいただきまして、「うちには今、指導者がいないので、トレーニングコーチとして来てくれませんか」という打診を受けたんです。その時は監督をするなんてことはまったく考えていませんでした。「遊んでいるのもなんだし、実業団を指導するのもいいかもしれない」と思ってお引き受けしました。
それが1985年11月だったのですが、当時、日立高崎は三部リーグで12人しかいませんでした。でも、インターハイにも出場しているような強豪の高校から優秀な選手ばかりが集まっていました。「これだけの選手が集まっていて、なぜ勝てないのかな?」と不思議に思って、選手に聞いてみたんです。そしたら「私たちも練習しているのですが、相手が強いんです」と答えるわけです。「それはおかしいよ。じゃあ、監督が決まるまでの1カ月間、一緒に練習してみよう」と言って始めたのが最初でした。私がユニチカでやってきたことをすべて選手たちに伝えながら一緒に練習をしたところ、1カ月が経った年末に工場長に呼ばれまして「監督をやっていただけませんか」と言われました。もともと優秀な選手たちが練習によって成長していることはわかっていましたので、「これは意外とスムーズに一部昇格できるかもしれない」と思うくらいチームには手応えを感じていました。しかし、女性監督が一人もいない時代でしたから、やっぱり躊躇する気持ちがあったんですね。どちらかというと「やってみたい」という気持ちが強かったものの、その場では返事をすることができず、年明けまで待ってもらいました。



20代前半、父(左)と

20代前半、父(左)と

それでお正月で実家に帰省した際、父親に相談したんです。「日立高崎から監督就任の打診を受けたんだけれども、どうしようか悩んでいます」と言ったところ、父はすでに私が監督をやりたいと思っていることがわかっていたんでしょうね。こう言われました。「監督というのは、社長のように背中を見せて引っ張らなければいけないし、時には従業員のように自ら率先して雑用もしなければならない。ソフトボールだけを教えればいいわけじゃなく、それぞれ個性のある選手たちの人間教育もしながら、みんなを一つの方向に向かわせなければいけないんだぞ」。

それまで私は一度も自分の弱い部分を父に見せたことがなかったのですが、その時初めて中学、高校、実業団で意地悪されたり、最初の3年間はトイレ掃除しかさせてもらえなかったとか、いろいろと辛いこともたくさんあったということを洗いざらい話したんです。そしたら父は泣きながら「3年間、頑張ってみろ。実業団は結果の世界なんだから、勝たなければいけない。でも、勝つだけじゃダメだ。周りから応援されるようなチームになるように、選手一人ひとりに向き合ってきちんと育ててみなさい」と言われました。それで3年という猶予をもらって日立高崎の監督に就任しました。



 
プロゴルファーとして活躍した岡本綾子さん(右)と

プロゴルファーとして活躍した岡本綾子さん(右)と

―― ソフトボール界で初めての女性監督ということで、何か意識されたことはありましたか?

私が意識したというよりも、周囲の男性監督の方がどんどん態度が変わっていったというのはありました。まだ勝てない頃は、仲良くしてくれていた監督も、日立高崎が勝つチームになっていくと、あまり話をしてくれなくなるような人も少なくなかったです。ただ、そんな中で私しか女性監督がいませんでしたので、自分流に自由にやらせてもらったというのは大きかったと思います。

個人的に目標にしていたのは、ソフトボールからプロゴルファーへと転身し、世界で活躍していた岡本綾子さん(中学からソフトボールを始め、大和紡績福井工場のソフトボール部に入社後は、エース兼四番打者として活躍。大和紡績を退職後、1974年からプロゴルファーとなり、日本の女子選手では初めて本格的にアメリカLPGAツアーに参戦し、1987年にはアメリカ人以外で初めてLPGAツアー賞金女王となった)でした。「よし、岡本さんがゴルフで世界一になったのだから、私はソフトボールで世界一になろう」と、憧れでもあり、勝手にライバルにもしていました。



 
サンバイザー、サングラスで指導

サンバイザー、サングラスで指導

―― 「宇津木監督」と言うと、サンバイザーにサングラスという装いがトレードマークでもありましたが、これらには意味があったそうですね。

現役時代は、鉢巻をしてプレーしていたんです。こめかみのあたりがキュッと締められると、気持ちが引き締まる思いがして、集中力が高まるんです。サンバイザーはその流れからですね。サングラスは、周囲に気持ちを悟られないようにするためです。
実は監督になった当初は、薄い色のサングラスで周囲からも目が見えていたんです。それは試合中も選手とアイコンタクトを取れるようにと思ってしていたのですが、ある試合で期待していた選手が三振をしてベンチに帰ってきた時に「なんであんなボール打てなかったの?」と聞いたら「ベンチの監督の顔を見たら、打てる気がしませんでした」と。ベンチで私が「なんであんなボールを振るんだよ」みたいに思っているのが、わかってしまったんでしょうね。
一方で、いつも守備要員で起用していた選手が打席に立った時に、ヒットを期待していないからこそ「自由に思い切り打てばいいよ」と笑顔で送りだしたところ、サヨナラホームランを打ったんです。後で聞いたら「監督の顔を見たら安心して打てるような気がしていたんです」と言うわけです。

 

それで、「あ、選手は監督の顔色をうかがってしまうものなんだな。それではダメだな」ということで、周りからは私の目が見えない濃いサングラスをかけるようにしたんです。いずれにしても、選手から教えてもらったことは多いですし、それがあるからこそ指導者としてここまでやってこれたと思っています。



東京オリンピック・パラリンピック招致活動

東京オリンピック・パラリンピック招致活動

―― 日立高崎を3年で一部に昇格させ、常勝軍団へと育てられた宇津木さんに、今度は日本代表チームの指導者としてのオファーがきます。女性として日本代表のスタッフに抜擢されたのは、前代未聞のことでした。

最初に指導者として日本代表に招かれたのは、1990年アジア大会のことでした。その大会で銀メダルを獲得はしたのですが、JOC(日本オリンピック委員会)の中ではソフトボールはマイナー競技というのもあって、「あぁ、私はこういうきらびやかな世界はちょっと無理だな」と思って、その後は日本代表の監督はお断りしていたんです。

でも、1996年のアトランタオリンピックでソフトボールが正式競技となった時に、前年の世界選手権では7位でオリンピックの切符を獲得できなかったりして、いろいろと問題が起きたんですね。そのなかで私がコーチに選出されて、アトランタオリンピックに臨んだのですが、4位という結果に終わりました。ただその中で「日本のいいところはどこだろう」ということを考えながら試合を見ていたところ、アメリカや中国の体格やパワーには勝てませんでしたが、守備に関しては日本の良さが出ていると感じていました。それで「守備を磨いて、あとは制球力のいい投手を集めれば、日本は世界でも勝てるんじゃないだろうか。1点さえ取れば、あとは守りで勝てるかもしれない」と考えたわけです。

 
1996年アトランタオリンピック。ソフトボールが正式競技に

1996年アトランタオリンピック。ソフトボールが正式競技に

それでアトランタから帰国して、日立高崎に戻った時に、選手たちに言いました。「日本一になれたんだから、今度はみんなで世界に目を向けてみよう」と。会社にもお願いをしまして、日立高崎単独で「カナダカップ」にも出場させてもらいました。「世界は勝つためにどんな練習をしているのか」を知ることが目的だったのですが、大会が終わって日本に帰国後、選手たちに「どうだった?」と聞いたら「パワー不足」「準備不足」「日本人は常に指示待ち」「海外の選手はバランスのいい食事をしている」などと、みんな口々に気づいたことを言ってくれました。そこで「じゃあ、どうしたらいいか」ということを選手たちから提案してもらい、すべて実践したんです。

 

そしたら、その年は日本リーグ、全日本総合選手権、国民体育大会と三冠を達成しました。それが偶然にも1998年の世界選手権の前年だったということもあって、私が日本代表の監督に指名されました。考えた末に「選手セレクションなど、チームの全権をください」という条件を提示して、監督に就任しました。全国から集まった99人の中から22人をセレクションして、チームが始動したわけですが、選手たちには最初に「日本のため、ソフトボール界のために、チームの犠牲になってほしい」と言いました。それが、2000年シドニーオリンピックに向けての始まりでしたね。

今思い返しても「よくついてきてくれたな」と思うくらい、過酷な練習を課しましたが、選手たちは本当によくついてきてくれました。いつも口を酸っぱくして言っていたのは「あなたたちは日の丸を背負った日本代表なんだよ」ということでした。日本の代表だから、多くの方々からさまざまな支援をいただきながら、良い環境の元でこんな風に練習することができている、ということを選手に伝えながら、日本代表としての覚悟を植え付けさせました。今だったらいろいろと問題になることも当時はやりましたけれども、それでも選手たちがついてきてくれたのは「シドニーオリンピックでメダルを取って、ソフトボールをメジャーにしたい」という共通の気持ちがあったからだと思います。それと、選手たちとはとにかくたくさん話をしました。練習後は一緒にお風呂に入って、大声で歌を歌ったりね。そういう部分では、女性監督で良かったと思いますね。



2000年シドニーオリンピックで銀メダルを獲得

2000年シドニーオリンピックで銀メダルを獲得

―― 指導者として心がけていたことは何だったのでしょうか。

一番は、教える選手たちと同じ目線になって話をすることだと思います。もちろん練習中は厳しく指導をしますが、グラウンドを離れたら、同じ人間同士、相手と一緒になってはしゃいだり、バカなことをしたりすることも大事だと思いますね。そういうふうにして心と心を通い合わせることによって、信頼関係が築けていけるのだと思います。



 
2004年アテネオリンピック。円陣の中央が宇津木監督

2004年アテネオリンピック。円陣の中央が宇津木監督

―― 2000年シドニーでは銀メダル、2004年アテネでは銅メダルと、2大会連続でメダルを獲得しました。

すべて選手のおかげです。ただ、目標だった「世界一」になれなかったのは、指導者である私の力不足でした。実はアテネの後も、「もう一度チャンスをもらえないだろうか」という気持ちがどこかにありました。だから新監督が決まって新チームが始動した時は、気持ちはどん底にあったんです。それでも、これまで自分が指導してきた選手たちにすべてを託そうと思いました。彼女たちが頑張れば、必ず金メダルを取れると信じていたんです。

 

2008年北京オリンピックには解説者として行かせていただいたのですが、日本が決勝で勝った瞬間、選手たちが私の方を向いて手を上げてくれた時には「よくやった、おめでとう!」と本当に嬉しい気持ちになりました。でも、正直に言うと、選手たちが首に下げた金メダルを私の方に掲げてくれた時は、複雑な気持ちになりました。「こんなに私は頑張ってやってきたのに、なんで金メダルは自分が監督の時じゃなかったのかな」と醜い自分を感じていたんです。でも、それが人間だと思うんですよね。考えてみれば、オリンピックに出たくても出られなかった選手たちもたくさんいるわけで、そういう選手たちも同じように複雑な気持ちで見ているんだろうなと。私もその一人なんだなと思いながら、金メダルを掲げた選手たちを見ていましたね。でも、こういう思いが人間を成長させてくれると思いますし、レギュラーになれない選手たちの気持ちもわかるわけですから、とても貴重な経験だったことは間違いありません。



2008年北京オリンピックでは金メダルを獲得。肩車される上野選手

2008年北京オリンピックでは金メダルを獲得。
肩車される上野選手

―― ソフトボールは2008年北京大会を最後に、オリンピックの正式競技から外れましたが、東京オリンピックで復活します。その東京オリンピックを間近に控えて、どんな思いを抱いていますか。

もともと東京オリンピックは「復興オリンピック」ということをうたっていましたので、そういう意味では東日本大震災の震災地の一つである福島県のあづま球場で、ほかの競技の先陣を切って始まるソフトボールには、この10年間で日本がこれだけ頑張って復興しましたよ、ということをまず最初に発信する大きな役割があると思っています。また、私個人的にはオリンピックの競技に選んでいただき、ソフトボールを世界に発信する場を用意していただけた感謝の気持ちを表すことができたらと思っています。



実業団の使命は企業から組織を学び、その一員としての自覚を持つこと

ソフトボール教室

ソフトボール教室督

―― NPO法人ソフトボール・ドリームでは、子どものソフトボール教室も行っています。子どもや、その親にはどのようなことを伝えているのでしょうか。

子どもたちにも、その親御さんたちにも、「すべて最後は自分しかいないんだよ」と厳しいことをあえて言うようにしています。例えば、子どもが転んでけがをしたとしますよね。親御さんは「大丈夫?」と言って心配をするでしょう。でも、その痛さを乗り越えるのは、子ども本人なんです。誰もその人の代わりになって助けることなんてできないわけです。それはソフトボールのプレーも同じです。打席に立てば、自分一人で投手のボールを見極めて、バットを振るしかないんです。生きることそのものが、そうだと思うんですね。ですから、生きていくだけの体力、知力をつけなければいけません。それをソフトボールを通して伝えていきたいと考えています。



―― 近年では小学校の運動会では順位をつけずに子どもたちを平等に扱うなどということも行われています。

勉強の成績はテストで順位をつけるのに、なぜ体育だけは順位をつけないのか、と思いますね。そもそも子どもたちはそれぞれ得意、不得意があって当然なんです。算数が得意な子もいれば、作文を書くことが得意な子もいる。その中に、スポーツが得意な子もいるわけですよね。にもかかわらず、体育だけ「平等」にするというのはおかしな話だと思います。私自身が勉強はできなかったけれど、かけっこだけは得意でそれで自信を持つことができた、という経験があります。子どもに対しては、何か一つでも得意なことをどうやって伸ばしてあげられるか、ということが大事なんです。その中の一つとして、体育があるわけですから、変に「平等」にするのではなく、子どもの自信にしてあげてほしいなと思います。



現在は日本車椅子ソフトボール連盟の会長を務める髙山樹里さん

現在は日本車椅子ソフトボール連盟の会長を務める髙山樹里さん

―― 障がい者スポーツにもソフトボールがありますが、同じソフトボールとしてどのように関わっていこうとされているのでしょうか。

3年前から埼玉県で知的障がいがある子どもたちとチームを作って、ソフトボールをやっているんです。健常者の子どもたちのチームに交ざって大会をしたりしているのですが、そういうことをしようと思ったきっかけは、カナダ遠征に行った時に、健常者の大会の試合の間に、障がい者の試合を入れたりして盛んに交流が行われていることを目にしたことでした。いずれは、日本でも同じようにしてやりたいなと思っています。

車椅子ソフトボールにおいては、髙山樹里(元ソフトボール日本代表。エースとして1996年アトランタ、2000年シドニー、2004年アテネと3大会連続でオリンピックに出場。一時はボブスレー競技で冬季オリンピックを目指したことも)が日本車椅子ソフトボール協会の会長を務めるなどして、率先してやってくれています。私も関わらせてもらっていまして、昨年12月には日本で初めての車いすスポーツ専用施設「東大阪市立ウィルチェアスポーツコート」の記念式典に出席しました。車椅子ソフトボールの普及も含め、今後は障がいの有無に関係なく、みんなが楽しめるスポーツとして、さらに広げていけたらと思っています。



―― 宇津木さんは、ソフトボール界では初の女性監督としてその道を開拓されてきたわけですが、現代の日本スポーツ社会における女性進出という点については、どのように感じられていますか。

私は、女性自身が少し意識しすぎているところがあるような気がします。何か男性と比べて「もっとできなければいけない」というように肩に力を入れて頑張りすぎているような気がするんですね。私は、グラウンドでは緩みがケガにもつながりますので、選手にも厳しく接していますが、グラウンドを離れると選手たちからもつっこまれるほどボケたりしています(笑)。変に飾ることなく、もっと自分をさらけ出した方が楽になれるんじゃないかなと思います。



―― 「withコロナ時代」と言われるなか、スポーツの価値について、どのように感じられていますか。

コロナ禍においては自宅で自粛する時間が多くなり、体を思い切り動かすことができずに苦痛を味わった人も少なくないと思います。体を動かさないことが、いかにストレスになり、人に苦痛を与えるかということを知ったという方も多いのではないでしょうか。そうしたなかで、スポーツがいかに体にも心にもエネルギーを与えてくれるものなのかを再確認するいいチャンスでもあったのではないかと思います。



現日本女子代表監督宇津木麗華さん(右)と

現日本女子代表監督宇津木麗華さん(右)と

―― 宇津木さんが後世に伝えたいことは、どんなことでしょうか。

現在のソフトボール界では、選手からそのまま指導者になることが多いんですね。だからこそ、私は実業団の選手たちには、もっと自分が所属する企業を知って、「組織」とはどういうものかを学ばないといけないと思います。企業が売り上げを上げて経営を守ろうとするなかで、決して安くはない費用をかけてソフトボール部の活動を支援しているのはなぜなのか。自分たちの企業の理念は何なのか。それを知ったうえで、自分たちは組織の一員として何をしなければいけないのかということを考えていくべきです。

 

ゆくゆく指導者となった時には、その企業のことをきちんと理解したうえで、チームを作っていってほしいと思っています。そうして周りから愛されるチームを作っていくことが、実業団の使命だと思います。



  • 宇津木 妙子氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)
日本は敗戦により不参加
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1953 宇津木 妙子氏、埼玉県に生まれる
  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)
1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1972 宇津木 妙子氏、ユニチカ垂井ソフトボール部に入部
  • 1973オイルショックが始まる
  • 1974 宇津木 妙子氏、ソフトボール世界選手権に全日本選手として最年少で出場
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1985 宇津木 妙子氏、現役を引退。その後、日立高崎ソフトボール部監督に就任し、 全日本総合選手権5回優勝、日本リーグ3回優勝
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997 宇津木 妙子氏、女性初のソフトボール日本代表監督に就任
  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2000宇津木 妙子氏、シドニーオリンピックでソフトボール日本代表監督を務め、銀メダルを獲得
2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2004宇津木 妙子氏、アテネオリンピックでソフトボール日本代表監督を務め、銅メダルを獲得
  • 2005宇津木 妙子氏、国際ソフトボール連盟で日本人初の殿堂入り
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2010宇津木 妙子氏、東京国際大学ソフトボール部総監督に就任
    宇津木 妙子氏、ルネサスエレクトロニクス高崎女子ソフトボール部(現・ビックカメラ女子ソフトボール高崎)シニアアドバイザーに就任
  • 2011宇津木 妙子氏、NPO法人ソフトボール・ドリームを設立し、理事長に就任
  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2014宇津木 妙子氏、世界野球・ソフトボール連盟理事に就任
    宇津木 妙子氏、日本ソフトボール協会副会長に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期