Search
国際情報
International information

「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

知る学ぶ
Knowledge

日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」

「箱根駅伝」と「サンモリッツ冬季オリンピック」 麻生武治という異能な男

【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】

2022.01.31

 日本の冬季スポーツ史を語るとき、1人の異能な人物を忘れてはならない。その名を麻生武治(あそう・たけはる)という。

 日本が初めて参加した冬季オリンピック、1928年第2回サンモリッツ大会に出場したオリンピアンである。同時に早稲田大学時代、第1回「箱根駅伝」に出場した草創期の名ランナーでもあった。

往路5区で伴走車からの監督の激励を受け山登りに挑む選手(1968年1月)

往路5区で伴走車からの監督の激励を受け山登りに挑む選手(1968年1月)

「箱根駅伝」は正式には「東京箱根間往復大学駅伝競走」といい、1920年に東京高等師範(現筑波大)、早稲田、慶応義塾、明治の「四大学対抗駅伝競走」として始まった。創設の中心となったのは日本が初参加した1912年ストックホルム・オリンピックのマラソン代表、金栗四三。海外選手との実力差を痛感、「海外で通用する長距離走者の育成」を目的に創設した。その金栗の願い通り、1920年の第7回アントワープ大会には自身に加えて、茂木善作、大浦留市(いずれも東京高師)と三浦弥平(早大)の3選手をマラソン、長距離の代表として送り出している。

 麻生は日本銀行理事を父にピアニストを母に、1899年東京・麻布区(現・港区)で生まれた。暁星中学(現・暁星高)から早大に進むと、1919年日本陸上競技選手権1500mを制し、競歩でも活躍。第1回「箱根駅伝」では5区を走った三浦、7区を担当し、後に副総理、農林大臣などを務めた河野一郎とともに中核メンバーとなった。そして9区を区間トップで走り、早大復路2位の原動力に。さらに翌1921年の第2回、1922年の第3回ではいずれも山登りの5区を走って連続区間賞を獲得。第3回大会では河野一郎、謙三(のち参議院議長)兄弟と早大初優勝に貢献するなど、まさに「元祖山の神」と言っても差し支えあるまい。

 その麻生が出場したオリンピックが1920年アントワープ大会でも、1924年パリ大会でもなく、なぜ1928年サンモリッツ「冬季大会」だったのか。

1928年 サンモリッツ冬季大会 スキー日本チーム(右から二人目が麻生武治)

1928年 サンモリッツ冬季大会 スキー日本チーム(右から二人目が麻生武治)

 麻生は1922年、大学を卒業するとスイスに留学した。山に魅せられ、恵まれた体力で山々を巡って登山家として活躍。1923年には日本人で初めてマッターホルン(ツムット稜)モンテローザに登頂した。この年9月の関東大震災で一時帰国したものの、すぐドイツ・ベルリンにあるプロイセン体育大学に留学。1925年にのちの日本山岳会会長松方三郎とともにベルーナアルプスの山々に登っている。1926年には松方や槇有恒らとともに秩父宮擁仁親王のアルプス登山にも同行した記録が残る。

 その欧州滞在中、山々を巡りながらスキーの腕を磨いた。1926年には北海道帝国大学(現・北海道大)文武会スキー部の会報『山とスキー第六十一號』にチロルから寄稿。「スプルングラウフの研究」と題してジャンプの空中姿勢などを分析、解説してもいた。

 欧州に居る麻生は、サンモリッツ大会で冬季オリンピックに初参加する日本スキー界にとっては願ってもない人材。ジャンプとノルディック複合、クロスカントリーの代表に選ばれて合流した。しかし大会本番ではいずれも転倒や途中棄権で失格、記録なしに終わった。ただ、英語に加えてフランス語、ドイツ語を操る麻生は通訳として活躍。世界との差を埋めるべく、技術や用具などの知識を日本にもたらす橋渡し役を務めた。ちなみに広田戸七郎監督以下7人の選手団は北海道2人、新潟3人、長野1人と雪に縁の深い土地の出身。東京生まれの麻生がいかに異色の存在であったかが伺えよう。

 1932年第3回レークプラシッド大会ではスキーチームの監督を務め、8位になった安達五郎らをサポートした。

 そして還暦を過ぎた1961年、1964年東京オリンピックの聖火リレーコースを踏査する踏査隊の隊長に就任。アテネからイスタンブール、ダマスカスからバグダット、テヘランを経てカブールに至るコースを国産自動車で走破した。下痢や発熱に苦しめられ、旅費を盗まれたり、反政府ゲリラに悩まされたり大変な旅であった。ただ麻生は『水利科学』誌に寄稿した「オリンピック聖火踏査の旅」では何とも楽し気に苦難の旅を記している。ちなみに麻生ともう1人はそこで離脱、残りのメンバーはニューデリーからカトマンズ、ラングーン(ヤンゴン)、バンコクを経てシンガポールに至る約18000kmの行程を約半年かけて踏査。その報告から、東京大会のアジアを巡る壮大な聖火リレーが生まれたのである。

 麻生が亡くなったのは19935月。オリンピック評論家の伊藤公さんに生前、「麻生さんは(招致が決まった)1998年長野オリンピックを観戦する事が夢だと話していた」と聞いた事を思い出した。享年93歳であった。

関連記事

  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。