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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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セミナー「子供のスポーツ」

メディアの勃興とオリンピック
新聞・放送の序として

【オリンピック・パラリンピックのレガシー】

2021.02.09

 18964月、ギリシャのアテネで開催された第1回オリンピックには欧米から11人のジャーナリストが参加した。大会前、英国のタイムズ紙や米ニューヨークタイムズ紙が準備の遅れを批判している。今と変わらないありようである。日本は出場しておらず、日本メディアが取材に訪れた事実もない。

 日本でオリンピックについて報じたのは新聞ではなく雑誌を嚆矢こうしとする。大会直前の18963月発行の『文武叢誌』に碧落外史が「オリンピヤ運動會」と題し、ピエール・ド・クーベルタンとオリンピック復興運動に言及した。「曰者外国新聞ヲ閲スルニ云エルアリ、オリンピヤ運動會ノ再考ヲ計ルモノアリ……」と書き出されている。

 碧落外史は翌月も『文武叢誌』に「オリンピヤ運動會(承前)」を掲載した。大会は46日に始まり、15日が最終日。日程に合わせた発行とすれば、現代のメディアのありようとの類似を思う。

「少年世界」創刊号の表紙

「少年世界」創刊号の表紙

4カ月後の『少年世界』815日号には筆名K・Yの「希臘ギリシャオリムピヤ闘伎の復興」が掲載された。さらに翌18972月、ジャーナリストでもあった政治家、竹越与三郎が陸奥宗光、西園寺公望の支援をうけて創刊した『世界之日本』が風流覊客の「昨年のオリムピア競伎」を掲載した。同誌は明治中期、国際的な視野の啓発を続けた雑誌。オリンピックの意義をエリート層に説いたと考える。

 当時の人物批評の第一人者でジャーナリストの鳥谷部春汀はクーベルタンを取り上げて「體育界たいいくの偉人クーベルタン」と題し、『中学世界』に執筆した。鳥谷部はクーベルタンを「体育・オリンピックの事業家」「教育家」「コスモポリタン」と評価、オリンピズムについて「体育」「知育」「徳育」の立場から解き明かした。草創期のオリンピック報道をリードしたのは雑誌、出版であった。

 新聞では『讀賣新聞』が1896513日付紙面で紹介したにとどまる。ちなみにこの頃までに、現在の全国紙はすでに創刊されていた。

 1872(明治3)年に『東京日日新聞』と『郵便報知新聞』発刊。現在の『毎日新聞』と『報知新聞=スポーツ報知』である。

 1874年に『讀賣新聞』創刊、1876年の『中外物価新報』は『日本経済新聞=日経新聞』である。『朝日新聞』は1879年大阪でスタートした。『めざまし新聞』を買収し東京に進出、1888年『東京朝日新聞』となった。翌1889年、大阪は『大阪朝日新聞』に。

 1882年、福澤諭吉が創刊、慶應義塾大学が全面協力した『時事新報』は現在、『産業経済新聞=産経新聞』と慶應義塾が商標権を保有している。ちなみに産経は全国紙唯一の昭和生まれ、1933年創刊である。

初期は郵便報知が1881年「島津家で催された天覧相撲」を報道するなど、スポーツ報道は大相撲が中心。ようやく1896年の「旧制一高(現・東京大学)対横浜外人クラブ」の野球試合が東京日日や時事新報で報じられて野球報道が広まっていく。今日あたりまえの新聞社主催のスポーツイベントは1901年、時事新報主催の「上野不忍池長距離競走大会」が始まり。スポーツイベントを主催、共催し大々的に報じる流れの原点である。

 日本で初めて、新聞が報道としてオリンピックを取り上げたのは1908年ロンドン大会。東京日日新聞が同年724日、「倫敦路透電報」として22日に行われたマラソンの結果を短く伝えた。

 「オリンピック競技(廿六日着)オリンピック競技會第一の呼物マラトン競走は其距離ウインブルドン城より競技場に至る二十六哩にして競走者は五十七名なりき……」

 それからほぼ1カ月半後の97日から5日間、大阪毎日新聞はマラソンとオリンピックに関する特集記事を掲載した。筆者は通信部長の相嶋勘次郎。慶應義塾大学卒業後に大阪毎日に入社し、その後3年にわたって米国に留学。語学力を買われて英米に派遣され、博覧会などを視察。ロンドンでオリンピックに遭遇し、マラソンを観戦した。

 ロンドン大会のマラソンといえばイタリアのドランド・ピエトリ選手の話である。トップで競技場に入ってきたドランドはふらふらしており、倒れこむ姿を見かねた競技委員が助力してゴールさせた。トップになりながら失格。後日、ドランドの健闘に英国女王から銀のトロフィーが贈られた。

 相嶋は事実を目の前でみており、マラソンの歴史やレース経過、ゴールの様子などを詳しく伝え、オリンピックの意義を訴えた。日本の参加にも言及するなど、初めて日本スポーツ界が持ち得たオリンピック報道だった。

 相嶋は翌年、大阪毎日新聞主催の「大阪―神戸間長距離競走」を初めて「マラソン」と命名。彼に活躍の場を与えた大阪毎日新聞はその後も「全国中等学校野球選抜大会(いまのセンバツ)を開催、1928年アムステルダム大会に日本女子として初めて参加し初のメダルを獲得した人見絹枝を入社させたり、スポーツに理解の深い新聞社であった。

 新聞はスポーツ、オリンピックとの高い親和性をもとに報道に力をいれていく。意外に思う人は多いかもしれないが、スポーツ新聞はしかし、戦後生まれである。

 194636日、日本初のスポーツ紙として『日刊スポーツ』が創刊した。1949年に『スポーツニッポン』が発刊し、読売新聞の傘下となった『報知新聞』が夕刊紙を経て業態変革したのも同じ年。その間、1948年には神戸で『デイリースポーツ』が産声をあげた。名古屋の『中日スポーツ』は1954年、福岡の『西日本スポーツ』は1955年創刊。『サンケイスポーツ』は1960年に大阪で誕生し、東京大会前年の1963年に東京発刊を遂げた。スポーツ紙はしかし、オリンピックよりもプロ野球報道に力を入れていく。オリンピックは全国紙の方が報道は手厚い。

 こうした活字媒体に技術革新で対抗していくのがラジオ、そしてテレビである。

 公式記録には、オリンピックのラジオ生中継の始まりは1924年パリ大会だとある。椙山学園大学の脇田泰子教授は、欧州ではラジオが親しまれ、1922年には「エッフェル塔ラジオ局」が開局した事実を基に調査、同年の第1回冬季オリンピック、シャモニー・モンブラン大会からラジオ放送が始まったと指摘した。日本ではようやく翌1925322日、社団法人東京放送局(JOAK:現・NHK東京ラジオ第一放送)が開局。京田武男アナウンサーが第一声を伝えた。

 「アーアー、聞こえますか? JOAKJOAK こちらは東京放送局であります」

 日本におけるラジオ放送の始まりは1932年ロサンゼルス大会。ただし、実況中継ではなく「実感」放送。試合を取材したアナウンサーがスタジオに戻り、取材メモを片手に目の前で起きているように伝えた。実際の試合時間よりはるかに長い“中継”であった。

 実況中継は1936年ベルリン大会から。あのNHK・河西三省アナウンサーの「前畑ガンバレ」で有名になった大会である。

 オリンピックのテレビ中継はそのベルリン大会から。アドルフ・ヒトラー率いるナチスドイツの威信をかけて、競技場内限定ではあったが、テレビ映像を流した。日中戦争で返上を余儀なくされた1940年東京大会もテレビ中継が構想された。計画通りに実施されていたら、日本の放送史は変わっていた。

 1948年戦後初のロンドン大会では、ロンドン中心部から半径80キロ圏内にテレビ中継された。組織委員会発表では50万人が視聴したという。中継にあたった英BBC放送はテレビカメラをスタンド観客席に持ち込み、3000ドルの座席占有料を支払った。“放送権”の始まりだろうか。

1956年コルチナ・ダンペッツオ冬季大会におけるテレビ放送カメラ

1956年コルチナ・ダンペッツオ冬季大会におけるテレビ放送カメラ

日本のテレビ放送は欧米に立ち遅れ、ようやく1953年に始まった。210日に『NHK』が開局、828日には『日本テレビ』が続いた。日本初のオリンピックテレビ放送は1956年冬のコルチナ・ダンペッツオ大会。NHKは日本選手を中心に編集、特集番組「オリンピック特報」が話題をよんだ。1960年ローマではビデオも活用、撮影映像を空輸し編集、放送された。そうして1964年東京を迎える。「テレビ革命」と言われた大会までに東京キー局全局が開局した。

 NHK、日本テレビに遅れること2年、1955年『ラジオ東京=現・TBS』が開局し、皇太子殿下と美智子妃殿下(現・上皇、上皇后陛下)のご成婚が行われた1959年には『フジテレビ』と『日本教育テレビ=現・テレビ朝日』が誕生した。そして東京大会直前には現『テレビ東京』が科学技術学園興行高校・教育専門放送としてスタートした。

 中継技術の進歩、受像機の普及(19631600万台、19722000万台)に日本は「テレビ時代」を迎え、「映像を視る」という臨場感、翌朝まで結果を待つ必要がないというスピード感によって、テレビは報道の主役となっていった。

 そして今、そのテレビの座を脅かしているのがインターネットの普及によるSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)にほかならない。これからオリンピック報道はどんな時代を迎えるのだろうか……。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。