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ミューズとオリンピックの美術

【オリンピック・パラリンピックのレガシー】

2021.03.23

クーベルタンとミューズ 

 1896年に始まった近代オリンピックの礎を築いたピエール・ド・クーベルタン男爵(1863-1937)は「近代オリンピックの父」と呼ばれる。フランスの教育者でもある彼は、神を讃えるという信仰的要素の強い古代オリンピックにおける「肉体と精神の融合」を目指す古代ギリシアのスポーツに魅せられていた。
そして「スポーツ」を「強く美しい肉体で神を表現するもの」、「芸術」を「絵画や彫刻の持つ精神で神を表すもの」として、古代オリンピックを復興させた。

 クーベルタンは「肉体と精神の向上の場」を近代オリンピックの理念に掲げ、それを背景として1912年第5回ストックホルム大会からスポーツ競技に「芸術競技」を加えた。それはミューズの女神が関わる「建築・彫刻・絵画・文学・音楽」の5ジャンルからなることから「ミューズの5種競技」と呼ばれた。

 このミューズ(英Muse)とはギリシア神話でアポロンの神に仕え、奏楽し舞踊する女神、「学芸の神ムーサ」(Musa)の英語名である。ミューズは主神ゼウスとムネモシュネの間に生まれた複数の神で、その数は一定しなかったが、ローマ時代にはそれぞれ役割を担った9人の女神と考えられ、それらを総称して言う。現在は「音楽の神」とされるが、古くは詩、劇、歌、踊り、歴史、天文学などを含む「学芸一般の守り神」とされていた。

 ミューズは「ミュージック」(音楽:英 music)や「ミュージアム」(美術館や博物館:英 museum)などの語源になっているように、芸術に深く関わりのある「神」として、クーベルタンを揺り動かしたと言えるだろう。

知られざる史実〜芸術競技と二人の銅メダリスト画家

 近代オリンピックには「知られざる史実」がある。例えば「綱引き」「立ち高跳び」「立ち幅跳び」「立ち三段跳び」など、数回の大会で消えた競技種目があったが「芸術競技」もその一つである。

 「芸術競技」は1912年第5回ストックホルム大会から1948年第14回ロンドン大会まで7大会で実施された。日本は1932年第10回ロサンゼルス大会と1936年第11回ベルリン大会に参加し、ロサンゼルス大会には、絵画(日本画、洋画、版画)33点、彫刻10点、建築3点が展示された。またベルリン大会には、絵画(日本画、洋画、版画)63点、彫刻11点(工芸2点含む)、建築5点、音楽5点が出品された。参加作品は「大日本体育芸術協会」(現、日本スポーツ芸術協会)が募集し、国内予選(審査)を経て選ばれ、審査員等の作品ともに参加した。そして2人の画家が銅メダルを獲得したのである。

蟲相撲

蟲相撲

1932年ロサンゼルス大会】

 ロサンゼルス大会には、日本画、西洋画、版画、建築の4部門に41名が参加した。西洋画部門には洋画家の小杉未醒こすぎみせい(1881-1964)、版画部門には恩地孝四郎おんちこうしろう(1891-1955)や棟方志功むなかたしこう(1903-1975)らが参加した。また、後年、長崎平和公園の平和記念像を制作する北村西望せいぼう1884-1987)や、日本サッカー協会のエンブレムをデザインする日名子実三ひなこじつぞう1892-1945)らの彫刻家は「版画部門」で参加している。このうち版画部門ではメダル獲得には至らなかったが長永治良ながえじろう1893-1961)が作品『蟲相撲むしずもう』で「佳作入賞」を果たしている。

 ところでこの大会には「多才」な選手が出場していた。早稲田大学の学生で漕艇(ボート)競技の選手であった田中英光(1913-1949)は、オリンピック参加の際の経験を小説『オリンポスの果実』(1940年)で著した。その小説は『文學界』で発表され、太宰治に認められ戦後無頼派として知られるまでになった。また、体操競技でロサンゼルスとベルリンの2大会連続参加することになる角田不二夫かくたふじお1911-1938)は所属(職業)欄に「画家」と記しており、実際に雑誌「朝日スポーツ」の表紙絵などを描いていた。

 この二人の夭折に至った実情については触れないが、スポーツと文学、スポーツ芸術に青春を捧げた二人は、間違いなく人生を熱く生きたと言えるだろう。夭折したと言えば1964年東京大会のマラソン競技で銅メダルに輝いた円谷幸吉(1940-1968)は、ある世代にとっては忘れることのできないランナーである。

かくして3人の享年は26歳、27歳、28歳である。私たちの想像を上回る、計り知れないほどに多感で純粋なアスリートだったのかもしれない。

 ちなみに日本にとって体操競技はロサンゼルス大会が初めての世界的大会の出場で、成績は最下位に終わった。しかし体操界はこの結果を契機として奮起し「体操ニッポン」として世界トップレベルになった。わずか数秒の瞬間的演技でも、その陰には長い苦労の歴史がある。

アイスホッケー(笠青峰による復元作品)

アイスホッケー(笠青峰による復元作品)

1936年ベルリン大会】

 最も「知られざる史実」と言っても良い、ベルリン大会で銅メダルを獲得した二人の画家がいる。日本画家の藤田隆治ふじたりゅうじ1907-1965)と日本画家の鈴木朱雀すずきすじゃく1892-1972)である。藤田は『アイスホッケー』、鈴木は『古典的競馬』を出品した。

 アイスホッケーの慶應義塾大学と王子製紙の選手を描いた藤田の作品はナチスに買い上げとなり、その後焼失したと言われている。藤田の弟子の日本画家・笠青峰りゅうせいほう(1937-2014)による復元作品を見ると、当時のユニフォームやスティックは現在と同様の用具を使っているようだが、最も異なる点はヘルメットを被っていないことである。このような事実に忠実な写実的な作品からは競技の歴史もわかる。 

古典的競馬

古典的競馬

 ベルリン大会には、油絵、日本画、版画、彫刻(工芸を含む)、建築、音楽の部門に68名が参加した。中には後に日本画界で活躍する東山魁夷ひがしやまかいい(1908-1999)や、1956年にヴェネツィア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞する棟方志功、洋画家の脇田和わきたかず1908-2005)、彫刻家の石井鶴三いしいつるぞう1887-1973)らの名前が見える。東山魁夷は『少年氷走』(スケート)、棟方志功は『市民体操』(体操)『合同競争』(長距離走)と題する作品を出品した。「芸術競技」への出品作品はスポーツを題材とするものとされていたが、絵画部門では、バスケットボール、アイスホッケー、マラソン、柔道などに混じって、犬追物いぬおうもの印地打いんちうち、鞠つき、釣り、雪合戦などの「日本の伝統文化」や「遊び」をテーマとした作品も出品された。

 音楽部門では、台湾出身の作曲家で声楽家の江文也(こうぶんや)1910-1983)の管弦楽曲『台湾の舞曲』が「佳作」に選ばれたが、日本統治時代における知られざる史実の一つである。

 ともあれ、半年前に「二・二六事件」があった年のベルリン大会の「芸術競技」は、水泳女子で初めて金メダルを獲得した前畑秀子(1914-1995)や棒高跳びの西田修平(1910-1997)と大江季雄(1914-1941)の「友情のメダル」といったスポーツの明るい話題の陰にすっかり隠れていたのだろう。

芸術競技から芸術展示を経て文化プログラムへ

 「芸術競技」は1948年第14回ロンドン大会までの7大会で断続的に実施されたが、1949年、国際オリンピック委員会は「芸術競技」を廃止し「芸術展示」に変更した。その理由として、芸術作品への評価や判定の難しさ、資金、アマチュアリズムを掲げる中での「プロ」の参加、作品移送などの問題があったとされる。このうちの「評価、判定の難しさ」は、「芸術点」を採点に含むアーティスティックスイミングや新体操などのスポーツ競技と共通して今もなお抱える問題である。そして1952年第15回ヘルシンキ大会からはメダルの授与がない「芸術展示」として実施された。

 1940年の「幻の東京大会」を経て開催された1964年第18回東京大会は、アジアで初の大会となり、第二次世界大戦の敗戦からの復興を掲げ、高度経済成長の中で開催された。

 この大会では「日本古来の伝統芸術を内外に示す」として、歌舞伎、人形浄瑠璃、雅楽、能楽、古典舞踊・邦楽、民俗芸能を、「スポーツに関係するものに限定せず、各時代の全分野における日本最高のものを展示する」として、古美術、近代美術、写真、スポーツ郵便切手が展示、企図された。その他、美術関係の団体等による「協賛展示」などが行われた。中でも東京国立博物館で開催された「日本古美術展」では国宝の『鳥獣人物戯画』や『平家物語絵巻』などの展示が人気を呼び、40万人が来場した。

 東京大会では、オリンピックでは初めて写真を使ったポスターが作られ、施設表示などにピクトグラムという「絵文字」が使われ、世の中では東海道新幹線の開通やカラーテレビの普及の契機になるなど、新しい技術が拡がっていった。日本における芸術展示は1972年札幌冬季大会でも企画・実施された。

「リボーン・アートボール」の展示   

「リボーン・アートボール」の展示   

1992年第25回バルセロナ大会から「芸術展示」は「文化プログラム」となり、「カルチュラル・オリンピアード(文化のオリンピック)」と呼ばれ、芸術だけでなく開催国の文化なども含めて紹介されるようになった。

 最近の「文化プログラム」で最も盛り上がったのが2012年第30回ロンドン大会と言われる。2020年東京大会の組織委員会は、このロンドン大会をベンチマークとしており、「する」アスリート、「見る」観客、「支える」ボランティアのいずれもロンドン大会を上回る人数と、いわゆる日本の「お・も・て・な・し」の心で開催を待ち望んでいたが、思いもよらぬ新型コロナウイルスの影響で1年延期になった。この延期は、選手にも大きな影響を与えているが、様々な技術は常に進歩しており、1年の延期によって様々な変化が見られるだろう。

 筆者らが主宰している「リボーン・アートボール」(注)という文化プログラムも翌年まで継続することとなり、スポーツとアートとエコが融合したアートプロジェクトとしてもさらに広がりができることとなったのは嬉しい誤算である。

パラリンピックとアート・イン・ハート

 パラリンピックにおいても、現代では「パラアート」や「障がい者アート」、「アウトサイダーアート」などの名称で、障がい者と芸術による様々な取り組みが行われている。美術や音楽のストロングポイントは、国境や人種、性別、年齢、障がいの有無を超え、人と人とが「こころ」で通じることができることである。偶然かもしれないが、ハート(Heart)の中にアート(art)がある。

 ダイバーシティー(多様性)が推奨される世の中では、心身の機能(身体、知的、精神)に障がいがある人に参加を呼びかけるだけでなく、心配することなく様々なアート活動に参加できる環境を整える必要がある。 

 新型コロナウイルスの影響で、2020年オリンピック・パラリンピックは延期

になった。アートとデザインの観点から見ると、開会式や閉会式の演出などにさらに新しい仕掛けが作られ、新たな演出が見られることになるのではないかと想像する。

 思いもよらぬコロナ禍の中で、「ウィズコロナ」を意識して生活することになり、デジタル化の勢いも加速されていく。しかしながら、スポーツとアートに関してはあくまでも人間が主体となっていつまでも持続させ、願わくば人生は「ウィズスポーツ」や「ウィズアート」でありたい。文化芸術立国作りを標榜する中で東京大会ではどのようなドラマが繰り広げられるか楽しみである。

注:「リボーン・アートボール」とは、2017年に筑波大学で始まった、捨てるまで使われたスポーツのボールに絵を描いたり工作を加えて「アート作品」として「再生」(Reborn)させる、「スポーツ×アート×リサイクル」が融合した取り組み。コンセプトは、「アスリートからアーティストへ、アーティストからアスリートへのリスペクトのパス交換」。2018年からは茨城県文化プログラム推進事業、2020年東京オリンピック・パラリンピックの文化プログラムとして、ワークショップや展覧会を開催中。作られたボールには「空気」ではなく「夢」が詰まっている。

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  • 太田 圭 筑波大学副学長、日本スポーツ芸術協会理事