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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」

スポーツと音楽

【オリンピック・パラリンピックのレガシー】

2021.05.27

 ピエール・ド・クーベルタンは、スポーツで世界平和を実現しようと考えて近代オリンピックを提唱した。国、民族、肌の色、言葉の壁をこえて世界の若者が理解し合うために、スポーツはきわめて大きな役割を果たすことができるとしたのだ。

 クーベルタンはスポーツと同様に、芸術も欠かせないと考えた。たしかに絵画も彫刻も音楽も、観賞するにあたり言葉はいらない。国や地域をこえて理解することができる。1912年のオリンピック・ストックホルム大会から、芸術作品の評価を競う「芸術競技」が始まったのは、世界の若者の相互理解のために芸術は欠かせないとするクーベルタンの強い意志があったからだ。合計7回行われたオリンピックの芸術競技は、1948年のロンドン大会を最後に実施を見送られ、それ以降は競技性のない「芸術展示」になり、さらに1992年バルセロナ大会からは、ダンスや演劇、ポップスなどを幅広く取り入れ、多くの人々が参加する「文化プログラム」になり、現在まで続いている。

 また、他のスポーツイベントと比較してオリンピックの開・閉会式は、規模も内容もはるかに大掛かりだ。そこでは厳かな式典に加え、世界トップクラスのアーティストや開催国の多くの人々によって、壮大なパフォーマンスが繰り広げられる。行われるのは、まさにアートの競演である。

 このように、オリンピックにおいては、スポーツと芸術は切り離せない関係にあり、なかでも音楽はスポーツと非常に高い類似性を示している。ここではスポーツと音楽がいかに似ているかを述べていくことにする。

元ビートルズのポール・マッカトニーも登場した2012年ロンドン大会の開会式

元ビートルズのポール・マッカトニーも登場した2012年ロンドン大会の開会式

<スポーツと音楽の類似>

・人類にとって根源的・プリミティブな存在

 スポーツは遊びから発生している。それは人類がまだ文明を獲得する前から行われていたと考えられている。音楽も同様だ。リズミカルに体を動かしたり、何かをたたいて音を出したりする行為は、原始の時代からあったらしい。遊びとしてのスポーツや音楽は、まさに人類が文明を育む以前から、あるいは同時に生まれたと考えてよい。ちなみに、絵画の誕生も古い。ラスコーやアルタミラの洞窟で発見された壁画は、1万年以上も昔に描かれたものだ。スポーツや音楽、絵画は、はるか昔に遊びとして生まれたのである。

・言語を超える

 クーベルタンが考えたように、スポーツにも芸術にも言葉の壁はない。スポーツは異なる国の選手同士でも同じルールのもとで試合が行われる。ルールさえ理解していれば、そこに言葉はいらないのだ。芸術も同様である。絵画や彫刻の作品や楽曲は(歌詞を除いて)、視覚や聴覚で感じたり理解したりするものであって、そこに言葉は必要ない。音楽における歌詞は、もちろん言語の壁を超えることはできない。だが、翻訳されることによってその壁は取り払われる。

・人々の感動・興奮・熱狂をよぶ

 1人のアスリートのパフォーマンスが観る人々に深い感動をあたえることがある。スポーツは観客を興奮・熱狂させるが、ときにはそれが行きすぎてしまうことがある。スポーツ観戦は応援をともなうが、応援はときに激しく感情を高揚させる。それは音楽も同様だ。1960年前後に日本に登場したロカビリーや、1960年代後半のグループサウンズのコンサートでは、興奮のあまり失神するファンが続出した。これは芸術のカテゴリーでも音楽に特有の現象である。描いたり作ったりするプロセスから完成した作品が切り離される絵画や彫刻などの美術と、生身の人間が行う演奏そのものが芸術作品である音楽との違いである。その意味では、音楽は美術よりむしろスポーツに近い。

・時間をともなう

 スポーツは時間とともにある。陸上競技の走る種目や競泳、アルペンスキーやスピードスケートではタイムを競う。同じ距離を短い時間でフィニッシュした選手が勝つのだ。また、サッカー、バスケットボール、バレーボールなどの球技は、ゲームの時間が決まっている。柔道やレスリングなどの格闘技、新体操、アーティスティックスイミング、フィギュアスケートなどの採点競技も同様だ。一方、芸術では絵画のように時間をともなわないことが多い半面、音楽は時間をともなっている。絵画はいつまででも見ていることができ、あるいは1秒で見るのをやめることもできるが、音楽は演奏が終わればそれまでだ。スポーツも音楽も時間とともに存在し、始まりと終わりがある。

・無色透明である

 スポーツは無色透明、クリーンである。政治、思想、宗教、あるいは企業活動等のメッセージがスポーツそのものには存在しない。音楽もメッセージとしての歌詞を除けば同様である。無色であるということは、色がつきやすいということでもある。1936年のオリンピック・ベルリン大会がナチスドイツのプロパガンダに利用されたように、そして戦時中には軍歌が存在したように、スポーツも音楽も、かつて政治に大きく利用された。ある種の強い力によって付与される「色」に対して、スポーツも音楽も無力である。一方、スポーツイベントやチームなどにスポンサーという色がつくことで、企業活動に利用されることも増えた。音楽もテレビCMという企業の広告宣伝活動には欠かせない。もっとも、広告宣伝の場合、企業からイベントやチームに対して金銭が支払われるため、スポーツや音楽にとってもメリットはある。いずれにせよ、スポーツも音楽も人々に与えるインパクトは強く、イメージもよい。利用する側にとっては格好のコンテンツなのである。

 ここまでスポーツと音楽の共通点について述べてきた。両者は驚くほど似ていることがわかる。しかし、スポーツと音楽をより深く理解するためには、異なる点についても触れておかなくてはならない。

<スポーツと音楽の相違>

・数値化

 スポーツは競うこと、戦うことを運命づけられている。その戦いは「数値」によって勝者・敗者、そして順位が決まる。タイムを競う陸上競技や競泳、得点を競う球技、勝敗を競う格闘技などは容易に数値化でき、その数値によって差がつけられ、順位が確定する。アーティスティックスイミングや新体操、フィギュアスケートなどの採点競技も、個々の技に付けられた点数を加算し、あるいは「出来栄え」や「演技構成」をジャッジが採点するなどして、数字で順位を決めていく。その採点には一定の客観性がもとめられる。登山やスキューバダイビングなど勝敗を決めない一部の例外を除けば、スポーツのパフォーマンスは数値化される。

 一方、音楽は競わないし戦いもしない。コンテストなどで評価・採点することはあるが、それは一般的な観賞の対象としての音楽のあり方とは異なる。音楽観賞は上手・下手を聴き分けるのではなく、好きか、感動するか、つまり聴衆は主観的に享受することになる。したがって、他の芸術と同様に、結果が数値化されることはない。

・再現性

 スポーツは再現が不可能である。これは、ビデオや再放送で同じシーンを再度視聴するということではなく、ライブで、あるいはリアルタイム=生中継で過去の競技をまったく同じように再び行うことはできないということである。スポーツがよく「シナリオのないドラマ」と言われる理由がここにある。陸上競技や競泳で同じタイムが出ることはあり得ないことではないが、メンバーもタイムも同じということは絶対にない。球技でも、試合の展開が似ているゲームはあるが、まったく同じ試合などあり得ない。スポーツにおいては、同じことは二度と繰り返されないのである。

 音楽はまったく逆で、再現されなくてはならない。そのために楽譜があるのだ。ジャズなどのアドリブはあえて忠実な再現をしないことだが、それは意図的にパターンから離れることにより変化を創り出し、鑑賞者にインパクトを与える演出である。同じ曲であればリズムやコード進行が異なることは、よほど大きくアレンジを変えない限りあり得ない。基本を変えると別の曲になってしまうのだ。ベートーベンの交響曲第5番「運命」は、あくまで「運命」として演奏され、聴衆は「運命」として聴くのである。音楽は演奏されなくては、あるいは歌われなくては成立しない。そして演奏されるということは、再現されることなのだ。

 このように、スポーツと音楽には、たしかに大きな差異はある。しかし、前述したように、類似点・共通点はたいへんに多い。そして両者はきわめて相性がよい。オリンピックの開会式で音楽が多用されるのも、大会にテーマソングがあることも、そして、テレビで放送される際に必ず音楽が流されることも、スポーツと音楽の相性のよさを示している。

 さらにいえば、スポーツも音楽もPLAYするものである。

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スポーツ歴史の検証
  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。