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ピエール・ド・クーベルタン
オリンピックの芸術と神聖

【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】

2018.09.26

若き日のピエール・ド・クーベルタン

若き日のピエール・ド・クーベルタン

かつてオリンピックには芸術という名の競技があった。

芸術競技は1912年第5回ストックホルム大会から開始された。オリンピックの復興を提唱したピエール・ド・クーベルタンの父は画家であり、その影響を受けた息子も芸術に造詣が深かった。そのクーベルタンの強い希望により導入された芸術競技は、建築、彫刻、絵画、音楽、文学の5部門について、各国の芸術家による作品がオリンピック開催地に集められ、それが採点され順位を競い、スポーツ競技と同様にメダルが授与された。この芸術競技は1948年のロンドン大会まで正式競技として続いたが、それ以降は行われていない。廃止の理由はいくつかあったが、おもなものをあげると「採点の基準が曖昧である」「プロの画家の参加がアマチュア規定に抵触する」などであった。

クーベルタンが芸術をオリンピックの正式競技に導入する意図については、概ね次のように言われている。

「クーベルタンは、古代オリンピックにならい、スポーツと芸術の両方の競技を考えた。それは心身ともに調和のとれた若者を育成するというオリンピズムの理念に基づいていた」。

オリンピックにおける「芸術競技」の採用が決定したのは、1906年にクーベルタンが国際オリンピック委員会(IOC)の委員を招集して開催した「芸術と文学とスポーツに関する会議」であった。この会議でクーベルタンは、筋肉と精神、すなわちスポーツと芸術を統合する必要性を説いた。このクーベルタンの提案は満場一致で承認され、1912年ストックホルム大会から芸術競技が開始されたのである。

その芸術競技は、1948年ロンドン大会を最後にオリンピックから姿を消したのだが、その後は競技性のない「芸術展示」になり、さらに、幅広い文化で大会を盛り上げる「文化プログラム」へと変わっていった。現在、オリンピック大会の前から行われている「文化プログラム」の出発点は、「芸術競技」だったのである。したがって、オリンピックに芸術も取り入れたいとしたクーベルタンの強い意志は、現在の文化プログラムへとレガシーとして引き継がれているのである。

オリンピックにおける芸術の流れは、2つに枝分かれしたとみることができる。1本の枝は「芸術競技」を経て「芸術展示」になり、さらに現在の「文化プログラム」になった。それがここまでに述べた流れである。

そしてもう1本の枝は、開・閉会式、聖火リレーなどの神聖なセレモニーへと移っていったと考えられる。むしろ重要なのはこちらである。ここからのキーワードは「神聖」だ。

じつは「芸術競技」が行われる以前、いや第1回アテネ大会が開催される前から、クーベルタンと芸術は切っても切れない関係にあった。

父・シャルルが描いた絵

父・シャルルが描いた絵

父が画家であったことだけでなく、古代オリンピックにおいて多くの芸術作品が制作されたことや、19世紀にギリシャ国内で行われていたオリンピア競技祭(ザッパス・オリンピック)において芸術展示や芸術的競技が行われたことも、若きクーベルタンは自ら学んで知っていた。スポーツ競技大会に付加価値を与えるための芸術の重要性を、オリンピック提唱前からすでに認識していたのだ。

クーベルタンがオリンピックの復興(近代オリンピック創設)のため不退転の決意で臨んだ、1894年6月のパリ大学ソルボンヌ大講堂での会議(パリ会議)で、彼は古代ギリシャの荘厳な音楽「アポロン讃歌」の演奏などによって参加者の気持ちをヘレニスティックな神聖=古代ギリシャの神々しさへと向かわせた。そして、参加した人々が最高潮の美的ムードに酔いしれる中で、オリンピックの復興と国際オリンピック委員会の創設を決めたのだった。

「聖なるハーモニーが聴衆を望ましい雰囲気の中へ引き込んだ。調和ある古代の音楽が時代の隔たりを超えて鳴り渡るなか(中略)会議は絶頂に達したのだ。もはや誰一人としてオリンピック復興に反対の票を投じる者はありえない」(クーベルタン/マカルーン)

クーベルタンは「神聖」や「荘厳」のもつ強大な力をよく知っていた。そして「神聖」を演出するために音楽などの芸術が力を発揮することも理解していたのだ。パリ会議に先立ち、クーベルタンは各国の要人、居並ぶスポーツ界のリーダーたちから賛意を得るためには、「納得させるよりも、誘惑することだ」と述べている。人々を「誘惑」し、オリンピックの復興を実現させるためにクーベルタンが用意したのは、芸術のもつ魔的な力だったのである。

オリンピックにおける「スポーツ」と「芸術」との関係をもう一度、確認してみたい。

いうまでもなくオリンピックにおけるスポーツ競技はじつに多彩で、近代スポーツの競技・種目のうちのメジャーなものをことごとく網羅している。一方、かつてオリンピックで行われた“芸術”競技のほうは、一見、「建築、彫刻、絵画、音楽、文学の5部門」と形式の範囲を広くみせながら、じつはそのテーマについてはたった1つ「スポーツを題材とする」ことが求められていた。これは、芸術作品を制作する上で、極めて大きな制約となる。題材=テーマは芸術作品の性格を決定づける大きな要素だからである。その意味において、オリンピック競技としての芸術はスポーツと同等な関係にあったのではなく、スポーツの圧倒的な支配下にあったとみることができる。

では、テーマを限定されると、芸術作品はいったい何になるのであろうか。

本来、芸術作品は作家の自律的行為によって自由に創造されるものであり、テーマを限定されるべきではない。だが、何らかの力が働いてテーマを制約・限定されてしまった場合、それはそのテーマの価値を鑑賞者に伝えるメディアになる。しかも、芸術には伝達性があるから、自己発信力のあるメディアになるのである。キリストを描いた絵は宗教的意味が込められたメディアになり、南の島の純白なビーチを撮った写真は人々にその島の美しさを訴え誘うためのメディアとなる。そしてギリシャ神話の神アポロンに捧げる「アポロン讃歌」は、人々の心を古代ギリシャへと導く。まさに「メディアはそれ自体でメッセージを発する」(マクルーハン)のである。

オリンピック讃歌が演奏される厳かな雰囲気の中でオリンピック旗が掲揚される(2016年リオ大会開会式)

オリンピック讃歌が演奏される厳かな雰囲気の中でオリンピック旗が掲揚される(2016年リオ大会開会式)

テレビもラジオもなかった19世紀末〜20世紀初頭、マスメディアとしては、新聞やポスターなどの印刷物しか存在していなかった。そうした中でオリンピックは、高尚な、それに媒介されることで伝えられる内容の価値が高まるようなメディアを味方につけた。それが芸術だったのだ。スポーツをテーマにした絵画、彫刻、文学、音楽などの芸術は、スポーツの美的価値を実際以上に高めて伝えてくれる。これをクーベルタンは熟知していたため、最大限に利用したのだ。その結果として芸術は、オリンピックの神聖化プロセスにおいて極めて大きな力を発揮したのである。

オリンピックと他のスポーツ競技大会との大きな相違点は「神聖性」である。その神聖性をオリンピックに付与するための装置として機能しているのは、じつは文化プログラムなどのイベントではなく、聖火採火式〜聖火リレー〜聖火台点火や、オリンピック讃歌が流れる中でのオリンピック旗の掲揚など、宗教儀式にも似た厳かな雰囲気で行われる一連の芸術的なセレモニーなのである。この神聖な雰囲気は、オリンピックでしか味わうことができない。

クーベルタンは「芸術」によって、大会に荘厳な雰囲気を与え、神聖性を授けることで、オリンピックを唯一無二にして絶対的な世界最高の競技大会にしたのである。

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スポーツ歴史の検証
  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。