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セミナー「子供のスポーツ」

パラリンピアンの脳はどうなっている?

【2020年東京オリンピック・パラリンピック】

2022.03.08

1.残った機能を活かす

 パラリンピックの方が、オリンピックよりも素直に共感できた。そんな声をいくつも拾った。開催をめぐり、さまざまな葛藤があったオリンピック。一方で東京2020大会が掲げた「多様性と調和」という理念は、よりパラリンピックの方が腑に落ちた。そして選手たちのパフォーマンスは、テレビを通してではあったが、確実に私たちを競技に引き込んだ。

 パラリンピックの選手たちはみな、何らかの障害がある人たちである。しかし巧みに義足を操って走り跳び、目に障がいがあるのにまるで見えているかのように泳ぐ。腕がないのに足でアーチェリーの矢を放ち、足で踏ん張れないのに体重の2倍の重量を持ち上げて空中で支える。ときに記録はオリンピックを上回り、車いす同士の衝突の激しさは思わず観るものをたじろがせた。まさに超人。自らを鍛え「できない」を「できる」に、「不可能」を「可能」に変えた超人たちである。

東京は1964年以来、世界で初めてパラリンピックを2度開催した都市だ。前回と比べるとはるかに人々の高い関心を集めた。「失ったものを嘆かず、残った機能を活かす」選手たちの肉体はどうなっているのか。それを司る脳はどうなっているのか。素朴な疑問も次々湧くほど興味深い話である。

2.レームの跳躍を支える「運動野」

 男子走り幅跳びT64(運動機能・義足)に出場するドイツのマルクス・レームをずっと注目してきた。言わずと知れた世界最高の義足ジャンパーである。

東京2020パラリンピックで、陸上男子走幅跳3連覇を飾ったマルクス・レーム

東京2020パラリンピックで、陸上男子走幅跳3連覇を飾ったマルクス・レーム

 2021年6月、ポーランドで開かれたパラ陸上の欧州選手権で862の世界新記録を樹立。オリンピック優勝記録がギリシャのミルティアディス・テントグルの841だったから、記録を破るのではないかと期待していた。結局818に終わったが、オリンピック6位の日本の橋岡優輝が810だったから、いかに凄い記録であるかは想像できよう。

 2012年ロンドン以来、パラリンピック3連覇を飾ったレームだが、前回のリオに続いて東京でも、望んでいたオリンピック出場はならなかった。「義足の反発力が競技に有利に働いていない事を完全に証明せよ」とする世界陸連(WR)の要求に応えられなかったためだ。しかし2位選手の記録は739、明らかに次元が異なる。レームがトレーニングによって義足を使いこなす能力を高めたか、著しく体力を向上させたか、両者をともに持ち得ていたか。すべてを合わせ持った存在だと考えた方が自然だろう。

 そのレームの脳の働きを調べたのが東京大学大学院の中澤公孝教授である。

 2020年、立教大学の松尾哲矢教授との共同授業にゲスト講師として招き、興味深く話を伺った。著書『パラリンピックブレイン』は近年稀にみる面白く拝読した一冊である。以下の記述は同書の内容をもとに書いている。

 中澤教授はレームの凄さを特集したテレビ番組の制作に協力、レームの脳を調べた。そこで、驚くべき結果を得たという。

 レームは14歳のときウエイクボードの事故で右脚に大怪我を負い、最終的には右の膝関節から下を切断しなければならなかった。調査は下肢の3つの関節(足、膝、股)それぞれ独自に、失った右足関節もあるものとして動かしてもらい、fMRIというMRI(磁気共鳴画像化装置)を使い、脳や脊髄の活動に関連した血流動態反応を視覚化する方法で行われた。

 人は、大脳の中心溝前方にある「運動野」によって体を動かしている。右側は左半身、左側が右半身を司る。神経の交叉性といい、一般的には同じ側の脳が同じ側の筋肉を動かすことはできない。ところがレームは、義足に直結する右膝関節周囲筋を動かしたときに限って、右側の運動野が活動している事が検査をしてみてわかった。

 こうした現象は脳卒中後の患者や、脳性麻痺の人にもしばしば視られるという。脳が損傷した後の代償作用とされるが、レームは右膝関節下の切断であって、脳が損傷しているわけではない。だから中澤教授は驚いたのであり、義足のジャンパーとしての特殊性を考えていく。単に義足を使用する人、幅跳びのトレーニングをしているがレームのような競技性を持たない人には、同様の脳の働きは見られなかった。

3.「パラリンピックブレイン」

 次にレームと同様の義足のジャンパーを調べた。同じ反応があれば、訓練によってスキルを磨き、記録を伸ばすとか勝利といったモチベーションによって脳が反応していく事が証明される。反応がなければ、レームの特殊性という結論に行きつくわけだ。

 選ばれたのが日本を代表する義足のジャンパー、走り高跳びの鈴木徹と走り幅跳びの山本篤だ。

 鈴木はレームと同じ右下肢切断のT44。高校卒業直前に自動事故で右下肢を失った。「高さを作るアーチスト」だと称される世界で2人目の2ⅿジャンパーである。2000年シドニーから6大会連続出場し、東京でも4位に入賞した。レームと同じ様に検査すると、義足側の右膝関節周囲筋を収縮させるときに限って、同じ側の脳による活動がみられた。

東京2020大会でパラリンピック3大会連続4位入賞した陸上男子走高跳の鈴木徹

東京2020大会でパラリンピック3大会連続4位入賞した陸上男子走高跳の鈴木徹

 山本は高校2年の春休み、スクーター事故で負傷。左大腿を切断した。義足は左股関節に装填するレームや鈴木より障害が重いT63 (運動機能・義足)100ⅿ200ⅿと走り幅跳びで活躍し、2008年北京と16年リオデジャネイロでは走り幅跳びで銀メダルを獲得した。東京では100m予選落ち、走り幅跳びでは675の日本新記録で4位に入賞した。

 山本の場合、左股関節の周囲を収縮させたとき、左だけではなく右も、つまり両側の脳活動が観察された。

東京2020パラリンピックの陸上男子走幅跳で4位に入賞した山本篤

東京2020パラリンピックの陸上男子走幅跳で4位に入賞した山本篤

 『パラリンピックブレイン』で中澤教授はこう書いている。「片側大腿切断の場合、下腿切断とは比較にならないほど非切断側の役割が格段に増す」「歩行一つとってみても、下腿切断の人であれば、義足を装着して歩けば、ほぼ健常者と変わりない歩行の動作となるのに対し、大腿義足は膝関節の柔軟な動きを再現することが難しく、非切断側による何らかの動きの補償が必要になる」

 山本は日ごろ、非切断側つまり右足の使い方をトレーニングしスキルアップを続けている。それがスムーズな両側性の活動を生み出した。あの右に身体を傾けた独特のフォームとともに見事な跳躍を支えているのだろう。

 脳には元来、失った機能を補う働きがあるという。レームや鈴木、山本たちトップアスリートはさらにトレーニングによって、義足を操る筋肉を司る「運動野」の活動機能をより高めている。それが「超人の世界」を創り出しているわけで、「パラリンピアンの脳の神秘」だと言ってもいい。

4.見えてはいないけれども、見えている

 脳の話は面白い。日本パラリンピック委員会(JPC)委員長の河合純一さんと話をしていたときにも、脳の話題になった。河合さんは「『見えてはいないけれども、見ている』状態になったことがある」という。

 河合さんは先天性ブドウ膜欠損症で生まれつき左目の視力がなかった。右目の視力も弱く、手術で一時的に回復したものの、15歳で完全に視力を失った。2歳から始めた水泳で頭角を現し、1992年バルセロナ以来、2012年ロンドンまで6大会連続パラリンピックに出場。全盲の競泳男子50m自由形で3連覇するなど、金メダル5個を含む日本人最多21個のメダルを獲得した。16年にはアジアから初めて、国際パラリンピック委員会(IPC)制定のパラリンピック殿堂入りしている。

 河合さんによれば、現役時代にfMRIで脳を撮影したら視覚を司る「視覚野」の働きが活発になっていることがわかった。自分が泳いでいる姿をイメージしながらトレーニングした成果のようで、「見えていると意識しないのに、脳が見えている」状態になったという。「ブラインドサイト(盲視)」と言われており、脳梗塞などで視覚野が損傷し視野狭窄や視野障害の症状に陥った人にも起きる。

 河合さんは以来「視覚野」に関心を持ち、中澤教授らと勉強会を続けている。

 競泳には「闇のなかを速く泳ぐ」全盲のスイマー木村敬一がいる。2歳で全盲となり、水泳は10歳から始めた。高校生で出場した2008年北京から4大会連続パラリンピックに出場し、これまで銀メダル3、銅メダル3個。東京では100mバタフライS11で悲願の金メダルを獲得した。

 中澤教授は木村についてもfMRIによる検査を行った。実際に泳いでいては測定できないので河合さん同様、泳いでいるイメージのなかで脳の活動を調べるのだ。

身体を動かさず頭のなかで運動している姿を想像する。このときの脳の活動は、実際に運動しているときの脳の活動に似通っているという。自由形レース、バタフライレース、歩行、手を握る動作の4つの課題にインターバルをいれて6回行った。その結果、全盲の木村には視覚による記憶がないにもかかわらず、視覚野の活動が観察されたという。

東京2020パラリンピックの水泳男子100mバタフライで金メダルを獲得した木村敬一

東京2020パラリンピックの水泳男子100mバタフライで金メダルを獲得した木村敬一

 視覚以外の感覚を研ぎ澄まし、身体の隅々から送られてくる情報を頼りにイメージしていくのであろう。木村にしろ、河合さんにしろ全盲である。体を動かしたときに体に伝わる水の動き、刻々変化する色などから視覚野が働き、「見えなくても、見えている」状態を創り出しているということなのか。奥の深い話である。

5.可能性を秘める脳

 中澤教授の研究は義足ジャンパーや全盲のスイマーに留まらない。『パラリンピックブレイン』には車いすテニスの国枝慎吾や脳性麻痺の水泳選手、腕のないアーチェリー選手など多くの選手たちが登場する。競技によってどのような脳の働きがあるのか、障害によっても違うのか、話題は広がる。

 こうしたパラリンピアンの脳の働きを調べる事によって、リハビリテーションへの活用も進むに違いない。もともと脊髄損傷者のリハビリから始まったパラリンピックが、リハビリの世界に“戻る”というのも興味深い話に違いない。脳神経医療などへの貢献も含めてパラリンピアンはある種ロールモデルになるといってもいい。

 またロボット工学と連動、パラリンピアン脳の働きを“移植”する事によって、道具を使って人間の身体や認知能力を補完、向上させる「人間拡張」の動きもより加速しよう。眼鏡や補聴器、義足からAIへ。ここでも大きな役目を果たす事になるように思う。

 一方で懸念されるのは脳ドーピング。健常者が脳の働きを高める効果を求めていく可能性は否定できない。「ヒト成長ホルモン」や「エリスロポエチン」のような遺伝子ドーピング、あるいは血液ドーピングとともに厄介な問題となりそうな可能性をはらむ。

 ドーピングは論外だが、鍛えれば進化する脳をいかに活用していくか。パラリンピックレガシーである。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。