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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」

箱根駅伝100回大会 — 危機を乗り越えた金字塔

佐野 慎輔(尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員/笹川スポーツ財団 理事)

 毎年のことながら、年の瀬になり「箱根」という言葉が新聞紙面を賑わせるようになると心浮きたつものがある。年が改まった正月の2日と3日、両日をかけて東京と箱根を往復する東京箱根間往復大学駅伝競走、通称「箱根駅伝」が今回はどんな展開を迎えるのか、期待感がむくむくと立ち上がってくるのだ。今回は第100回。尚更である。

 新聞記者時代に幾度か取材した経験はある。しかし箱根路を走ったわけではない。いまやテレビの前に座って戦況を見守る“お茶の間観戦者”に過ぎない。それでも東京、横浜という大都会から湘南の海へ、そして箱根の山に挑む若い選手たちの、仲間の汗が染み込んだ母校の襷をつないで走る姿に崇高な儀式をみる思いがする。

日本初のオリンピック代表選手である金栗四三。箱根駅伝の誕生に尽力した。右は1924年パリ大会のマラソンで、元気よく飛び出した金栗(写真:フォート・キシモト)

日本初のオリンピック代表選手である金栗四三。箱根駅伝の誕生に尽力した。右は1924年パリ大会のマラソンで、元気よく飛び出した金栗(写真:フォート・キシモト)

 あの日本初のオリンピック代表選手(マラソン)、金栗四三が友人で後輩でもある野口源三郎、沢田英一と語らい、自身と野口の母校東京高等師範学校(東京文理大学、東京教育大学を経て現・筑波大学)と沢田の母校明治大学に早稲田大学、慶應義塾大学を加えた「四大校駅伝競走」を企画し、当時の大新聞であった報知新聞社の後援を得て開催にこぎつけたのは1920年である。1912年ストックホルムオリンピックのマラソンに出場したものの途中棄権、「日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり」と嘆息した金栗が「粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん」と後輩の長距離走者養成を掲げた開催であった。

 その後、後援は経営不振に陥った報知新聞社を吸収合併、傘下に置いた読売新聞社に1948年から変更され、「箱根駅伝」は関東学生陸上競技連合主幹のもと「東京箱根間往復大学対抗駅伝競走」として当初は西銀座、やがて大手町発着に定着。2024年開催で第100回大会を迎える。

「箱根」を守る

今から約半世紀前、1975年の第51回箱根駅伝は雪の中でのレースとなった。この大会より往路、復路、総合の3賞制度を導入された。(写真:フォート・キシモト)

今から約半世紀前、1975年の第51回箱根駅伝は雪の中でのレースとなった。この大会より往路、復路、総合の3賞制度を導入された。(写真:フォート・キシモト)

 年数と回数が一致しないのは、1940年第12回大会の東京招致に成功しながら返上せざるをえなかったオリンピックと同様、日中戦争から第二次世界大戦に続く戦禍の拡大による中断にほかならない(注:オリンピックは中止された大会も回数として数える)。1940年に第21回大会が開催されたものの4142年大会は中止、41年に2度代替大会として明治神宮水泳場前と青梅熊野神社を往復する「東京青梅間大学専門学校鍛錬継走大会」が実施されている。ただこの代替大会は箱根駅伝には含まれず、43年に「紀元二千六百三年 靖国神社箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会」と戦時下らしい「神社への戦勝祈願」と「鍛錬」を掲げて実施された大会が戦時下唯一の箱根駅伝、第22回大会である。当時、学連幹事長を務めた中根敏雄は『箱根駅伝「今昔物語」』(日本テレビ編・文藝春秋)にこう述べている。

 「箱根を走った先輩たちが次々に戦地で還らぬ人となっていく。私たちが継承しなければもう忘れられてしまうだろうと。とにかく箱根駅伝の伝統を残さなくちゃいけない。その一心でしたね」

 しかし44年から46年までは戦争末期と戦後の混乱のため再び中止。ようやく1947年、「東京箱根間往復復活第1回大学高専駅伝競走」の名称で再開にこぎつけた。まだまだ日本は連合国軍総司令部GHQ)の統治下に置かれており、国内は窮乏生活を強いられ、食糧事情も悪化していた。復活に向けてGHQと交渉を重ねた大会関係者の努力は想像を絶するものがある。学連幹事長だった高橋豊は『箱根駅伝「今昔物語」』にこう語った。「やるんだったらね、よし、パンツ一丁になって東海道を走ろうじゃないかと。日本は戦争に負けたんだけども、まだまだ日本を再建する者はいるんだよと。で、みんなに見してやろうじゃないかと」「みんな家からお米を持ってきたわけですよ。とても配給じゃ食えません。走れませんよ。だってどんぶりの中に米粒が浮かんでいて、それをすすっていた時代ですもんね。でも、やってできねえことはないんだもの」―この47年大会こそ第23回大会であった。

 いま、そうした先人の足跡をたどるにつけ、平和ということ改めて考える。あの金栗が箱根駅伝を発案したのは、ストックホルム大会の雪辱を期すべくトレーニングに明け暮れた1916年第6回ベルリンオリンピックが第一次世界大戦のために中止された後であった。全盛期に国際舞台で走れなかった金栗の思いも「箱根」には凝縮されている。

テレビ生中継がつくりだした箱根人気

初のテレビ放映となった1979年第55回大会。写真は瀬古利彦(早稲田大学)のタスキ渡し。(写真:フォート・キシモト)

初のテレビ放映となった1979年第55回大会。写真は瀬古利彦(早稲田大学)のタスキ渡し。(写真:フォート・キシモト)

 戦中、戦後の中断を乗り越えた箱根駅伝は1956年から現在の1月2,3日開催に固定され、1953年のNHK第一放送によるラジオ中継もあって次第に人々に浸透していく。日本におけるテレビ放送の始まりはこの1953年でNHKテレビと日本テレビが開局したが、「箱根駅伝」のテレビ放映は1979年第55回大会まで待たねばならなかった。箱根山中の電波事情が悪く、周囲の連山に電波が届きづらかったためである。ようやく1979年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)が正月の特別番組として大手町のゴールシーンを中心に放映、翌80年以降は最終10区を生中継しハイライトシーンをダイジェストとして組み入れた番組を創った。そして1983年第59回大会では2桁視聴率を叩きだすまでに至っている。

日本テレビによる生中継放送が開始された1987年第63回大会。選手の背後に報道車が確認できる。撮影日=1987年1月2日(写真:日刊スポーツ/アフロ)

日本テレビによる生中継放送が開始された1987年第63回大会。選手の背後に報道車が確認できる。撮影日=1987年1月2日(写真:日刊スポーツ/アフロ)

 日本テレビが箱根の生中継に乗り出したのは遅れて1987年第63回大会からである。背景には生中継で走る事にかける選手たちの真の姿を見て欲しいという関東学連の意向があったとされる。箱根山中から生中継するためには電波をおくる中継基地(電波塔)を設置する必要があり、さらに中継車やカメラ、何よりスタッフの大量動員が不可欠となる。NHKに要請したが断られ、箱根駅伝のテレビ放映を続けてきた東京12チャンネルから名称変更したテレビ東京も残念ながら後発局で規模が小さく、系列局も限られスタッフ動員も難しかった。一方で日本テレビは規模が大きく系列局も全国にいきわたる。何より後援する読売新聞社とは兄弟関係にあり、協力も得やすい状況にあった。

 しかし日本テレビ内部には当初、反対論が根強かったという。箱根駅伝は関東学連主催の関東ローカルの大会に過ぎず、果たして長時間にわたって全国中継して視聴者がいるのか、関東の学生の大会にスポンサーがつくのか、何より技術的に可能なのか、今の盛況ぶりからは想像できないが、当時の意識としてはそんなものであったろう。

 実現に奔走したのはチーフプロデューサーの坂田信久(後のヴェルディ川崎社長、国士舘大学教授)であり、坂田の意をうけて総合ディレクターを務めた田中晃(現・WOWWOW代表取締役 社長執行役員)らスタッフである。坂田は箱根に人間ドラマを見、「中継時間が長いから、そうした人間ドラマが入れやすい」と考えていたと語る。

 実際、襷をつなぐ“儀式”もさることながら、1人の走者が仲間や母校の栄誉をかけて20㎞以上を走る。都会から海沿いの道路、山道と変化にとんだコースはその日の気象条件や体調に左右されて思わぬ展開を生む。さらに花の2区と言われるエース対決に「山の神」を生み出す5区と山下りの6区、2日間にわたるレースはそれだけで見るものを引き込む。そして優勝争いとともに激しく争うシード権というルール。テレビ番組が期待するドラマが満載だった。加えて坂田は全国的に名の知られた伝統校が多く、全国から選手たちが集っている状況も把握し、家族そろって楽しむ事が可能なイベントになると確信していたという。 

 電波事情はNTTの協力によってNTT二子山無線中継所が使用できるようになり、さらに平塚市と大磯町のあいだにある湘南平にも中継基地を設け、34カ所の中継ポイントを設置して克服。700人規模のスタッフを動員、移動中継車を含む16台の中継車両にヘリコプター2機、クレーンカメラなど空前絶後と言われた取材体制を敷いて実現にこぎつけた。

1987年第63回大会。順天堂大学が2連覇を果たした(写真:フォート・キシモト)

1987年第63回大会。順天堂大学が2連覇を果たした(写真:フォート・キシモト)

 それでもその年は往路が1755分―1025分、212時—1355分、復路が1部755分―925分、212時—1355分の両日2部制による生中継だった。スタッフ、中継車両が手当てできなかったのである。翌1988年第64回大会は少し拡充されたが、それでも往路が1755分―1025分、21050分―1355分、復路は1755分―1030分、211時―1355分の2部制は残った。別番組中継のため、3区と8区の一部を中断しなければならなかった。完全生中継となるのは1989年第65回大会からである。苦労の末の完全生中継であった。

 この日本テレビをあげた挑戦は視聴率の向上、つまりお茶の間のファン拡大という効果をもたらした。ビデオリサーチによる視聴率調査では第63回大会の往路1部が18.0%、218.7%で、復路1部は14.1%、221.2%だった。第64回大会は往路122.1%、219.2%、復路119.4%、220.3%、そして第65回大会は往路20.9%—18.7%、復路19.9%―21.7%を記録。いわゆる「数字を持った」人気番組となっていくのである。

第99回箱根駅伝。総合1位でゴールする駒大・青柿(撮影・藤山由理)。記念すべき第100回大会は、どの大学が栄光を掴むのか。撮影日=2023年1月3日(写真:スポニチ/アフロ)

第99回箱根駅伝。総合1位でゴールする駒大・青柿(撮影・藤山由理)。記念すべき第100回大会は、どの大学が栄光を掴むのか。撮影日=2023年1月3日(写真:スポニチ/アフロ)

 思えば、この生中継という挑戦が今日の箱根駅伝人気のターニングポイント、今風に言えばゲームチェンジャーではなかったか。

 1960年代に話題を集めた箱根駅伝もこの時代は高度経済成長の余波を被り、娯楽の多様化の中で埋没しかけていた。日本のモータリゼーションが進み、交通事情の悪化から管轄の警視庁、神奈川県警が大会規模の縮小やコース変更を要請、大会の中止すら俎上に上る事態とすらなっていた。主幹の関東学連はまさにテレビに活路を求めたのである。『箱根駅伝「今昔物語」』では第63回大会時の関東学連会長としてテレビ生中継を推進し大会のスターターを務めた釜本文男がこう述べている。

 「箱根駅伝の中身っていうものは、出発したところからもう歴史、文化がいっぱい詰まっていますからね。これは絶対なくならんと思っています。ただ、社会のいろんな行事はすべて、テレビを利用しない限りにおいては発達しないんです」

 先見の明というより、最後の手段としてのテレビ活用が「箱根駅伝」を救ったと言い換えてもいいのかもしれない。そのテレビ番組を“創った”日本テレビOBの坂田とは郷里の後輩ということもあり、様々な場面で教えを乞うてきた。その坂田がテレビと箱根駅伝のあり方として聞かせてくれた言葉は心に重く響いた。「テレビが箱根駅伝を変えてはいけないということを忘れないでほしい。時代が変われば変わるほど、変わらない箱根駅伝の価値はより高まっていくものです」―坂田の言葉はさまざまな「箱根駅伝本」にとりあげられ、『箱根駅伝「今昔物語」』にも「箱根駅伝生中継、始まりの日」として記載されている。

 箱根駅伝は100回を迎える。この間、延べ100人以上の箱根駅伝経験者がオリンピック出場を果たし、2024年パリで開催される第33回オリンピック競技大会のマラソンには小山直城(東京農業大学—ホンダ)、赤崎暁(拓殖大学—九電工)とふたりの箱根出身ランナーの出場が決まっている。「箱根から世界へ」という金栗の思いは確かに時代を超えて、今も受け継がれている。

                                =敬称略

【参考文献】

箱根駅伝公式サイト https://www.hakone-ekiden.jp/

笹川スポーツ財団ホームページ https://www.ssf.or.jp/

箱根駅伝100年 襷の記憶 (2018年・ベースボールマガジン社)

箱根駅伝2024完全ガイド (2023年・ベースボールマガジン社)

箱根駅伝ガイド決定版2024 (2023年・読売新聞社)

箱根駅伝 襷がつなぐ挑戦 読売新聞運動部著 (2023年・中央公論社)

箱根駅伝「今昔物語」 日本テレビ編 (2023年・文藝春秋社)

箱根駅伝100年史 工藤隆一著 (2023年・KAWADE夢新書)

  • 佐野 慎輔 佐野 慎輔   Shinsuke Sano 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団理事/上席特別研究員
    報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等