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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」

西竹一
不穏な時代に輝いた「破格の」男

【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】

2018.12.12

バロン・ニシの名は悲劇の主人公としてよく知られている。1932年のロサンゼルスオリンピックで馬術・障害飛越の金メダリストとなりながら、軍人として戦火の中に赴き、壮烈な戦死を遂げた西竹一。残酷なまでにくっきりと描かれた明暗が、いっそう悲しみを際立たせているのだろう。
ただ、その馬術家としての人生は輝かしく、豊かなものだった。そこには、戦前の日本のスポーツ界としては破格と言ってもいいスケールの大きさと、抜きん出た国際感覚があった。ここでは、その豊かな足跡こそを語りたい。

1902(明治35)年、東京・麻布で男爵家の三男として生まれた。兄の早逝によって家を継ぎ、男爵となった西は軍人の道に進み、陸軍士官学校で本格的に馬術に取り組むようになった。22歳で陸軍騎兵将校となると、その技は一気に磨かれていく。 「天真爛漫、元気溌剌の腕白小僧」と評された少年時代。興味を持ったものにはとことんのめり込んでいく性格は長じてもそのままで、それが馬術への情熱をいっそう燃え立たせた。日々、馬とともにある騎兵連隊の生活。荒馬をも根気よく調教して自在に乗りこなしていくことを西はこよなく愛した。

そのころ、彼はさまざまな挑戦を試みた。馬を駆って柵や石垣を跳び越えるのである。よく知られているのは、福東号というクセ馬を熱心に調教してすぐれた障害馬に仕上げ、自分のオープンカーを跳び越えさせたエピソードだ。

その瞬間の写真が残っている。同期生を車に乗せておいて、頭上ぎりぎりをふわりと越えていく様子が写っている。幌をたたんでいるので高さは1メートルほど、幅も2メートルほどという車は、障害としてはさほど大きくはない。が、見慣れないものを怖がる馬にとっては恐ろしい存在なのだ。大胆な挑戦は周囲の度胆を抜いた。

オープンカーを跳び越える西

オープンカーを跳び越える西

のちに西は、アイリッシュボーイという馬で、高さ2メートル10センチの横木障害を跳ぶという挑戦も成功させている。当時、2メートル越えの飛越は世界でもほんの数例しかなかったという。

といって、無鉄砲な冒険を繰り返していたわけではない。いずれの場合も、車の存在に慣れさせたり、徐々に横木の高さを上げていったりという事前の訓練を重ねていた。周到な準備のうえで、持ち前の強気や思い切りのよさを生かしたというわけだ。

確かな技術が認められて、西は25歳で騎兵学校の学生となった。当時の馬術は軍人中心。日本を代表する馬術選手として、オリンピックへの第一歩を踏み出したのである。

馬術は1900年のパリ大会からオリンピック競技となり、1912年のストックホルム大会からは、現在のように馬場馬術、障害飛越、総合馬術の3種目が行われるようになった。中でも花形競技といえば、西の取り組んでいた障害飛越である。まさしく人馬一体となって障害を華麗に越えていくさまは、オリンピックの華とたたえられたものだ。

日本は1928年のアムステルダムから出場した。陸上で織田幹雄選手が日本初の金メダルを取った大会だが、馬術は20位が最高成績。国際馬術連盟の創立メンバーにも入っていた日本としては、続く32年のロサンゼルスでなんとしても好成績を挙げたいところだった。そこで頭角を現したのが西竹一である。

ロサンゼルス大会の2年前、西はオリンピックの候補選手に選ばれた。最年少の27歳。若武者はここからたぐいまれな器の大きさを発揮していく。もちろん騎乗技術は磨かねばならない。が、それと同じくらいに大切なのがすぐれた馬だ。いいパートナーに出会えるかどうかが勝敗を分けることになる。そこで西は、馬術の本場である欧州で生産された馬を手に入れようと決意した。20代の若さ、初めて目指すオリンピック。その段階でもう「世界」を見据えていたのである。

そんな中、イタリア留学中の騎兵学校教官から「いい馬がいる」と連絡が入ると、西はすぐさま動いた。「自分が買う」と連絡したうえで半年間の休暇を願い出て、欧米へと旅立ったのだ。すべて自費。まず、ロサンゼルスの会場を見ておくためにアメリカに行き、そこからイタリアに赴いて、教官に紹介された馬を買い入れた。かけがえのないパートナーとなったウラヌス(天王星)号である。

西と愛馬ウラヌス

西と愛馬ウラヌス

体高181センチという大きな馬。西は手紙で「聞きしにまさる大きさ。またがってみると、これはまた駱駝ラクダのよう」と書いている。ひと目で気に入った彼は、そのまま、ウラヌスとコンビを組んで欧州各地の競技会に出場した。格式高く、強豪ぞろいでもある本場の大会に臆することもなく、イタリア、フランス、スイス、ドイツと武者修行の旅を続けたのだ。抜群の決断力と実行力をともに持ち合わせていた西ならではの思い切った行動と言わねばならない。

天真爛漫、元気溌剌という少年時代の気質そのままに、西はウラヌスを連れて自由奔放に欧州中を駆け巡った。名のある大会で上位にも入った。バロン・ニシの名前はこうして欧州馬術界に知られていく。この転戦がオリンピックへとつながる貴重な土台となった。すぐれた馬を手に入れ、本場の競技を身をもって体験するために思い切って日本を飛び出した決断が、金メダルをぐいと引き寄せたのだった。

この足跡をあらためて振り返ってみると、こう考えずにはいられない。当時の日本のスポーツ界で、これだけのスケール、これだけの行動力と、抜きん出た国際感覚を持っていた人物はほとんどいなかったように思うのだ。その意味で、西はまさに「破格」だった。

ウラヌスを伴って帰国した西は、翌年の予選会でも実力を示し、オリンピック日本代表の座を射止めてロサンゼルスに赴いた。1932年7月、いよいよ大会が始まり、最終日の8月14日に最終種目として行われた障害飛越。アメリカ、日本、メキシコ、スウェーデンから11人が出場したが、19の障害が設けられた難コースは簡単には攻略できない。完走できたのは5人だけ。そして、アメリカの優勝候補を抑えて最少減点で走り切ったのは30歳の西だった。地元選手が敗れたにもかかわらず、彼のゴールを大観衆がスタンディングオベーションで迎えたのは、それが明らかに金メダルにふさわしい飛越だったからだろう。

「天晴れ西中尉 正に天馬空を行く 花々し若武者の神技」「名騎手と名馬 三年寝食を共に 遂にこの栄冠」

1932年ロサンゼルスオリンピック、西とウラヌスによる金メダルの飛越

1932年ロサンゼルスオリンピック、西とウラヌスによる金メダルの飛越

日本の新聞は大見出しで快挙を伝えた。ただ、勝利をたたえたのは日本だけではない。アメリカの新聞も大きく報じ、ロサンゼルス市議会は西を名誉市民とすることを決めた。彼はアメリカでもヒーローとして遇されたのだ。

日本の選手団が海路ロサンゼルスに向かったのは5月。西は現地で車を買い込み、あちこち出かけて市民との交流を深めた。以前、アメリカからイタリアに向かう航路で知り合ったハリウッドの大スター、ダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォード夫妻とも旧交を温めた。快活で自由闊達な人柄。英語も堪能。バロン・ニシはどこにでも溶け込み、オリンピックの開幕前から人気者になっていた。そうした友好的な振る舞いが温かい称賛につながったのだろう。

日本が満州への進出を始め、アメリカで対日感情が悪化しつつあったころだった。スマートで明るいバロン・ニシの活躍は、日本をよく思っていなかったアメリカ人の感情を和らげる役にも立ったと思われる。それによって、ひとときにせよ日本のイメージは変わったのではないか。

臆せず自分の信じた道を貫き、思った通りにやり遂げてしまうスケールの大きさ。常に世界を見据え、どの国でもたちまち多くの知己をつくる国際性。欧米主導の馬術競技で金メダルを獲得したうえ、国を超えて親しまれた破格の功績は、まさしく西竹一という破格の人物でなければなし遂げられなかったろう。

男爵の地位にあり、多くの資産も持っていたからできたことではある。ただ、幅広い見識と情熱を持ち合わせていた西だからこそ、恵まれた環境を存分に生かし切ることができたのだ。発展途上にあり、いまだ十分な国際性もなかった戦前の日本で、それは実に貴重な足跡だったと言っておきたい。

1936年ベルリンに向かう西と見送りの家族

1936年ベルリンに向かう西と見送りの家族

4年後のベルリンオリンピックでは総合馬術で12位、ウラヌスと出場した障害飛越では20位にとどまった。1940年に予定されていた東京大会に向けての準備もしていたが、戦火がすべてを無にした。1945年、硫黄島で戦死。42歳の若すぎる死はいかにも惜しい。ただ、その悲劇を迎えるまでの人生で彼が示した豊かな生き方は、数十年が過ぎたいまでも、もっと広く知られ、学ばれていいのではないか。戦争が忍び寄る不穏な時代に輝いた一筋の光としてこそ、バロン・ニシの伝説は語り継がれていくべきだ。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐藤 次郎 スポーツジャーナリスト

    1950年横浜生まれ。中日新聞社に入社し、同東京本社(東京新聞)の社会部、特別報道部をへて運動部勤務。夏冬6 回のオリンピック、5 回の世界陸上選手権大会を現地取材。運動部長、編集委員兼論説委員を歴任。退社後はスポーツライター、ジャーナリストとして活動。日本オリンピック・アカデミー(JOA)正会員。ミズノ・スポーツライター賞、JRA馬事文化賞を受賞。著書に「東京五輪1964」(文春新書)「砂の王 メイセイオペラ」(新潮社)「義足ランナー 義肢装具士の奇跡の挑戦」(東京書籍)「オリンピックの輝き ここにしかない物語」(東京書籍)「1964年の東京パラリンピック」(紀伊国屋書店出版部)など。