Search
国際情報
International information

「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

知る学ぶ
Knowledge

日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

3. 嘉納治五郎と日本のオリンピックムーブメント

【オリンピックの歴史を知る】

2016.11.22

1909(明治42)年も明けたばかり、東京高等師範学校(現・筑波大学)校長を務める嘉納 治五郎かのうじごろうのもとに、駐日フランス大使オーギュスト・ジェラールから会見したいとの申し出があった。嘉納がジェラールを訪ねると以下のような説明があった。

自分(ジェラール)は国際オリンピック委員会(IOC)を組織し、1896年にギリシャのアテネで第1回オリンピック競技大会を開催することに尽力したフランスの男爵ピエール・ド・クーベルタンの同窓生である。クーベルタンから自分宛に手紙が届き、欧米各国の委員で構成、運営されているIOCにまだひとりも委員が参加していないアジアを代表して、日本から適当な人物を探し、就任を促してほしいとあった。ついては貴方(嘉納)を委員として推薦したい。

すぐに嘉納は外務大臣・小村寿太郎こむらじゅたろう、文部大臣・菊池大麓きくちだいろくに相談。賛同を得ると再びジェラールを訪ね、IOC委員を引き受ける旨を伝えた。

ジェラールはすぐさま手紙をしたため、クーベルタンに「打って付けの人物」の受諾を伝えている。書簡は1月19日付だった。

なぜ、嘉納に白羽の矢が立ったのだろう。ジェラールは親しくしているロシア公使、本野一郎もとのいちろうの助言をうけた。その本野が嘉納を推薦したことはいうまでもないだろう。

講道館柔道の創始者で、日本のオリンピック参加に尽力した嘉納治五郎

講道館柔道の創始者で、日本のオリンピック参加に尽力した嘉納治五郎

1860(万延まんえん元年)12月10日生まれの嘉納は、当時48歳。東京大学文学部で政治学および理財(経済)学を修め、学習院教授兼教頭から第五高等中学校(旧制五高、現・熊本大学)校長、第一高等中学校(旧 制一高、現・東京大学)校長を経て、1893年から東京高等師範学校(東京高師)の校長を務めていた。

東京高師では陸上大運動会開催に始まり、体操専修科(現・筑波大学体育専門学群)を開設し、体操、柔道、剣道の教師養成に乗り出している。早くから青少年の体位向上に関心を寄せ、全学参加の水泳実習や長距離競走大会を実施するなど、日本の体育・スポーツ普及のパイオニアのひとりでもあった。

かたわら1896年から清国(中国)の留学生を受け入れるための教育機関を創設、東京高師と同様のカリキュラムを学ばせるなど早い時期から国際交流を実践している。
そして、講道館柔道の創始である。

摂津国せっつのくに御影村みかげむら(現・兵庫県神戸市東灘区)の酒造業を営む旧家に生まれた嘉納は、学業に秀でていたものの、体格は恵まれなかった。そこで東大入学後、非力なものでも力の強いものを倒すことができる柔術を学ぶ。最初は天神真楊流てんじんしんようりゅう福田八之助ふくだはちのすけに入門、福田の死後は起倒流きとうりゅう飯久保恒年いいくぼつねとしに師事した。天神真楊流はめや押し伏せ、起倒流は腰技こしわざ横捨よこすて身などを特徴にもつ。ふたつの流儀りゅうぎきわめた嘉納は長所を合わせて改良、教育的な要素を加え「柔道」を考案、完成していくのだった。

1882(明治15)年、東京・下谷区北稲荷町の永昌寺えいしょうじ講道館こうどうかんを創設、「かた」の教えを盛り込み心身の鍛錬たんれんをめざした。ジェラールが嘉納の名を耳にしたころ、柔道は教育の場に浸透し、講道館は広く知られていた。

「打って付けの人材」嘉納治五郎は、1909年5月27日のIOCベルリン総会において正式に新委員として選出された。アジア人では初のIOC委員の誕生だった。嘉納が初めてクーベルタンと会うのは1912年、第5回オリンピック開催都市のストックホルムである。

その前、嘉納には大仕事があった。そのストックホルム大会に参加するための国内統括団体の創設である。

道のりは容易ではなかった。何より、文部省が国民の体育向上をたてに積極的ではなく、既存の大日本体育会もエリート選手には批判的であった。嘉納は各大学をまわって参加の意義を説き、ようやく1911年7月、東京帝国大学、早稲田大学、慶応義塾大学などの賛同を得て大日本体育協会(現在の日本体育協会)創設に至る。

嘉納が会長につき、事務所は東京高師に置いた。規約はオリンピック参加をうたうものの、体育の普及という国家命題をもあわせ持ついわば妥協の組織であった。これが大日本体育協会という新組織が日本オリンピック委員会(JOC)と名乗らなかった理由である。1989年、日本体育協会からのJOC分離・独立までこの状況が続いた。

さらに11月にはオリンピックの国内予選会を開催、選手選考を急いだ。対象を陸上競技13種目だけに限定し、東大生の三島弥彦みしまやひこが短距離、東京高師生徒の金栗四三かなくりしぞうをマラソン代表に決めた。

ところで予選会の出場資格は、

  1. 16歳以上
  2. 品行方正な学生
  3. 中学校あるいはこれと同等と認められたる諸学校の生徒・卒業生およびかつて在学した者
  4. 在郷軍人会会員
  5. 地方青年団団員と市町村推薦状を有する者

に限定された。つまり「アマチュア資格」であった。

混乱の中、嘉納は選手団長として日本初のオリンピック参加を果たす。結果は三島も金栗もみじめなありさまだった。落胆するふたりに、嘉納はこうさとしたという。

「落胆してはいけない。外国の技術を学び、大きな刺激を得たことは大成功と思う。日本のスポーツが、国際的なひのき舞台に第一歩を踏み出すきっかけをつくったという意味で、大きな誇りを持ってほしい」

いかにも国際舞台に初めて一歩を踏み出した日本スポーツを現す言葉である。金栗はその後、教育者・指導者として「東京・箱根間大学対抗駅伝」を創始し、マラソン・長距離界の普及、発展に大きな足跡を残した。三島はスタートの技術向上や、やり投げなど競技の発展に尽くした。スポーツ界における「坂の上の雲」の時代である。

さて嘉納は、同じ教育者であるクーベルタンとスポーツによる青少年教育の重要性で共鳴しあい、深く親交を重ねていく。IOCが定期的に発行する冊子「ルヴェー・オランピック」に、クーベルタンが柔道に関する小論文を発表する一方、嘉納は柔道の精神である「精力善用せいりょくぜんよう」「自他共栄じたきょうえい」、つまり自分の心身の力をいかして善いことに使い、自分だけでなく他人も一緒に栄えるという思いが、オリンピックをさらに発展させると力説した。著書「わがオリンピック秘録」にも「日本精神をも吹き込んで、欧米のオリンピックを世界のオリンピックにしたい」と記している。

欧米のものだったオリンピックを日本の首都・東京で開く。国民の思いが高まっていくのは、1928年アムステルダム大会での織田幹雄おだみきお鶴田義行つるたよしゆきの金メダル獲得による。そこに紀元2600年となる1940年への奉祝計画が重なり、1931年から招致活動が始まった。

当時の鉄道省が制作した1940年東京オリンピック招致ポスター

当時の鉄道省が制作した1940年東京オリンピック招致ポスター

IOC委員である嘉納は当然、全力を傾けていく。1932年ロサンゼルス、1933年ウィーンに2度、1934年アテネとIOC総会で東京開催の意義を説いてまわった。現在と違って船での長旅である。70歳代になっていた嘉納にとって厳しい旅となったが、精力的にIOC委員たちとの交流を深めた。

そして1936年ベルリンで行われた総会で、欧米だけで開催されてきたオリンピックを極東の地で開催してこそ世界的な広がりをもつのだと強調、東京招致成功に導いた。嘉納とともに精力的に活動した杉村陽太郎すぎむらようたろう副島道正そえじまみちまさ両IOC委員は東京高師附属中学(現・筑波大学附属高校)の教え子であった。

嘉納の尽力で1940年第12回大会の東京開催は決まった。しかし、迫る戦禍が影を落とす。IOCは、暗に大会返上を迫ってくる。嘉納はこれに対し猛然と抗議、1938年カイロで行われたIOC総会で「オリンピックの開催は政治的な状況などの影響を受けるべきではない」と主張、全委員の賛同を取り付けた。

嘉納は帰途、前年に亡くなったクーベルタンの心臓をオリンピアに移す儀式に参列、その後、日本を支持してくれたIOC委員たちへの返礼とさらなる協力要請のため、欧米を歴訪した。しかし、心労もあったろう。カイロからの旅の最後、バンクーバーから横浜に向かう氷川丸の船上で肺炎を起こし、78歳の人生を閉じるのである。1938年5月4日、横浜到着2日前のことであった。

日本では嘉納の死をきっかけに返上論が多数を占めるようになり、2カ月後、東京市は開催を返上した。

東京・文京区の占春園にある嘉納治五郎像

東京・文京区の占春園にある嘉納治五郎像

嘉納の思いはしかし、後の人々に引き継がれ、戦後、1964年第18回東京大会開催として結実した。招致を決めた1959年ミュンヘン総会で最終スピーチを行った元外交官の平澤和重ひらさわかずしげは氷川丸で嘉納の死を見取った人であり、陰に陽に日本を応援したIOCのアベリー・ブランデージ会長は嘉納と親しく、開催されなかった1940年東京大会の支持者でもあった。

さらに、1964年東京大会で柔道が公式競技となる。嘉納自身は生前、柔道のオリンピック採用を働きかけたふしはないが、これは彼を尊敬していたIOC委員たちの尽力によるものである。柔道はやがてJUDOとして世界に普及し、嘉納の教え、精神は長く残るレガシーとなった。2020年、嘉納のことはもっと称賛されてよい。

関連記事

スポーツ歴史の検証

  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。