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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

麻生武治という異能

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2023.01.31

 スポーツの草創期には“ある種の天才”が出現し、いくつもの競技にその才能を開花させることがある。

 日本が初参加した1912年の第5回ストックホルム・オリンピックに陸上短距離代表として出場した東京帝国大学生三島弥彦はその極みであろう。子爵家の五男として生まれ、野球では学習院のエースで4番、ボート部でもトップ選手だった。柔道二段で相撲を取らせると大相撲の大関に譲らず、水泳は講習所の講師を務めた。日本にスキーを伝えたオーストリア・ハンガリー帝国の軍人、あのテオドール・エドラー・フォン・レルヒに直接スキーを学び、スケートでも選手として競技会に出場した。「野球と其害毒」論争で勇名をはせた天狗倶楽部(アマチュアスポーツ愛好団体)の有力メンバーであり、冷やかしで見物に行った羽田運動場でのオリンピック予選会に飛び入り参加し100ⅿと400ⅿに優勝、200ⅿは2位となって代表の座を射止めた。スーパー・スポーツマンだと言ってもいい。

 競技人口の少ない時代、いやスポーツの何たるかも知られていない時代、楽しみが許された裕福な家庭の子息だからとみなすことは簡単である。しかし、その機会を活かすことは「特別な才能」に違いない。

 日本の冬季スポーツ史に異彩を放つ早稲田大学OB麻生武治(あそうたけはる)もまた、そうした異能の存在であった。

東京生まれのスキー代表

 日本が初めて冬季オリンピックに参加したのは1928年第2回サンモリッツ大会である。廣田戸七郎監督以下ノルディックスキー代表選手6人のなかに、麻生の名がある。

 廣田と北海道帝国大学生の伴素彦(のち全日本スキー連盟会長)ら北海道組が3人、早大の矢沢武雄ら新潟勢2人、同じく早大の竹節作太(のち毎日新聞運動部長)は長野。さすがに雪とスキーに縁が深い地方の出身者のなかで、麻生はただ1人の東京出身だった。日本銀行理事を父に持ち、母はピアニスト。1899年東京・麻布区(現・港区)で生まれ、暁星中学(現・暁星高)から早大に進み、オリンピック出場時はドイツ・ベルリンにあるプロイセン体育大学に留学していた。ほかの選手よりは年嵩の28歳である。

 スキーが専門というわけではない。ヨーロッパに留学後、アルプスに挑み、山歩きを続けるうち、スキーに魅せられ実践と研究を重ねた。選手団としては英語、ドイツ語にフランス語も堪能でヨーロッパ事情に通じた麻生を競技とは違った形で頼りにしたのである。

 「派遣費用がかからないことが選ばれた理由だったと、麻生さんが笑いながら話してくれた」と、オリンピック評論家として知られた伊藤公から生前聞いたことがある。

1928年 サンモリッツ冬季大会スキー日本チーム(右から2人目が麻生武治)

1928年 サンモリッツ冬季大会スキー日本チーム(右から2人目が麻生武治)

記念すべき第1回箱根駅伝を走った

 麻生は高名な登山家である。同時に学生時代は陸上競技で日本を代表する選手でもあった。1919年の日本陸上競技選手権では1500mに優勝、競歩でも活躍した。

 そして1920年、三島と並ぶ日本初のオリンピック代表、マラソンの金栗四三らが発案した東京高等師範学校と早稲田、慶応義塾、明治による『四大校駅伝競走』に出場。9区を走って区間記録、母校の復路2位に貢献した。この大会は、その後『東京箱根間往復大学駅伝競走』すなわち「箱根駅伝」と名称を変えた。記念すべき第1回箱根駅伝に出場したランナーにほかならい。

 「海外に通用する長距離走者の養成」をめざして創設された第1回箱根駅伝からは、同年の第7回アントワープ・オリンピックに金栗のほか、茂木善作、大浦留市(いずれも東京髙師)と三浦弥平(早大)の3人をマラソン、長距離代表に送り出した。もちろん麻生もそうなる可能性もあった。

 翌年の第2回大会は5区山登りを担当し、前年の記録を1分ほど更新する区間新記録を樹立、続く第3回大会でも5区区間賞に輝くなど、まさに「元祖山の神」として早大の箱根初優勝の原動力となっている。

 ちなみにこのとき早大は副総理、農林大臣などを務めた河野一郎(第14回)、参議院議長だった河野謙三(第24回)兄弟も出場。第2回では7区と8区でともに区間賞をとる兄弟リレーを実現している。

 麻生は山登りで活躍した第2回大会の翌1922年7月、舟田三郎ら早大山岳部でチームを組み、学習院の板倉勝宣、京都帝国大学の松方三郎(のち日本山岳会会長)らのグループと競って槍ヶ岳北鎌尾根の日本人初登頂に成功した。そんな麻生は毎冬の合宿時、「練習が終わったら真っ先に裏の川に飛び込んで、泳いで体を鍛えていた」と語ったのは河野一郎である。

こよなく愛した山とスキー

 箱根駅伝で活躍した麻生は1922年、早大を卒業するとスイスに留学した。ヨーロッパの山々に魅せられ、恵まれた体力を活かして登山家として活躍。1923年には日本人で初めてマッターホルン(ツムット稜)とモンテローザに登頂。この年9月の関東大震災で一時帰国したものの、すぐにベルリンに戻り、プロイセン体育大学に学ぶのだった。

 1924年、ヨーロッパで覚えたスキーで厳冬期の槍ケ岳に挑んで制覇。翌1925年には松方とベルーナアルプスの山々に登り、1926年に秩父宮雍仁親王のアルプス登山にも同行している。このときのメンバーには松方のほか、マナスル初登頂で知られた槇有恒、ジャーナリストとして高名な松本重治、浦松佐美太郎や細川家当主の細川護立らの名がある。

 その間、麻生は前述した通り山々をめぐり、スキーの腕を磨いた。1926年には北海道帝国大学文武会スキー部会報『山とスキー第六十一號』にチロルから寄稿。「スプルングラウフの研究」と題してジャンプとクロスカントリースキー、いわゆるノルディックスキー複合の技術について解説してもいた。

 麻生は冒頭、こう書いた。「氷雪の峯に冬季登山を企つるもよし、白銀の曠野タンネ、フヒテエの森を縫つてストックテクニックの粹を味ふも可なり」「剛膽と優美の極地に觸れるスプルングラウフの男性的なるに到りては到底他の追従を許さぬものがある宣なる哉之を名づくるに“Krone des Schisports”(スキースポーツの王冠)とは」―ノルディックスキー複合が「スキーの王様」と称される理由を語っている。また、ノルウェーのヤコブ・チューリン・タムスの名を挙げ、1924年シャモニー・モンブラン大会のジャンプで優勝、冬季オリンピック初の金メダリストとなったタムスのジャンプスタイルに言及した。

 まさに日本に冬季オリンピックを伝えた先駆者である。麻生のオリンピック出場が夏の1920年アントワープでも1924年パリでもなく、1928年サンモリッツ冬季大会だったは「必然であった」と言ってもいい。

サンモリッツ冬季大会のジャンプ台

サンモリッツ冬季大会のジャンプ台

 サンモリッツ大会で麻生はジャンプとノルディック複合、クロスカントリーに出場。いずれも転倒や途中棄権で失格、記録なしに終わった。日本にスキーが伝わったのは明治末期の1911年、あの三島弥彦も教えを請うたレルヒ中佐が上越・高田で将校らにスキー指導したことが嚆矢(こうし)とされる。異説あるものの、日本でスキーが浸透して、まだ20年に満たない。世界との力の差は歴然としていた。

 のちに麻生は、著書『我がスキーシュプール』(1974)にこう書いている。「ノルウェー選手の飛躍をまのあたりに見ては、(中略)まるで大学生と幼稚園児みたいなものだから、当然オリンピックの出場などは諦めた筈だが、そこが若気のいたりで、(中略)まさに恥をかきに出たようなものだった」

 麻生はその後も堪能な語学を活かして海外の選手などと交流。世界との差を埋めるべく技術や用具などの知識を日本にもたらす橋渡し役を務めた。1928年から29年、全日本スキー連盟が秩父宮や大倉財閥当主の大倉喜七郎の支援をうけてノルウェー・スキー連盟副会長のオラウフ・ヘルセットを招聘、指導をうけたときにも世話役を務めた。この間、日本の冬季オリンピック初のメダルを獲得した猪谷千春の父で、日本のスキー草創期の先駆者、“雪の放浪者”として知られた猪谷六合雄(くにお)とも親しく交流している。

 1930年、ノルウェーの伝統的なノルディックスキー競技会であるホルメンコーレン国際大会にただ1人の日本人選手として出場。翌1931年にはスキーの指導書『スキー指導要覧』のノルディックスキー部門を執筆、日本の技術向上に大いに役立つことなった。

 そして1932年第3回レイクプラシッド冬季大会ではスキー代表チームの監督に就任、8位になった安達五郎らをサポートした。このとき麻生は読売新聞に寄稿し、こう述べている。

 「世界民族のオンパレードであるオリムピアードに集ふ各国から選ばれた人達に日本及び日本人を強く良く印象づける」―大会に臨む気概であった。

晩年まで持ち続けたスポーツへの思い

 還暦を過ぎた1961年、好奇心の塊のような麻生はアジアで初の開催が決まった1964年東京オリンピックの聖火リレーコースを調べる踏査隊隊長に選ばれた。6人の隊員が国産の大型四輪駆動車に分乗し、オリンピック発祥の地ギリシャのオリンピアからアテネを経てイスタンブール、ダマスカスからバグダット、テヘランをめぐってアフガニスタンのカブールに至る。さらにインドのニューデリーからカトマンズ、ラングーン(ヤンゴン)、バンコクを経てシンガポールまで約18000kmの行程を約半年かけて踏査した。その報告によって、アジアの各地をめぐったのち帰還前の沖縄を経て東京に至る壮大な1964年東京大会の聖火リレーの実施が決まった。

 この旅の始まりは順調だった。行く先々で大歓迎をうけ、踏査隊はアジアで初のオリンピック開催を期待する人々の思いを感じ取った。ところが、アフガニスタンに入ると苦難が続いた。下痢や発熱に苦しめられる隊員が出たり、治安の悪さで足止めされたり、さらには旅費を盗まれる被害にもあった。反政府ゲリラに悩まされ、水害にも遭遇した。麻生ともう1人の隊員はカブールで離脱し、残りメンバーでニューデリー以降のコースを踏査し任務を終えたが、何とも大変な旅ではあった。

 麻生はしかし、『水利科学』誌(1962)に寄稿した論文「オリンピック聖火踏査の旅」に楽しげに旅の様子を記している。

「私もすでに還暦をすぎてこんな長い砂漠の旅ができたことは、日頃の健康の賜と改めてスポーツに感謝している」

 いかにも麻生の面目躍如という文章で締め括られており、確かにスポーツで得た健康の賜物だったことは間違いない。69歳でドイツ開催の国際壮年ロードレースを完走。長野が1998年冬季オリンピック開催地に決まったときには「長野の大会を自分の目でみてみたいと話されていた」と前述の伊藤が話していた。しかし19935月、大会準備を気にしながら、異能の人は93歳の人生の幕を閉じた。

<敬称略>

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。