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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」

【冬季オリンピックの歴史】
選手たちが紡いだ冬物語・スケート編

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2022.02.10

1.12歳の悦ちゃんが蒔いた種

1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘン大会に冬季オリンピック日本人最年少出場した稲田悦子

1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘン大会に冬季オリンピック日本人最年少出場した稲田悦子

 開幕したばかりの北京冬季オリンピックで初の団体銅メダルを獲得したり、羽生結弦が世界のメディアの注目を一身に集めたり。日本のフィギュアスケートはいまや世界でもトップクラスの実力を誇る。その歴史の始まりは、戦前唯一の冬季女性オリンピアン、稲田悦子にあると言ってもいい。

 1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘン大会(ドイツ)に出場したときは、192428日生まれだから、わずか120カ月に過ぎない。大阪市立菅南小学校(現・西天満小)6年生。日本の冬季オリンピック代表最年少記録として今なお残る。

 小学2年生のとき、大阪朝日新聞社が新築した社屋屋上に設けたリンクでフィギュアに魅せられた。ヨーロッパから洋書を取り寄せては辞書と首っ引きで教える永井康三のもとで才能を開花。オリンピック前年の全日本選手権で優勝し、たった1人の女子オリンピック選手となった。「天才少女」は銀色のコスチューム、胸に赤い花をつけて舞い、大会の人気をさらった。出場26選手中10位、オリンピック3連覇を果たしたソニア・ヘニーが稲田の可能性を語ったとされる。

 その開幕1カ月前の欧州選手権。観戦に訪れたドイツの領袖がわざわざ貴賓席からおりてきて練習を終えた稲田に握手を求めた。12歳の少女が小さな氷の妖精に見えたのだろうか。アドルフ・ヒトラーである。しかし、そのヒトラーと日本の軍部が彼女の未来を変えた。第二次世界大戦に向かう戦火と戦禍拡大による1940年、1944年大会の中止。復活した戦後初、1948年サンモリッツ大会にはドイツとともに日本は招待されなかった。

 歴史に「もし」は許されないが、戦争がなければ、成長した彼女が氷の上に大輪の花を咲かせていたかもしれない。その意味では稲田もまた「戦争犠牲者」と言ってもいい。

 1952年オスロ大会へのフィギュア選手派遣がなくなり、現役を引退、コーチの道を選ぶ。戦後、日本のフィギュア選手がオリンピックに戻ったのは60年スコーバレー大会。男子の佐藤信夫、女子の福原美和と上野純子の3人とも稲田の教え子だった。

 やがて佐藤は佐野稔に始まり、娘の佐藤有香や荒川静香、安藤美姫、村主章枝、小塚崇彦、浅田真央ら世界の舞台で活躍した選手たちを教え、64年インスブルック大会5位入賞の福原も八木沼純子を育てた。審判員の道に進んだ上野は国際審判員となり、98年長野大会では審判宣誓。国際スケート連盟理事、日本オリンピック委員会理事などを歴任した。すべては稲田が蒔いた種の開花であった。

2.先駆けた高見沢初枝、申し子・橋本聖子

1960年スコーバレー大会・女子スピードスケートの高見沢初枝

1960年スコーバレー大会・女子スピードスケートの高見沢初枝

 スピードスケートに稲田悦子のような存在を求めるとすれば、高見沢初枝を置いてほかにない。驚くべき体験の持ち主でもある。

 第1回大会から実施のスピードスケートに女子が加わるのは1960年スコーバレー大会。待ちかねたように世界に飛び出したのが高見沢初枝と浜文恵、鷹野淑子の3人だった。とりわけ高見沢はたった1人で1958年世界スピードスケート選手権に参加し、総合8位に入った。スコーバレー大会では、500m1000m1500m3000mに出場。どれにも入賞の可能性があった。

 高見沢は期待に応えるように500mと1000m5位、1500mは途中転倒に終わったが、3000m4位。初出場ながら4種目中3種目で入賞を果たした。いうまでもなく競技を問わず、これが日本の女子では冬季オリンピック初入賞であった。

 翌年、高見沢は現役を引退、さらに1962年には同じスコーバレー大会代表の長久保文雄と結婚した。当時は結婚すれば女性は家庭に入るという風潮にあった。ところが日本スケート連盟は長久保初枝に現役復帰を要請した。選手層の薄さが要因だろう。女子体操の小野清子が結婚、出産を終えて現役復活したことも念頭にあったのかもしれない。この大変な申し出を受け入れ、長久保は主将として臨む夫の文雄とともに1964年インスブルック大会の氷上に立つことになった。

 ところが、驚くべきことがその後に待っていた。代表選手としてインスブルックに旅立つほんの少し前、妊娠していることがわかったのだ。困った長久保は勤務先の三協精機・山田正彦社長に辞退への考えも含めて相談。後に日本スケート連盟会長となる山田から支援するとの言質を得て出場を決断した。

 そして4種目に出場し、なんと3000mでは6位入賞を果たした。1000mでは転倒、あわやという危機もあったという。困難を乗り越え、文雄と抱擁して無事を喜んだ。そして8カ月後、長久保は長女を出産した。

 いつの時代も、女性アスリートは競技に打ち込む以外の困難を背負わされる。長久保初枝の時代から、悩みは今も消えてはいない。家庭を持ち、母ともなる選手たちをいかに支えていくのか。日本はいまだ、女子選手をめぐる環境整備が課題なのである。

1992年アルベールビル大会・女子スピードスケート1500mで銅メダルを獲得した橋本聖子

1992年アルベールビル大会・女子スピードスケート1500mで銅メダルを獲得した橋本聖子

 オリンピアン橋本聖子は現役参議院議員、元女性活躍担当相として働く女性の環境整備を自らの使命と言う。長久保の入賞から32年の時を経た1992年アルベールビル大会、スピードスケート1500mで銅メダルを獲得した。この競技、日本女子選手初のメダリストである。

 196410月生まれ。アジアで初めて灯った東京オリンピックの聖火にちなみ、「聖子」と命名された話はあまりにも有名だ。スピードスケートで4大会、自転車で夏3大会出場。関ナツエと並んで日本人初の冬・夏出場の「オリンピックの申し子」である。そして昨年夏、東京2020大会組織委員会会長として新型コロナウイルス感染下、難題が相次いだ大会を大過なく終えて、参加した国・地域からも称賛された事は特筆に値しよう。

 橋本のオリンピック初出場は1984年サラエボ大会。以来、1994年リレハンメル大会まで4大会連続出場を果たし、1988年カルガリーでは500m1000m5位に入り、1500m5000m6位、3000m7位入賞。出場した5種目すべて日本新記録をマークして入賞という快挙だった。

 しかし、メダルには届かなかった。1992年アルベールビルも大会前に体調を崩し、調子が上がらないまま本番に臨んだ。3000m12位、続く500m12位に終わった。メダルの壁は高い、と報道陣の間にもあきらめにも似た空気が支配した。ただ橋本は自分を信じていた。黙々とトレーニングを続けてきたことが心を支えた。迎えた3種目の1500m。スタート直後から小さい身体をフルに使い、精密機械のようにラップを刻むが、体力は限界。ゴールした後、力尽きたようにあおむけに倒れた。2688。平凡な記録だった。しかし、その記録は最後まで3位をキープ、悲願の銅メダルを手にした。橋本は表彰式の後、こんな風に言った。

 「これまで長いことやってきたのですから、神さまがかわいそうに思ってメダルをくれたのでしょう」

 そんな橋本の銅メダルから、女子スピードスケート初の金メダルが生まれるまで26年の時が流れた。2018年平昌大会、500mの小平奈緒である。そして、長久保(高見沢)に始まる短距離から長距離まで、オールラウンダーへのこだわりは橋本から、いま、北京大会の高木美帆に引き継がれている。

3.「キタザワ、WHO?」

1984年サラエボ大会・男子スピードスケート500mで銀メダルを獲得した北沢欣浩

1984年サラエボ大会・男子スピードスケート500mで銀メダルを獲得した北沢欣浩

 話が前後する。悲願だった男子スピードスケートのメダルは1984年サラエボ大会でようやく現実になった。

 大会前、大きな期待がかかっていたのは500mのスペシャリスト黒岩彰。前年の世界スプリント選手権で優勝、スポーツマスコミは「金メダル候補」と書き立てた。

 レース当日の210日は朝から大雪。リンクの除雪が進まず、午前1030分予定のスタートは午後3時に繰り下がった。選手たちは選手村に引き上げ、体調維持に追われた。

 スタート時間になっても雪はやまない。選手たちがそれぞれ雪に悩まされるなか、黒岩は4組目のスタート。いつもの切れがない。ゴール前で2度、ふらついてタイムは伸びなかった。雪の衝撃に関係者がうちひしがれるなか、北沢欣浩がスタートした。「8位くらい」の入賞をねらった軽い滑りだった。身体が動き、完璧なスケーティングが続いた。終わってみれば2位。日本スケート界初のメダルは、北沢には失礼だが、伏兵によってもたらされたといっていい。レース後には、「キタザワ、WHO!?」という言葉が聞かれた。

 当時、スピードスケートはまだ屋外でレースが行われていた。気象条件など自然相手のもう一つの戦いが順位を左右したと言っていい。オリンピックの屋内リンクで競技が実施されるのは1988年カルガリー大会から。サラエボで10位に沈んだ黒岩が復活、見事に銅メダルを獲得した大会だった。

 ところで北沢や黒岩以前、最もメダル、それも「金メダルに1番近い」と言われた男がいた。1968年グルノーブル大会500mの鈴木恵一である。

 初の海外遠征だった1964年インスブルック大会、同着3人が2位に並んだ500m0.1秒差の5位。その後4年間に3度、世界選手権500mで優勝し、自他ともに認める金メダル候補であった。グルノーブル入りを前に、ダボスの大会出場を監督に懇願。「開会式に出場できなくなる」と拒絶した監督に、「俺は開会式に出たいんじゃない。金メダルを獲りに来たんだ」と食ってかかるほど鼻っ柱が強かった。

 しかし、結果は8位に終わった。試合前の練習でスケート靴に違和感を覚えた。慌てて調べてみると、ブレード(刃)が欠けていた。風が運んだ小石を踏んだのだった。屋内リンクではもちろん考えられない出来事である。

 しかも、刃を研ぎ直そうにも砥石がなかった。

普段ならこうした時に備え、刃を研ぐための砥石を3種用意する。まず荒砥で欠けた部分を研ぎ、中砥でならし、仕上げ砥で微妙な調整を行う。だが、ここはグルノーブル。今のように選手団として荷物を運んでくれるわけでもない。一人ひとり、自分の持ち物は自分で運ぶ。飛行機の持ち込み荷物の重量制限に合わせ、重い砥石は仕上げ砥だけにした。「泣きながら砥石をかけていたなあ」と鈴木がもらした事がある。

もし、屋外リンクでなかったなら。もし、選手団として重量制限なく荷物を持ち込むことができたなら。鈴木は金メダルを獲っていたかもしれない。グルノーブル後も幾度か世界記録を更新するなど、鈴木はしばらく頂点に居続けた。

しかし、1972年札幌大会の前年には自身の本来のスケートができなくなり、引退を公言。周囲の説得で翻意し、選手団主将として選手宣誓も行ったが、「一度は引退を口にしていたし、札幌だからと現役復帰したけれど、もう燃えなかった」と振り返る。そんな鈴木を、記録映画『札幌オリンピック』の篠田正浩監督は主役のように描いた。

日本スピードスケート悲願の金メダルは1998年長野大会500mの清水宏保によってもたらされた。低い姿勢からのロケットスタートを初めて見た時から、鈴木は「清水は頂点を獲る」と話していた。大会当日、解説者として長野のリンクにいた鈴木は、ぽつりと言った。「あの頃、こんなリンクがあったらなあ」

4.「跳ぶ」伊藤みどり、「舞う」荒川静香

1992年アルベールビル大会・女子フィギュアスケートの伊藤みどり

1992年アルベールビル大会・女子フィギュアスケートの伊藤みどり

 いま、羽生結弦のクアッド・アクセル(4回転半ジャンプ)に世界の目が注がれる。誰も跳んだことのない世界への挑戦。私たちが夢を託したくなるのは自然な流れだろう。

 あの頃、30年前の1992年アルベールビルでは145㎝、小柄な日本人選手のトリプル・アクセル(3回転半ジャンプ)に注目が集まっていた。伊藤みどり。

5歳のとき、ジャンプ力の才能を見出した名コーチ山田満智子に育てられ、1980年全日本選手権では小学5年生で3位。戦前の稲田悦子以来、45年ぶりの快挙として「天才少女」と呼ばれるようになっていく。中学2年生から山田の家に住み込み、身体の管理もうけながらスケートのとりわけジャンプの技術を磨いた。

 1985年、中学3年生で全日本選手権に初優勝。以来、1992年まで8連覇(通算9回優勝)を飾る。その持ち味がジャンプ。高く跳び、くるくる回る。オリンピック初出場した1988年カルガリー大会のフリー演技では5種類の3回転ジャンプを7度も決めて5位入賞を果たした。

 この頃からトリプル・アクセルへの挑戦が伊藤の代名詞のようなっていく。1989年世界選手権のフリーでは着氷こそ乱れたが、女子選手として初めて3回転半を成功させた。さらに5種類の3回転ジャンプを決めてアジア人では初の世界チャンピオンとなった。

 一方でジャンプは高く上がれば上がるほど、着氷時に足首への負担が大きく、伊藤は始終ケガに悩まされた。骨折や捻挫など、1992年に現役を引退するまでけがの治療は500回にものぼったという。それでもジャンプに挑み続けたのは、当時から難易度の高いジャンプへの加点が大きくなり、なにより自分を活かす道だと信じていたからだ。

 そうして迎えた1992年アルベールビル大会前年11月のフランス国際、伊藤は2つのコンビネーションを含む6種類6回のジャンプを成功して、クリスティー・ヤマグチを逆転して優勝。金メダル候補1番手となった。

 だが、オリンピックには魔物がいた。

練習中のジャンプの不調から3回転半を封印して臨んだオリジナルプログラム(OP)で失敗、転倒して4位に沈んだ。迎えたフリーでも緊張のあまり、出だしの3回転ジャンプで尻もち、意を決した3回転半も失敗に終わった。それでも後半、再び3回転半に挑み、きれいに決めて大きな拍手を浴びた。トップのヤマグチにこそ届かなかったが、2人を抜いて銀メダル。最高の「みどりスマイル」が会場を魅了した。転んでも、失敗しても挑んだ3回転半がもたらした銀メダルだった。

 そのトリプル・アクセルはその後、浅田真央の代名詞となっていく。浅田の挑戦はフィギュアスケート・ファンを超えた人気となり、2010年バンクーバー大会では33回転半ジャンプを決めて世界を魅了した。ただ、浅田もまた世界チャンピオンにはなりながら、オリンピックはバンクーバーの銀メダルに終わった。

2006年トリノ大会で金メダルに輝いた荒川静香

2006年トリノ大会で金メダルに輝いた荒川静香

 一方、伊藤や浅田のような代名詞となるジャンプをもたないまま、金メダルへの階段をかけあがったのが荒川静香である。

 荒川の特徴は166cm、すらりとした長身と長い手足、柔かな体の動きが繰り広げる優美な舞の世界だと評してもいい。

 199712月の全日本選手権をシニアに転向したばかりの高校1年生で制し、1枠しかなかった98年長野大会の代表の座をかちとる。初のオリンピックはしかし、本来の調子を出せずにジャンプの失敗もあって総合13位に終わった。2002年ソルトレークシティー大会には出場を果たせず、2004年ドルトムントでの世界選手権優勝を置き土産に、左足座骨の骨折もあって競技生活に区切りをつける考えだったという。

 しかし、その世界選手権では2つのコンビネーションジャンプを含むすべての演技を完璧にこなし、技術点では満点の評価。周囲の説得と、翌年の世界選手権惨敗でこのままでは終われないと決意、200512月の全日本選手権で最後の1枠を勝ち取って2006年トリノ大会代表に決まった。

 

一度は引退も考えた身。「自分の集大成として、オリンピックを楽しもうと思った」と後に語っている通り、気負いのない演技が逆に人々の眼を引き付けた。ショート・プログラムはほぼノーミスの演技。アメリカのサーシャ・コーエン、ロシアのイリーナ・スルツカヤと3人が1点差以内にひしめく大混戦となった。

 フリーではコーエンが金メダルの重圧で演技の精彩を欠き、スルツカヤも失敗。荒川ひとりが優雅に舞った。1カ月前に2004年世界選手権で優勝したときのイタリア歌劇の名曲「トゥーランドット」に変えた。普通はそんな冒険はしない。しかし、この大会を集大成と考える荒川は、自分に忠実になろうとしたのだろう。そして荒川の代名詞といっていい「イナバウアー」は本来、両足を180度に開き、真横に滑る足技で、彼女のように上体を大きく弓なりにそらすことはしない。しかも加点にはならず、肉体的な消耗も大きいのだが、あえてイナバウアーを演技にいれて、4分間を優雅に滑りきった。会場が大きな拍手に包まれた事は言うまでもなかった。

 日本人選手、いやアジア人で初めてのフィギュアスケートの金メダルはすらりとした長身が生み出す優美、優雅さの象徴だったかもしれない。そして、この金メダルは日本選手団にとってトリノ大会唯一の金メダルでもあった。

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  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。