本文へスキップします。

ドリームチーム、夢の続きへ

佐野 慎輔          【オリンピック レガシーⅢ スポーツの価値】

  いま日本で、NBA(National Basketball Association)への関心がこれまで以上に高まっている。2019年ドラフトで1巡(9番)目に指名されてワシントン・ウィザーズに入団、開幕戦からレギュラーに定着した八村塁の活躍がもたらした影響にほかならない。

  もともと国際的にみればバスケットボール人気は高い。サッカーの人気の高さがしばしば指摘されるが、サッカーの競技人口は約2億6000万人。それに対してバスケットボールは4億5000万人を誇る。国際連盟への加盟国・地域数もサッカー211に対し、213カ国・地域である。

  1891年にアメリカの国際YMCA(キリスト教青年会)国際トレーニングスクールで考案され、アメリカで育ったバスケットボールはしかし、案外早く世界進出を果たしている。日本には1908年、YMCAトレーニングスクールで学んだ大森兵蔵によってもたらされたとされる。余談ながら、大森とは1912年の第5回ストックホルム大会に三島弥彦、金栗四三両選手を率いて日本がオリンピックに初参加したときの監督である。

1936年ベルリン大会のフィリピン対メキシコ 1936年ベルリン大会のフィリピン対メキシコ

  バスケットボールのオリンピック参画は1904年第3回セントルイス大会、デモンストレーションとして登場したのが初めてである。以来、1924年パリ大会まで公開競技ではあり続けたものの、正式競技には採用されていない。進出はしたものの、いまだ国際的な普及がおくれていたことが理由であった。

  1932年にようやく統括団体として国際バスケットボール連盟(FIBA)が創設され、1936年第11回ベルリン大会から正式なオリンピック競技として加わった。ちなみに女子は1976年モントリオール大会まで待たねばならなかった。

  そのバスケットボールがいまやオリンピック各大会の花形競技として、好カードの観戦チケットは入手も難しい状況となっていることには理由がある。1992年第25回バルセロナ大会。世界中があっと驚かされアメリカ代表「ドリームチーム」の登場だった。

  マイケル・ジョーダンを中心としたNBAのスタープレーヤーたちがオリンピックのコートで跳び、跳ねる。いや競技会場だけではない、世界中のテレビの前の人々がスピード感、ジャンプ力、正確なシュート……それまで見たこともなかった華麗なプレーに酔いしれた。そして、申し合わせたかのようにバスケットボールの虜になっていったのである。

  それにしても、なぜ「ドリーム」と命名されるチームが結成され、オリンピックに出場することになったのだろうか。そこには、複層するドラマがあった……。

  1988年第24回ソウル大会、それまで最強を誇っていたアメリカのバスケットボール界は大きな衝撃をうけた。準決勝の対ソ連(現ロシア)戦、未来のNBAプレーヤー候補ぞろいの学生代表で臨んだアメリカは76-82と完敗。「ステートアマ」という国家ぐるみで養成されたソ連代表に完膚なきまでに叩きのめされた。

  1936年以降、アメリカがオリンピックの優勝を逃したのは2大会、1972年ミュンヘンと1980年モスクワだけである。それも、モスクワは前年のソ連軍によるアフガニスタン侵攻に抗議するジミー・カーター大統領の要請で参加をボイコット。ミュンヘンでは試合終了30秒前の微妙な判定で50-51の逆転負けだった。実力で劣ったわけではなかった。しかし、ソウルは確実に実力で敗れ、結果、銅メダルに終わっていた。
「もはや、プロの選手を送り込むしか王座奪還の手立てはないだろう」──それがアメリカの総意になりつつあった。

  おりから、国際オリンピック委員会(IOC)のファン・アントニオ・サマランチ会長の「オリンピックには世界最高水準の選手が出場するべきだ」とする発言が支持され、FIBAは1989年にプロ選手の国際大会出場を容認する決定を行っていた。

  ただNBAは当初、あまり乗り気ではなかったという。オリンピックという短期間での盛り上がりがレギュラーシーズンに水を差すのではないかとの恐れからだった。しかし、敢然と参画を決めたのはNBAコミッショナー、デビッド・スターンである。

  スターンは1984年、第4代コミッショナーに就任すると、それまでアメリカ4大スポーツで一番出遅れていたNBAをアメリカンフットボールのNFL、大リーグMLBと肩を並べる存在に育ててきた。違反者を追放するなど蔓延していた薬物をNBAから徹底的に排除、同時に財政面での改革に着手し、各チームの本拠地のケーブルテレビと契約することで人気を高めることにも成功した。

マイケル・ジョーダン マイケル・ジョーダン

  そして、そのスターン・コミッショナーが手腕を揮った80年代、ボストン・セルティックスとロサンゼルス・レイカーズの競り合いが大きくメディアで取り上げられ、そこに1984年以降はジョーダンの活躍が加わって今日の興隆の土台が築かれていくのである。

  スターンには夢があった。アメリカでは人気スポーツとなったNBAだが、世界的にはまだ知名度が高いとは言えない。国境を越えて選手を集め、世界中に普及させ、真の意味での国際スポーツになるという夢である。

  20年ほど前、まだニューヨーク五番街にあったNBA本部を訪ねたことがある。手狭なオフィスだったが、そこで働く職員の思いは大きかった。当時の取材メモをめくると、国際広報担当役員だったテリー・ライオンズの言葉が残っていた。

「NBAの土台を築いたのはデビッドだ。デビッドは世界戦略を描いていてね、その最初がドリームチームだった。マジックやラリー、マイケルたちを先頭に立てて、NBAの知名度を高めようとしたんだ」

 

  NBA人気が高まっていった1980年代、バルセロナ大会までのチャンピオンチームをあげていくと、次のようになる。

 1980年 ロサンゼルス・レイカーズ
 1981年 ボストン・セルティックス
 1982年 ロサンゼルス・レイカーズ
 1983年 フィラデルフィア・76ers ※決勝の相手はレイカーズ
 1984年 ボストン・セルティックス ※決勝の相手はレイカーズ
 1985年 ロサンゼルス・レイカーズ ※決勝の相手はセルティックス
 1986年 ボストン・セルティックス
 1987年 ロサンゼルス・レイカーズ ※決勝の相手はセルティックス
 1988年 ロサンゼルス・レイカーズ
 1989年 デトロイト・ピストンズ ※決勝の相手はレイカーズ
 1990年 デトロイト・ピストンズ
 1991年 シカゴ・ブルズ ※決勝の相手はレイカーズ
 1992年 シカゴ・ブルズ

 

マジック・ジョンソン マジック・ジョンソン

  レイカーズとセルティックス、両チームが時代の中心にいたことが一目でわかる。ライバルである両チームにはそれぞれ学生時代からしのぎを削る中心選手がいた。アービン・ジョンソンとラリー・バードである。

  ミシガン州立大出身のジョンソンは1959年8月14日生まれ、巧みなドリブルとパスワークから「マジック」と命名された。インディアナ州立大出身のバードは1956年12月7日生まれ、頭脳的なプレーでスリーポイント・シュートを得意とした。

  ふたりは1979年、NCAA(全米大学スポーツ協会)チャンピオンシップで初めて対戦、このときはジョンソンのミシガン州立大が勝利した。そして1980年、そろってNBAに進む。そこから両チームの快進撃は始まった。同時にNBAも人気を博していくのだから、存在の大きさがわかる。

  ふたりは同学年ながら年齢が異なる。バードが一度、就職した後、インディアナ州立大に入学したからである。ジョンソンは「天才的な」と異名をとるスーパースター、一方のバードはスピードもパワーも劣るが、ボールを執拗に追い続ける執念のプレーヤー。プレーのスタイルが異なっていても、間違いなくライバルであった。

  やがて、ふたりのプレーの衰えとともにチームの成績も落ちていく。代わるように台頭していったのがマイケル・ジョーダンのシカゴ・ブルズというわけである。

  その3人が同じチームでプレーする。これは確かに「ドリーム」といっていい。夢を実現に移すべく、スターンがまず声をかけたのはジョンソンだった。

  そのころ、ジョンソンは失意の底に沈んでいた。1991-1992年シーズンが始まる前、生命保険加入のために受けた健康診断で「HIV感染」が判明した。セカンドオピニオン、サードオピニオンを求めて精密検査をうけたが結果はかわらない。

  「ヒト免疫不全ウイルス」といわれるHIVは人の免疫細胞を感染して破壊し、最終的にはエイズ(後天性免疫不全症候群)を発症する可能性がある。当時はまだエイズの知識が十分ではない時代であり、公表されたときは世界中が大騒ぎとなった。ジョンソンは医師の勧めもあって現役引退を表明、エイズに関する啓蒙活動を始めたころである。
「もう一度、一緒に夢をみないか」

  誘われたジョンソンは即座に参加する意思を表している。バスケットボールという夢の続きがみたかったのだろう。そして、もう一つの夢にも思いをはせた。
「一度でもいい、ラリーと同じチームでプレーをしたい」

  永遠のライバルが同じチームでプレーする。それはまたバードの夢でもあった。黒人と白人ではあっても、学生時代から好対照のライバルであり、一緒にCM出演した仲である。そして、バードもまた長引く故障の影響から現役引退を発表していた。

  ジョンソンがバードに夢を話し、スターンはジョーダンを誘った。そして1991年9月、3人に加えてスコッティ・ピッペン(シカゴ・ブルズ)、ジョン・ストックトン、カール・マローン(以上ユタ・ジャズ)、パトリック・ユーイング(ニューヨーク・ニックス)、クリス・マリン(ゴールデンステート・ウォリアーズ)、デビッド・ロビンソン(サンアントニオ・スパーズ)、チャールズ・バークレー(フェニックス・サンズ)の7選手の参加が発表された。1992年5月にはクライド・ドレクスラー(ポートランド・トレイルブレイザース)と唯一の大学生、デューク大学のクリスチャン・レイトナーが追加招集された。そして要のヘッドコーチには名将、チャック・デイリーが就いた。

  プロ容認という「時代」に、コミッショナーの世界戦略という「野望」が加わり、現役引退を決意した2人の名選手を中心に集まったNBA最高の「選手」たち。思いがまじりあって夢のチームはできあがった。

  ジョンソンとバードが共同キャプテンをつとめる代表チームの初戦は、1992年6月28日、バルセロナ大会に向けたアメリカ大陸予選。ここでキューバを136-57で破ると、残り5試合にすべて100点以上で勝利してバルセロナ行の切符を手にした。

  もはや誰も金メダル奪還を疑わず、どのように勝つのか、人々はそう話し合った。

  モナコで6日間の合宿をした後、チームはバルセロナに入った。選手村に宿泊する各国選手をしり目に、繁華街の高級ホテルに荷を解いた。セキュリティーの問題、彼らのプライドを考慮した宿舎の周囲では、いつもファンが大きな集団となって歓声をあげた。彼らもセキュリティーといいながらも街に出て、ファンとの交流を楽しんだ。

  ひとたび競技会場に向かうと対戦相手の選手たちから写真撮影をせがまれ、ほかの競技の選手たちからも次々と握手を求められた。彼らは世界中の憧れが集まったバルセロナでも特別な存在であった。地元紙は書いた。「エルヴィス(プレスリー)とビートルズが一緒に来たようだ」

  熱狂の渦のなかで、しかし彼らは平然と勝っていく。初戦のアンゴラ戦。「あまり知らない」相手に116-48、実に68点差の大勝だった。アンゴラの選手はあきれた。「彼らとは次元が違う、遥かかなたの銀河にいるようだ」-以後、ベイリーHC率いるドリームチームは別名、銀河系軍団となった。

  銀河系軍団は続くクロアチアに103-70と少し苦労した以外は、111-68ドイツ、127-83ブラジル、122-81スペイン、115-77プエルトリコと下して決勝トーナメントに進出した。準決勝のリトアニアに127-76と勝利。再びクロアチアとの対戦となった決勝では前半に一度リードを許したものの、最後は117-85と突き放し、前評判通りの強さで金メダルを獲得した。8試合すべてが100点ゲーム、平均117.3得点は圧巻といっていい。

  「プロとはこうしたものか」──銀河系軍団はオリンピックという舞台に強烈な印象を残した。その後、ほかの競技でのプロ選手の参加に大きな影響を与えたことは間違いない。バスケットボールにとっても、世界的な人気の高まり、競技人口の大幅な拡大という産物をもたらした。それが、その後のNBA人気につながっていくことはいうまでもない。

  NBAはまた、ほかのプロスポーツに先駆けてオリンピックに出場したことによって、バスケットボールが薬物とは無縁の健全なスポーツであることを印象づけることに成功した。スターン・コミッショナーの夢の実現へ、大きく飛躍したと言い換えてもいい。

  ジョンソンは膝の故障で思うような活躍ができなかったが、オリンピック後に一度は現役復帰をはたした。しかし、若手の成長を見極めて引退。レイカーズの経営に携わったあと、事業家としての道を歩んでいる。

  背中の痛みに苦しみながらプレーしたバードは金メダルを花道に引退。セルティックスで若手の指導あたった後、1997年にヘッドコーチに就任、チームを優勝に導くなど指導力を発揮、2000年にインディアナ・ペイサーズの球団社長に迎えられた。

  マイケル・ジョーダンのその後の活躍はいうまでもない。1990年代に6度ブルズを優勝に導き、5度のシーズンMVP、6度ファイナルMVP受賞。「神さま」と称される。

  ドリームチームは2010年ネイスミス・メモリアル・バスケットボール殿堂入りし、2012年までにデイリー・ヘッドコーチと11選手が個人としても殿堂入り。また12選手中10選手とデイリー・ヘッドコーチが「NBA 50周年記念オールタイムチーム」に選ばれている。

  そしてスターンは2014年までコミッショナーの座にあり、「独裁的」と非難されながらも次々と戦略を展開。破産寸前だったNBAの収益を約5倍に増やし、観客は60%増加させてみせた。

  日本での関心は、八村に続けと頑張る日本人選手、渡邊雄太(メンフィス・グリズリーズ)や馬場雄大(テキサス・レジェンズ)にも向けられている。こうした関心は、着々と世界戦略が進行している証といってもいい。あの1992年バルセロナ大会のドリームチームから始まった戦略と覚えておきたい。

 


佐野 慎輔

産経新聞客員論説委員
笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

関連記事

ページの先頭に戻る