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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」

4. 道を開いたパラリンピアンたち『情熱が原動力だった』

【パラリンピックの歴史を知る】

2017.02.10

日本のパラリンピック運動や障害者スポーツの発展は順風満帆で進んできたわけではない。むしろ、その反対だ。障害のある人々が自立して暮らしていける社会はなかなか実現せず、スポーツに打ち込めるような環境はあまりなかったと言わねばならない。が、高い志を持った選手たちの奮闘によって、しだいに道が開けていったのである。

その一人として星義輝ほしよしてるをまず挙げておきたい。1965年、第1回の全国身体障害者スポーツ大会に出たのは17歳の時。車いすスラローム競技で彼がキャスター上げの技を見せると、そのたびに会場がどよめいた。車いすの前輪を浮かせて段差を乗り越えたり、くるりと回転したりするキャスター上げをまだ誰もやらなかったころのことだ。

幼くして小児麻痺により下半身が不自由となり、中学時代は郷里の福島県で養護学校に通ったが、車いすを使うようになってすぐ、その技を身につけたのだという。それだけ身体的な能力に恵まれ、かつ前向きな精神力を持っていたということだろう。

東京に出て、働きながらその能力と情熱をそそいだのは車いすバスケットボールだった。18歳で本格的に取り組むようになったころは、日本の車いすバスケットがまだスタートを切って間もない時期。やっとクラブチームが生まれ始めたが、1970年に初めての大会が開かれた時、参加したのはわずか7チームだった。その当時から、日本の車いすバスケットの牽引車とも象徴ともなってきたのが星義輝である。

パラリンピックには1976年のトロントから1988年のソウルまで4回連続で出場した。初出場のトロントではスラロームでも金メダルを獲得しているが、エネルギーのすべてはバスケットにそそがれていた。「野球でいえば王、長嶋のようなもの」と評されていたのが、車いすバスケットにおけるその存在の大きさを雄弁に物語っている。

車いすバスケットボールでシュートする星義輝選手

車いすバスケットボールでシュートする星義輝選手

奮闘ぶりはいまもバスケット仲間の語り草となっている。「夜中に懐中電灯を持って練習していた」「雨の日はカッパを着て走っていた」「練習中の星さんには声をかけられなかった」―当時の選手が畏敬の念を込めて語っていたことだ。余裕のある暮らしではない。工場勤務や写植オペレーターの仕事をしながらの競技生活。平日も欠かさず練習し、体を鍛えようと思えば、出勤前の早朝や帰宅後の深夜にならざるを得ない。睡眠時間を削ることにもなる。星はそれを当然のようにやってのけていた。そこに迷いの入り込むことがまったくなかったのは、心の中でこんな思いが強烈に燃え盛っていたからだ。

「うまくなりたい、その一心でした。それから、日本のバスケットを世界にどれだけ近づけられるか。やっぱりそれが目標のひとつになりましたね」

パラリンピックや、世界選手権であるゴールドカップに行ってそのたびに感じていたのは外国選手の体の大きさや運動能力の高さだった。しかも、そうした海外の強豪チームと対戦する機会はたまにしかなかった。それでも、高い壁をなんとしても乗り越えてみたい。乗り越えねばならない。そう思いきわめて日々の練習に取り組んでいたのである。並外れた猛練習は、「そのためにはオレ一人でもやらなくちゃダメだと思っていた」からだという。

パラリンピックでの最高成績はソウルの7位。頂点を目指してきた身としては、けっして満足のいく結果ではなかったろう。それでも、先頭に立って引っ張ってきたこのリーダーの情熱が、日本の車いすバスケットを着実に発展させ、向上させてきたのは間違いないところだ。

「自分のやれることはやり尽くした」と感じてバスケットから身を引いたのは1988年ソウル大会の後。ただ、そこで立ち止まりはしなかった。今度は車いすテニスに転向して、たちまち日本のトップ選手の一人となった。42歳で始めたテニスで、海外を転戦し、世界ランク12位まで上ったのは驚異的と言うしかない。50歳近くになってもはつらつとプレーする姿は海外の若い選手の注目の的ともなった。彼らは口々に「自分も将来はあんなふうになりたい」と言ったという。

テニスでもバスケットと同じく、「日本のレベルを世界に近づけたい」と強く願ってきた。その思いは後輩たちを奮い立たせた。小学校から高校まで教えた国枝慎吾くにえだしんごは無敵の世界王者に成長した。星はここでも大きな貢献を果たしたのである。

競技のために何度も転職した。ただ、その仕事でも、新しいタイプの車いすを海外から導入したり、より使いやすくするための改良を考えついたりと、さまざまな実績を残している。常に前向き、積極的で、新たな道を臆せず切り開いていこうとする思い。星義輝の存在は、まさしく日本の障害者スポーツを前進させる強力なエンジンのひとつだった。

2004年アテネパラリンピック競泳女子100m自由形で金メダルを獲得した成田真由美選手

2004年アテネパラリンピック競泳女子100m自由形で金メダルを獲得した成田真由美選手

存在の大きさといえば、この選手もすぐに思い浮かぶ。パラリンピックという大会が広く一般に知られるようになったのは、成田真由美の活躍あってこそと言ってもいいのではないか。

1996年のアトランタから、シドニー、アテネ、北京と、競泳でパラリンピックに出場し続け、いったん競技から離れたものの、46歳で迎えたリオデジャネイロ大会で再びひのき舞台のプールに戻った。アトランタからアテネの3大会で獲得した金メダルはなんと15個。2005年には国際パラリンピック委員会の最優秀女子選手賞にも輝いている。その際立った活躍と成績を通じて、多くの人々がパラリンピックのことを知るようになったのだ。

横断性脊髄炎おうだんせいせきずいえんで車いす生活となったのは中学1年の時。23歳で水泳と出合い、本格的に競技の道へと進んだのだが、その足どりは次々と現れる困難を必死に乗り越えることの繰り返しだった。まず競技に取り組むスイミングクラブを見つけ出すのも難しかったし、もともとあった病気や、水泳を始めて間もなく遭った不運な交通事故の影響で、深刻な体の不調が常につきまとっていた。大会直前の手術や長い入院も何度も経験している。が、それでもまったくひるまず、苦しい練習に耐えて前進し続けたのは、泳ぐことが何より好きで、常に自分の力を伸ばしていきたいと思っていたからだ。

さまざまな体の不安を抱えていながらも、日々の練習に妥協はなかった。心臓にも問題があり、練習中に失神することさえしばしばだった。文字通り体の限界まで追い込む練習は、周囲をハラハラさせるほどだったという。だが、そんな不安を上回るだけの思いがあった。「本物の競技者、本物のアスリートになる」というのがその目指すところだった。

障害者のスポーツには、ずっと「リハビリの延長」というイメージがつきまとっていた。健康を維持するため、少しでも障害をカバーしていくためのスポーツと思われていたのだ。が、彼女はその段階で立ち止まる気はなかった。ぎりぎりまで体を鍛え上げ、でき得る限りのトレーニングを積んで自らの力を可能な限り伸ばしていこうと固く決意していた。それが、泳ぎの飛躍的な向上につながり、15個の金メダルへと結実したのである。

その姿は後に続く者に強い刺激を与えた。後輩たちに競技者としての意識が高まったのは、彼女がその方向性をはっきりと示したからだろう。同時に、見る側にも「障害のあるなしにかかわらず、競技者としての思いは同じなのだ」と教える役目も果たしたように思う。偉大な功績と言っておきたい。

2大会ぶりとなったリオでは、障害が軽いクラスへの種目統合のため、メダル獲得はならなかったが、自己ベストを連発する泳ぎを見せて存在感を示した。ブランクをはさみ、40代半ばで自己新をマークした驚異の奮闘は、競技者の魂が変わらず熱いことを示している。これもまた、日本の障害者スポーツを前に進める力となるはずだ。

もう一人、鈴木徹の名も挙げておきたい。2000年のシドニーから、36歳で迎えたリオまで5大会連続でパラリンピック出場を果たした義足の走り高跳び選手。高校の終わりに交通事故で右脚をひざ下から失ったものの、スポーツへの志を持ち続け、陸上競技で自分の道を切り開いてきたハイジャンパーは、義足競技が持つ豊かな可能性を身をもって示し、障害者スポーツの幅を大きく広げる役割を果たしてきている。

2016リオデジャネイロパラリンピックで、5大会連続出場・連続入賞を果たした 走り高跳びの鈴木徹選手

2016リオデジャネイロパラリンピックで、5大会連続出場・連続入賞を果たした 走り高跳びの鈴木徹選手

義足の走り高跳びといっても、前例やノウハウなどまるでなかった。すべては自分で考え、工夫しなければならなかった。そうした中で、義足選手として世界で2番目に2mをクリアしたのは歴史的快挙と言わねばならない。現在の自己ベストは2m02。競技用義足を使いこなす困難さを考え合わせると、その価値の高さ、そこまでに要した努力のすさまじさがいっそう身に迫ってくる。

もうひとつ、鈴木は画期的な道を切り開いている。スポンサーを獲得して、プロとしての活動を実現させたのだ。この点でも障害者スポーツの可能性を広げてみせたのである。

ほとんど何もないところに道を開いてきた選手たち。その志と情熱によって、日本の障害者スポーツは少しずつ前進してきた。2020年東京大会開催が決まって以来、パラリンピックにもオリンピックに匹敵するほどの注目が集まるようになっているが、それにはやや上滑りの観がないでもない。パラリンピック運動を前に進めていく真の力とは、いつの時代でも同じ、すなわち選手たちの熱い思いだ。志を秘めて邁進まいしんしていく障害者アスリート、その一人一人の魂の輝きを、じっと目をこらして見つめていきたい。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐藤 次郎 スポーツジャーナリスト

    1950年横浜生まれ。中日新聞社に入社し、同東京本社(東京新聞)の社会部、特別報道部をへて運動部勤務。夏冬6 回のオリンピック、5 回の世界陸上選手権大会を現地取材。運動部長、編集委員兼論説委員を歴任。退社後はスポーツライター、ジャーナリストとして活動。日本オリンピック・アカデミー(JOA)正会員。ミズノ・スポーツライター賞、JRA馬事文化賞を受賞。著書に「東京五輪1964」(文春新書)「砂の王 メイセイオペラ」(新潮社)「義足ランナー 義肢装具士の奇跡の挑戦」(東京書籍)「オリンピックの輝き ここにしかない物語」(東京書籍)「1964年の東京パラリンピック」(紀伊国屋書店出版部)など。