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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」
冬季オリンピック・パラリンピック
第114回
スポーツは社会課題解決のツールの一つ

荻原 健司

冬季オリンピックに4回出場し、1992年アルベールビル大会、1994年リレハンメル大会ではノルディック複合で団体金メダルを獲得。「キング・オブ・スキー」と称されるなど、この競技を日本の人気スポーツへと押し上げたのが、荻原健司さんです。

1998年長野大会では、日本選手団の主将として開会式で選手宣誓の大役を務めました。現役引退後は、参議院議員を務め、在任中は文教科学委員会委員、経済産業大臣政務官などを歴任。2010年に退任後は、指導者として20年ぶりの五輪メダリスト輩出に大きく貢献されました。 2021年11月に長野市長に就任し、現在は子どもたちの夢を応援し、誰もが快適な暮らしができるまちづくりに奔走しています。今回は荻原さんに、ご自身の経験から考えるスポーツやオリンピックの未来について、お話を伺いました。

聞き手/佐野 慎輔  文/斎藤 寿子  写真/フォート・キシモト、荻原 健司 取材日/2022年8月30日

 

子どもたちが誇りを持てる長野市に

市長としての活動
大田市場でトップセールス(2022年)

市長としての活動 大田市場でトップセールス(2022年)

―― 2021年11月に長野市長に就任されて約1年が経ちますが、市長としての思いはいかがでしょうか。

「市長というのはこういうものだな」ということがつかめてきたように感じています。長野市の人口はおよそ37万人ですが、そのお一人お一人が「長野市に住んでいて幸せ」と感じていただけるように安定した暮らしを守り、作っていかなければならないという大きな責任を感じながら公務に取り組んでいます。また、これまでは私自身も長野市の一市民でしたので、純粋な市民感覚を忘れずにやっていきたいという気持ちでいます。

渡部暁斗(2014年ソチオリンピック)

渡部暁斗(2014年ソチオリンピック)

―― 2004年から2010年まで参議院議員を務められた後、北野建設スキー部のゼネラルマネジャーとして後進の指導に注力されてこられました。そのまま指導者の道を突き進むのではなく、長野市長に立候補されたのは、どのような思いからだったのでしょうか。

2010年7月に任期満了で参議院議員を退任した後、長野市に戻り、渡部暁斗(ノルディック複合日本代表のエース。2014年ソチ、2018年平昌と2大会連続で個人ノーマルヒルで銀メダル。2022年北京大会では個人ラージヒルと団体で銅メダルを獲得)をはじめとした北野建設に所属するトップ選手を指導してきました。当初は将来も指導者として、あるいはスポーツの現場で活動していくことを考えていました。しかし、オリンピアンを育成するという部分においてある程度の目途がつき、北野建設を2019年7月に退社しました。その時に、私の頭には「次はこれまで指導した経験のないジュニア世代を育成したい」という思いがありました。そこで「TWINS SKI」というクラブを設立し、ジュニアの子どもたちの指導を始めました。

1998年長野オリンピック開会式

1998年長野オリンピック開会式

一方で参議院議員の他、長野県教育委員会委員を2期(2015年10月~2021年8月)務めた経験から、「いつか自分が住む長野市に貢献したい」という思いも強くありました。私が現役時代に出場し、たくさんの方々に応援していただいた1998年長野オリンピックの開催都市でもありますので、その恩返しをしたいという気持ちがあったのです。そうしたところ、当時の加藤久雄市長 が退任するという話を耳にし、「もしかしたら、自分がそういう立場にチャレンジする時が来たのではないか」と思いました。これまでの経験を生かせるということからも立候補することを決断しました。

 
「こども総合支援センター」オープニングセレモニー(2022年)

「こども総合支援センター」オープニングセレモニー(2022年)

―― 政策の三本柱としている「守る」「育てる」「輝く」というキャッチフレーズは、特に子どもたちの未来を強く意識されているように感じられます。

もちろん、高齢者の方も含めて幅広い年齢層の長野市民に対してまんべんなく政策を展開していきたいと思っています。その一方で、私自身も長野市内で4人の子どもを育てていますし、また少子化が進んでいる現状の中で、未来ある子どもたちへの支援をこれまで以上に取り組んでいきたいという思いがあります。自分たちが住んでいる長野市に誇りを感じて「自分もこのまちのために頑張りたい」という若い世代を作っていかなければ、将来は長野市から元気がなくなってしまうということにもなりかねません。そうならないためにも子どもたちをしっかりと支援をしていく必要があると考えています。

長野市を拠点とする信州ブレイブウォリアーズ

長野市を拠点とする信州ブレイブウォリアーズ

―― 荻原さんが掲げている「未来へ飛躍する6つのアクション」の中には「文化・スポーツ振興」が含まれています。元気なまちづくりのためにスポーツを生かした政策については、いかがでしょうか。

元アスリートである荻原健司と言うと、政策のてっぺんにスポーツがあるように思われがちですが、私自身はそういう考えはありません。もちろんスポーツはとても大事な要素だと思っています。例えば、現在長野市を拠点とするプロスポーツチームは4つ(サッカーJ3「長野パルセイロ」、女子サッカーWEリーグ「長野パルセイロレディース」、バスケットボールB1「信州ブレイブウォリアーズ」、フットサルF1「ボアルース長野」)あって、長野市とより深く連携を図って、さまざまな事業を展開していこうと考えています。

信州ダービーで長野パルセイロを応援する荻原市長

信州ダービーで長野パルセイロを応援する荻原市長

プロスポーツと言うと、これまではどちらかというとエンターテインメントの部分で収益をあげることで地域に貢献するということが多かったと思います。しかし、コロナ禍という現状や、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の開催などによってSDGs(Sustainable Development Goalsの略で持続可能な開発目標のこと)が促進されたことを考えますと、スポーツ界も変化が求められている時代になってきましたし、実際に変化しているように思います。

その一例として、プロスポーツはこれまでエンターテインメント性を中心に考えられていたところから、地域や社会の課題を解決していく一つのツールとして考えられるようになってきたように感じています。例えば子どもたちの体力強化に限らずコミュニケーション能力の育成にもスポーツが重要なツールになっていますし、これまで以上に幅広い面で、行政や教育などの政策を進めていくうえで、スポーツは欠かせないものとなっています。実際の現場にどのように落とし込んでいくかが重要だと思いますので、しっかりと検討し進めていきたいと考えています。

 

オリンピック施設が点在する長野市への期待

一校一国運動(1998年)

一校一国運動(1998年)

―― 荻原さんが日本選手団の主将を務めた1998年長野大会では、一つの学校が参加する一つの国・地域の文化などを学び、応援する「一校一国運動」が実施され、長野市内のすべて小学校、中学校、特別支援学校75校が参加しました。この活動は2002年ソルトレークシティ大会や2006年トリノ大会では「ワンスクール・ワンカントリー」、2008年北京大会では「同心結プログラム」、2012年ロンドン大会では「一校一チーム」を応援する運動として、継承されてきました。世界的なオリンピックレガシーになっている運動の発祥の地として長野市には、「スポーツ都市」としてさらに大きな役割があるように思います。

長野大会が開催された1998年からはすでに四半世紀が経過しようとしています。もちろん当時の感動を現在も昨日のことのように色濃く記憶されている世代もたくさんいらっしゃいますが、子どもたちや若い世代に長野大会に直接関わったいう思い出はありません。

過去に長野市がオリンピック・パラリンピックを開催したことを話しても、なかなかピンとこない市民が多いというのが現状です。 しかし、私はやはり長野市でオリンピック・パラリンピックを開催し、成功させたという誇りを長野市民が持つことは非常に大事だと思っています。それが先ほど申し上げた、自分たちが住む長野市に誇りを感じて「このまちのために頑張ろう」という若い世代を増やすことにもつながるのではないかと思います。

そういう意味では、2021年に東京2020大会が開催されたのは、とても大きかったと思っています。開催都市が長野市ではなかったにしても、やはり日本国内で開催された、しかも東京という長野市からも近い距離の都市で開催されたことで、かつて長野市でもこのような世界的なスポーツの祭典が開催されたのだということを、若い世代にも誇りに思ってもらえる意識改革という点でも良い機会になったのではないかと思います。海外の人たちは長野が日本のどこの都市なのかわからないのではないか、と思っていた市民の方も少なくないと思いますが、実際には「NAGANO」と言えば、世界のどこの国に行っても「あの冬季大会を開催した都市ですね」と言ってもらえます。それが当時の記憶がある市民の方々には誇りになってきたと思います。若い世代の方々にもその誇りを感じていただけるように、長野市としては今後もオリンピック・パラリンピックムーブメントの推進に積極的に関わっていきたいと考えています。

長野オリンピック期間中市内で開催された「2000人太鼓打ち」イベント

長野オリンピック期間中市内で開催された「2000人太鼓打ち」イベント

―― 2023年2月で、長野大会から25周年を迎えます。長野市では記念イベントを開催する予定はあるのでしょうか。

現在、文化・スポーツの担当の方で記念イベントをしようと計画を立てていまして、具体的にどういうことを実施するか検討しているところです。

―― 2022年8月20~27日には、IOC(国際オリンピック委員会)に承認され、世界123カ国がメンバーとなっている財団FICTS(Federation International Sinema Television Sportifs)が主催するスポーツに特化した映画祭「World FICTS Challenge」が日本で初めて長野県で開催されました。こうした「オリンピック」を題材に、さまざまな事業が展開できるのが長野市の魅力でもあり強みでもあるように思います。

考えてみると、日本の中で過去にオリンピック・パラリンピックを開催したのは、東京、札幌、長野のわずか3都市しかありません。その一つに長野が入っていることを市民の皆さんにも誇りに思っていただきたいと思いますし、その誇りを若い世代や子どもたちに伝えていかなければいけないと考えています。とはいっても、ただそのことを伝えただけで誇りを持ってもらえるわけではありませんので、2023年、長野大会の25周年を迎えるのを機に若い世代や子どもたちに「自分たちが住んでいる長野市ってすごいんだ」ということを感じてもらえるように、市民の皆さんとともに素晴らしい記念イベントを作り上げていきたいと思っています。

長野オリンピックでボブスレー、リュージュ競技が行われたスパイラル

長野オリンピックでボブスレー、リュージュ競技が行われたスパイラル

―― 札幌市が招致を目指している2030年の冬季オリンピック・パラリンピックには、ソルトレークシティ(米国)、バンクーバー(カナダ)も立候補しています。2023年、札幌市に決定した場合、ボブスレー、リュージュ、スケルトンのそり競技は、1998年長野大会でも使用された「長野市ボブスレー・リュージュパーク」(通称「スパイラル」)が競技会場となる計画です。再び長野市がオリンピックで盛り上がる良い機会になるのではないでしょうか。

基本的には札幌市でオリンピックが開催されるということになりますので、今の段階で長野市民の皆さんが「オリンピックがまた自分たちのまちで行われるかもしれない」という期待感を持っているかというと、まだそこまでの意識は薄いというのが現状だと思います。まずは招致を成功させることが重要ですので、長野市としてもでき得る限りの協力をしていきたいと思っています。

そして札幌での開催が決定した暁には、長野市の施設を活用していただければ、1998年の時の盛り上がりを再燃させて、市民の皆さんに誇りを持っていただけるようにしたいと考えています。それこそ「そり競技」の日本代表選手を長野市から輩出できたら、非常に盛り上がると思いますし、市民の皆さんに感動を与えると同時に、誇りが生まれるのではないかと思います。自分が生まれた国で、ましてや住んでいるまちでオリンピックが開催されるなんてことは、一生に一度あるかないかのこと。オリンピアンの一人としても、ぜひ長野市の皆さんとオリンピックを楽しみたいと思っていますので、札幌での開催に向けて長野市としても精一杯の後押しができたらと思っています。

―― 2022年3月に策定された「第3期スポーツ基本計画」では、「地方スポーツ推進計画」の策定を努力義務とするなど、今やスポーツは地方創生の重要なツールとなっています。そうした中、「エムウェーブ」や「ホワイトリング」「ビッグハット」「アクアウイング」と1998年長野大会で使用されたスポーツ施設がある長野市が果たす役割は大きいように思います。例えば、夏季競技の総合ナショナルトレーニングセンターはありますが、冬季競技にはありません。そこで素晴らしい施設がある長野市を冬季競技の一大拠点とするということについてはいかがでしょうか。

私自身の考えとしては、それは非常に難しいように思います。オリンピアンの一人として、長野市にあるオリンピック施設を活用してさまざまなスポーツ事業の展開やジュニア選手の育成に力を入れたいという思いはとても強いのですが、ご存知の通り、里谷多英さんが金メダルを獲得したモーグルやエアリアルといったフリースタイルスキーの競技会場となった飯綱高原スキー場は2020年に閉鎖されました。 それは年々降雪量が減る中、利用者も減少し、採算が合わないというのが最大の要因だったわけですが、そうした厳しい現状を踏まえると、なかなか自分自身の思いだけでは動けないということが多々あります。ただ残されているオリンピックファシリティ(機能)があるわけですから、それらをどう活用していくかということは重要課題だと考えています。

長野オリンピックでスケート競技が行われたエムウェーブ

長野オリンピックでスケート競技が行われたエムウェーブ

具体的に言えば「エムウェーブ」は、冬の時期には小平奈緒選手(2018年平昌冬季大会女子500mで日本女子スピードスケート史上初の金メダルを獲得。2022年10月22日、全日本距離別選手権のレースで現役を引退)など多くのオリンピアンたちの練習施設や、大会会場として使用していただいています。しかしリンクに氷をはるための費用がかかるばかりで、残念ながら収益はありません。その分を、氷をはらない春、夏の時期にコンサート会場やコンベンションセンターとして活用していただくことで収益を得て、なんとか運営できているというのが実情です。 そういう中で私が思っているのは、例えばジャンプ競技にはスキー場にジャンプ台が必要なわけですが、実は長野県内にはジャンプ台があるスキー場はいくつもあります。オリンピック会場でもある白馬村の他、私がジュニア選手の指導をする時によく使用する飯山市のシャンツェパーク、木島平村のジャンプ競技場、野沢温泉村のスノーパークなど、結構たくさんあるんです。

ただ、かつてのように各自治体が競うようにしてジャンプ台施設を作って大会を開催したり、地元の子どもたちを強化する取り組みが行われる時代ではなくなりました。少子化で子どもの数も減少傾向にある中、予算も厳しく、大会を開催するどころかジャンプ台を維持することも難しくなってきています。そういう中で、先ほどのお話にあったナショナルトレーニングセンターを考えることもできるかと思いますが、トップアスリートの活動拠点はどこにするのか、あるいは将来有望なジュニア選手たちの活動拠点をどこにするのかということは、国がある程度の方針を示すべきだと思います。何も拠点を一つにしなくても、東北地方の拠点、関東地方の拠点というふうにして、ブロックごとにまとめるのも一つだと思います。いずれにしても、政府の方で方針を示していただくのが先決で、そのうえで私たち現場が点在する施設をうまく集約していくということが必要なのではないかと思います。

2018年平昌オリンピックスピードスケート女子500mで金メダルを獲得した小平奈緒

2018年平昌オリンピックスピードスケート女子500mで金メダルを獲得した小平奈緒

―― オリンピック施設があり、また地理的な観点からも長野は非常に重要な立場にあるような気がします。その長野には、先頭に立って国に陳情する役割もあるように思いますが。

どの地方も国民体育大会の開催地になると、国からも手厚いサポートをいただけますので、それを機にスポーツ施設のリニューアルが進んだり、新しく施設を作るということが多いと思います。しかし、当時は望まれて作られたとは思いますが、時代が変わった今は全く活用されていないという施設が全国に少なくありません。そう考えますと。今後のスポーツ振興をどのように進めていくのか、まずは国全体としての方針が必要だと思います。そうした中でオリンピック施設を持ち、地域性としても全国から人が集まりやすい長野市にも目を向けていただき、国として長野市をどう活用していくのか、ぜひ方針を示していただきたいと思っています。

団体金メダルをもたらした「V字ジャンプ」の登場

―― 荻原さんご自身のことについてもいろいろとお伺いしたいと思いますが、小学生の時には体操をされていたそうですね。

小学1年生から5年生まで体操をしていました。もちろん、群馬県吾妻郡草津町という雪深い土地の出身ですから、幼少時代からスキーにも慣れ親しんでいました。時間があると、近くのスキー場に行ってアルペンスキーを楽しんでいましたが、本格的に競技としてやっていたのは体操の方でした。

―― 体操からスキーに転向したきっかけは何だったのでしょうか。

体操の練習がどんどん厳しくなっていきまして、「なんでこんなに辛いことに耐えなければいけないのだろう」という思いが強くなっていったというのが一番の理由でした。体操の教室で使用していた体育館の窓の向こう側に、小学生がよく遊んでいる丘があり、その一角にジャンプ台がありました。私が「嫌だな」と思いながら体育館で体操をやっていると、ふと窓の向こうに友だちが楽しそうにスキー・ジャンプをやっている姿が見えたのです。来る日も来る日もそれを見ているうちに「自分もあっちにいこう」と。小学5年生の秋に体操教室をやめ、ちょうど冬のシーズンが到来するという時期でもあったので、スキーの少年団に入りました。

「スポーツ祭り2009」に参加した荻原健司(右)と荻原次晴兄弟

「スポーツ祭り2009」に参加した荻原健司(右)と荻原次晴兄弟

―― その時に、双子の弟の次晴さんも一緒にスキーを始められたのでしょうか?

実は次晴の方が先に体操教室をやめました。次晴が「僕、体操はもうやめる」と言った時に、私も一緒にやめたかったのですが、兄である自分までもやめると言ったら親が悲しむような気がしたのです。それでちょっと歯を食いしばって続けていたのですが、4、5カ月くらいしかもたなかったですね。

―― ジャンプには楽しさを感じられたのでしょうか。

楽しかったです。もともとスキーはできましたし、それまでやっていたアルペンとは違う競技にチャレンジするということにも楽しさがありました。なによりジャンプ台を跳んだ時に、フワッと体が浮く感覚が面白くて仕方ありませんでした。

―― ジャンプ一本から、クロスカントリーも加わるノルディック複合という競技をやるようになったのは、どんなきっかけだったのでしょうか。

ノルディック複合という競技があることは子どもの時から知っていました。それに加えて、私の姉が小、中学生の時にクロスカントリーをやっていたので、自宅には姉が使用していたクロスカントリー用のスキーの道具が一式そろっていたのです。それで時々、姉のおさがりを使ってやってみたりしたこともありましたので、自然とクロスカントリーにも慣れ親しむ環境にありました。中学校でスキー部に入り、本格的に競技としてやるとなった時に、スキー部員がクロスカントリーをするというのは当然のことでしたので、何の疑問も持たずにクロスカントリーを始めました。また、その中学校のスキー部ではジャンプもやるというのも珍しいことではなく、結構普通の考えとしてあったのです。

その背景には、日本スキー界の事情も深く関係していたように思います。というのも、ジャンプは北海道の選手が非常にレベルが高く、群馬県など他の地方の選手がジャンプだけで勝つのは非常に難しかったのです。一方、ノルディック複合では北海道はそれほど強くはありませんでした。そのために、群馬県や新潟県、長野県などではノルディック複合で選手を育成・強化するという方針があったのではないかと思います。

―― 中学生の頃は、どのようなタイプの選手だったのでしょうか。

当時はジャンプが苦手で、クロスカントリーで走ってなんとか上位に食い込めるというような選手でした。言い換えれば、クロスカントリーでしか良い成績を挙げる手段がなかったような状態でした。

―― オリンピックを本格的に目指し始めたのは、いつ頃だったのでしょうか。

高校時代からオリンピックへの気持ちはありましたが、自分の中でしっかりと視野に入ったというのは早稲田大学入学後のことだったと思います。ただ「世界に目を向けた」という点では、高校2年生の時に初めて出場した世界ジュニア選手権でした。後ろから数える方が早いというくらいの順位に終わり、日本と世界との差、自分と世界との差を痛感した大会でした。その時の悔しさが、世界を目指す出発点になりました。

「V字ジャンプ」1992年アルベールビルオリンピック

「V字ジャンプ」1992年アルベールビルオリンピック

―― 大きな転機となったのが、「V字ジャンプ」(スキー板の先端を開きV字のようにして飛ぶスタイル。元祖はスウェーデンのヤン・ボークレブで1990年シーズンから世界に広まった)の登場でした。団体金メダルを獲得した1992年アルベールビル大会の直前にV字に転向したわけですが、それまでのスキー板を並行にして飛ぶスタイルからV字に変えるというのは苦労もあったのではないでしょうか。

日本人選手の中で最初にV字ジャンプに挑戦したのですが、その理由は誰よりもジャンプが下手だったからです。当時は早稲田大学4年生で、アルベールビル大会開催の前年、1991年の年末に旭川のジャンプ台で練習している時に初めて挑戦したのが始まりでした。「この新しい技術の登場を変わるきっかけにしたい」というすがるような思いで始めたわけですが、確かに大変なことは大変でした。ただ比較的他の選手よりもスムーズにV字に移行できたのです。その要因の一つには、子どもの頃に体操をやっていた経験があったように思います。空中に飛び出した後にアンバランスな中で「V字」の体勢をつくり出すというのは、体操で培ったものが生かされたのではないかなと思います。

1992アルベールビルオリンピック複合団体で金メダルを獲得した日本(左から三ヶ田礼一、荻原健司、河野孝典)

1992アルベールビルオリンピック複合団体で金メダルを獲得した日本(左から三ヶ田礼一、荻原健司、河野孝典)

―― 本番直前での決断が、団体金メダルにつながったということですね。

当時の僕は、クロスカントリーを得意としていたので、アルベールビル大会の日本代表にはなれるだろうと思っていました。ただジャンプを苦手としていたので、世界で戦える選手ではなく、「日本代表になったところで意味があるのか」という気持ちもありました。とにかく自分自身のジャンプの下手さ加減にうんざりしていたのです。そんな時に「V字ジャンプ」という新しいスタイルがあるという情報を得たので、「このままでは自分は変わらないだろうから、まずは挑戦してみよう」ということで始めました。とにかくジャンプの技術を上げたいという一心だったのです。

 

―― 当時ジャンプの指導を受けていたノルディック複合日本代表コーチの斉藤智治さんからは、何かアドバイスがあったのでしょうか。

ジャンプ担当だった斉藤さんに「自分のジャンプをどうにかして向上させたいので、新しいスタイルのV字ジャンプに挑戦したいと思っています」と相談をしたところ、「健司は体を使うのが器用だから、オマエならできるかもしれないな。やってみようか」と言っていただきました。もしその時に「オリンピック直前にちょっと無理じゃないか」というようなことを言われていたら、大学生だった自分はもしかしたら挑戦しなかったかもしれません。そういう意味では、斉藤さんが背中を押してくれたのは非常に大きかったですね。

JOC会長等を務めた八木祐四郎氏

JOC会長等を務めた八木祐四郎氏

―― また当時のノルディック複合の日本代表チームは、とても選手同士の仲が良かったですよね。河野孝典さん、阿部雅司さん、三ヶ田礼一さんと、いい雰囲気の中でお互いに切磋琢磨し合うというような、選手ばかりがそろっていました。

それに加えて、当時全日本スキー連盟専務理事だった八木祐四郎さん(後に日本オリンピック委員会会長)の存在が大きかったと思います。日本のジャンプ陣、ノルディック複合陣には可能性があるということで、当時の東京美装興業所属のメンバーを中心に選手の強化にあたっていただきました。そういうこともあって、ノルディック複合の代表チームもコーチと選手の間で遠慮なく何でも相談し合える仲でしたし、選手たちも明るいメンバーばかりでした。大学生だった私が躊躇なくV字ジャンプに挑戦しようと思えたのは、そういう環境だったからということもあったと思います。

1992年アルベールビルオリンピック複合団体で日の丸を振ってゴールする荻原健司

1992年アルベールビルオリンピック複合団体で日の丸を振ってゴールする荻原健司

―― アルベールビル大会は、どのような状態で迎えたのでしょうか。

サンモリッツ(スイス)でアルベールビル大会の事前合宿を行ったのですが、そこでもチームは和気あいあいとした雰囲気でトレーニングをしていました。前年のノルディック複合の世界選手権で銅メダルを獲得していましたので、「オリンピックでもメダルが取れればいいな」というくらいの気持ちで本番に臨みました。いざオフィシャルトレーニングが始まっても、V字ジャンプが形になってきていて結構飛距離を伸ばしていましたし、他の日本勢も比較的好調だったのです。

「このままいけば、意外と前半のジャンプでトップに立てるんじゃないの?」というようなことを話しており、そのあたりから自分たちに対しての期待感が高まり、緊張感が増していったという感じでした。とはいっても4回経験したオリンピックの中で、最も気持ちを楽にして臨んだ大会でした。周囲からはほとんど期待も注目もされていなかったですからね(笑)。日本の報道陣も大半が、伊藤みどりさんのフィギュアスケートや、橋本聖子さん、黒岩敏幸さんのスピードスケートの方に行っていました。だからレース前も報道陣からインタビューを受けるようなことはほとんどなく、「あぁ、自分たちには関心がないんだな」と。寂しさもありましたが、逆に気楽にレースに臨めたのも良かったのだと思います。団体金メダルを獲得して初めて皆さんから「日本のノルディック複合はすごい」というふうに認識していただけた感じでした。

1994年リレハンメルオリンピック複合団体で日の丸を掲げてゴールに向かう荻原健司

1994年リレハンメルオリンピック複合団体で日の丸を掲げてゴールに向かう荻原健司

―― 4回出場したオリンピックのうち、荻原さんにとって最も心残りの大会と言えば、やはりリレハンメル大会でしょうか。

リレハンメル大会は、もちろんそうですね。その次の長野大会も含めて個人種目での金メダルを取ることができなかったというのは、今でも「欲しかったな」という気持ちがあります。

―― 荻原さんとしては3回目の出場となった1998年長野大会は、どのようなものだったでしょうか。

前述した通り、気楽そのものだったアルベールビル大会とは対照的に、大きなプレッシャーを抱えてのオリンピックでした。あれほどプレッシャーを感じながらの苦しいレースというのは、長野大会以外にはありませんでした。ただそれは後から感じたものであって、当時は「自分はプレッシャーを感じていないし、緊張感もない」という気概を持ってずっといました。ところがレースが終わったとたんに、一気にプレッシャーに耐えていた分の疲労感が出てきました。もう誰にも会いたくないし、何も話したくない状態だったのです。それこそスキー板も見たくありませんでした。とにかく解放されたいという気持ちが強くて、すぐにでも無人島に行きたいような気分でした。

長野大会後も現役続行を決意した裏にあった自分との約束

―― 荻原さんは「キング・オブ・スキー」とも称され、技術だけでなく、メンタルにおいても海外選手にひけをとらない強さを持った日本人アスリートとして注目されました。

海外の選手やファンの方々と接していく中で、成績が上がってくるにつれて認めてもらえているということを感じ取っていました。海外の大会に行くと、私たち日本人選手に対して敬意を表してくれるようになるのです。そういう中で、海外選手たちとの交流も深まり、ファンとも打ち解け合ったりしていき、徐々に海外でも日本にいる時と同じような感覚でいることができるようになっていきました。そうすると、どこに行っても自分のペースで競技に臨めるようになっていくのです。それがまた、競技力の安定にもつながっていたと思います。

1994年リレハンメルオリンピック複合団体で連覇を果たした日本(左から阿部雅司、荻原健司、河野孝典)

1994年リレハンメルオリンピック複合団体で連覇を果たした日本(左から阿部雅司、荻原健司、河野孝典)

―― 1994年リレハンメル大会の時には、ノルディック複合の日本代表への期待は大きく、報道陣の数も多かったと思います。プレッシャーを感じてはいなかったのでしょうか。

今思うと、プレッシャーを感じる間もなく、勢いよく過ぎ去っていったオリンピックだったように思います。アルベールビル大会後のワールドカップでは、1位から6位まで日本勢が独占することもあるなど、当時の日本勢の勢いは凄まじく、海外のライバルと競い合うという感覚はほとんどありませんでした。「日本の中でトップを取るのは誰か」と、チーム内競争の中で戦っていて、そのままリレハンメル大会に臨んだ感じでした。私自身は守りに入ったことで個人ではメダルを逃しましたが、団体では2大会連続で日本が金メダルを獲得しました。シーズン全体で見ると、日本チームの勢いがどの国よりも圧倒的に勝っていたように思います。


1998年長野オリンピックでは日本選手団の主将を務めた

1998年長野オリンピックでは日本選手団の主将を務めた

―― 長野大会後は引退の話も浮上しましたが、荻原さん自身はどのようなお気持ちだったのでしょうか。

正直に申し上げますと、長野大会が終わった直後は「スキーなんてやりたくない。一人にさせてくれ」という思いしかありませんでしたので、「こんな気持ちでスキーを続けても仕方ない」と、ほとんど引退するつもりでいました。ところがある時、自分の競技人生を走馬灯のように思い出していたところ、1992年アルベールビル大会で団体金メダルを獲得して帰国した時のことが頭に浮かんだのです。

当時は日本ではノルディック複合という競技のことはほとんど知られていなくて、「自分がこれだけ人生をかけてやっている競技を、世間では全く知られていないのだ」という現実を突きつけられ、とてもショックを受けました。その時に決意したのが「だったら10年間徹底的にやって、ノルディック複合を日本人の誰もが知るスポーツにしよう」ということでした。それを思い出して、1998年長野大会でやめるということは、10年間続けずにやめることになるのだということに気付いたのです。「ここでやめたら自分に約束したことを破ることになる。それは絶対にダメだ。あと4年間は続けよう」と思いました。

それで残り4年間をどうしようかと考えた時に、やはり4年後のオリンピックを目指そうということで、2002年ソルトレークシティを見据えて再始動しました。そこでまずは「なぜリレハンメル、長野では個人競技でメダルを取れなかったのだろうか」「特に長野でプレッシャーを感じてしまったのは、周囲の期待に応えようという気持ちが強くありすぎたのではないか」など、自分が抱えている気持ちをしっかりと整理しました。そのうえで4年後、フレッシュな気持ちでソルトレークシティに臨みたいと思っていました。

2002年ソルトレークシティオリンピック

2002年ソルトレークシティオリンピック

―― 小学生の時に始めた時の「スキーってこんなに楽しいんだ」というような気持ちを取り戻した4年間だったのでしょうか。

おっしゃる通りです。やはり「楽しい」という気持ちがないまま競技人生を終えてしまったら、おそらく気持ち悪さが残るような気がしたのです。長野大会直後のように「スキー板も見たくない」「もうプレッシャーを感じるのは嫌だ」というような気持ちでやめていたら、一生、その気持ちが残ったままになるのではないかなと。せっかく好きで始めたスキーを嫌いになってやめるなんて、これほど悲しいことはないと思ったのです。

また現役引退後、指導者としてずっとスキーと関わっていきたいという気持ちもありましたので、子どもの時と同じように「スキーって面白い」「滑っていて楽しいなぁ」という気持ちで競技人生を終えることがとても大事なことのように思いました。そういう気持ちがなければ「子どもたちに伝えたい」という気持ちは起こらないだろうと。実際、楽しみながら競技をすることができましたので、ソルトレークシティ大会のレースを終えた時には清々しい気持ちしかなく、とてもいい引退ができたと思います。

競技の発展に欠かせないオリンピックの存在

荻原健司氏(当日のインタビュー風景)

荻原健司氏(当日のインタビュー風景)

―― 改めてノルディック複合という競技の魅力を教えてください。

1種目で勝負が終わらずに、ジャンプとクロスカントリーという2種目の掛け合わせで勝負ができるというところだと思います。ですから、前半のジャンプでミスしても後半のクロスカントリーで挽回できるチャンスがありますし、逆に前半のジャンプで逃げ切るということもできます。戦い方の幅が広いのがノルディック複合の特徴でもあり、魅力でもあると思います。

―― 当時のインタビューで、荻原さんはノルディック複合について「(ジャンプで)鳥のように飛び、(クロスカントリーで)鹿のように走る」とおっしゃっていました。

スキーにはさまざまな競技がありますが、ノルディック複合は空中を飛ぶジャンプ競技と、雪面を走るクロスカントリー競技という2種類のスキーの楽しみを味わえる競技だと思います。

―― そのノルディック複合が、2026年冬季大会では実施競技から除外される可能性が浮上しました。結果的に2022年6月24日のIOC理事会で実施が決定しましたが、2030年大会以降については不透明です。

私の立場からすれば、IOCがもう少し現場を温か見守っていただきたいなという気持ちがあります。と言いますのも、ノルディック複合はこれまで男子選手だけの競技でしたが、近年では女子選手の育成が広がっています。現段階で女子選手のレベルが高くないからといって、ノルディック複合自体をオリンピックから切り捨てるのではなく、今後を見ていただきたいなと思います。ジャンプ競技を見てもわかるように、間違いなく女子選手のレベルが高まることで競技が盛り上がります。それはノルディック複合も同様ですので、ぜひもう少し時間をいただきたいなと思います。なにより将来オリンピック種目になることを目指して、今一生懸命にトレーニングしている女子選手たちの居場所をなくすことだけは避けたい。性急に答えを出すのではなく、将来を見据えてご判断いただきたいと思います。

―― 4年に一度開催される世界最高峰のオリンピックという大会があることが、競技の発展や選手のレベル向上につながるということでしょうか。

そう思います。現在、オリンピックに関してはさまざまな問題が浮上していますし、課題はたくさんあると思います。ただオリンピックという存在は世界中のアスリートにとって普遍的なものなのです。誰もが「あの舞台で戦いたい」「メダルを獲得したい」という思いを持って、人生をかけて競技に取り組んでいます。それはオリンピックにしかない特別な価値で、それは昔も今も、そしてこれからも変わらないと思います。

2022年北京オリンピック・スピードスケート男子1000mに出場した小島良太

2022年北京オリンピック・スピードスケート男子1000mに出場した小島良太

―― そのオリンピックに、長野市から日本代表を送り出したいというお気持ちもあるのではないでしょうか。

1998年長野大会が終わった後に、エムウェーブという素晴らしい施設を練習拠点とするジュニアのチームが設立されました。地域の皆さんのご協力のもとで指導が行われていましたが、今年開催された北京大会では長野市出身の小島良太選手がスピードスケート日本代表として出場しました。この24年間で撒いた種が育ち、ようやく花を開き始めてきたなというふうに思っています。

また今後は、冬季競技だけに限らず、今の若い世代がどんなスポーツに興味・関心を抱いているかを注視していきたいと考えています。その一例として、東京2020大会で新種目として注目されたスケートボードなどのアーバンスポーツに興味を持つ若い人たちは多いと思いますし、長野市でも十分にできるスポーツだと思います。長野だからと言って冬季競技に縛られることなく、長野市のフィールドをフル活用して夏、冬問わず、子どもたちや若い世代がスポーツを楽しみ、その中でオリンピック選手を輩出できるような環境を整えていきたいと思います。

誰もがどこでも気軽に運動できる環境づくりの重要性

長野市内で行われている健幸ラジオ体操(2022年)

長野市内で行われている健幸ラジオ体操(2022年)

―― 一方で高齢者の方にとっても、健康寿命の延伸という点ではスポーツは非常に重要となっています。荻原さんが掲げている「6つのアクション」の中の「文化・スポーツ振興」の項目にも「ラジオ体操を通じた地域コミュニティの健康意識の向上」が盛り込まれています。

先日、ある会合に出席したところ、高齢者の方から「私たちの世代が積極的に外に出かけて、体を動かせるような環境づくりや、イベントを開催していただきたい」というようなご意見をいただきました。というのも、コロナ禍もあって、高齢の方が外に出る機会がどんどん減っていっている現状があると。

しかし、本当は高齢の方も外に出かけて、健康のために体を動かしたり、あるいは交流の場を広げたりすることを求めています。私がラジオ体操を推奨しているのも、そうした環境を提供したいという思いからでした。「ラジオ体操」は老若男女、幅広い層に知られているもので、平日は毎日6時半になると必ずラジオ放送があります。そのラジオ体操をすることで、3つのメリットがあると考えています。1点目は、6時半前には必ず起床するようになりますので、規則正しい生活を送ることができます。2点目は、ラジオ体操をする場に出かけることで交流が生まれますし、一人暮らしの高齢者にとっては、お互いに安全確認をするという意味でも大きいと思います。3点目は、1日1回は必ずしっかりと体を動かすことで、健康な暮らしができるということです。今後、長野市内全域に広げていくことで、ラジオ体操を通じた市民の健康増進につなげていきたいと思っています。

ラジオ体操の良いところは、もう一つあります。健康増進のための活動をするのに地域の担当者に大きな負担をかけることなく、気軽に、身軽に、活動できるという点です。6時半にラジオをつけさえすればいいわけですからね。長野市内のある地域では、神社の境内の一角にプレハブ小屋があって、そこにタイマー仕掛けのラジオが取り付けられているのです。そのため誰の手を借りなくても、時間になるとラジオが勝手について、ラジオ体操が始まり、放送が終わるタイミングで勝手に電源が切れるようになっています。つまり、誰の手も借りることなく、ラジオ体操の場を作ることができるのです。このように負担のない形で、広がっていくといいなと思っています。現役時代を振り返ると、同じトレーニングでも「やらされている」と思っていては何も身にならないものなんです。健康も同じで、大事なのは自ら「やりたい」と思うこと。ラジオ体操は、そういう意味でも強制的ではなく、自主的にやれる最も身近なツールのように思います。長野市には運動やスポーツをする施設や環境は十分にありますし、より整えていきたいと思っていますが、もう一つ大事なのは自分からやろうと思うきっかけ作り。今後はその部分にも力を入れていきたいと考えています。

2020東京パラリンピックで行われたボッチャ

2020東京パラリンピックで行われたボッチャ

―― 障がい者の社会参加の一つとして、障がいの有無に関わらずスポーツができる環境の重要性が叫ばれていますが、長野市ではいかがでしょうか。

先日ボッチャを体験しましたが、障がいの有無に関わらず誰もができる楽しいスポーツでした。シッティングバレーなどもそうですが、パラスポーツには誰もが簡単に参加できる競技もありますので、そういったものは野球やサッカーなどのように、どこでも誰でも体験できるようになるといいなと思います。実際さまざまな学校でこうしたパラスポーツを導入されているところもあり、とても素晴らしいことだと思いますし、そういう姿を拝見すると、スポーツができる環境を整えるということは障がいの有無に関係なく誰もができなければ意味がないということを改めて感じます。まさに共生社会の理念でもありますし、時代の変化を先取りするような取り組みを長野市でもしていきたいと考えています。将来的にはオリンピックとパラリンピックの融合が進んでいくと、スポーツに対する世界的な評価もより高まっていくように思います。

―― ただ現状は、車いす競技は体育館に傷がつくからなどという理由で使用させてもらえないことも多々あるようです。

古い施設はバリアフリー化していないためにお断りせざるを得ないというところもあると思いますし、今は少しずつ変化してきている過渡期なのではないでしょうか。ナショナルトレーニングセンターも、私が現役時代はパラアスリートは使用できず、課題になっていました。しかし、2019年にはパラスポーツ専用として「味の素ナショナルトレーニングセンター屋内トレーニングセンター・イースト」が設立されました。このようにして、着実に変化してきていますので、これからさらに進んでいくと思います。

広範囲に及ぶスポーツの価値

荻原健司氏(当日のインタビュー風景)

荻原健司氏(当日のインタビュー風景)

―― 長野大会全体を振り返りますと、初めてスノーボードが採用されたり、日本ではスポーツボランティアの始まりでもあったりと、とても画期的な大会でした。実際に出場した荻原さんは、何かそれまでのオリンピックとの違いを感じたことはありましたでしょうか。

長野大会の前に経験したアルベールビル大会、リレハンメル大会も、いずれもボランティアの皆さんがいましたので、その点に関しては長野大会に特別な感じはありませんでした。ただ、ボランティアの皆さんがとてもポジティブな気持ちでいてくれているなということは感じていました。「あぁ、ボランティアの皆さんも大会を作っている大事な存在なのだな」と。お一人お一人がとても輝いていて、主人公の一人としてオリンピックに参加しているのだな、ということがとても印象に残りました。

―― 今後のオリンピック・パラリンピックのあり方については、いかがでしょうか。

特にオリンピックには競技の側面が強いわけですが、それだけではなくこれからは社会や地域の課題をどう解決していくか、そのツールとしてスポーツをどう活用していくのかということを示すことが重要になってくるのではないでしょうか。また、そういう大会だからこそ多くの人たちが賛同して「自分も何か貢献したい」という精神のもとボランティアに応募してくれるのだと思います。オリンピックだけでなく、スポーツの大会にはそういう視点がより必要となってくるのではないでしょうか。

―― スポーツの価値について、荻原さんはどのようにお考えでしょうか。

私は、スポーツなしでは人間は生きられないと思っています。もちろん、だからと言ってすべての人がスポーツをしなければいけないということではありません。スポーツに限らず、音楽や芸術など選択肢はたくさんあっていいと思っていますが、その中でもスポーツは人間にとって大きな柱の一つではないかと思います。スポーツは自分を表現する場でもありますし、主役になれる場でもあります。そのスポーツを社会や教育の場で活用しない手はないだろうと思っています。

2020年東京オリンピック・スケートボード男子ストリートで金メダルを獲得した堀米雄斗

2020年東京オリンピック・スケートボード男子ストリートで金メダルを獲得した堀米雄斗

―― 今後のスポーツのあり方については、いかがでしょうか。

スポーツを競技としてとらえた時には、どの競技でも日本代表が強くなければいけないと思います。東京2020大会では新種目として注目されたスケートボード(男子ストリート)で堀米雄斗選手が金メダルを獲得し、一気に人気競技となりました。堀米選手の姿を見て同じ日本人として可能性を感じたでしょうし、「自分も金メダルを取りたい」「あんなふうにかっこよくなりたい」と思ってスケートボードを始めた子どもたちは少なくないと思います。やはり強い選手がいることで、競技が発展しますし、切磋琢磨する環境ができあがっていくのがスポーツの世界だと思います。また、たとえ将来的にスポーツから離れたとしても、自分から取り組んで一生懸命に目標を追いかけた経験というのは、次のステージでも必ず生きてくるはずです。また堀米選手のように大きな影響力を持つのがアスリートですから、社会のロールモデルとならなければいけません。スポーツが社会に認められ、価値を高めていくためには、競技力だけでなく、スポーツを通じて社会への貢献ということも、これからのアスリートには必要になると思います。もちろん私自身もロールモデルにならなければいけないと思っていますし、市長である自分がどんなメッセージを発信することによって、市民の皆さんや子どもたちの意欲をかきたてられるのかを常に念頭に置きながら、またアスリートとしての経験を生かしながら、市政に取り組んでまいりたいと思っています。

―― 最後に、荻原さんが次世代に残したいこと、伝えたいことは何でしょうか。

自分がなぜオリンピックを目指したかというと、純粋にスキー競技が好きだったからでした。だから苦しいことも頑張れたのだと思います。ですから、子どもたちや若い人たちにも、ぜひ自分の好きなものを見つけてほしいと思っています。もちろん、スポーツでなくていいのです。どんなものでもいいから「おもしろいな」「やってみたいな」という気持ちになれるものを見つけてもらいたいですね。やっていく中で成功することばかりではなく、苦労したり挫折したりすることもあると思います。でも、そういう中でさまざまな気持ちが生まれ、考えが出てきたりして、人生をどう生きていくかということにもつながるはずです。そして、子どもたちが「好きなもの」を見つけられるお手伝いをするのが、私たち大人の務めでもあるので、そういう場を提供していきたいと思っています。

  • 荻原 健司氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)
熊谷一弥氏、テニスのシングルスで銀メダル、熊谷一弥氏、柏尾誠一郎氏、テニスのダブルスで 銀メダルを獲得

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
内藤克俊氏、レスリングで銅メダル獲得
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
日本女子初参加
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)*日本は敗戦により不参加
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969荻原 健司氏、群馬県に生まれる
  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

  • 1992荻原 健司氏、早稲田大学在学中にアルベールビルオリンピック スキー・ノルディック複合団体で金メダルを獲得
  • 1992荻原 健司氏、早稲田大学を卒業
1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1994荻原 健司氏、リレハンメルオリンピック スキー・ノルディック複合団体で金メダルを獲得
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1998荻原 健司氏、長野オリンピック スキー・ノルディック複合団体で5位入賞
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2002荻原 健司氏、ソルトレークシティオリンピック スキー・ノルディック複合団体で8位入賞
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2004荻原 健司氏、参議院議員選挙に当選
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

  • 2012荻原 健司氏、長野県スキー連盟副会長に就任
2013
平成25
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2019荻原 健司氏、長野県スポーツ協会理事に就任
2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期

  • 2020荻原 健司氏、日本スポーツ振興推進機構代表理事に就任
2021
令和3
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)

  • 2021荻原 健司氏、日本オリンピアンズ協会理事に就任
  • 2021荻原 健司氏、長野市市長に就任