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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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セミナー「子供のスポーツ」

幸運の三冠王、キリー

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2023.12.14

背景に仏墺スキー覇権争い

映画「白い恋人たち」のポスター。原題は“13 jours en France”

映画「白い恋人たち」のポスター。原題は“13 jours en France”

 1968年、フランスで開かれたグルノーブル冬季オリンピックを描いた映画、「白い恋人たち」(原題・フランスの13日間)はクロード・ルルーシュ監督の傑作だが、映像のバックに流れるフランシス・レイ作曲の美しい旋律の主題曲も名高い。しかし、「白い恋人たち」にはこのテーマ曲以外に何曲か印象深い音楽もあることをご存じだろうか。フィギュアスケートの女王、ペギー・フレミングの哀愁に満ちたメロディー、アルペンスキー滑降に用いられる勇壮な曲。そして名作「男と女」に主演したピエール・バルーの手になる「キリーのテーマ」である。

 「キリー」。24歳でこのオリンピックに臨んだフランスのアルペンスキー選手、ジャンクロード・キリーこそ、この大会のただ一人と言っていいヒーローである。当時3種目だけだったアルペンの滑降、回転、大回転を全て制した。1956年コルティナダンペッツォ大会のトニー・ザイラー(オーストリア)以来2人目、そして、その後誰も成し遂げられないアルペン3冠王を自国開催のオリンピックで達成した。それも最終種目、回転でのドラマチックな展開を経て。

 キリーのテーマはこう歌い出す。「あなたは時間を打ち負かした。(中略)あなたは時間を蹴散らした。でもあなたは知っている。すべては虚しい幻想にすぎないことを」

 アルペンは他の選手との競争ではあるが、競技の本質はタイム、100分の1秒を巡る争いである。目に見えない時間と闘い、その結果がライバルとの優劣になる。しかし栄誉は一瞬にすぎない。栄冠とはかなさというスポーツの持つ対極、アルペン競技の光と影がメロディーに込められている。

 ヒーローは第2次大戦中のパリ郊外で生まれ、幼くしてフランスの高名なスキーリゾート、バルディゼールに移った。ここでスキーを覚えたという。ちなみにバルディゼールは後に始まるワールドカップ(W杯)で「初雪大会」として長く開幕戦の会場になり、1992年アルベールビル冬季オリンピックの男子アルペン会場にもなった。

 グルノーブル大会の直前、世界のアルペンスキー界は一大変革期を迎えた。戦前から続くウエンゲン(スイス)のラバホーン、キッツビューエル(オーストリア)のハーネンカム、それとオーストリア、スイス、フランス、西ドイツなどで開かれたアールベルク・カンダハーが3大レースとされ、それ以外に各地で中小の大会が開かれた。国際スキー連盟(FIS=現国際スキー・スノーボード連盟)はこれらをランク分けしていたが、1966年夏にチリで開かれた世界選手権の際に「FISA級大会」をベースに有力大会を回るサーキット実施案が生まれた。フランスのスポーツ紙「レキップ」のスキー記者、セルジュ・ラングが自動車レースのグランプリにヒントを得て発案したと言われる。理由は4年に1度のオリンピックや世界選手権の「一発勝負」に勝った選手が本当の実力世界一か?の疑問だった。それより年間何試合か行い、そのトップが世界一ではないのか。ここから世界各国を巡るサーキットとしてW杯が誕生する。196715日、ベルヒテスガーデン(西ドイツ)の回転が初レースである。世界をリードしたキリーのフランス、カール・シュランツが存在感を放つオーストリアの熾烈な争いにスイス、西ドイツ、イタリア、北欧、米国、カナダが絡んで欧州の冬の人気スポーツに成長していく。

 10代後半から国際舞台に出たキリーの背景には、こうした熱気があった。1964年のインスブルックオリンピックでは、大回転5位以外に目立った成績はない。しかし、1966年の世界選手権で滑降と複合(現在と異なり滑降、回転のポイント合算)で金メダルを獲得、世界のトップに躍り出てW杯創設の1967年を迎えた。開幕戦、ベルヒテスガーデンの回転、大回転こそ勝てなかったものの、残るW杯は滑降5レースに全勝、大回転54勝、回転は7試合で3勝を挙げ、総合チャンピオンに輝く。翌年の自国オリンピックへ、押しも押されもせぬ金メダル候補になったのだ。オリンピックイヤーは得意の大回転で2戦し、2位と優勝を遂げてグルノーブルに乗り込んだ。

キリー、滑降のスタート

キリー、滑降のスタート

 初戦は29日の滑降。コースは全長2890m、標高差840m1番でスタートバーを切った僚友、ギ・ペリヤが15993でゴールに飛び込んだ。この後、誰も2分を切れない。いよいよキリーのスタートが来た。ゼッケン「14」がコースに飛び出す。バランスを崩しても飛ばしに飛ばす。フィニッシュは15985。ペリヤを100分の8秒上回った。距離換算で差は2mあるかないか。スキー板1本もない差である。常日頃「滑降は自分という人間とその勇気が試される競技だ」と語っていたキリーは、自国のドゴール大統領はじめ国民の期待という重圧の中、僅差ながら望みに見事答えた。“一本勝負”でやり直しが利かない滑降を制したことがリラックスに結びついた。

 続く大回転は212日。ラップを奪った1回目だけで2位を1秒以上引き離し、勝利を確実にした。2回の合計タイムでは2位に222もの大差をつける金メダル。得意種目で実力を見せつけた。

 最後の回転が鬼門だった。W杯での勝率は他種目に比べ低い。シャンルースの全長520mのバーンに60本余りの旗門が林立し、一瞬のバランスの乱れが転倒やコースアウトを招く。滑降と対照的に繊細なテクニックが問われる。試合当日の217日、コースを濃い霧が覆った。条件としては最悪に近い。それでもキリーは1回目に第1シード最後の15番スタートながら4937でトップに立った。2位のアルフレッド・マット(オーストリア)と031差。逆転も逃げ切りも、シナリオとしては十分ありうるタイム差で迎えた2回目、ドラマが起こった。

 キリーは出走順が逆転してトップスタート。ところが中間の深いターンで失敗し、ゴールは5036、合計タイム13973を刻んだ。4番手のノルウェー選手が上回るが、旗門不通過で失格。マットも2回合計でキリーに届かない。その後7番目に宿敵シュランツ。オーストリアの英雄は1度も手にしたことのない金メダルへ、1回目の3位からアタックをかける。ところが、役員と思われる人物がコースを横切ったとして途中でストップ。2回目を再滑走することが認められた。このシュランツの再レース、全日本スキー連盟(SAJ)専務理事も務めた朝日新聞の野崎彊特派員が「荒れ狂ってゴールイン」と表現した猛攻である。タイムは4933。合計タイムでキリーを上回る。3冠は夢と消えた。キリーもシュランツを祝福。しかしオーストリアの歓喜は長くは持たなかった。

 シュランツが2回目の滑走を中断する以前に旗門不通過があったのではないかとフランスが抗議。これが認められて金メダリストは失格し、栄冠はキリーに。「デジタルの目」がない当時、旗門審判員の目が絶対だった。不通過なら選手本人は分かるものだが……。真実はシャンルースの霧の中に沈み、キリーは3つ目の金メダルを手に入れた。白銀の頂点を巡り、宿命のライバルが火花を散らした結果、オリンピック史に残るアルペン三冠王が誕生した。幸運の三冠王とも言えた。

大回転を滑り終え、インタビューに応じるキリー

大回転を滑り終え、インタビューに応じるキリー

 シュランツは、30歳になった翌シーズンもオリンピック金メダルを夢みて現役を続行。1972年は滑降の優勝候補として札幌オリンピックに乗り込んだ。ところが国際オリンピック委員会(IOC)会長は「ミスター・アマチュアリズム」アベリー・ブランデージだった。退任前のIOC会長は、スキー選手は競技参加で金を得ており、アマチュア規定違反でオリンピックから排除すべきと主張。一方、FISはスキー選手締め出しを強行したら、全選手引き上げをにおわせ一歩も引かない。札幌のスキーに暗雲が漂った。IOCは広告出演が目立ったシュランツの追放だけを開幕前に決めて、競技実施とブランデージのメンツを守った。シュランツは結局、失意のまま札幌を去り、引退した。

 フランスとオーストリアの覇権争い。その熱気は競技の結果が国の産業に結びつく背景があったからだ。スキー産業であり、観光産業への波及である。フランスにはロシニョールやダイナミックという有力スキー板メーカーがあり、オーストリアにはケスレーやフィッシャー、シュランツを宣伝に使ったクナイスルといった老舗が、それぞれ世界市場を争った。自国選手がオリンピックやW杯で勝つことが、選手の使うスキー板の優秀さを証明する、との図式である。それはまた自国のスキーリゾートへの観光客誘導につながる。スキーというレジャーが欧米、さらに日本までも市民に浸透していく大きな過程の中にオリンピックがあり、キリーもいた。

 グルノーブル市内にはフランスばかりかオーストリアも自国スキー製品の優秀さやウエアのファッション性をアピールするブースなどを展開。冬季オリンピックはスキー関連産業の最前線となっていった。

 この時代は一般スキーヤーへの指導法もフランスとオーストリアで異なっていた。オーストリアの指導は、「くの字」姿勢が基本。かつてスキースクールで教わった人もいるだろう外向傾である。対照的にフランスは体をターンに振り込み気味に使う。双方、国立のスキー研究施設を有した。つまりキリーやシュランツらアルペン選手は国家戦略の先兵の役割も担って雪と氷のピステ(※)に立っていたのである。

 キリーはグルノーブル大会終了後、当初の発表通りヘブンリーバレー(米国)での1968W杯最終戦・回転7位を最後に25歳前で引退した。その後、映画出演や自動車レース出場、FISのアルペン委員を経てアルベールビル冬季オリンピックに組織委員会共同会長として携わり、1995年にIOC委員に就任。トリノ、ソチの冬季オリンピック調整委員会をリードし、2014年にIOCから身を引いた。

 アルペンスキーの覇権はキリー引退後もフランスが占めたが、札幌オリンピックではベルンハルト・ルッシが男子滑降を制するなどスイスに渡った。「キリーのテーマ」は時代の移ろいを予感させるフレーズが続く。「あなたは時間に挑んだ。でもあなたは知っている。これまでのように誰か別の人があなたの伝説を覆すことを。新たなヒーローがしばらくの間もてはやされるようになることを」…。

 

※ピステ:piste…フランス語、オーストリア語でゲレンデ・滑走路・スキーのコースを指す

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スポーツ歴史の検証
  • 小沢 剛 1953年、新潟県生まれ。上智大卒。共同通信運動部記者としてプロ野球、大相撲や多くのアマチュアスポーツ、中でも水泳、テニス、スキーなどをカバー。1988年カルガリー冬季大会を皮切りに五輪は4大会取材。加えて受信本部も経験した。
    本社運動部長を経て編集委員室編集委員。主に社会とスポーツ、五輪の変遷などを企画した。時代とスポーツ人の生きざまを描いた「心の聖地」(岩波書店)で2011年ミズノ・スポーツライター賞受賞。このほか編著作には、日本山岳ガイド協会とともに47都道府県の低い山を紹介した「日本100低山」(幻冬舎)、東京五輪への有識者・記者の視点をまとめた「共同通信 東京五輪評論集」(非売品)がある。