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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

プロスポーツのカリスマたち
第26回
ボウリングブームの立役者

中山 律子

スポーツ歴史の検証の第3シリーズは、プロスポーツの世界で大きな足跡を残してこられた方にスポットを当てていく。

その第1回は、1970年代、空前のボウリングブームを日本中に巻き起こした立役者の 一人、「さわやか律子さん」ことプロボウラーの中山律子さんだ。

♪律子さん 律子さん 中山律子さん
1971年から72年にかけて、その爽やかな容姿で、ボウリング界のアイドルとなった中山律子さんが出演していたシャンプーのコマーシャルを覚えている方も多いだろう。
「あのCMで“爽やか”というイメージが定着して、これからもずっと爽やかであり続けたいという私の原動力になりました」

こう当時を振り返る中山さんの笑顔は、今も変わらず爽やかだ。 あれから40数年。プロボウラーになるまでの軌跡、女子選手初のパーフェクトゲーム、ライバル須田開代子さんの存在、今後のボウリング界などについてお話を伺った。

聞き手は、西田善夫さんに代わり、やはり元NHKアナウンサーで数々の名言を残して一時代を築き、現在は法政大学スポーツ健康学部で教鞭(きょうべん)をとる山本浩さんが担当する。

聞き手/山本浩 文/山本尚子 構成・写真/フォート・キシモト 写真協力/(公社)日本プロボウリング協会

強い足腰はバレーボールで鍛え上げた

1954年 両親等家族と。中列左が12歳の中山律子

1954年 両親等家族と。中列左が12歳の中山律子

―― ボウリングの世界に入る前は、鹿児島で過ごしていらしたんですよね。子どものころ、スポーツは万能だったのですか?

かけっこは大好きでしたね。「ヨーイドン」で飛び出す瞬間が好き。リレーでは、後ろから行ってすっと抜いて1番になる瞬間が好きでした。

―― スタートの反応が速くて、スプリント能力が高かったのですね。バレーボールはいつから?

中学校からです。当時は9人制でした。ローテーションのない9人制バレーで、私は中衛のレフト。スパイクもレシーブも両方こなすポジションでした。中学での練習はそれほど大変ではなかったのですが、バレーの名門・鹿児島市立鹿児島女子高校に進んでからは、がっちりと鍛えられました。

―― 毎日、猛練習でしたか?

はい、顧問の河野先生が厳しい方で、毎日暗くなるまで練習練習でした。校庭を何周も走る長距離走、ダッシュ、うさぎ跳びなどのトレーニングをみっちりとやらされて、練習中はミスしたらボールが飛んできました。でも、あのときに体と心をとことん鍛え抜いたことが、アスリートとしての原点をつくってくれたと思って感謝しています。

―― 高校を卒業後は、実業団バレーに進まれたのですね。

そうです。愛知県の旭精機工業というチームへ、同じ高校から数名が行きました。当時は東京オリンピックが目前で、日紡貝塚を中心とした女子バレーに期待が集まっているころでした。私はジャンプ力はありましたが身長は162cmですから、とても届くわけはなかったのですが、もう少しバレーに打ち込んでみたいと思いました。

初ボウリングのスコアは85点

―― 2年後、20歳のときに実業団チームを辞めて、鹿児島に戻られたそうですね。もう次の目的があった。

いえ、チームの解散が決まって、バレーはやり尽くしたなと感じたので、さばさばとした気持ちで帰郷しました。公務員の父には「ふーん、帰ってきたの」と言われましたが、父の仕事の関連先の結核予防会というところを紹介していただき、OL生活が始まりました。

―― ボウリングの初体験はいつだったのですか?

22歳ぐらいのころ、友達に誘われて初めてやりました。スコアは確か85点だったと思います。3人でやったのですが、私のボールはスピードがあるんだなということを自覚しました。

―― そのときに楽しくて、またやろうと思ったのですね。

ええ、当時は1ゲーム180円から200円で、私には決して安くはありませんでした。でもスペアを取るのが楽しくて、徐々に熱中していきました。そのころ、父が亡くなって母がおでん屋を始めたんです。私は仕事をやめておでん屋を手伝いながら、週に1度はレジから1000円札をちょうだいしてボウリング場通いです。

―― 上達は早かったのでしょうね。

バレーで下半身や手首を鍛えていたのがよかったんでしょう。投げる度にスコアが伸びて、誘われてアマチュアの試合に出るようになりました。

「がんばってきんしゃい」と送り出してくれた母

右から3番目が中山律子 その左が東京タワーの後輩、井上和子

右から3番目が中山律子 その左が東京タワーの後輩、井上和子

―― そこからプロへの道が開けるまでに、どんな流れがあったのですか?

1967年、私は25歳になっていましたが、大阪での「第1回全日本オープントーナメント」という大会だったと思いますが、女子個人の部で準優勝し、それが大きな転機になりました。優勝は、当時既に有名ボウラーだった須田開代子さん。途中まで私が1位だったのですが、お手洗いで会ったときに「安心するのは早いわよ」と声をかけられ、そのとおり逆転されてしまいました。憧れの人でしたから「やっぱりすごいな」と。

―― それが、その後ライバルとなる須田さんとの出会いだったのですね。

そうです。そして私はそのとき、東京タワーボウリングセンターの方の目に留まり、スカウトされて上京を決めました。

―― これからはボウリングで稼げるぞという感じだったのですか?

そのころ、一足早く男子プロボウラーが誕生していて、女子プロももうすぐできるという噂はありました。でも私には女子プロより、ボウリング場で働いて稼げることがまず魅力でした。

―― お母さまは何と?

知り合いの占い師さんに相談したら何かいいことを言われたらしく、「行きなさい、がんばってきんしゃい!」と背中を押してくれました。私は7人兄弟の5番目なのですが、「子どもが7人もいるのだから、1人ぐらい野球選手とか何かで大成してほしい」というのが母の口癖でした。

26歳で第1回女子プロテストに2位合格

得意のポーズを決める

得意のポーズを決める

―― 1968年当時の東京タワーといえば、日本中の憧れを集めていた場所でしょう。

下から見上げて、「私も東京タワーみたいな存在になりたい」と思っていました。寮生活で、朝10時ごろから夕方5時ごろまで練習漬けの毎日でした。

―― レーン掃除などはせずにひたすら練習、それでお給料が出ていたのですか?

そうです。とくに指導者がいるわけでもなく、ほとんどが投げて、スコアをつけて、という練習でした。朝に晩に東京タワーの大展望台までの階段(600段)を往復するのがトレーニング代わり。そんなころに、第1回女子プロテストの開催が決まりました。1969年6月、私は26歳になっていました。プロテストの合格ラインは1日9ゲームを4日間投げ、アベレージ180以上というものでした。テストの前に、母には「落ちたら帰るね」と連絡していて、私は1度限りの挑戦と決めていました。

―― 背水の陣ですか。やはり緊張しましたか?

意外とそれほどでもなく、180以上で投げればいいと淡々としたものでした。45人受験して合格したのは13人。須田さんがトップ合格。私は2番手で、3番が石井利枝さんでした。その順位は、そのまま日本プロボウリング協会のライセンスナンバーとなりました。

「2番手」は居心地がよくておもしろい

―― 女子ボウリング界に「花のトリオ」の誕生ですね。

須田さんは1番にピッタリの方でしょう。私は2番で良かった。

―― どういう意味でしょう?

1番というのは、すべてにおいてトップに立てる人でなくてはいけないわけですよ。代表して挨拶もこなさなければならない。私にはちょっと無理、2番手として須田さんの後をちょこちょこついていくのがいいかなと。私、そういう性格なのですね。

―― 居心地のいい番号である、と。

はい。私、次女ですし。もう1つの理由は、試合で2位になると、1位を目指していたのにどこが悪かったのだろうと、常に反省があるわけです。「負けて勝ちを覚える」という言葉もあるくらいです。私はチームワークを重視するバレーボールをやっていたので、個人戦というのが初めてで、人に勝つというより自分自身に勝つんだという気持ちのほうが強いのかもしれません。

お客さまとボウリング場があってこそのプロボウラー

―― プロテストに合格したときの喜びは大きかったのでしょうか、それとも当然だよ、くらいだったのでしょうか?

そのために準備をしていましたから、私だけでなく合格したほとんどの選手は、たぶん「あたりまえ」といった受け止め方でしたね。

―― ライセンスを取って生活は変わりましたか?

すごく変わりました。ギャラが入ってきますから、好きなことができるようになったし、欲しいものが買えるようになりました。母にも好きなことをさせてあげられるようになりましたし。

―― お金の面以外では何かありましたか?

ボウリング人気が高まっていたので、たくさんのお客さまが観戦に来てくださいました。今では考えられないほど大勢の方たちです。新しいスポーツだというもの珍しさもあって殺到してくださったのでしょう。プロライセンスを取った私たちは全国各地に出向き、お客さんはもうドアが壊れるのではないかと思うほど入ってくださいました。私はプレーしながら、ボウリングはお客さまがいらして、ボウリング場があってこそ、自分の存在があるんだなということを、日々、体感しながらプレーしていました。そうすると、だんだん人というものが好きになってくるんですよ。

―― 技術面ではどうでしたか?

私はヘタなほうでした。パワフルでスピードがありすぎて、曲がるボールを投げられなかったのです。その点でも須田さんは技術がしっかりしていました。通算勝利は、私が33勝で彼女は44勝ですから。

投げやすさを優先してのミニスカート

パーフェクト達成で人気がブレイク

パーフェクト達成で人気がブレイク

―― 注目される立場になって、「見られる」ことに対しては相当意識を高く持っていらしたのではないかと思いますが、どうですか?

気は使っていましたね。

―― カラフルなウェアにミニスカートという衣装も注目を浴びていました。コーディネーターがついていたりしたのですか?

いえいえ、全然。私自身、服装には無頓着なほうでした。ただスカート丈が難しくて、膝下丈だと投げづらいので、膝上のミニのタイトになってしまうんですよね。バレーで鍛えたたくましい足をあまり出したくはなかったのですが。

―― フレアスカートではいけなかったのですか?

広がると投球時に邪魔になるので、タイトスカートのほうがよかったんです。

―― お化粧は?

一生懸命、自分でメイクしました。

―― 試合の前と後と?

はい、後もです。髪は自分で洗うヒマがないので、しょっちゅう美容院に行っていました。

女子プロ初の公認パーフェクトゲーム達成で一気にブレイク

―― 選手同士は、皆、競争相手という感じでしょうか?それとも連帯感のほうが強いのでしょうか?

人それぞれでしょうね。相手あっての勝負ですから、「中山さんを絶対倒す」と虎視眈々とねらっていた人もいたでしょう。でも私は、「自分が一生懸命やればいいんだ」という気持ちが強くて、相手が嫌いだとか「倒してやろう」という発想にはなりませんでした。勝負師というタイプとは一線を画していたかもしれませんね。周囲の人はどう思っていたかわかりません。でも皆、優勝や女子プロ初のパーフェクトへの執念は、常に持っていたはずです。

―― では、ボウリングが華々しくブレイクするきっかけとなった女子プロ初のパーフェクト(12回連続ストライクで300点満点を出すこと)を達成したときのことを伺いましょう。1970年8月21日でしたね。

まだ優勝したことのない「月例会」でした。当時は力の抜き加減がわからず、パワーにまかせた投げ方をしていました。でもその日は、ボウリング場に向かうタクシーが接触事故を起こしまして。大した事故ではなかったのですが、試合会場へはギリギリの到着になり、「今日は気楽に行けばいいや」と臨んだのがよかったようです。力みが抜けて、どんどん上位に行って決勝戦で達成したのでした。

―― 会場の府中スターレーンは、ギャラリーでいっぱいだったのでしょう?

1000人ぐらい入っていたと思います。10フレームの1投目で危ない投球もあったのですが、不思議な集中力というかいつもと違う見えない力のようなものを感じていました。最終投球はエイヤッと投げたあと目をつぶってしまったので、ボールの行方は見られませんでした。快音が響いて目を開けたとき、カメラのフラッシュと他の女子プロの選手たちが「おめでとう」と駆けよってくる姿が目に入り、「ああ、やったんだ!」とわかりました。

サインのし過ぎで手が腫れたことも……

ファンの背中にサイン

ファンの背中にサイン

―― そのあと、ボウリングブームに一気に火が点きました。 中山さんもNHK紅白歌合戦の審査員をされたり、翌71年にはシャンプーのCMに出演されました。

どこへ行っても「律子さーん」と声をかけられるようになって、テレビのすごさを実感しました。

―― サイン攻めにもあったそうですね。

はい、断れないのでできる限り応対していました。ある日、中部地方に移動中の電車では、2時間半、丸々サインをしたこともあります。

―― 手を使う仕事なので大変ですね。

手が腫れてボールに指が入らないなんてこともあって、それは反省しました。

―― 当時は日々せわしなく過ぎ去っていく感じだったのでしょうね。1日のスケジュールはどうなっていましたか?

あまり記憶にないですね。毎日が分刻みでめまぐるしくて、今日が何曜日なのかさえわからないくらい……。それでも練習に()てられる日は、8時間以上するようにはしていました。トーナメントがあるときは朝8時とか9時に集合しますでしょう。終わるのは遅くて午後7時、9時、10時とか。2日間連続の試合もありますし。テレビ中継が入っているときは、その時間に合わせて行われていました。次の日に移動して、ボウリング場のオープニングイベントやお客さまとのチャレンジがありました。「2投だけしていただきましょう」みたいな。

―― 試合は年間でどのくらいあったのですか?

多いときで85本から90本ぐらいでした。すごいですよね。

―― 4日に1度は勝負をしていらっしゃったということですね。体のケアはどうされていましたか?当時はまだクールダウンなんてなかったのでしょうか?

冷やすといけないといって泳いではいけないと教えられた時代ですからね。メンテナンスはほとんどしませんでした。オフがないので筋力トレーニングをする時間もなくて、準備運動くらいですよ。

―― では今日の試合はちょっと力を抜こうかというようなときは?

いえいえ、常に一生懸命でした。ファンの方ってよく観察していらして、「あ、あきらめたな」というのがわかるらしいのです。だからいつも全力投球。

「天下のライバル」と言われた須田開代子さんの早すぎる死

中央が中山律子、右がライバル須田開代子、左は並木惠美子

中央が中山律子、右がライバル須田開代子、左は並木惠美子

―― 結婚されたのは32歳のときでしたね。

はい。結婚は須田開代子さんと同じ1974年で、子どもも同い年なんですよ。

―― 一時期、「努力の須田開代子、人気の中山律子」なんて比較されたこともありましたが、“天下のライバル”と言われた須田さんとは何歳違いだったのですか。

須田さんが4歳年上でした。女子プロがたくさんいる中、私たちはお互いに一目置いて相手をライバルだと認めていたと思うのです。だからこそ須田さんに負けたときは非常に悔しく、勝ったときの喜びはひとしおでした。

―― ボウリング界を盛り上げる同志として、アドバイスし合うことはなかったのでしょうか。

ありましたよ。須田さんは普段は仲のいいお姉さん的存在でしたから、「ちょっと見て。私、どこが悪い?」なんて私に聞いてくることがありましたし、「中山さん、ひじを少し上げたらどう?」とかどこのメーカーがいいよなどと助言し合っていましたね。

―― それが57歳で亡くなるなんて、あまりにも早すぎましたね。

そうなんです。そのころ、私も病み上がりでした。須田さんががんと闘病中とは伺っていたので、「お見舞いに行きたい」と伝えていたのですが、答えは「絶対に来ないでよね」でした。若いころは、話したくても話せないことがいっぱいありました。私たち、60代ごろからなら、本当にざっくばらんにいろいろゆっくりと話し合える仲になっていたと思うのです。それがすごく残念でたまりません。

絶頂から低迷期へ

―― 絶頂の時代から数年後、ボウリングブームは下降していきました。

ボウリング場が増えすぎたのと、オイルショックが大きかったですね。

―― 絶頂からブームが去っていく苦しい時代をたどってこられて、並大抵の努力ではなかったと思います。

ブームが低迷したときでも、私はボウリング場に契約をしていただいて、全国各地に指導に行き、その生徒たちが成長して……。ボウラー同志は、仲間だという連帯感がとても強いんです。そういう意味では、私はものすごく人に助けられてきています。ですから、ボウリング業界からは離れられなかったですね。

ケガと闘いつつ生涯現役

左膝にサポーターをして投げ続ける

左膝にサポーターをして投げ続ける

―― 中山さんご自身は、40代のころからケガに悩まされたそうですね。

まず左ひざ。それは手術しましたが、無理をしたせいで右肩痛になりました。そのあと右ひざにも来て、2年間、完全休養をせざるを得なくなりました。それまではパワーとスピードが特徴でしたが、それを機に回転とコントロール重視へとスタイルが変わりました。

―― けがが転機に?

というより、きっかけは子どもができたころにありました。早くボウリングを再開したくて、ボールをころころと転がしていたんですよ。投げるというより転がしただけなのに、「あれ?力を入れていなくても、ピンってこんなに倒れるんだ」という発見をしました。「ああ、これが基本なんだ」と初めて体得したわけです。それからは、意識して力を抜くことを心がけていました。そんな意識の変化がまずあって、ケガにより必要に迫られたこともあり、力を抜きつつボールを回転させてコントロールする技術を本格的に追求するようになりました。

―― 年齢を重ねるということは、追求する技術も変わってくるということですね。

体はもう変わりませんから、リズムも変えられないのです。変えるとしたらピッチ(ボールの指穴の傾斜度)ですね。肩が上がらなくなったら、ピッチもそれに合うように変えて、投げ方を変化させていくとかね。

―― 若いころと違って、腕をびゅーんと振り切ることも難しくなりますからね。どうですか、頭や体には理想とするスローイング、フォロースルーなどはまだありますか?

あります。自分のイメージと自分の一投がぴったり合うと、すごくうれしいんです。良かったり、また悪いときもあるのが楽しいんですよ。良いだけでは楽しくないと思うんです。

―― いま体調はいかがですか?

50代になって母を亡くしたあと、私は体調を崩してしまいました。それでも私の中にボウリングはいつもあって、永久シードプロの私は生涯現役です。


育ててくれたボウリング界に恩返しをしていきたい

イベントの始球式で投球する中山律子

イベントの始球式で投球する中山律子

―― 中山さんは、2004年に日本プロボウリング協会(JPBA)の会長に女性として初めて就任され、4期8年務めた後、現在は名誉会長というお立場です。それから、須田さんの尽力で1976年に誕生したジャパンレディースボウリングクラブ(JLBC)の会長も務められていますね。

私はボウリングに育てられてきました。ボウリングが盛んだった時代を知らない世代の人たちに、もう少しいい思いをさせてあげたい。結果的にはあまり効果は上げられなかったかもしれませんが、業界に何らかのかたちで恩返しがしたいという思いをずっと持っています。

―― 2006年には、ボウリング界に革命をもたらす女性アスリートによる「P★League」を創設されました。

テレビでの露出を考えた組織です。「入りやすいからいつでもいらっしゃい」というファン獲得のメッセージを込めて、若い年代への訴求効果を期待しています。

ボウリングは生涯スポーツとしてシニア層や障害者の方たちにおすすめ

―― それでは、JPBA名誉会長の立場でお答えください。スポーツ基本法が成立して、スポーツをすることは皆が等しく持っている権利だという時代になってきました。その中で、普及活動をする上で重視されているのはどんなことでしょうか?

ジュニア層の発掘・育成ももちろん大切ですが、自分が72歳になってつくづく、「ボウリングをしてきてよかった」と思うのです。ですから、シニアボウラーの方をもっと増やしていきたいですね。軽いボールがありますし、投げて、休んでと自分のペースでプレーできるところが、ボウリングの長所です。中国語では、ボウリングを「保齢球」と書きます。その字のとおり、年齢(若さ)を保つスポーツとして、浸透させていきたいものです。

―― 障害を持つ方にも優しいスポーツなのですよね。

はい、様々なハンディに対応できるように、工夫を凝らした器具が開発されています。スロープの形状をしている投球補助台や、取っ手のついたボール、ガーターの溝をふさぐバンパー、視覚障害者の方用の手すりなど、多くのボウリング場にありますので相談なさってみてください。

聞いてきてくれれば後輩に伝えたいことはたくさんある

イベントで挨拶する中山律子

イベントで挨拶する中山律子

―― 中山さんの中心をボウリングが貫いていて、ボウリングの魅力に取りつかれてここまでこられた。

今でもよく言われるんですよ。トーナメントに行きますでしょう。私は後輩たちのボウリングをずーっと見ているんです。すると年配のプロボウラーの方たちに、「中山さんって、ボウリング本当に好きなんだね」って。私はむしろその言葉に驚いて、「え?皆さんは飽きてしまっているの?」と聞き返したいくらい。

―― 後輩たちのプレーする姿を見て、アドバイスしたりとか?

「ああ、あそこを直せばいいのにな」「ここをこうすればもっとよくなるのにな」と思うことがあります。アドバイスはたまにします。でも今はね、昔と比べて、ボールもレーンも質がいいんです。だから少々技術的に荒削りであっても、ストライクがくるわけです。

―― そうでしたか。当時とは道具の精度が全然違うんだ。

ボールは、私のころは材質がポリエステル4種類しかなかったんです。それがウレタンが出てきて、今はリアクティブウレタンが主流になってきています。私は曲がるボールを投げるのに苦労していましたが、今のボールは曲げやすくコントロールしやすくなっているんです。

―― ああ、ではレーンの状況も?

昔はウッドしかありませんでした。

―― では均質かというと、少々おぼつかないところがあった。

そうです。痛みやすいのでキメ細かく補修や塗装をする必要がありました。今はあまり手間のかからないプラスチックが主流です。

―― ああ、昔よりストライクを取りやすい状況だと。ではより細かい部分、例えばレーンにひいてある油をどのように利用したらいいか、ボールの穴の開け方の問題ですとか、プロならではのコツのような……。

どのスタイルがその人に合うかというのは、状況に左右されてどんどん変わっていくわけです。だから常に努力をして、変化に対応できるようにしていかなければならないのです。いま若い選手達はそれなりに育ってきているとは思いますが、聞いてきてくれれば私の持っているものをもっと伝えたいのになと思っています。

プロとしての極意は人に感謝すること

大会で表彰する中山律子

大会で表彰する中山律子

―― 最後に、女子プロボウラーの1期生として「プロ」とはなんぞやという点をお聞きしましょう。

私は高校時代にスポーツの厳しさを植え付けられましたが、今の若い人たちは勝負に対する厳しさを本当に知っているのかわからなくなるときがあります。肉体的にも精神的にも技術的にも、「自分に負けない人」が真のプロといえるのではないでしょうか。

―― これからプロを目指す人や後輩たちに伝えたい“プロとしての極意”といったら、どんなことがありますか。

まず、目標を立ててそれに向かっていく努力をすること。技術的には、技術をしっかり自分のものとして身につける努力はもちろん必要ですが、その過程で身近な人や、いればコーチに見てもらってアドバイスを受けることが大事だと思っています。忘れてならないのは、「人への感謝」ですね。ボウリングという競技はいろいろな人の支えで成り立っています。ましてプロであればファンやスポンサーなどより多くの人がかかわっていますから、そのことへの感謝の気持ちを常に意識に置いておくべきでしょう。

インタビュー風景

インタビュー風景

―― 中山さんがプロボウラーになってから、今年で45周年だそうですね。

そうなんです。大々的なことは、本当はあまり好きではないので、いつも行っているボウリング場でささやかに祝おうかと思っています。

―― これからのますますのご活躍を期待しています。どうもありがとうございました。

  • 中山律子氏 の略歴
  • 世相
1861
文久元年
6月22日、長崎の出島に日本で最初のボウリング場がオープン
この日を記念して、日本の「ボウリングの日」は6月22日と設定される
1895
明治28
アメリカン・ボウリング・コングレス(ABC)がニューヨークで発足
競技者の組織化・競技ルール・用品用具の統一に乗り出した
1901
明治34
ABC、シカゴで第1回全米選手権大会(ABCトーナメント)を開催
1905
明治38
ハードラバー(硬質ゴム)のボールが商品化され主流となる
1916
大正5
国際婦人ボウリング協会(WIBC)が女性40人によりセントライトで設立
この年、第1回WIBCトーナメントが開催

  • 1942中山律子氏、群馬県に生まれる
  • 1945中山律子氏、父母の出身地、鹿児島県に移転
  • 1945第二次世界大戦が終戦
1946
昭和21
AMFが世界初の自動ピンセッターマシンを発表

  • 1947日本国憲法が施行
1950
昭和25
東京初の許可団体として社団法人・日本ボウリング協会設立(1961年に解散)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
オリンピックに通じる世界組織として国際柱技者連盟(FIQ)がフィンランドに設立
東京・青山に日本に民間初の東京ボウリングセンターがオープン
1953
昭和28
ABCが自動ピンセッターマシンを認証
日本人による第1回ボウリングトーナメント開催
1955
昭和30
アマチュアボウラーによる日本初の任意団体、日本ボウリング連盟が結成

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1957
昭和32
岩上太郎氏、日本人初の300点パーフェクトゲームを達成
1959
昭和34
米国女子プロ・ボウリング協会(PWBA)が設立
1960
昭和35
粕谷三郎氏、日本ボウリング連盟月例会で日本人の公認パーフェクトを達成
1961
昭和36
日本に初の自動ピンセッターマシン登場

  • 1961中山律子氏、鹿児島市立 鹿児島女子高等学校卒業後、旭精機(名古屋)入社
1963
昭和38
日本初となる全国規模による全日本ボウリング選手権開催
1964
昭和39
全日本ボウリング協会(JBC)設立

  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
日本ボウリング場協会(BPAJ)設立
日本ボウリング協議会(NBCJ)設立

  • 1965中山律子氏、鹿児島市内で初めてボウリングを体験
1966
昭和41
羽鳥義一氏、JBC第1号公認パーフェクトゲームを達成
1967
昭和42
推薦プロ19名による、日本プロボウリング協会(JPBA)設立
第1回JPBA創立記念大会が開催され、矢島純一氏が優勝
1968
昭和43
石川雅章氏、プロ協会第1号の公認パーフェクトゲームを達成
府中市体育協会にボウリング部門の加盟認証

  • 1968中山律子氏、東京タワー・ボウリング センターにスカウトされて上京
  • 1969中山律子氏、JPBA女子プロ部門、第1期プロテストにおいて合格
     中山律子氏、須田開代子氏の黄金時代、宿命の対決スタート
  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
ボウリングドラマ「美しきチャレンジャー」が始まり、視聴率27.2%をマーク
この年よりテレビのボウリング番組は週7本放映され、人気番組となった
女子アマチュア第1号のパーフェクトゲームをJBC小野沢幸子氏が達成

  • 1970中山律子氏、テレビ中継の決勝にて日本女子プロ第1号パーフェクトゲームを達成。日本プロスポーツ大賞・殊勲賞を受賞
  • 1971中山律子氏、テレビCM「さわやか律子さん」が大反響
1972
昭和47
日本ボウラーズ連盟(NBF)結成
日本ボウリング場協会(BPAJ)が6月22日を「ボウリングの日」と制定
1973
昭和48
全国実業団ボウリング連盟(ABBF)結成
全日本ボウリング協会(JBC)が財団法人となる
日本ボウリング場協会(BPAJ)が社団法人となる

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
ABCがボール最低硬度を「75度」と規制
女性だけのクラブ、ジャパン・レディース・ボウリング・クラブ(JLBC)が須田開代子プロの働きかけで発足

  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1978日中平和友好条約を調印
  • 1979中山律子氏、サンスクエア・ボウルで コーチをする傍ら地方トーナメントに参加
  • 1980中山律子氏、女子プロ誕生記念を初めとして、通算33勝達成
1981
昭和56
オートマチックスコアラー(自動採点機)が初登場

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1983
昭和58
全日本ボウリング協会(JBC)が日本体育協会に加盟
1984
昭和59
日本体育協会が「第42回国民体育大会・沖縄」にてボウリング競技を公開競技として採用
1985
昭和60
アメリカPBAと日本JPBAの対決、第1回ジャパンカップが東京で開催
1986
昭和61
第10回アジア競技大会ボウリング競技にて日本選手団が金メダル6個・銀メダル5個・銅メダル2個を獲得
1987
昭和62
1988年の京都国体よりボウリングが正式競技として採用されることが決定

  • 1987 中山律子氏、ジャパンオープン 準優勝
1988
昭和63
「第43回国民体育大会・京都」ボウリング競技、正式種目として初開催
ソウルオリンピックにボウリングが「エキシビジョン・ゲーム」として登場
日本代表の浅井敦子氏が銀メダルを獲得
1989
平成元
「第44回国民体育大会・釧路」より少年の部も正式実施競技となる

  • 1989中山律子氏、引退。優勝回数33回( 歴代4位)
1990
平成2
第8回アジア大会(広島)にて日本選手が金メダル4個・銀メダル3個・銅メダル2個を獲得
1995
平成7
東京に「ボウリング資料館」オープン

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
  • 1997香港が中国に返還される
  • 1998中山律子氏、ジャパン・レディース・ボウリング・クラブ(JLBC)の会長に就任
  • 2004中山律子氏、社団法人日本プロボウリング協会会長に就任
  • 2008リーマンショックが起こる
  • 2011東日本大震災が発生
  • 2012中山律子氏、社団法人日本プロボウリング協会名誉会長に就任