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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

オリンピアンかく語りき
第10回
馬術の名手、五輪への蹄跡

竹田 恆和

全ての人々にスポーツへの参加を促し、健全な肉体と精神を持つスポーツマンを育て、オリンピック運動を力強く推進すること。これが日本オリンピック委員会(JOC)の理念である。この理念実現のため、JOCでは、「オリンピック競技大会及びそれに準ずる国際総合競技大会への選手派遣事業」と「オリンピック・ムーブメント推進を目的とした事業」を活動の2本柱としている。

日本のオリンピック運動の総本山ともいえるこのJOCを率いるのが、竹田恆和会長だ。2001年10月に就任して以来、現在7期目。昨年7月には、国際オリンピック委員会(IOC)の委員にも就任した。世界中を飛び回る竹田さんに、オリンピアンとしての思い出、JOC会長就任の経緯、2020年東京オリンピック・パラリンピック招致に懸ける思いなどを伺った。

聞き手/西田善夫 文/山本尚子 構成・写真/フォート・キシモト

東京の2020年オリンピック・パラリンピック国際プロモーションがスタート

2020 年招致活動。伊調選手(左から二人目)、成田選手(右から二人目)等と。  右端が竹田氏(2012)

2020 年招致活動。伊調選手(左から二人目)、成田選手(右から二人目)等と。右端が竹田氏(2012)

―― 竹田さんは、東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会の理事長も務めていらっしゃいます。今、日本中で一番お忙しい方ではないでしょうか。

いえいえ。皆様方のお力添えで、2020年の東京オリンピック・パラリンピック招致活動も正念場に入ってきております。

―― 手応えはいかがでしょう。

東京は昨年5月24日、正式に2020年夏季オリンピック・パラリンピック競技大会の「申請都市」から「立候補地」に選定されました。その国際プロモーションが、本年1月8日にようやく解禁になりました。そこで1月10日に、ロンドンで記者会見を行ってきました。我々が予想していた以上に、英国のみならず、世界中から大勢のプレスの方が来られました。翌日の記事は概ね好意的に書いていただき、いいスタートが切れたかと思います。

親子二代のIOC委員

―― 2011年12月に、猪谷千春さんと岡野俊一郎さんが定年でIOC委員を退任して以来、日本の委員は不在となっていましたが、ロンドンオリンピック開会式前のIOC総会で、竹田さんがIOC委員に就任されました。お父上の竹田恒徳(つねよし)氏もIOC委員で、親子二代となるわけですが、世界でもそのようなケースは多く見られるのですか。

何人かおられますね。スペインの故サマランチIOC会長の息子さんもそうですし。インド、パキスタン、ペルーなどにもおられます。

―― お父さまは日本スケート連盟の会長もされていました。私はアイスホッケー担当の時代が長かったものですから、何度もお話を伺う機会があり、名前を覚えてくださったときは非常に感激しました。

父がいろいろお世話になったと思います。

―― いえ、とんでもありません。

日本人メダリストにメダルを授与できた

―― IOC委員に就任されて、何か変化というものはありましたか。

これまでもオブザーバー、あるいはNOC(国内オリンピック委員会)の会長として各種会合に出席させていただくことが多くありましたので、あまり変化は感じていません。これからはIOC総会で投票権を持つというのが大きな違いでしょうか。今は2014年のソチ冬季オリンピックと、2018年の平昌冬季オリンピックの2つの調整委員会の委員を務めています。それ以外についても、今後何か役目が回ってくるでしょう。それと、オリンピックでのメダリストへのメダル授与という役割ですね。

―― それがありましたね。ロンドン大会でもされたのですか。

はい、3回ほど。日本選手にも渡すことができて、非常にうれしく思いました。1人はレスリングの伊調馨選手です。もう1個は女子バレーボールチーム。日本は3位決定戦で韓国を破って銅メダルを獲得しましたよね。あれは優勝したから、あるいはメダリストになったからその国のIOC委員がメダルを授与できるというわけではないのです。もし韓国チームが勝利していたら、やはりメダルの授与者は私でした。もう1回は、体操男子団体の優勝チームでしたので、中国の選手たちにメダルを差し上げました。

―― 2020年オリンピック・パラリンピック招致の点ではいかがでしょう。

2016年の招致活動の際に、私は各国のIOC委員に接触してお願いする機会が多くありました。それが今回は、IOCというソサエティーの中に入れてもらったことで、以前と違う印象は受けます。仲間に入れていただけたといいますか、これまでは外部からの接触だったのが、内側からですと受け入れ方もずいぶん変わってきたという感触ですね。

―― 対等な仲間になったと。

そうです。仲間意識の強い組織ですから。

俊足、スポーツ大好きな少年時代

小学5 年、馬術を本格的にはじめたころ(右)(1958 )

小学5年、馬術を本格的にはじめたころ(右)(1958 )

―― 竹田さんは、馬術で2回オリンピックに出場されているオリンピアンでいらっしゃいます。

はい、1972年のミュンヘン、1976年のモントリオール大会に出場しました。

―― 馬術は、お父さまから教わったのですか。

いいえ、父は騎兵将校の職業的軍人で馬に乗ってはいましたが、私は実際に父の乗馬姿を見たことはありません。父から「馬をやれ」と言われたこともありませんでしたね。父は日本スケート連盟と日本馬術連盟の会長もしておりましたので、父に連れられて、よく両方の大会の観戦に行ってはいました。スポーツは何でも好きで、小さいころからいろいろなスポーツに親しんでいました。足が速くて、小学校では6年間リレーの選手だったのですよ。アイスホッケーか馬術かで迷ったのですが、動物好きでもありましたので、馬術が一番自分に合っていると考えました。

―― お父さまは、アイスホッケーを勧めたのではないかと思っていましたが、竹田さんが自主的に決められたのですね。

ええ。私は幼稚舎(小学校)から慶應に通っておりまして、中学生になったとき、馬術部に入りました。3年生のときはラグビー部の選手が足りず、各部から足の速い選手が集められ、1年間ラグビー部のレギュラーもやっていました。高校でもラグビー部に引っ張られたのですが、私は「馬術で行く」と決めていました。

馬は大事なパートナー、信頼関係を築く

―― 馬を始めたのは中学生になってからということですか。

小学校5年生のときです。たまたま同級生が乗馬クラブに通っていたのです。彼はお母さんの影響で乗っていたようですが、「僕も連れていってくれよ」と頼んだのが、馬術を始めるきっかけでした。

―― 馬との相性がよかったのかもしれませんね。

馬はきちんと感情を持っています。しかし人間と違って、お腹が痛くても教えてくれません。その分、顔色や様子、その動作などで馬の状態を観察するわけです。犬や猫と違って大きな動物ですから、扱い方も大変ですし、とても気を使います。馬はパートナーですから、馬の気持ちを理解し、お互いに信頼関係ができないと難しい。馬術はそういうスポーツですね。

―― 人間同士にも通じる非常に大事なことですね。

国語の教科書に出ていた城戸俊三選手の逸話に胸を打たれる

東京オリンピック馬術(馬事公苑)(1964 )

東京オリンピック馬術(馬事公苑)(1964 )

―― 竹田さんが、オリンピックを意識し始めたのはいつごろからですか。

小学校5年生のときに一つのきっかけがありました。それは馬に乗り始めてまだ2、3カ月しか経っていないころでした。国語の教科書に、1932年のロサンゼルスオリンピックの「愛馬物語」という逸話が出ていたのです。

―― ロサンゼルス大会の乗馬といえば、馬術障害飛越で金メダルを獲得したバロン西(西竹一)選手(のちに戦死)が有名ですが。

そうですよね。ところがそのテーマは西さんではなく、総合馬術に出場した城戸俊三選手という方のお話でした。32.29キロのコースに障害が50個設置され山野を走破するという非常にタフなレースだったそうです。軍人である城戸選手の愛馬の名前は、「久軍(きゅうぐん)」といいました。全コースのほとんどを走り終え、残る距離はあとわずか、障害はあとたった一つのところまで来ていました。久軍は馬齢19歳、かなりの老馬でした。気がつくと、全身から汗が噴き出し、息は絶え絶え、鼻孔が開ききった状態でした。そのとき、城戸さんはなんと愛馬から飛び降り、進もうとする久軍を押し留めたというのです。

―― ムチを振るえばなんとかゴールできたかもしれないのに……。

今は動物愛護上、ムチの扱いについては注意を要しますが、当時は障害を越えるのにムチでたたくのがあたりまえの時代です。そんな中で自ら棄権を選んだ城戸さんの愛馬精神に、ロサンゼルス市民は感激し「愛馬の碑」を建立したのです。

心のヒーロー、城戸俊三氏は我が師だった

「愛馬の碑」とそのときの鞍は、1964年の東京オリンピックの際に米国関係者の厚意により、当時、JOC会長だった私の父の手に託され、現在は秩父宮スポーツ博物館に展示されています。

―― そこでお父さまにつながりましたか。

実はもう一つつながりがあって、その城戸俊三選手というのは、私が通い始めた乗馬クラブの先生だったのです。

―― え! すごい偶然ですね。

そうでしょう。もうびっくりしまして、教科書を持って城戸先生のところにすっ飛んでいった覚えがあります。

―― 城戸先生は何とおっしゃっていました?

教科書のことはご存じだったのでしょう。ただ、「ああ、そうか」という感じでした。

将来の夢は「馬術でオリンピック」

モントリオールオリンピック馬術競技(1976)

モントリオールオリンピック馬術競技(1976)

城戸先生は、本当に立派な人格者でした。陸軍士官学校を卒業された騎兵将校です。非常に厳格な方で、馬以外にも大事なことをいろいろ教えていただきました。ヨーロッパに長くおられたので、フランス語やドイツ語もペラペラでした。昭和天皇や今上天皇の乗馬指導もされたということです。その少しあとで、学校で「将来の夢」というテーマで作文を書く時間があり、私はつい、「将来、馬術でオリンピック出場」と書いてしまいました。まだビギナーでしたから、本当の“夢”物語です。

―― 小学校5年生のときの馬との縁がすべての始まりだったわけですね。一つの“出会い”が人生をかたちづくるということがあるのですね。

やはり「人」ですよね。城戸先生との出会いがなければ、オリンピックにかかわることもなく、今、私はここにいないだろうと思います。

東京オリンピックを目の当たりにして夢の実現を決意

中学、高校、大学と、慶應には馬術部がありましたので、私は恵まれた環境で競技を続けることができました。高校2年のときに、東京オリンピックがありました。オリンピックを目の当たりにして、私は世界のレベルの高さに愕然としました。

―― 馬術競技には、馬場馬術、障害馬術、総合馬術とありますが、その違いを教えていただけますか。

馬場馬術(ドレッサージュ)は、馬をいかに正確かつ美しく運動させることができるかを競います。障害馬術(ジャンピング)は、障害が設置されたコースを通過する技術を競うもので私はこれをやっていました。総合馬術(イベンティング)は1日目に馬場馬術、2日目にクロスカントリー、3日目に障害飛越を行います。バロン西さんが金メダルを獲得したのは障害馬術、城戸先生がゴール直前でレースを断念したのは総合馬術でした。東京オリンピックでは、総合馬術は軽井沢で、馬場馬術は馬事公苑で行われ、障害馬術は最終日、閉会式の前に国立競技場で行われました。

―― ああ、そうでしたね。

世界の馬術に触れて、本当に感動しました。それまでオリンピックは「夢」でしかありませんでしたが、そのとき、本気で世界へのチャレンジを決意したのです。

モスクワオリンピックも目指していた

―― その結果、1972年のミュンヘン大会、1976年のモントリオール大会と連続してオリンピック出場を果たされました。私は両方のオリンピックへ行っています。私どもNHKのスタッフは、竹田さんのことを「宮様、宮様」とお呼びしていて、失礼いたしました。

あれには閉口しました。

―― オリンピックに実際、出場されてみてどんな感想を持ちましたか。

小さいころ、よくもあんな図々しい夢を書いたなと。世界の壁を感じる結果でしたが、とにかく私は夢を実現させることができ、本当に幸せな青春を過ごせたと思います。

―― 次のオリンピックはねらわなかったのですか。

2大会とも納得いく出来ではなかったので、次のオリンピックも出場したいと思っていました。しかし残念ながら、モスクワは日本が不参加でその夢はついえました。

―― ボイコットでしたね。

はい、それで私は現役を引退しました。

慶應大学馬術部監督を振り出しにJOC理事へ

JOC新会長選出後の記者会見にて  抱負を語る(2001)

JOC新会長選出後の記者会見にて抱負を語る(2001)

―― 競技団体の仕事をされるようになったのには、何かきっかけがあったのでしょうか。

選手を辞めたあと、お世話になった慶應大学の馬術部に恩返しがしたいと考え、コーチ、監督を12 年間務め、学生とともに過ごしました。そのときに、大学の監督は自動的に関東学生馬術連盟の理事になるのです。そこから日本馬術連盟の理事になり、国際馬術連盟の役員になりということでつながっていきました。国際馬術連盟の副会長になったころ、JOCから理事にとお声がかかったと記憶しています。

―― 今のようなスポーツ界の要職へと自分が向かっているなとお気づきになったのはいつごろですか。これはやらなきゃいけないなと覚悟を決められたのは?

JOCの理事に就任したのが1991年で、私は43歳。一番の若造でした。これは大変なところへ来た。こんな自分で務まるのかな、しっかりしなければと思っていました。

JOC理事から、突然の会長就任

―― 理事に就任して10年後の2001年、会長になられたのですね。

当時の八木祐四郎会長が急逝されたのです。

―― ああ、そうでした。

そのとき私は、国際馬術連盟のアジア担当理事の仕事で、東南アジア競技大会のテクニカルディレクターとしてマレーシアに滞在していました。帰国するかどうするか、現在、JOC名誉委員をされているホッケーの上田宗良さんに相談して、ともかく任務は全うしようということで、仕事を終えて、帰国の途に就いたのです。

―― アメリカで9.11の同時多発テロがあったころでしたね。

はい。飛行機の中で「ああ、久しぶりだ」と思って日本の新聞を広げたら、そこに私の写真がどーんと出ていたのです。JOC会長候補ということでした。もうビックリですよ。何の話も聞いていませんでしたから。成田空港にも自宅にも記者の方が大勢おられ、「これは大変なことだ、私はまだそんな器ではないのに」と戸惑いがありました。

―― 引き受けようと決意なさるに至ったのは?

選考委員会の委員長が古橋廣之進さんでした。早速お会いして、「時間をいただきたい」とお願いしました。会長なんて考えてもいませんでしたし、あまりに突然のことでしたから。しかしスポーツ界の重鎮の方々にご相談したら、皆さんが「やれ」とおっしゃるわけです。そこで、本当に微力ですし、どこまでできるかわからないけれども、自分の集大成としてとにかくこれに命を懸けてみようと腹を決めました。

次世代への引き継ぎも視野に

ロンドンオリンピック開会式日本選手団入場(2012)

ロンドンオリンピック開会式日本選手団入場(2012)

―― 相当な決心をされたのでしょうね。

それはもう。これは大変なことになったなと。当時は53歳で若かったですし、決断するまでには時間がかかりました。

―― 若さと同時に、竹田さんには敵がいないということではないでしょうか。私はそれを素晴らしいことだと思います。

いやあ……。

―― スポーツ界はみんな競ってきた人たちばかりですからね。味方以外はみな敵だというふうな考え方をする人も珍しくありません。しかし、スポーツ界は人材に恵まれましたね。竹田さん、よく覚悟してくださいました。

果たして私でよかったのかはわかりませんが、気がつくともう12年目になります。

―― 12年経っても、竹田恆和というそのお名前は新鮮さを保ち続けていますよ。

いえ、そろそろこれからの日本を背負って立つ若い世代に引き継いでいかないとと思っています。

スポーツ少年の情熱そのままに

―― こうしてお話を伺っていると、少年時代からスポーツが大好きで、馬術でオリンピアンになられ、思い描いていた夢そのままに歩んでこられているという気がします。その延長線上に道が続いていて、今の日本のスポーツ界を代表し、オリンピック・ムーブメントをリードするポジションに、就くべくして就かれたのではないでしょうか。

ここまで自然に流れてきたという気はいたします。私の原点はやはりスポーツが好きというところから始まっていますね。私は5人兄弟で兄と姉が2人ずついますが、父の影響で全員がスポーツ好きで、みな何かしらスポーツをしていました。

―― それは素晴らしいことですね。

すぐ上の兄はラグビーからアイスホッケーに転向して、最後は慶應で副将か何かになっていました。一番上の兄はテニス部でしたが、その後、やはりアイスホッケーをしていましたね。実は私も幼いころ、スケートをしていまして、いつかアイスホッケーをやってみたいと思っていました。そこで現役を辞めてから、夜に練習をして、東京都アイスホッケー連盟で2~3年プレーしたのですよ。28歳から30歳ぐらいまで、遊びみたいなものですけれども楽しかったですね。積年の思いを実現させることができました。

―― 私はアイスホッケーの実況をしたくてNHKに入局したのです。赴任地に室蘭を希望したら、「始まって以来だな」と大笑いされました。

アイスホッケーはスピードがあって、当たりが強くて、見ていてもダイナミックさを感じられる面白いスポーツですよね。

日本は世界一のオリンピック中継視聴国

ロンドンオリンピック開会式(2012)

ロンドンオリンピック開会式(2012)

―― ロンドンオリンピックは、ワクワクするエキサイティングな大会でしたね。

本当に。どこへ行っても競技場は満席で、熱気もあって素晴らしい大会でした。何より感心したのは、成熟したスポーツマンシップが根付いていたことです。どの会場でも、敗者へ、勝者と同様かそれ以上の温かい声援を送るシーンが見られました。

―― そうでしたか。日本国内での反応も熱いものでしたよ。

正確なデータはまだ出ていませんが、テレビの視聴時間は日本が断トツで世界1位だと聞いております。

―― 日本はどこか一つの局が独占するのではなく、放送機構の形態がよくできているということもあるのでしょうか。

そう言えると思います。NHKと民放の6社でジャパンコンソーシアムをつくっておられるので、どのチャンネルでもオリンピックを見られます。それだけ多くの人に見ていただけるので、オリンピック・ムーブメントを広めるうえで非常に効果があります。

テレビ視聴者もオリンピック・ムーブメントの参加者

―― 竹田さんがよくおっしゃる「オリンピック・ムーブメント」とは、どのような解釈をするとよいのでしょう。

一言で言えば、「スポーツを通じた世界平和運動」ですね。スポーツの素晴らしさを1人でも多くの方に伝えて、スポーツへの参加を促していく。それにより、相互理解を深め、豊かな社会を形成していこうということです。国際的な場面でスポーツを行なうことで、国際親善になり、世界平和への貢献につなげていくことができる。それがオリンピック運動であると、私は理解しております。

―― そういった面で考えると、オリンピックのテレビ視聴者も、オリンピック・ムーブメントに参加している一員といえますね。

おっしゃるとおりだと思います。

選手も感動した銀座のパレード

―― メダリストの銀座のパレードは50万人もの人たちが集まりました。選手の車にテレビカメラを乗せたことも、あの盛況につながったと思います。福原愛選手が「うわー、こんなに人がいる」とはしゃぐ声が聞けたり、ああ、変わったなあと思いました。

そうでしたね。あのカメラは本当に効果的でした。あの感謝のパレードは、ロンドン大会の閉会式のころに、帰国したらやろうかという話が出て、急きょ検討させたものです。準備期間が短かったため、警察の了解がなかなか出ず、決定したのはパレード当日の3日前。告知時間が十分ではなかったので、どれくらい人が集まるか不安はありました。

―― 本当にサプライズのようなものだったのですね。

はい、パレードであらためて感動したと言っていただきますが、本当に感動したのは選手たちのほうではなかったかと思います。帰国して、「あれだけ多くの人たちが自分たちを支えてくれていたのだ」ということを肌で実感できました。また次に向かって頑張らなければというパワーになったものと確信しています。

2020年東京オリンピック・パラリンピック招致計画に自信あり

2016 年招致活動、石原都知事(右から二人目)  等と。竹田氏は左端(2008)

2016年招致活動、石原都知事(右から二人目)等と。竹田氏は左端(2008)

―― さて、2020年東京オリンピック・パラリンピック招致を成功させるために、何が一番必要でしょうか。

オールジャパン体制で取り組みをしているところですが、前回、47%に過ぎなかった国民の支持率を7割以上に上げていくことが重要と思っています。我々としては、開催計画については本当にいいものができたと自負しております。2016年の立候補時に課題とされた選手村やメーンスタジアムの部分もクリアにしました。東京では「安心」「安全」「確実」なオリンピック大会が開催できるのだということを、自信を持ってIOC委員に広めていっています。

―― 2016年大会がリオデジャネイロに決定したように、IOCは何か新しい所で大会を開催することを重視しているのでは、と言われます。

オリンピック・ムーブメントへの貢献を考えると、それももちろん一つの在り方です。しかし、ロンドンは3回目の大会開催を大成功させました。成熟した都市で成熟した大会を開催し、世界にレガシーを遺すことで貢献する方法もあるという方向性を示したわけです。そういった意味で、2回目の大会となる東京だからこそできる、モデルとなり得るオリンピックの在り方を世界に訴えているところです。

東京が持つアドバンテージ

―― 海外からのゲストにとっては、東京で開催することによってどんな点がメリットとなるのでしょう。

東京はエキサイティングで先進的な都市であると同時に、日本独自の文化伝統、食文化、エンターテインメントなどを有しています。テクノロジーも誇れるものの一つです。高いホスピタリティ性もあります。そういったものすべてに接し体験していただいて、日本での滞在を素晴らしいものにしてほしいと願っています。

―― 今年9月に開催地が決定すると、2020年まで7年間あるのですね。

そうなのです。その7年という期間は、日本を世界に発信し続ける絶好のチャンスとなるわけです。

―― 日本の開催能力についての世界的評価はどうですか。

これは十分にあると評価していただいています。財政面、過去の国際競技大会の開催経験、インフラ、ホテル、トランスポーテーションが非常に整っています。それから世界に誇る大都市・東京の中心で、選手村から半径8キロ以内に85%の会場がおさまっているという非常にコンパクトな開催計画も評価されています。

招致成功に向け全力で走り続ける

バンクーバー冬季オリンピック壮行会(2010)

バンクーバー冬季オリンピック壮行会(2010)

―― 懸念材料としてはどんなことがありますか。

地震、原発の問題ですね。電気の供給量、エネルギー政策等について、東京は本当に大丈夫なのかとよく聞かれます。ライバルのイスタンブール、マドリードもそれぞれにプラス面とマイナス面を持っているので、我々も十分対策をして問題ないということを、今後も声を上げて伝えていくことが大切と考え実行しています。また2018年の冬季大会が韓国の平昌に決まり、アジアでの開催が続くことを心配する方もいます。これはジャック・ロゲIOC会長が、「夏と冬の大会は別である」と明言しています。過去にも2004年アテネ大会の2年後にトリノ冬季大会が開催されたりしています。

―― あとは支持率のアンケート調査ですね。YESとNOの間に大きく曖昧なゾーンを持つ日本人は、「わからない」「どちらでもよい」という回答が多く出ることが容易に予測されます。しかしこれでは「NO」にカウントされてしまいます。謙遜の姿勢は美徳ではありますが、国際的には欠点になる場合もありますね。

はい、はっきりと意思表示することをお願いいたします。

―― マスコミの反応はいかがでしょうか。

4年前のときよりも、とても好意的に応援していただいていると感じています。それだけ可能性が高いと見ておられているのかもしれませんね。招致活動は9月7日の発表の日まで、気を抜くことなく全力で走り続けていきたいと思っています。

スポーツ庁を立ち上げもっとグローバルに

―― 日本のスポーツ界の進む方向性については、どうお考えですか。

スポーツ基本法が制定され、スポーツ庁を立ち上げていこうという一連の流れは素晴らしいことだととらえています。1996年のアトランタオリンピックで日本の成績は底を打ち、国もバックアップしなければということで、2001年にJOCゴールドプランを策定し、スタートさせました。10年間でメダル倍増という目標のもと、国立スポーツ科学センター(JISS)ができ、ナショナルトレーニングセンターができ、成績も再び上向きになってきています。

―― 他国と比べると、日本のスポーツ予算はどうでしょう。

経済大国という割りに、あまりにも少ないと言わざるを得ません。桁が違うのです。ですから予算を充実させるためにも、一刻も早くスポーツ庁を立ち上げ、多くの省庁にまたがっている縦割り行政を改め、障害者のスポーツも併せて、国として日本のスポーツ界全体をグローバルに考えていくことが大事だと思います。

今、ニッポンにはこの夢の力が必要だ。

昨年末に政権交代があり、文部科学省の5つの重要課題の中にスポーツが入りました。私の知る限りではこれは初めてのことです。2020年オリンピック・パラリンピック招致への取り組みと、スポーツ庁の立ち上げをうたっておられ、政府が本気になって取り組んでくださることに感謝しています。今後、東京オリンピック・パラリンピックの開催が決まれば、スポーツ基本法が本当に血の通う法律になるだろうと思います。そのためにも、オリンピック・パラリンピック招致は重要であるといえるのです。

―― 招致が決まった暁には、スポーツ関係者だけでなく国民全体で喜びたいものですね。

そのとおりですね。「今、ニッポンには、この夢の力が必要だ。」と我々は考えています。1964年に東京オリンピックを成功させたとき、私たちは日本人として大きな誇りと自信を持つことができました。あの思いを、21世紀を担う若者にもぜひ体験してもらいたいものです。併せて、東日本大震災からの復興のシンボルとしてオリンピックを開催することにより、日本中に元気と明るさをもたらす起爆剤になり、それがまた被災地の後押しになると信じています。2020年には、日本の復興した姿を世界中の人々に発信していきましょう。

非オリンピック競技団体の方向性

―― オリンピック競技以外の競技団体の方向性についてはいかがですか。

アジアでは4年に1度、アジア競技大会が開催されています。例えば前回、2010年の広州アジア大会では43競技が行われました。大会があまりに大きくなり過ぎたため、次回の仁川アジア大会では競技数を38にまで削減することが決まっています。そうしていかないと、大会を運営できる都市が限られてしまうからです。外された競技は、2000年代に新設されたアジアインドア・マーシャルアーツゲームズ、アジアビーチゲームズといった大会に振り分けられることもあります。夏季オリンピックでは現在、28競技が実施されています。IOCでは今後、25のコアな競技を決め、それ以外は大会ごとに、盛んで勢いのある競技と入れ替えていくという姿勢を打ち出しています。ですから、非オリンピック種目の競技団体でも、多くのファンに認められる競技に成長すればオリンピック競技に入る可能性もありますので、それぞれで努力をしていただければと思いますね。

日本のスポーツ界、新たなる100年に向けて

ロンドンオリンピック壮行会(2012)

ロンドンオリンピック壮行会(2012)

―― 今後、スポーツ環境の充実という点で、何がポイントと考えていらっしゃいますか。

ロンドンで38個のメダルを獲得できたのは、ナショナルトレセン、JISS、マルチサポート事業といったバックアップの体制が整えられたことが大きな推進力となりました。ただ、ナショナルトレセンを専用で使えるのは夏のオリンピック28競技中14競技に過ぎません。今回、メダルを獲得したのはその14競技団体からがほとんどなのです。冬の競技のトレセンもありません。ですから、それも併せ、第二のナショナルトレセンを是非ということで政府に働きかけをしています。

―― それでは最後に、今後のスポーツ界の展望をお願いいたします。

一昨年、JOCと日本体育協会は創設100周年を迎えました。新たな100年への第一歩となる昨年、ロンドンオリンピックで好成績を収め、大変いいスタートを切ることができました。今後はさらに、国民の皆さまの期待に応えられるようブラッシュアップしてまいりたいと思っています。2020年オリンピック・パラリンピック招致の勝利とスポーツ庁の立ち上げ、スポーツの振興・普及・競技力向上のために、我々はさらに努力を重ねていく所存です。

―― 大変でしょうけれども、私どももバックアップさせていただきます。きょうはご多忙のところ、ありがとうございました。

  • 竹田恆和氏 略歴
  • 世相
1921
大正10
日本を含む8カ国によりスイスに「国際馬術連盟(FEI )」創立
1928
昭和3
日本として五輪馬術競技に初参加(アムステルダム五輪)。障害、馬術、総合の3種目に4選手を派遣
1932
昭和7
ロサンゼルス五輪で西竹一選手が障害で金メダル獲得

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1946
昭和21
「全国馬術連盟」創立

  • 1947竹田恆和氏、東京に生まれる
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
「(社)日本馬術連盟」と改称。日本協に加盟

  • 1950朝鮮戦争が勃発
1951
昭和26
FEI に復帰
         
  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキ五輪馬術競技戦後初参加/ 障害1 名参加
         
  • 1955日本の高度経済成長の開始
1958
昭和33
第3 回アジア競技大会(東京)で馬術競技を供覧
1964
昭和39
東京五輪馬術競技 / 障害3 名、馬場3 名、総合4 名参加 

  • 1964東海道新幹線が開業
  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
  • 1972 障害飛越競技出場
  • 1973オイルショックが始まる
  • 1976竹田恆和氏、モントリオール五輪に出場
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
アジア馬術連盟(AEF)創立 創立総会はバンコク

  • 1978日中平和友好条約を調印
1982
昭和57
アジア競技大会(ニューデリー)で初めて馬術競技を実施

  • 1982東北、上越新幹線が開業
  • 1984香港が中国に返還される
1985
昭和60
FEI 理事会(会長: エジンバラ公)を東京で開催 
1990
平成2
世界馬術選手権大会発足(ストックホルム)/障害4 名参加
FEI ワールドカップ障害(CS I- W )日本リーグ発足
千宗室副会長がAEF 会長に選出(1998年以降は名誉会長)
1991
平成3
FE I 総会(会長:アン王女)を東京で開催
常陸宮妃華下殿下を名誉総裁にご推戴

  • 1991 竹田恆和氏、国際オリンピック委員会(IOC) 委員に就任
1992
平成4
  • 1992竹田恆和氏、FEI 理事に選出
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1998
平成10
  • 1998竹田恆和理事、FE I 副会長に選出(2002年以降は名誉副会長)
2001
平成13
会員制度の改革(評議員会を廃止し、正会員を個人から都道府県馬連・組成団体とした)。
障害、馬場、総合に加えてエンデュランスを公認

  • 2001竹田恆和氏、JOC会長に就任
2003
平成15
連盟事務局が神田駿河台から中央区新川へ移転
2004
平成16
JEF登録システム運用開始


  • 2008リーマンショックが起こる
  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
公益社団法人 日本馬術連盟として認可

  • 2012竹田恆和氏、国際オリンピック委員会(IOC) 委員に就任