Search
国際情報
International information

「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

知る学ぶ
Knowledge

日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」
オリンピアンかく語りき
第20回
世界が認めた“アジアの鉄人”

室伏 重信

“アジアの鉄人”とうたわれたアスリートがいる。陸上・ハンマー投げで日本選手権優勝12回、アジア大会5連覇、オリンピック代表に4度も選ばれた室伏重信さんだ。
室伏さんは天賦の才能にただ甘んじることをよしとせず、常に世界を見据え、ストイックに投てき技術を研究し、たゆまぬ努力を続けて、39歳という年齢でなお日本記録を更新した。
彼の“鉄人”たる由縁は、現役を退いてからも続く。指導者になった彼は、後進の選手に自分の理論を伝えている。その大きな成果の一つが、室伏広治選手と言えるだろう。長男である広治選手は、アテネオリンピック(2004年)で日本選手史上初めて陸上・投てき種目の金メダリストとなり、また日本選手権では父・重信さんを上回る19連覇中だ。
今回は“世界の鉄人”を育て上げた室伏重信さんに、息子・広治さんのこと、意外な過去、スランプの乗り越え方、今後の陸上界などについて伺った。

聞き手/西田善夫 文/山本尚子 構成・写真/フォート・キシモト

 

不滅の日本記録を破ったのは息子の広治選手

室伏広治の父親譲りの豪快なフォーム

室伏広治の父親譲りの豪快なフォーム

―― 陸上の投てき種目は、日本人選手にはあまり向かないと思われがちです。その中で室伏さんのハンマー投げの日本記録75メートル96は、当時、不滅と言われていましたね。そんな記録を14年ぶりに打ち破ったのが息子さんの広治くんでした。1998年4月のことです。自分の記録を、息子さんに抜かれるというのはどんな気分なのですか。

うれしいものですよ、本当に。私の記録は当時で世界ランク12、13番ぐらいでした。世界のレベルはそこからどんどん上がっていく。私を抜いていかない限り、次はないのですから。
陸上競技にとって、記録は宿命なのです。例えばサッカー、野球、柔道もそうですが、勝ち負けを競う競技であれば、相手に勝つことが大きな目的です。でも陸上競技は他の競技者に勝つことに加えて、自己の記録に勝つために自分自身を高め続けていかなければなりません。

―― そうだ、球技や対戦型の競技なら相手に勝てばいいですけれども。

球技だと、弱いと見られていたチームが勝つ可能性もあります。極端なことを言えば、双葉山と白鵬が相撲をとったらどちらが勝つのか、やってみなければわかりません。ほとんど勝てないと思っても、立ち会いで変化したり、フェイントがある。でも陸上にはフェイントはないんですよ。

広治選手は十種競技を勧められていた

―― 広治くんには、いろいろなところでインタビューをさせていただいてお世話になっています。好青年ですよね。

ありがとうございます。あまりに細くてハンマーには向いていないと思っていましたから、まさかあそこまで来るとは思いませんでした。中学3年生のときに一気に身長が伸びて183、184センチぐらいになったのに、体重は65キロですよ。

―― 中学校は、成田でしたか。

いえ、豊田市の保見中学というところです。陸上部には所属していましたが、身長がぐーんと伸びたときに成長痛がありまして、あまり無理させないほうがいいと医者に言われ、ほとんど練習していない状態でした。

―― 高校が成田高校ですね。

はい。ハンマーには向かないけれども、高校で何か一つチャンピオンになれればと思っていました。あの体形ですから、三段跳び、棒高跳び、短距離ならハードルといった跳躍系がいいだろうと。投てきをするならやりですね。1年生のときはオールラウンドでいろいろやっていました。

―― 結果的にそれがよかったのではないでしょうか。

そうですね。「その体形だと十種競技がいいんじゃないか」とよく勧められたんですよ。ただし当時、陸上競技を始めて間もないころでしたので、スタミナも無く、日本でも通用しないのではと思いました。

素質とは、体力・体形・センスの三位一体

―― 親御さんという立場で難しいかもしれませんが、広治くんの素晴らしいところを挙げてみていただけますか。

まず、素質があったということでしょう。素質とは、体力・体形・センスの3つの要素です。体力的な面では、スピードとジャンプ力があります。短距離選手に負けないようなスピードがあり、ジャンプは立ち幅跳びで3メートル60ほどいっていました。その並外れたスピードとジャンプ力が、軽量ながらハンマーを飛ばせているんだと思いました。

―― センスの部分ではどうでしょう。

センス、感覚はとくに重要な部分ですね。先天的なものもありますが、後天的に獲得できるのです。「スキャモンの発達・発育曲線」というものがあります。神経系統は3歳から伸び始めて、12歳ごろ、中学生世代でピークになるのです。ある意味、スポーツ界のみならず、音感教育にしても、日本の若者の成長はこの時期にかかっているというぐらい大変重要です。私は、息子が中学3年のときにハンマーを教えました。当人が「教えてくれ」と言い出したのです。

―― ほう、本人が。

「陸上をやりたいんだけど、ハンマーも教えてくれ」という言い方でした。もう中学の卒業間際でしたね。3カ月教えました。

広治さんが10歳のときハンマー投げの感覚を磨いた

実はそれより前、10歳のときに一度、ハンマーの手ほどきをしていたのです。

―― え、10歳からハンマーですか。

多少重量はあるのですが、おもちゃのハンマーです。それを私の見よう見まねで、めちゃくちゃに回していました。遊びの中でですから、当然、動きに問題がありました。そこで「しっかり教えるからやってみるか」と聞いたところ、本人が「やる」と答えたのです。ハンマーを持たせずに、フットワークとハンマーの動かし方について教えました。“空(から)ターン”というのですが、それを3日間、毎日5~6時間やって、本人はついてきましたよ。

―― はあ。

室伏由佳も円盤、ハンマーの選手として活躍

室伏由佳も円盤、ハンマーの選手として活躍

それが感覚の養成です。そのときから別人のような投げ方になりました。野球のイチロー選手を見ればわかるように、体力・体形が多少劣っていても、感覚面で優れていれば一流選手になれるのです。今でいえば、体操の白井健三選手ですね。高校生でしたっけ

―― はい、幼いころからトランポリンで空間の感覚を身につけたといいますね。

そうでしょう。私は大学生の指導をしていますが、感覚の面でいえば、大学生になってからでは遅いかなという気がしています。私は息子も、娘の由佳も、生後5、6カ月のときに手のひらに乗せてみたことがあります。そうすると、一生懸命バランスを取るんですよ。転がらないようにバランスを取っている感覚が私の手のひらに伝わってくる。無理は駄目ですが、実際はそのくらいから感覚を磨き上げることは可能ではないかとも思っています。

―― 感覚を磨くトレーニングのノウハウというのは、何かあるのでしょうか。

私は私なりに考え、大学のゼミで子ども達を集めて、マット運動やボールを使ってやっています。本当は、幼児期に集中的に感覚の訓練をする機関のようなものがあるといいのですけどね。

オリンピックと世界選手権での優勝はすごいこと

―― もっと息子さん自慢をしてください。

いやいや。自慢というより、これだけの結果を出してきたことがすごいなと思います。日本の陸上競技でオリンピック金メダリストは数えるほどしかいません。戦前では、アムステルダム大会(1928年)三段跳びの織田幹雄さん、ロサンゼルス大会(1932年)三段跳びの南部忠平さん、そしてベルリン大会(1936年)で同じく三段跳びの田島直人さんです。戦後だと、女子マラソンの高橋尚子さん(2000年シドニー)と野口みずきさん(2004年アテネ)、それから息子です。

―― そうか、6人しかいないんですよね。

そのうえ世界選手権でも優勝しているので、すごい、よくやったという思いです。ある意味、私は息子の記録を世界一だと思っているのです。

―― それはどういうことですか。

ドーピングがグレーゾーンだった時代がありますのでね。ハンマー投げで好記録として残っているのは、全部、1980年台に樹立されたものです。これ以上はあまり言いたくありませんが、私にとって息子の記録は世界記録でなくても偉大なものとして受け止めています。

時津風部屋に入門の予定だった

―― 室伏さんご自身は、相撲取りにあこがれていて、相撲部屋から声がかかっていたというのは本当でしょうか。

本当です。私は沼津市に住んでいました。1945年10月生まれなのですが、出生地は中国の河北省です。生まれてすぐ、その年の12月に日本に引き揚げてきました。

―― 生後2カ月でですか。

よく生きていたなと言われます。戻ってきたのは、両親の出身地の沼津でした。港町で神社があり、奉納相撲というのがあったんです。私は小さいころから相撲が強くて、中学3年の時点で相手になる人がいなくて、「青年の部」に出させられました。みんな漁師で、屈強な身体をした青年なのですが、そこで3人抜きで優勝したんですよ。

―― 中学生が大人を相手に?

当時で178センチ、体重も78キロぐらいありましたからね。時津風部屋に入門しないかという話が来ていました。その部屋には不動岩という力士がいたのですよ。

―― ああ、いましたね。ものすごく大きい力士。

2メートル10センチはあったんじゃないですかね。私の家に3、4回来られたのですが、脱いであった靴がそれはもう大きくて。私の足のサイズは28センチほどですが、運動靴ごとすっぽり不動岩の靴に入りそうでした。35センチはあったかなあ。ジャイアント馬場さん並みですよ。

―― 相撲での得意技は?

私は筋肉質で足腰が強かったので、得意な技以前に、同級生は相手になりませんでした。父が講道館の柔道四段、母も陸上の選手で短距離と砲丸をやっていて、そういう血を引いたのでしょうね。相撲勘もよかったらしく、何番とっても疲れませんでした。

ローマオリンピックで砲丸投げに興味を持つ

USA在外研修時代

USA在外研修時代
(後ろに写っているのが広治君、由佳さん)

―― 相撲取りになろうという決意は、その後もずっと持っていらしたのですか。

はい、持っていました。上京する列車まで決まっていたんです。とても行きたかったのですが、実はもう一つ、勧誘されていたことがありまして、それが陸上でした。といっても、陸上をやっていたわけじゃないんです。きっかけは1960年のローマオリンピックでした。テレビが普及し始めたころで、中学3年だった私もテレビで見ていました。

―― ローマ大会から、テレビ中継が始まりましたからね。

はい、いろいろ見ましたが、私は砲丸投げに興味を持ちました。オブライエン(米国)という選手が開発した、投げる方向に背を向けて後ろ向きにステップするあの投法が興味深くてね。

―― へえ。中学のとき、何か部活動はされていたのですか。

サッカーとバレーボールは1年生のときに始めたのですが、すぐ辞めてしまいあとはとくにやっていませんでした。それで中3になってローマオリンピックを見て砲丸投げが面白いと思って、家の近くで手頃な石を探して、砲丸投げの真似事をしてみたのです。ちょうど相撲大会で優勝したころのことです。

―― ほう。

日大三島高校時代の砲丸投げ

日大三島高校時代の砲丸投げ

そのうち、本物の砲丸をどうしても投げたくなって、中学校に行きました。陸上部はなかったのですが、大会のため生徒を集めて練習会のようなものをやっていました。そこで砲丸を借りて投げてみたら、先生に「おまえ、結構行っているぞ」ということで、2週間ほど練習して、沼津市の中体連の陸上競技大会に出場して、13メートルを超えて2位になりました。


わずか2週間の練習で砲丸投げと三段跳びで好成績

―― 優勝しないところが奥ゆかしいですね。

いや、勝った種目は他にあって、それが三段跳びでした。

―― え? いつ、やっていたのですか。

それも見よう見まねですよ。2週間の練習で、左足で踏み切って左足でホップし、次に右足でステップしてジャンプということを教わって、12メートル30くらい跳びました。両方とも練習を続けて記録は伸びていき、陸上でも勧誘されていたのです。

―― 三段跳びと砲丸投げという組み合わせはよくあるのですか。

いや、まずないでしょう。でも私は千代の富士さんとは面識がありませんが、千代の富士さんもなんと砲丸と三段跳びの両方をやっていたそうですよ。そして、陸上を続けたかったのに、嫌々相撲に進んだという話を聞いたことがあります。

―― 室伏さんと逆だったのですね。

千代の富士関も足腰の強い力士でしたものね。


相撲部屋への入門は高校を出てからでも遅くない

―― 相撲に進むことを辞めたのは、陸上のためですか。

いや、私は依然として相撲部屋に行こうと思っていて、父も了承してくれていました。でも祖母が占い師に聞いて「ケガをするぞ」と言われたり、いろいろな方と相談したようなのです。そのうちに陸上の勧誘が来て、相撲は高校を出てからでも遅くはないのではないかと思うようになり、3年間みっちりと陸上で足腰を鍛えて、そのあと入門すればいいかと思い直しました。

―― 相撲をあきらめたわけではなかったのですね。結局、日大三島高校に進学されました。ハンマー投げは高校で始めたのですか。

はい、体が大きいということで投てき種目を始めました。砲丸だけでなくハンマーも円盤もです。本格的な練習を始めると、まず走ることからですよね。もう疲れてしょうがなくて、嫌になってよくさぼりました。「相撲なら疲れないのに」と何度も思いましたよ。

―― なるほど。

その割りに、当時は円盤の回転投法も知らないのに、立ち投げで40メートルとか、砲丸も記録をどんどん伸ばしていきました。

相撲よりオリンピックのほうが面白いかもしれない

ニューデリーアジア大会(1982)で金メダル獲得

ニューデリーアジア大会(1982)で金メダル獲得

―― ハンマー投げはどうでしたか

さすがに難しかった。1回転でもなかなか難しくて、ようやく2回転ができるようになったのが夏休みごろ。それで試合に出るようになりました。高校生のハンマーの重さは12ポンドです。ボウリングの球の重さで考えていただくとわかりやすいでしょうか。45~46メートルという私の記録は、当時の静岡県で4,5番でした。1年生ではインターハイには出られませんでしたが、ちょうど静岡県で全国インターハイが開催されたので観戦に行ったら、優勝記録は55メートル。「これならすぐに超えられるぞ」と思いました。

―― そう思うところがすごいなあ。

秋になって3回転を覚えてからは、記録を一気に10メートル以上伸ばし、高校チャンピオンの記録を超えたんです。そのへんから陸上も少しは面白いなと思い始めましたが、気持ちはまだ相撲のほうにありましたね。

―― なんとまあ。

1年の冬にトレーニングで地道に力をつけ、2年のインターハイは60メートル台で優勝しました。その秋には64メートル台というそれまでの高校記録を大きく破る記録を出しました。このあたりからですかね。「ひょっとすると、相撲よりオリンピックのほうが面白いかもしれない」と思い始めたのは。

―― エリートしか味わえない気分ですね。

高3のインターハイでは、ハンマー、砲丸、円盤で優勝。その翌1964年が東京オリンピックというときでした。

日本大学の2先輩とともに練習

―― ではオリンピックを手の届く目標として意識し始めて、日本大学へ進学されたのですね。

はい、でも大学入学後は大スランプになって苦しみました。ハンマーの重さが12ポンドから16ポンドになると、飛距離は10メートル以上落ちるのです。
12ポンドだった高校時代は66~67メートルを投げていましたが、16ポンドになった途端、記録は56~57メートルになりました。東京オリンピックの出場標準記録は63メートルですから、私は全く出場できるレベルにありませんでした。そこで次に狙ったのが、私が大学を卒業した年に開催されるメキシコオリンピックでしたが、それも失敗しました。

―― 僕はね、室伏さんの試合の実況をしたことがあるのですよ。広島勤務時代に、織田幹雄記念国際陸上競技大会が新設されて。1967年4月29日だったと記憶しています。

ああ、はいはい。

―― 室伏さんと、リッカーミシンの菅原武男さんと東洋工業の石田義久さんの競演でした。陸上では、ともするとフィールド競技はトラック競技の脇役的扱いになってしまうのに、この3選手がそろうとメーンイベントになるのですよね。先輩アナウンサーから、「おまえのほうが出番が多いな」と茶化されましたが、強かったし面白かったですね。

ありがとうございます。

―― 「私は室伏広治選手のお父さんの実況をしたんだよ」と話すと、皆さんから「へえー」と驚かれますよ。室伏さんはライバルに恵まれましたね。

そうですね。菅原さんは7歳上で、石田さんは1歳上。お二人とも日大の先輩なので、同じグラウンドで練習していました。菅原さんはたしか、当時、日本記録保持者でした。東京オリンピックの優勝記録がクリムというソ連の選手で69メートル74。菅原さんの記録は67メートル台でしたので、世界に近いレベルにありました。投げるだけでなく、ダッシュ、ジャンプ、ウエートトレーニングなど、その練習方法はとても参考になりました。

―― お手本がすぐ近くにいて、ライバルがいて、いい環境だったのですね。

“技”を探求し壁を打ち破る

―― 1972年のミュンヘン大会で、念願のオリンピック初出場となりましたね。

私はミュンヘン、モントリオール(1976年)、モスクワ(1980年)、ロサンゼルス(1984年)と4大会の代表になりましたが、いちばん印象深いのがこの大会です。というのは、私はメキシコ大会への挑戦が失敗する前、練習量だけで乗り越えようと猛練習をした結果、3年もの間、スランプを味わいました。菅原さん、石田さん以上の練習量をこなしましたが、それだけでは駄目でした。“心技体”と言いますが、体力と精神力には問題はないと判断していました。

―― 足りないものは“技”ということですか。

そうです、そのことにようやく気づいたのです。まだビデオのない時代、私は菅原さんや石田さんの投てきフォームは毎日見ているのに、自分のフォームを見たことがありませんでした。当時、私の選手生活は半日、会社(大昭和製紙)で勤務をして、半日を練習に充てるという毎日でした。投てきフォームを8ミリカメラでいろいろな角度から撮影して、現像するのに1週間以上かかりました。それをグラウンドにも行かず、夜中までずーっと観察して、ひたすらハンマーのことを深く考えました。

―― 何か見えてきましたか。

「ああ、こんなゴツゴツしたフォームなんだな」と。無駄なところに力が入り、地面にしっかり力を伝えられていないことに気づきました。
自分のだけでなく、菅原さん、石田さん、メキシコオリンピック金メダルのジボツキー(ハンガリー)、銀メダルのクリム(ソ連)等のフォームの比較もしました。それから3~4週間、古いフォームと訣別する意味で、私はあえてハンマーに触ることをしませんでした。そんな時間をおくっていると、いろいろアイデアが閃いてきて、違う世界が見えてくる。そこでようやくグラウンドに行き、感じたままに体で表現してみることで、初めてフォームが改善されていったのです。

―― スポーツとはアイデアと閃きを体現することである、と。

はい、そうやって自分の壁を破り、そこからが私の真のスタートとなりました。

―― 大きな壁にぶつかり打ち破ったことは、貴重な体験だったのですね。

その経験がなければ、指導者としての私はいませんでしたし、息子や娘の指導もできなかったでしょうね。​

つまるところ「いかに楽に遠くへ飛ばすか」

―― その試行錯誤の中から、新たな投てきフォームが誕生したのですか。

ええ、若い選手は力だけに頼りがちですが、力まかせでは外国の体格の大きな選手たちに太刀打ちできません。ですから、もっと体の反動を上手に利用しようと思いました。体をひねってひねり戻す力と、体を移動しながら倒れていく力の利用。地面の反発力を高めるための姿勢と重心の位置。最後に、振り切るときに左半身をブロックして投げること。この4つを組み合わせながら技術の探究を進めていきました。

ロサンゼルスオリンピック(1984)での投てき

ロサンゼルスオリンピック(1984)での投てき

―― ほう、4つのポイントがあるのですね。

上りエスカレーターに乗りながらさらに歩いていくとか、ヨットで帆に風を受けて進むのと同じような、外部の力を上手に取り入れる理論が活用できるのではないかと思ったのです。
手や腕は、力を入れると疲れてきつくなっていきます。でも体幹はかなり使ってもきつさをあまり感じません。要は「いかに楽をして遠くへ飛ばすか」を追い求めればよいのですが、それはすなわち「いかに腕に頼らず体幹でコントロールするか」という結論に至ったわけです。

―― ふうむ、自分の持っている体力を無駄なく上手に転化させて遠くに飛ばす技術につなげる。それが最高の部分で融合すると新たな記録が生まれるということでしょうか。それが広治さんにも受け継がれたのですね。

陸上競技がどのスポーツよりも難しい理由

私はね、陸上競技はどんなスポーツより難しいなと思うんですよ。あるいは、民族の戦いだなと。だって走ることにおいては、完全に黒人選手が有利です。

―― それはそうですね。

北京オリンピックのときは、男子は100メートルに始まってマラソン、さらにハードルや3000メートル障害そしてリレーにいたるまで、優勝者は全部黒人選手でした。

―― たしか1960年のローマ大会で優勝したアルミン・ハリー(西ドイツ)は白人選手でした。

ミュンヘン大会(1972年)の優勝者ボルゾフ(ソ連)も白人選手でしたが、それ以外、圧倒的に黒人選手が有利ということですよ。その原因は、体形から来ていると思っています。頭が小さく、手足が長いことに加え、一番重要なのは、重心が前のほうに来ているのです。つまり、臀(でん)筋が発達しているのですよね。

―― 臀(でん)筋というのは?

お尻の部分の筋肉です。我々は絶えず重力に対して反発し行動しているのですから、足を一歩前に踏み出したときに、うまく前脚に重心が乗ることにより踏ん張る力が大きくなるのです。今、高校生の桐生祥秀選手に100メートル10秒切りの期待がかかっていますが、世界では10秒の壁を破った選手は何名いると思いますか。

―― うーん、どのくらいでしょう。

手動計時の時代に9人いて、電動計時になってからは89人ほどいます。それほど多くいるのに、白人選手は、フランスのクリストフ・ルメートルただ一人。黄色人種はおりません。ここを科学していかなければいけませんね。日本選手との違いを分析して補っていこうとすれば、大ざっぱに言えば重心を前にもってくるために背筋を強化することが考えられます。これが跳躍種目になると、黒人選手と白人選手の割合は同じぐらいなんですよ。

―― ほう。

棒高跳びは黒人選手は少ないですが、それ以外の種目は男女含めて半々ぐらいですね。白人選手が優位にある投てき種目になると、今度は白人選手が圧倒的に多いのです。

―― ああ、そうですね。なぜですか。

まず筋肉の量なんですよ。筋の横断面積1平方メートルあたり大体4~6キロの出力をします。筋肉の量が圧倒的に多いのは白人選手と黒人選手ですが、種目で差が出るのは、黒人選手は感覚のデリケートさが求められる種目は意外とよくないんです。リズム感は優秀なはずですが、競技においては少々雑なんですよ。ですからハンマーみたいに緻密さが求められる種目は難しいようなのです。

―― ああ、なるほど。

円盤投げでは、世界のトップクラスは平均身長2メートルほどもある白人選手です。何よりリーチが長い。そう考えると、黄色人種は不利ですよね。

―― 心と技がそろっても体格面のハンディキャップは補いきれない部分がある。そこが陸上競技の難しさなのですね。

4回転投法に取り組んだのは30歳を過ぎてから

―― 室伏さんが3回転から4回転に切り換えたのはいつごろでしたか。ずいぶん話題になりましたよね。

ニューデリーアジア大会(1982)での投てき

ニューデリーアジア大会(1982)での投てき

モントリオール大会(1976年)の1年前ですから、30歳を過ぎてからです。私は70メートルを初めて超えたころは、まだ3回転投げだったのですが、コンスタントにあと2~3メートル伸ばしたいと考えて取り組みました。菅原さんも、1964年に東京オリンピックに出場した岡本登さんもやってはいましたが、サークルから足が出てファウルになるリスクが避けられませんでした。私は回転しろと言われれば10回転でもできますが、それだと投げた瞬間にスピードが落ちてしまうのです。4回転の技術は、時間をかけて確立していきました。

―― 39歳にして日本記録を更新できた秘訣はそこにあったのですね。


ハンマー投げを通して自らを高めていく喜び

―― 40歳でアジア大会5連覇を果たしたときはもう満身創痍だったそうですが、そこまでハンマー投げを続けていらした喜びはどこにあったのでしょう。

私のころはアマチュアでしたから、ハンマー投げはお金にはなりませんでした。地位や名誉のためでもなく、ただひたすらハンマーを通して自分を高めていく喜びを突き詰めていましたね。

―― きょうのお話の中にもたくさん出てきましたが、調べてみると室伏さんにはたくさんの明言があるのですよね。
「先を行くライバルがどうしてうまくいっているか分析して自分のものにする」、「スランプは大切なこと」、「指導者は教え子に考えさせろ」、このあたりはきょうのお話の中で語っていただけた部分でしょう。もう一つ、「昔を振り返らず、先を考えていく」というのもあります。

ああ、物事すべてがそうですね。私は前しか見ていません。過去の出来事で参考になる部分は活用します。でも過去を振り返ることはしません。ですから、私にはストレスはあまりないですね。振り返らないから後悔もしない。これからの生き方、ハンマーの動きをこうすればまだいくんじゃないかなど、ひたすら前を見て次のことを考えるのが面白いのです。

広治選手の将来

―― 広治くんの話に戻りますが、私は将来的に彼には陸上界にとどまらず、日本のスポーツ界を率いていくリーダーシップを期待しているのですが、父親の目から見ていかがでしょう。

どうなんでしょう。どんなかたちであってもスポーツに携わっていくことは間違いないと思うんですね。私としてはもう無難に無理せず生きてもらいたいところですが、まあ、本人には野心があるかもしれません。私はそういうことがあまり好きではないので、よくわかりません。

―― IOC(国際オリンピック委員会)委員就任のチャンスもありますし。いろいろなインタビューを聞いていると、広治くんは意外とユーモアがありますよね。非常に魅力あふれる面白さがあります。

ユーモラスというのは彼本来のものですね。ただ世界のトップになると言葉を選ばなければいけないということを、本人は身に染みて感じているのでしょう。常にメディアが注目していますしね。

―― 言葉を選んでいるというのはよくわかります。彼の言葉の選び方は、何を話したいかがよく伝わってきます。これは指導者に求められる優れた資質だと思いますね。

公的機関を活用してのセカンドキャリアを

広治君と共に日本陸連勲功章を受章

広治君と共に日本陸連勲功章を受章(2012)

―― アスリートのセカンドキャリアについて、室伏さんはどのようにお考えですか。

とても重要なものです。でも我々のころより状況は悪くなっていると感じています。

―― と言いますと?

筋力のピークは、一般的に男性は28歳、女性は26歳ぐらいでやってきます。大学を卒業した後ですよ。記録を伸ばすには、大学卒業後に頑張る必要があるということです。ただし、投てきの練習は5~6時間かかります。投げて、ウエートトレーニング、ジャンプ、ダッシュ、さらに休息をとることも大事ですから、定時勤務の生活は無理なのです。しかし、仕事は絶対に必要です。競技だけに偏った生活をしていると社会性を失ってしまいます。でも現状を見ると、陸上競技は長距離の選手以外、なかなか就職できません。長距離の場合は駅伝がありますから就職口はあります。それ以外の種目は、日本記録保持者ですら難しいんですよ。私の現役時代に比べても、はるかに状況はよくないでしょう。

―― スポーツを取り巻く環境は悪くなっていると。

陸上だけに限ったことではないかもしれません。アスリートの能力は特殊なものです。一般の仕事になじむのは大変だと思います。ですから、企業が担っていた部分をほかに転化していくことを考えたほうがいいのではと考えています。

―― 例えば?

役所などに勤めることも一つの手じゃないかと思うんですね。本人はもちろん努力しなくてはなりませんが、消防署、警察署といったところも考えられます。

―― つまり浮き沈みのある私企業ではなく、国や市町村のいわゆる公的機関がよいのではないかと。

そうです。役所関係であれば、引退後、地元に戻って、仕事をしながらスポーツの指導をすることも考えられるでしょう。自分の特性を活かせるそういう場で働くチャンスを設けていただくことが、一番ありがたいなと思っています。

―― 2020年の東京オリンピック・パラリンピック大会を機に、変わっていけるといいですね。

生涯スポーツの習慣を定着させるプログラム

―― ではスポーツ行政の面で、今後あるべき姿についてはいかがでしょうか。

人間は他の生き物と同様に、刺激に対して反応します。徐々に反応していき、適応していくことでレベルアップを図るのです。スポーツは運動刺激です。我々がスポーツによって高めていくところは、肉体と精神、つまり体と心しかありません。この2つに刺激を与え続けていくことが必要なのです。これらが実現可能な環境を整備することです。

―― つまり、スポーツ環境ですね。

そうです。適応能力は加齢によって鈍化する傾向があります。このままにしておくと、今後、日本の医療費はさらに莫大になってしまうでしょう。ですから目、鼻、皮膚、筋肉、循環器・呼吸器、すべての器官、神経系統に刺激を与える生涯プログラムを、このオリンピックを機に構築できるといいと思いますね。
ハコモノの整備だけに終わらせず、生涯スポーツ習慣を定着させる。高齢社会において、活動的な高齢者を増やしていく。私はお年寄りには能力もあるし、仕事を続けていけるのならそれがいいと思うんですよ。

―― アクティブに暮らしているうちはいいですが、足腰が弱って動けなくなるとつらいですからね。

そうです。今、高齢者でリハビリをしている方は多くいらっしゃいますが、それ以前にリハビリの必要が生じないように鍛えておく方向にシフトすべきですね。

スポーツの刺激で向上心を呼び覚まそう

コーチとしてスタンドで見守る(2008北京オリンピック)

コーチとしてスタンドで見守る(2008北京オリンピック)

陸上に絞っていえば、日本ではサッカーや水泳はクラブスポーツとして成立しています。でもだからといって、みんなが野球やサッカーといった人気スポーツに流れていっていいのだろうかという視点が重要でしょう。

―― 人は千差万別ですからね。

だからこそ、各人の体力・体形・センスに合った競技に進める土壌がもっと欲しいのです。体操でいい選手がどんどん出てきているのは、システムづくりがうまくいっているからだと思います。

―― 競技団体の在り方というところに落とし込んでいくとどうなるでしょうか。

各競技団体とも厳しいものがあると思いますよ。スポーツはお金という価値観だけでははかれないものです。スポーツの楽しさや向上心をいかに植え付けていくのか。テレビ中継は野球やサッカーばかりですが、もっといろいろな分野にスポットを当ててもらうためにはどうしたらよいのか。

―― やはりテレビの影響は大きいでしょうね。

目から入る刺激ですから、何かしらのスポーツを始めるきっかけになるケースが多いですよね。そのほか、一人ひとりの経済的負担についても最小限で済むような配慮を考えていかないと。

刺激によって自分を高めることは生きがいにつながる

―― スポーツによって心を鍛える、つまり人間教育とスポーツの関係についてはどうお考えですか。

その人を高めるためのスポーツで、体罰は絶対に駄目です。それと押しつけの指導も駄目。私は息子を指導したとき、ある程度までぐーっとリードしてレベルアップさせたことがありますが、どこまで上げていくかの設定を間違えてはいけません。やり過ぎてしまうケースが往々にしてあるわけです。
とくにスポーツのトレーニングにおいては、意識付けが明確でないとあまり効果は上がりません。今はこういう目的でやっている、これをやればこう伸びるということを選手に伝えるステップは不可欠ですね。

―― やらされるトレーニングではなく、理解し納得して行なうのですね。

ええ。人間には向上心があるので、刺激によって高まりたいという願望があります。それはスポーツに限らずですね。
自分が高まることによって、喜びや幸せを感じて、さらにそれが自信になり、最終的に生きがいや生きる活力源になる
のです。

コーチとしての鋭い視線

コーチとしての鋭い視線

将来のビジョンを明確に描き出そう

―― 2020年東京オリンピック・パラリンピックに期待することは、ズバリ何でしょうか。

スポーツだけでなく、文化も政治も経済も、すべてが転換できるチャンスになるでしょう。刺激に自分を適応させればよいのですから、「こういう人間になりたい、こうありたい」と思えば、心も体もそうなれるのです。
問題なのは、政治や経済もそうかもしれませんが、目標を上手に立てられなくなっているのではないかということです。目標を持つと人間は強い。その方向に真っ直ぐ注力できますからね。ですから、オリンピックのことだけではなくて将来のビジョンをクリアに描き出すチャンスだととらえています。

―― 2020年以降のことも含めて考えるのですね。

それができたら、日本は世界をリードできる存在になれるでしょう。あらゆる分野でチャンスが生まれると思いますよ。

―― いやあ、面白いお話をたくさん伺えました。どうもありがとうございました。

  • 室伏重信氏 略歴
  • 世相
1911
明治44
大日本体育協会発足。わが国最初の陸上競技界の組織
1912
明治45

ストックホルム五輪に三島弥彦(男子100m、200m)金栗四三(男子マラソン)が日本から初参加

1913
大正2
第1回全国陸上競技大会(後の日本選手権)を陸軍戸山学校で開催           
1924
大正13
パリ五輪男子三段跳で織田幹雄が全競技を通じて日本人初の入賞となる6位           
1925
大正14
全日本陸上競技連盟が創設           
1928
昭和3
第9回IAAF総会で大日本体育協会に代わり全日本陸上競技連盟が、わが国の陸上競技界統括団体として加盟
アムステルダム五輪男子三段跳で織田幹雄が金メダル(全競技を通じて日本人初)
女子800mで人見絹枝が銀メダル(全競技を通じて日本人女子初)獲得
1929
昭和4
競技場の公認、器具、機材の検定制度発足         
1932
昭和7
ロサンゼルス五輪男子三段跳で南部忠平が世界新記録で金メダル獲得           
1936
昭和11
ベルリン五輪男子三段跳で田島直人が世界新記録の金で日本人同種目3連覇           
1941
昭和16
東京・お茶の水に岸記念体育会館が完成           
1945
昭和20
戦争で中断されていた本連盟の組織復活
日本陸上競技連盟と称す    
           
  • 1945室伏重信氏、中国河北省に生まれる
  • 1945第二次世界大戦が終戦
1946
昭和21
第30回日本選手権兼第1回国体(国体は以降毎年分離開催)を京都西京極競技場で開催 
  
  • 1947日本国憲法が施行
1950
昭和25
IAAF総会(ブリュッセル)で日本の国際復帰承認
第1回全国高等学校駅伝競走(大阪)、広島の世羅高校が優勝  

  • 1950朝鮮戦争が勃発
1951
昭和26
ニューデリーで第1回アジア競技大会開催、33種目中20種目に優勝  
         
  • 1951安全保障条約を締結
1955
昭和30
日本陸連、創立30周年

秩父宮章が制定され、三ツ沢で第1回受章者の平沼亮三他70名に秩父宮妃殿下から授与。
平沼亮三がスポーツ界初の文化勲章を受章

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1958
昭和33
第3回アジア競技大会、国立競技場を中心に開催
1961
昭和36
東京五輪への選手強化のために日本陸連、実業団、学連、高体連、中体連の5団体が5者協定を結ぶ
1964
昭和39
日本陸連事務局がお茶の水から渋谷区神南に移転

東京五輪開催。男子52名、女子16名が参加、円谷幸吉がマラソンで戦後初のメダルとなる銅メダル獲得

  • 1964東海道新幹線が開業
  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1971
昭和46
日本陸連が文部省より財団法人としての認可を受ける
           
  • 1972室伏重信氏、ミュンヘン五輪出場
  • 1976室伏重信氏、モントリオール五輪出場
  • 1973オイルショックが始まる
  • 1976ロッキード事件が表面化
1977
昭和52
日本陸連がアマチュア規則を改正し、ナンバーカード広告を承認。
10月、国内史上初の「CMゼッケン」が登場

  • 1978日中平和友好条約を調印
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催。
スポンサーの名称を冠する初の「冠(かんむり)大会」となった           
1979
昭和54
第1回東京国際女子マラソンが初のIAAF公認の女子マラソン大会として開催 
          
  • 1980室伏重信氏、モスクワ五輪代表に選出される
  •        日本はJOC総会で不参加を決定
  • 1982東北、上越新幹線が開業
1983
昭和58
第1回都道府県対抗女子駅伝が京都西京極競技場で開催、千葉県が優勝
世界初の国際駅伝競走となる第1回横浜国際女子駅伝を開催。ソ連が優勝
第1回世界陸上競技選手権大会(以下、世界選手権)がフィンランドのヘルシンキで開催 
          
  • 1984香港が中国に返還される
  • 1984室伏重信氏、ロサンゼルス五輪出場
  • 1984室伏重信氏、日本記録を更新
1985
昭和60
第1回ワールドカップマラソン、広島で開催

  • 1986室伏重信氏、アジア大会5連覇
1987
昭和62
IAAF評議員会にて第3回世界選手権の開催地を東京に決定           
1988
昭和63
第1回東芝スーパー陸上を国立競技場で開催           
1991
平成3
IAAF総会が東京で開催され青木半治陸連会長がIAAF副会長に選出される
第3回世界選手権を東京で開催。
男子マラソンで谷口浩美が金メダル獲得。
世界新記録が3種目で誕生           
1992
平成4
バルセロナ五輪女子マラソンで有森裕子が人見絹枝以来日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得           
1993
平成5
第4回シュツットガルト世界選手権女子マラソンで浅利純子が金メダル獲得。五輪・世界選手権を通じて日本人女子初の金メダル           
1995
昭和7
日本陸連創立70周年
           
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタ五輪女子マラソンで有森裕子が銅メダル獲得           
1997
平成9
福岡で日本初のIAAFグランプリファイナルが開催           
1999
平成11
第7回世界室内選手権を前橋で開催
2000
平成12
シドニー五輪女子マラソンで高橋尚子が金メダル獲得
日本陸上界女子選手として初の金メダル           
2001
平成13
第8回エドモントン世界選手権男子400mハードルで為末大が男子トラック種目初の銅メダル、男子ハンマー投で室伏広治が投てき種目初の銀メダル獲得
2003
平成15
第9回パリ世界選手権男子200mで末續慎吾が男子短距離種目初の銅メダル獲得
2004
平成16
アテネ五輪男子ハンマー投で室伏広治が投てき種目初の金メダル。女子マラソンで野口みずきが金メダルを獲得し、日本女子マラソンは五輪2連覇           
2005
平成17
第10回ヘルシンキ世界選手権男子400mハードルで為末大が銅メダル獲得。
エドモントンから2大会ぶり、トラック競技で同一選手2個のメダルは日本人初           
2006
平成18
第34回世界クロスカントリー選手権がアジアで初めて福岡市で開催。
女子がシニアとジュニアの団体銅メダル獲得           
2007
平成19
第1回東京マラソン開催。エリートランナーと9万人を超す応募者から抽選で選ばれた市民ランナー3万人が参加
猛暑の大阪で第11回世界選手権開催、女子マラソンで土佐礼子が銅メダル獲得   
2008
平成20
北京五輪男子4×100mリレーで日本(塚原直貴、末續慎吾、高平慎士、朝原宣治)が3位となり、男子トラック種目初の五輪銅メダル獲得  
         
  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
第12回ベルリン世界選手権男子やり投で村上幸史が同種目日本人初の銅メダル獲得           
2010
平成22
この年から全国都道府県対抗男子駅伝では天皇盃、女子駅伝では皇后盃がそれぞれ優勝チームに授与された
青木半治名誉会長が94歳で逝去
第13回世界ジュニア選手権男子200mで飯塚翔太が日本人男子初の金メダル獲得
広州で第16回アジア競技大会開催女子100・200mの福島千里が2種目金メダル獲得           
2011
平成23
公益財団法人へ移行
第13回テグ世界選手権男子ハンマー投で室伏広治が男女マラソン以外での種目では日本人初となる金メダル獲得           
2012
平成24
ロンドン五輪、男子マラソンで中本健太郎が6位入賞男子ハンマー投で室伏広治が銅メダル獲得