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日本のラクビーを支える人びと
第76回
「すべてを教わった」ラグビー一筋の人生

松尾 雄治

 「ラグビーは社会の縮図」という考えを持つ父親のもと、小学生の時からラグビーが生活の中心だったと語る松尾雄治さん。大学3年の時に監督の指示のもと、スクラムハーフ(パスのスペシャリストで、スクラムの中間にボールを入れる役割を担うポジション)からスタンドオフ(パス、キック、ランでゲームをコントロールしゲームで司令塔の役割を担うポジション)へとかわり、その後、「日本ラグビー史上最高のスタンドオフ」と呼ばれるほどの名選手となりました。大学卒業後、9年間在籍した新日鐵釜石では7連覇を含む8度の日本一を達成しました。

「ラグビーからすべてを教わった」と語る松尾さんのラグビー人生を振り返っていただきました。

聞き手/佐野 慎輔  文/斉藤 寿子  写真/松尾 雄治・フォート・キシモト

小学生の時から"ラグビー漬け"の日々

幼少の頃からラグビーボールと戯れていた

幼少の頃からラグビーボールと戯れていた

―― 新日鐵釜石での松尾さんのご活躍は今も語り草となっていますが、そもそも松尾さんがラグビーを始めたきっかけはお父さんだったそうですね。

そうなんです。私の父親もラガーマンでして、「ラグビーというのは、社会の縮図なんだ。一人でやっているわけではなく、みんなでやるもの。それがラグビーなんだ」ということをよく言われました。実際、ラグビーで最初に教わったのは「一人では何もできない」ということでしたね。

―― 子どもの頃から、ラグビーが中心の生活だったのでしょうか?

はい、そうでした。ラグビー熱の父親のもと、もう生活の中心というよりも、生活のほとんどすべてがラグビーだったと言っても過言ではありませんでした。父親には極端な言い方をすれば、「勉強はしなくていいから、とにかくラグビーを一生懸命やりなさい」と言われていました。今の時代からすれば、ビックリしますよね(笑)。でも、私の父親は大まじめにそういうことを言う人でしたから、学校の先生も大変だったと思います。私も本当に勉強そっちのけでラグビーばかりしていました。

―― お父さんの言うことをよく聞く、素直な少年だったんですね。

素直というよりも、とにかく父親は頑固で、僕にとっては怖い存在でしたからね。父親は自分なりの哲学を持っていて「鉛筆を持って机に向かうよりも、ボールを持ってグランドを駆けまわることの方が大事なんだ」と。「ラグビーは人として大切なことをすべて教えてくれる」というのが父親の考えでした。親戚が集まる席でも、「勉強ができる子どもは勉強すればいい。でも、勉強のできないオレから生まれたうちの子どもに勉強でいい大学に行けというのは到底無理なことだし、本人にとっても酷なこと。うちの子どもはオレから生まれたからには、ラグビーしかないんだ」と言っていましたね。まぁ、そういう父親に育てられましたから、僕には生まれた時からラグビーしかなかったんです。

ラガーマンであった父(後列右)と。前列左が雄治、右が弟の雄吾、後列左は叔父

ラガーマンであった父(後列右)と。前列左が雄治、右が弟の雄吾、後列左は叔父

ただ、振り返ると、父親の言っていることも「そうだな」と思うことも少なくありませんでした。例えば、「人間は一人で生きているわけではないのだから、友だちの気持ちを思いやったり、周りへの配慮がとても大切で、それはラグビーが教えてくれる」と。そういう人間性を高めるにはラグビーが一番だ、というのが父親の考えでした。

―― 小学生の時にラグビーを始めて、31歳で現役引退をするまでラグビー一筋の人生を歩まれたわけですが、その間、ラグビーが嫌いになったり、やめたいと思ったことはあったのでしょうか?

それは、なかったですね。というのも、私の父親はラグビーに対しては厳しかったけれども、ラグビーの練習で手を抜かない限り、そのほかのことは自由でした。ですから、それほどがんじがらめに縛られた生活をしていたわけではなかったんです。ただ、ラグビーの練習をさぼったり手を抜くことだけは、絶対に許されませんでした。

―― ラグビーは楽しかったですか?

正直に言えば、楽しいという気持ちではやっていませんでしたね。楽しいと思えたのは、引退する最後の3年くらいかなぁ。新日鐵釜石で監督兼任だったのですが、自分がチームを指揮するようになって初めて「あぁ、ラグビーっていろんなやり方があるんだなぁ。楽しいものなんだなぁ」と感じることができました。そういう気持ちで最後、引退することができて良かったなと思います。

日本代表戦で華麗なステップを見せる

日本代表戦で華麗なステップを見せる

―― それまでは楽しさではなく、どんな気持ちでラグビーをしていたのでしょうか?

やらされていると言うと語弊があるかもしれませんが、「もう自分にはこの道しかないんだ」という気持ちでやっていました。

―― 松尾さんの華麗なステップを見ていると、楽しくラグビーをやっているように思えました。

皆さん、そういうふうに言ってくださるのですが、実際はまったく違いました。もちろん、好プレーをしてみんなに「ナイスプレー!」と言われたりしたときには嬉しいという気持ちはありましたよ。ただ常に心にあったのは「負けたらどうしよう」とか「巧いプレーができなければ、みんなに示しがつかない」とか、そんなことばかりだったんです。でも、そういう時代だったということもあったと思います。私よりも少し後の世代、同志社大学や神戸製鋼でプレーし、日本代表として活躍した平尾誠二くんの時代には「楽しさ」というのもあったと思いますが、私たちの時代はとにかく決められたことを組織としてしっかりと遂行するということしかありませんでした。

日本代表キャップ24を保持

日本代表キャップ24を保持

人間性を"鍛えられた"高校時代

―― 松尾さんに多大なる影響を与えたお一人として、私立目黒高校の梅木恒明監督の存在は欠かすことはできませんが、そもそも2年生の時に成城学園高校から目黒高に転校した理由は何だったのでしょうか?

正直に申しますと、私は成城学園を退学となったんです。というのも、「ラグビーさえしていれば、勉強はしなくていい」というような父親でしたから、私はその言葉通り、学校には放課後のラグビーの練習の時にしか顔を出さず、ろくに授業も受けていなかったんです。それで退学となりまして、どこにも行くところがなくなってしまいました。

仕方ないので、父親と練習をしていたんですね。とはいえ、2人ですから、走るくらいしかできないんです。父親は「自分もつい熱くなって、学校に『退学とは上等だ!』と啖呵をきってしまったけれど、よく考えてみれば学校に行かないとラグビーの練習さえもできないんだな」と思ったそうです。そんなふうにまったく行くあてがなくて困っていたところに、父親の高校時代の友人から連絡がありまして、その方が当時明治大学ラグビー部監督を務めていた北島忠治先生の本を読んだそうで、「そこに『去る者追わず、来る者拒まず』と書いてあったから、一度北島先生のところに行ってみろ」と言ってくれたんです。

高校ラグビーの聖地“花園ラグビー場”では毎年熱戦が繰り広げられる

高校ラグビーの聖地“花園ラグビー場”では毎年熱戦が繰り広げられる

それで父親と一緒に明治大のグランドに行ったのですが、実は北島先生と父親は同じ旧制・成城高等学校の同級生でラグビー部では一緒にスクラムを組んだ仲だったんです。北島先生も父親のことを覚えてくれていて、父親が訳を話したところ、北島先生が私にこう言ったんです。「本当に、毎日一日も休まずに練習に来れるか?」と。私が「はい」と答えましたら、北島先生が「よし、わかった」と。それで、翌日から私は自転車で明治大の八幡山グランドに通って練習するようになったんです。

そしたら、そこに目黒高のラグビー部が毎日のように練習に来ていたんですね。それで北島先生が、当時目黒高の監督を務めていた梅木先生に私を紹介してくれまして、「ラグビーはそこそこできるから、なんとかオマエのところで世話してくれないか」と頼んでくださったんです。梅木先生も北島先生からのお願いを無下に断ることもできなかったんでしょうね、「はい、わかりました」と即答でした。まるでドラマのような話ですが、試験も面接もなくて、その場で本当に目黒高への転校が決まったんです。その日、北島先生に「松尾、明日から目黒に行きなさい」と言われて、そのままグランドから合宿所となっていた梅木先生のご自宅に行きました。それ以降、卒業するまで実家には戻りませんでした。家族からすれば驚いたでしょうね。朝、練習に行ったきり、そのまま2年間も帰ってこなかったわけですからね。

松尾雄治氏(インタビュー風景)

松尾雄治氏(インタビュー風景)

―― 梅木先生は、どのような指導者だったのでしょうか。

「鬼の梅木」と呼ばれていましたが、本当にその通りでした。勝負に厳しかったことはもちろんですが、梅木先生がそれ以上に注力されていたのは生徒たちの人間形成でした。私のような、いわゆる不良で、どこにも行くあてがないような生徒たちばかりでしたが、その生徒を更生させることに一生懸命だったんです。「自分なんか」というような腐った心を、ラグビーで更生させるんだと。当時は厳しさしかわかりませんでしたが、今は本当に素晴らしい方だったなと感謝しています。やり方自体は、確かに賛否両論あったかもしれませんが、でも私は「人を育てる」という信念を持って、どこにも行くところがなかった私たちを日本一のラグビー部に導いてくださった梅木先生の情熱は本当に尊敬しています。誰にでもできることではありません。

―― 松尾さんは目黒高に転校してすぐにレギュラーを取られたんですか?

はい、すぐに試合に出させてもらっていました。ただ、「まぁまぁ、できるな」というくらいのもので、体力も技術も、先輩とは雲泥の差がありました。目黒高はすでに日本一になっていた強豪校でしたからね。自分とのレベルの差を思い知らされました。

―― 高校時代の一番の思い出は何ですか?

思い出といっても、もう辛くて厳しい練習のことしかないですねぇ。練習が終わると、「あぁ、今日も生きて帰れるな」と思う毎日でしたから。私が3年生になる頃には、同じ学年で残ったのはたった3人でした。それほど練習が厳しかったんです。ですから、その後の大学の練習は高校時代からすれば、楽で楽で仕方なかったですね。

人間性を"磨かれた"大学時代

明治大学時代の恩師北島忠治監督

明治大学時代の恩師北島忠治監督

―― 高校卒業後は、明治大に進学しますが、北島先生はどのような指導者だったのでしょうか?

北島先生は、あまり決めごとをしない方で、とても自由なラグビーでした。先生が口を酸っぱくして言っていたのは「正々堂々とやること」。とにかくまっすぐな気持ちでラグビーをやりなさい、ということだけでした。ですから、勝つためにはどんな手段もいとわないというようなことは絶対にありませんでした。

私たちが「こんなふうにしたら勝てるんじゃないか」というような戦略の話をしても、先生はまったくいい顔をしなかったですね。例えば、私の時代にはボールが一つしかなくて、今のようにすぐに代えのボールを用意するなんてことはありませんでしたので、故意に見当違いのところにボールを大きく蹴って、時間を無駄に使うなんてこともよくありました。ほかにも「この角度なら、レフリーには見えない」ということを研究することも、勝つための常とう手段だったんです。でも、北島先生は絶対にそういうことは認めませんでした。「そんなのはラグビーじゃない」と。

満員の観客を集めた旧国立競技場での伝統の早明ラグビー

満員の観客を集めた旧国立競技場での伝統の早明ラグビー

―― 北島先生のご指導で、印象に残っていることはどんなことですか?

ある日、北島先生にこんな話をされたことがありました。チームの中には、4年間一度も試合に出場できずに引退していく選手も多くいます。でも、そういう選手たちが卒業後に社会に出て、数年後に北島先生の目の前に現れた時に「あぁ、学生の時のままだなぁ」と思うことがよくあるそうなんです。そういう選手は、大学時代、一度も公式戦のユニフォームに袖を通すことができなくても、決して腐ることなく、一度も練習を休まずに、ただひたすらボールを追いかけていたと。「松尾、そういう選手こそ、本当のラガーマンなんだ。オマエたちは確かに努力をしてレギュラーとして活躍しているかもしれない。でも、卒業後に必ず彼らのような選手に教えられることはたくさんあるからな」と言われた時には、ドキっとしましたね。

―― ラグビーをするということは「人間性」を養うことなんだと。

そういうことですよね。勝敗だけではないんだと。実際、北島先生は卒業後に挨拶に行くと、どの選手にも私たちレギュラー陣と分け隔てなく接しておられました。「ラグビーで成功した者がすごいわけでも偉いわけでもないんだと」ということを北島先生から教えていただいたんです。真の教育者とは、北島先生のような方を言うのだと思いますね。

日本代表の中心選手として活躍

日本代表の中心選手として活躍

―― 今では松尾さんと言えば、日本を代表するスタンドオフとして有名ですが、実は大学2年生までは、ずっとスクラムハーフでしたね。

そうなんです。当時はスクラムハーフとして日本代表にも選ばれていましたから、3年の時に代表の試合を終えて帰ってきて、いきなり北島先生にスタンドオフへの転向を命じられた時は驚きました。そんな簡単にできるわけがないと思いましたし、何よりスクラムハーフとしてなら世界にも通用するというような絶対的な自信がありましたからね。将来的には海外チームでプレーすることも可能なんじゃないかと思っていました。

―― ショックも大きかったのでは?

そうですね。スクラムハーフとして世界で活躍するという夢が叶わないなと。ただ「そうか、チームのために自分はあるんだな」ということを改めて考えさせられた出来事でした。自分をここまで育ててくれた北島先生に期待されてのことなのだから、自分の夢を捨ててでも、しっかりと役割を果たさなければいけないと思ったんです。

変化し続けたことにあった新日鐵釜石の強さ

新日鐵釜石時代(右)

新日鐵釜石時代(右)

―― 大学卒業後、東京に拠点のあるチームをはじめ、いろいろなところから誘いがあったと思いますが、わざわざ東北の新日鐵釜石に入社したのは、どのような経緯だったのでしょうか?

いろいろなチームからお誘いを受けましたが、新日鐵釜石のラグビーへの純粋な気持ちに魅かれたのが一番でしたね。大学時代、毎年6月に釜石に合宿に行くのが恒例となっていまして、その頃から新日鐵釜石の選手たちとも交流があったんです。本当に素朴で、「なんでこんなにラグビーが好きなんだろうか?」と思ってしまうほどラグビー愛に溢れているチームという印象がありました。それと、大学4年の時には「自分はラグビーに骨をうずめる」という覚悟をしていましたから、最もラグビー漬けになれる場所がいいなと思っていたんです。それで、すぐに遊びに行きたくなってしまうだろう都会ではなく、遊ぶようなところがない釜石でラグビーに没頭しようと。

ただ、当初は社会人でラグビーをやるのは3、4年くらいのつもりでいました。あの頃は、大卒の選手はみんな、3、4年で引退するのが当たり前でしたからね。ですから、3、4年頑張って、その後はそのまま新日鐵で鉄鋼マンとして働くなり、あるいは東京に戻って家業を手伝うなりしようと考えていたんです。まさか9年もプレーするなんて思いもよりませんでした。人生わからないものですね(笑)。

新日鐵釜石時代。日本選手権で学生日本一の同志社大学を破り3連覇(1981年)

新日鐵釜石時代。日本選手権で学生日本一の同志社大学を破り3連覇(1981年)

―― 松尾さんが入社した1年目に、新日鐵釜石は日本選手権で初優勝しました。

そうなんです。しかも相手は大学時代の最大のライバルだった早大でしたから、嬉しかったですね。その翌年はトヨタ自動車に負けてしまったのですが、3年目からは7連覇しました。

―― 勝ち続けるということは、本当に大変なことだったと思います。

大変でしたね。トップに立てば、当然相手チームから研究されますので、それでも勝てるようにしなければいけないわけです。そのためにはどんどん自分自身を磨かなければいけないし、チームも変化して、さらなる強化を図っていかなければならない。実際、私へのマークも厳しくなっていきましたし、ほかの選手もそれまでは簡単に抜けていたのが、相手が研究してきたことによって、なかなか抜けなくなっていったりもしました。でも、そこで今度はそれまでほとんどマークされていなかった選手が活躍したりしたんです。停滞しなかったことが、勝ち続けられた最大の要因だったと思います。

日本選手権大会決勝の同志社大戦で相手を翻弄

日本選手権大会決勝の同志社大戦で相手を翻弄

―― そうした中で、松尾さんの華麗なプレーはラグビーファンを魅了し続けました。特にタックルをしに来た相手に対して、フッとタイミングをずらして、スッと狭いところを抜け出していくあのステップはすごかった。あの独特のステップは、どのようにして体得したものだったのでしょうか?

理屈ではなかったと思いますね。子どものころからラグビー一筋でやってきた中で、自然と身に付いた技術だったと思います。

―― 意外にも、それほど足が速かったわけではなかったとか。

まったく速くはなかったですよ。むしろ遅い方だったと思います。私よりも足が速かった選手はごまんといました。

ラグビーとの決別を覚悟した"7連覇"秘話

新日鐵釜石時代。日本選手権で7連覇を達成試合後胴上げされる。(1985年)

新日鐵釜石時代。日本選手権で7連覇を達成試合後胴上げされる。(1985年)

―― 現役最後の2年間は、新日鐵釜石の監督を兼任されました。グランド内外でチームを牽引する立場となり、まさに"松尾雄治のチーム"という中でまとめあげて勝利に導いたわけですが、苦労も多かったのではないでしょうか。

監督に就任した時に、まず自分自身のラグビー哲学を貫き通しながら、どのようにしてチームを一つにまとめあげたらいいのかなと考えました。そこで選手起用において心に決めたのは「調子の悪いベテランではなく、調子の良い若手を使う」ことでした。やはり組織というのは、常に新陳代謝が必要で変わり続けていかなければいけません。実際、当時の新日鐵釜石はそういうチームだったから強かったんです。私が在籍した9年間で、ずっとレギュラーとして試合に出場したのは、わずか3人しかいませんでした。そのほかは、毎年のように激しく選手が入れ替わっているんです。「これまで活躍したベテランだからといって、試合に出られる保証はない」という緊張感があったからこそ、選手がどんどん成長したし、チームも強くなっていって、"日本一の座"を守り続けられていた。だから、私もそうしようと思っていました。

ところが、たった一度、私はその哲学に反したことをしたんです。それが現役最後の試合となった日本選手権決勝でした。当時、私はケガをしていてドクターストップがかかっていました。手術をしたばかりで、ほとんど足首が動かない状態でしたし、まだ傷口がふさがっていなかったんです。医師からも「試合に出場するなんて絶対に無理」と言われていました。そんな状態だったにもかかわらず、監督である自分はケガして本調子でない「松尾雄治」を出場させてしまったんです。

松尾雄治氏(インタビュー風景)

松尾雄治氏(インタビュー風景)

―― しかし、当時の状況からすれば、大スターの松尾さんが出場しなければ、ファンは納得しなかったのではないでしょうか。

確かにそれはあったかもしれません。でも、私自身は神聖なアマチュアスポーツを汚すようなことをしてしまったとしか思えなかったんです。私の後釜には佐々木和寿という若手選手がいて、彼は「松尾さんに何かあれば、いつでも僕が頑張ります!」というふうにして一生懸命練習してきていたわけです。にもかかわらず、その佐々木選手を出さずに、本調子でない私が出場してしまった。つまりは彼を裏切ってしまったんです。ラグビーの人気取りに走った自分自身が恥ずかしいし、今でも佐々木選手には「松尾雄治は嘘つきだ」と言われているような気がしてなりません。現役引退後は、一切、ラグビーボールを持つことも、グランドにも足を踏み入れてもいけないと思いました。

―― 松尾さんが引退した2年後には、第1回ラグビーW杯(1987年)が開催されました。日本のラグビーファンは誰もがそのW杯に松尾さんは出場するものだとばかり思っていたはずです。ところが、松尾さんは日本選手権7連覇を最後に現役引退を表明し、ラグビーの現場から姿を消してしまった。それがとても残念でなりませんでした。

結局、あの試合で私はラグビーに対して"嘘つき人間"になってしまったんです。あれだけ「調子のいい選手を起用する」という方針でやってきたのに、最後の最後に、調子の悪い自分を出してしまったわけですからね。ラグビーというのは1人だけが目立ってしまっては、チームにはなりません。そのことを選手にずっと言ってきたのに、ケガした松尾雄治が試合に出場して、しかも国立競技場で胴上げされたわけです。もう自分はラグビーに携わる資格はないなと思いました。試合の後、まっすぐ病院に行ったのですが、ベッドの上で「あぁ、自分はなんてことをしてしまったんだろう……」と。もちろん、7連覇を達成してファンや会社の皆さんの喜ぶ姿は嬉しかったけれど、一ラガーマンとしての自分を考えると「絶対にしてはいけないことをしてしまった」という気持ちしかありませんでした。ラグビーの神さまから「オマエは、もう終わりだ」と告げられたような気がして、そこで"ラグビーとの決別"を決心したんです。私が現役を引退して19年間、ラグビーに直接かかわらなかったのは、それが理由です。

松尾氏の著書『人はなぜ強くなければならないか』の表紙

松尾氏の著書『人はなぜ強くなければならないか』の表紙

勝敗よりも人間教育に注力した大学の指導

―― 現役を引退してからは、スポーツキャスターとして活躍されました。

本来であれば、お世話になったラグビー界に残って仕事をしなければいけない立場だったとは思うのですが、やはりラグビーに直接かかわることは許されないと。それでもラグビーを盛り上げるためにも側面から何かできることがあればという思いでスポーツキャスターを引き受けさせていただきました。ただ、"ラグビーの松尾雄治"というようなイメージを持たせないようにしようと気を付けていましたし、直接ラグビーを語ることもなるべく避けていました。

―― 2004年からは8年間、成城大学の監督を務められました。これはどんなきっかけがあったのでしょうか。

1年間ですが、附属の成城学園に在籍していたつながりで、「成城大学ラグビー部を指導してくれないか」というお話をいただいたんです。でも、最初は「私はラグビーを教える資格がない人間なんです」と何度もお断りしていました。それでも「なんとかお願いできないか」と。そこまで言われてお断りするのも悪いなという気持ちになって、「じゃあ、わかりました」と。引き受けたからにはちゃんと指導したいという気持ちが強くなりまして、オフ日の月曜日以外は週に6日、グランドに通い続けました。

―― 同じ監督業でも、新日鐵釜石の時とは、指導方針も違ったのではないでしょうか。

おっしゃる通りです。「ラグビー」の「ラ」の字から教えなければいけないような選手たちばかりでしたから、まずは「スポーツをすることの意味」から教えていくような感じでした。そういう意味では、大学時代の恩師である北島先生から教わったことを、私も学生に伝えたいと思いました。例えば、グランドで平気でタバコを吸ったりパンを食べたりするのではなく、グランドに来たら一礼し、帰る時にも一礼する。それがラグビーをする者の礼儀だということを教えました。また、試合中に相手のミスを喜ぶようなことをしてはいけないと。ラグビーでどう勝つかということよりも、スポーツを通して人間性を育てることが一番でしたね。

同志社大学、神戸製鋼、日本代表で活躍した平尾誠二

同志社大学、神戸製鋼、日本代表で活躍した平尾誠二

―― 日本ラグビー界全体を見ると、1985年に松尾さんが引退し、そしてその後を引き継ぐようにして神戸製鋼の7連覇に大きく貢献するなど日本を代表するスタンドオフとして活躍した平尾誠二さんも1998年に引退。その後はラグビー人気の衰退が続いています。

正直に言えば、やはり日本ラグビー協会にもその責任の一端はあると思います。人気を誇っていた時代にその後のことを考えた対応が遅れたのではないでしょうか。協会としてもそれなりにやってきたのかもしれませんが、ラグビーがさらに発展するためにはもっと努力する必要があったのではないかと思います。

ワールドカップラグビーを楽しむサポーター(2015年、イングランド)

ワールドカップラグビーを楽しむサポーター(2015年、イングランド)

"奇跡のチーム"誕生の地、釜石

―― その中で来年にはラグビーW杯が日本で開催されます。このW杯開催が日本にもたらすものとは何でしょうか?

ラグビーW杯が開催されることによって、日本スポーツの社会的地位がさらに高まると思います。それこそ私が子どもの頃は、「スポーツができたからって、将来なんにもならない」みたいなことはよく言われていました。いい大学に入って大きな企業に入ることが、人生の成功、幸せだと考えられていた時代がありました。しかし、今は違いますよね。スポーツだって立派な職業になるし、それに超高齢化社会を迎えつつある現代の日本にとっては運動することが奨励される時代になった。それに、私が最も言いたいのはスポーツは人を育ててくれるということ。スポーツマンシップの精神があれば、社会の秩序を守ることにもつながるし、人や物を大切にするようにもなる。諦めない心や、最後までやり遂げる強さなど、スポーツからは本当にたくさんのものを学ぶことができます。子どもたちの人間教育には欠かすことができません。ラグビーW杯も2020年東京オリンピック・パラリンピックも、そうしたスポーツ本来の魅力を知る機会になることを切に願っています。

釜石鵜住居復興スタジアムのオープニングディで行われたレジェンドマッチに出場した松尾氏(右、2018年)

釜石鵜住居復興スタジアムのオープニングディで行われたレジェンドマッチに出場した松尾氏(右、2018年)
(提供:釜石鵜住居復興スタジアムオープニングイベント開催実行委員会)

―― ラグビーW杯が開催される12会場の一つには釜石が入りました。「釜石鵜住居復興スタジアム」のこけら落としが今年8月に行われ、新日鐵釜石(現釜石シーウェイブス)と神戸製鋼のOB戦「レジェンドマッチ」が開催されましたが、W杯開催地に実際に立ってみて、どんなお気持ちになりましたか。

建設予定地だった時にも一度訪れたことがあったのですが、実際にラグビー競技場となった「釜石鵜住居復興スタジアム」を目の前にして、ちょっと信じられない気持ちでしたね。「あぁ、ここで本当にラグビーW杯が行われるんだな」と思ったら、感慨深くなりました。2011年3月の「東日本大震災」の影響で、町の様子もすっかり変わりましたが、でも僕がこんなことを言うのは違うかもしれませんが、あの震災があったことで、また釜石がもう一度活気づいた町に生まれ変わったんだ、というふうにしてもらえたら嬉しいですよね。「釜石鵜住居復興スタジアム」がそのスタート地点になってくれたらなと。そしてラグビーW杯をきっかけにして、「釜石」という町の名前を世界の人々が知ってくれたら、こんなに嬉しいことはないなと思いました。

―― 私たちの世代からすれば、「釜石」というと、やはり1970~80年代の「新日鐵釜石」というラグビーチームの印象が強い。8月の「レジェンドマッチ」を観に行って、改めて「この小さな町から、前人未到の日本選手権7連覇をするような強豪チームが誕生したのか」と驚かずにはいられませんでした。

ありがとうございます。そんな風に言っていただけると、本当に嬉しい限りです。しかも、当時の新日鉄釜石はほとんどが高校を卒業したばかりの選手が占めている若いチームでした。大学卒業の選手は、私も含めて3、4人しかいなかったんです。当時から大卒が主流の時代でしたから、そんなチームは全国どこにもなかったと思います。そういう中で、毎年毎年、結構メンバーが入れ替わる中で強くなっていきました。現役を引退して34年、その後いろいろなチームを見てきましたが、いつも思うのは「あの時代の新日鐵釜石というのは、奇跡のチームだったな」ということです。

―― それこそ「奇跡の町の奇跡のチーム」と言えましたよね。

はい、本当にそう思います。もう、あのようなチームは、今後二度と出てこないかもしれませんね。

ラグビーワールドカップ2015イングランド大会で優勝したニュージーランド

ラグビーワールドカップ2015イングランド大会で優勝したニュージーランド

"遠い夢物語"だった釜石でのラグビーW杯開催が現実に

―― その釜石で、来年にはいよいよラグビーW杯が開催されます。

本当にすごいことですよねぇ。まず日本でラグビーW杯が開催されること自体が、私からすれば信じられないことでした。開催決定のニュースを聞いた時は、喜びよりもまず「嘘でしょ?」と驚きの方が先にきたほどです。それほど、ラグビーW杯開催は私たちラガーマンにとっては遠い夢物語でした。第1回大会からアジアで唯一W杯に出場し続けているとはいえ、日本は未だ決勝トーナメントに進出できていないというのが実情です。そのような国でラグビーW杯を開催するということを世界に認めていただいたということが、本当にすごいことです。ずっと諦めずに開催招致に名乗りをあげ続けてきたからこそで、たくさんの人たちのご尽力のおかげですよね。本当に嬉しく思います。

―― 今大会は、釜石を含めて全国12会場で開催されます。

そのことにも驚きました。私は最初、国立競技場など2、3カ所で開催するのかなと思っていたんです。それがふたを開けてみれば、12カ所。しかもその中の一つに「釜石」という名前があったわけですから、二重の驚きでした。「釜石」という町の存在が、日本のラグビー関係者の皆さんに「W杯を開催するに値する場所」として認めていただいたということですからね。「まさか……」という驚きの気持ちとともに、もう本当に喜びがこみ上げてきました。

―― 「あの釜石でやるのは当然」という思いだったラグビーファンはたくさんいたと思います。それほど日本のラグビーファンにとって、未だ「釜石」は"ラグビーの町"という印象が強く残っています。

いやぁ、それは嬉しいなぁ。私も全国のラグビーファンや関係者の皆さんから「釜石でラグビーW杯をやるべきだ」という声がたくさんあがったというお話は聞いていました。本当にありがたいことだなぁと思いましたね。私も一ラガーマンとして、日本のラグビー界の発展を支えていきたいという思いのもと、現在は全国で講演会やトークショーなどに呼んでいただき、そこでラグビーや釜石についてお話したりしているわけですが、正直に言えば、そういう場で「いつか釜石でW杯を開催してほしい」ということは、気持ちはあっても、なかなか口に出して言うことはできませんでした。まさか本当に実現するなんて、ちょっと予想できませんでしたからね。

釜石鵜住居復興スタジアムのオープニングで行われたレジェンドマッチ(2018年)

釜石鵜住居復興スタジアムのオープニングで行われたレジェンドマッチ(2018年)
(提供:釜石鵜住居復興スタジアムオープニングイベント開催実行委員会)

―― 2011年3月の「東日本大震災」後には、松尾さんを中心にして、釜石や東北の復興を目指す「スクラム釜石」というNPO法人を立ち上げました。その活動もラグビーW杯開催につながったのではないでしょうか。

確かにスクラム釜石の活動をする中で、周囲からは「ラグビーW杯を開催したい!」という声はたくさんあがっていました。ただ、当時は「いやいや、ちょっとそれは難しいんじゃないかなぁ」というのが私の本音でした。「まずは復興を」ということもありましたからね。でも、その声がどんどん大きくなっていって、結果的には現実になった。よく私が子どもの時に、おじいさんやおばあさんに「何事も諦めずに、小さいことからコツコツと努力し続けていくことが大切」と教わりましたが、今回の釜石でのラグビーW杯開催実現は、まさにそういうことだと思うんです。「昔おじいさんやおばあさんが言っていた、小さなことからコツコツとという話は、本当だなぁ」と、この齢にして思いました。

―― 最後に、松尾さんにとって「ラグビー」とは?

ひと言で言い表すことは難しいですが、なにせラグビー一筋で生きてきた人間ですから、やはり私の人生の"バイブル"と言っていいのではないかなぁと思いますね。ラグビーというのは、本当に激しくて、痛みを伴うし、辛いこともたくさんある大変なスポーツです。でも、だからこそ、チームみんなが一人一人の選手を尊敬しあうようになるんです。不思議なことに、一緒にラグビーをやっている仲間で"嫌な人"って一人もいないものなんですよ。みんながみんなを認め合って協力し合わなければ成立しないのがラグビー。そんなラグビーから、私はすべてを学んだと言っても過言ではありません。

ラグビー・松尾 雄治氏の歴史

  • 松尾 雄治氏略歴
  • 世相

1871
明治4
イングランドでラグビーフットボール協会(ラグビー・フットボール・ユニオン)が創設
初の国際試合がイングランドとスコットランドの間で行われる
1883
明治16
初の国際大会であるホーム・ネイションズ・チャンピオンシップ(現・シックス・ネイションズ)が開催
1886
明治19
国際統括団体である国際ラグビーフットボール評議会(現・ワールドラグビー)創設
1899
明治32
慶應義塾大学の教授でケンブリッジ大学のラグビー選手でもあったクラーク氏と、
同大学の選手でもあった田中銀之助が日本で初めてラグビーの指導を開始
1900
明治33
ラグビーが夏季オリンピック・パラリンピックに採用される (1924年のパラリンピック・オリンピックで終了)
1911
明治44
同志社大学でラグビー部が創部される
1918
大正7
早稲田大学でラグビー部が創部される
1919
大正8
第1回日本フットボール大会(現・全国高等学校大会)開催
1921
大正10
京都帝国大学、東京帝国大学(現・京都大学、東京大学)でラグビー部が創部される
1924
大正13
関東ラグビー蹴球協会(現・関東ラグビーフットボール協会)創設
1926
昭和元
西部ラグビー蹴球協会(現・関西ラグビーフットボール協会)創設
日本ラグビーフットボール協会が、関東ラグビーフットボール協会と、関西ラグビーフットボール協会の統一機関として創設
1928
昭和3
高木喜寛氏、日本ラグビーフットボール協会の初代会長に就任
第1回東西対抗ラグビー、甲子園球場にて開催
1929
昭和4
近鉄花園ラグビー場が完成
全日本学生対全日本OBの試合を、秩父宮両殿下が台覧
1930
昭和5
日本代表、カナダで初の海外遠征を行う(6勝1分)
1942
昭和17
日本ラグビーフットボール協会、大日本体育大会蹴球部会に位置づけられる

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1947
昭和22
秩父宮殿下、日本ラグビーフットボール協会総裁に就任
九州ラグビー協会(現・九州ラグビーフットボール協会)創設
東京ラグビー場(現・秩父宮ラグビー場)が竣成

  • 1947日本国憲法が施行
1949
昭和24
第1回全国実業団ラグビー大会開催
1950
昭和25
第1回新生大学大会開催
「全国大学大会」の名称となる

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
全国実業団ラグビー大会、第5回から全国社会人ラグビー大会に改称
1953
昭和28
田辺九萬三氏、日本ラグビーフットボール協会の2代目会長に就任
東京ラグビー場を秩父宮ラグビー場に改称

  • 1954松尾 雄治氏、東京都に生まれる
  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
香山蕃氏、日本ラグビーフットボール協会の3代目会長に就任
1961
昭和36
第1回NHK杯ラグビー試合(現・日本選手権)開始
1962
昭和37
秩父宮ラグビー場、国立競技場に移譲
1963
昭和38
日本代表、戦後初の海外遠征(カナダ)

1964
昭和39
第1回日本選手権試合開催

  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
第1回全国大学選手権大会開催

1968
昭和43
湯川正夫氏、日本ラグビーフットボール協会の4代目会長に就任

1969
昭和44
第1回アジアラグビー大会開催
日本は全勝で優勝

  • 1969松尾 雄治氏、成城学園高校に入学後、ラグビー強豪校である目黒高校(現・目黒学院)に転入。ラグビー部に所属する
  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
横山通夫氏、日本ラグビーフットボール協会の5代目会長に就任

  • 1970松尾 雄治氏、全国高校ラグビー大会に出場し、準優勝
1971
昭和46
第1次・高校日本代表のカナダ遠征

1972
昭和47
椎名時四郎氏、日本ラグビーフットボール協会の6代目会長に就任

  • 1972松尾 雄治氏、明治大学に入学
1973
昭和48
全国高校選抜東西対抗試合開始

  • 1973オイルショックが始まる
  • 1975松尾 雄治氏、ラグビー日本代表に選出される。日本代表の司令塔としてキャップ24を獲得
  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1976松尾 雄治氏、全国大学選手権、日本選手権優勝
     松尾 雄治氏、新日鐵釜石に入社。新日鐵釜石ラグビー部(現・釜石シーウェイブス)に所属
  • 1978松尾 雄治氏、社会人選手権、日本選手権優勝
     以後、1984年までスタンドオフとして日本選手権7連覇を達成
  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
阿部譲氏、日本ラグビーフットボール協会の7代目会長に就任

1982
昭和57
代表キャップ制度を発足

  • 1982松尾 雄治氏、新日鐵釜石ラグビー部にて選手兼監督に就任
     以後、選手・主将・監督としてラグビー部に貢献
  • 1982東北、上越新幹線が開業
  • 1985松尾 雄治氏、現役を引退。以後、スポーツキャスターとして活躍
1987
昭和63
第1回ワールドカップが開催(オーストラリア・ニュージーランドの共同開催) 以後、第7回大会まで日本代表チームは連続出場を果たす

1990
平成2
磯田一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の8代目会長に就任
1992
平成4
川越藤一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の9代目会長に就任
1993
平成5
第1回ジャパンセブンズ開催
1995
平成7
金野滋氏、日本ラグビーフットボール協会の10代目会長に就任

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
  • 1997香港が中国に返還される
  • 1998松尾 雄治氏、日本ラグビーフットボール協会 普及育成委員会委員に就任
2000
平成12
IRBワールドセブンズシリーズ日本大会開催

2001
平成13
町井徹郎氏、日本ラグビーフットボール協会の11代目会長に就任

2002
平成14
女子ラグビーが日本ラグビーフットボール協会に加入
女子ラグビーは、第4回女子ワールドカップに初参加
2003
平成15
ジャパンラグビー トップリーグが社会人12チームで開幕

  • 2004松尾 雄治氏、成城大学ラグビー部監督に就任
2005
平成17
森喜朗氏、日本ラグビーフットボール協会の12代目会長に就任
2006
平成18
ジャパンラグビートップリーグチーム数は12チームから14チームへ増加

  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
U20世界ラグビー選手権(IRBジュニアワールドチャンピオンシップ2009)開催
2019年ラグビーワールドカップが日本で開催決定
2010
平成22
2019年ラグビーワールドカップ日本開催組織委員会の設立準備を開始

  • 2011東日本大震災が発生
  • 2011松尾 雄治氏、東日本大震災の釜石市の復興を目的に、NPO法人スクラム釜石を設立
2013
平成25
日本ラグビーフットボール協会が公益財団法人へ移行

2015
平成27
岡村正氏、日本ラグビーフットボール協会の13代目会長に就任

2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催
7人制ラグビーが正式種目として実施