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日本のラクビーを支える人びと
第78回
逃してはいけない千載一遇のチャンス

日比野 弘

 中学校時代に初めて見た「早明戦」に心奪われ、その時に抱いた憧れの気持ちを持ち続けて早稲田大学ラグビー部に入部した日比野弘さん。俊足を生かして、1年生からレギュラーを獲得し、日本代表としても活躍。社会人でもプレーし、現役引退後は早大、日本代表の監督を務めました。また、日比野さんが招致委員会委員長を務めた2011年ラグビーW杯招致は、2019年ラグビーW杯開催実現の第一歩となりました。

日本のラグビー界発展に寄与されてきた日比野さんに、ご自身のラグビー人生を振り返っていただきながら、今後への課題や期待についてうかがいました。

インタビュー/2018年10月31日 聞き手/佐野 慎輔  文/斉藤 寿子  写真/日比野 弘・フォート・キシモト

中学時代から憧れていた早大ラグビー部

練馬区立開進第2中学時代は野球に取り組む

練馬区立開進第2中学時代は野球に取り組む

―― 日比野さんはもともとは野球をされていたということですが、ラグビーとの出合いはどのようなものだったのでしょうか。

私が子どもの頃は、男の子はほとんどがスポーツと言えば野球をやるのがごく普通で、それこそみんなプロ野球選手に憧れていたような時代でした。私も甲子園を目指して白球を追う「野球少年」でした。ところが、中学校の体育の授業で初めてラグビーをやった時に、「これはボールを持って走ってもいいし、体当たりしてもいいし、面白いな」と思ったんです。

高校3年時、第1回関東大会に東京都代表として出場(後列右から4人目)

高校3年時、第1回関東大会に東京都代表として出場(後列右から4人目)

また、体育の先生に連れられてラグビーの早明戦を観に行ったこともありました。当時の早稲田大学は後に日本代表の監督も務められ、名将で知られる大西鐵之祐先生が監督に就任した初期の頃で、その時の試合は最後にフルバック(最後尾に位置しディフェンスの要としてゴールラインを死守。攻撃では後方からアタックに参加するポジション)のゴールが入らずに、20-21で早大が負けたんです。
試合後、大きな体をした大学生がしょんぼりと泣きながら去っていく姿が印象的で、「これほどまでに熱くなれるのか。よし、自分も将来は早大に入ってラグビーをしよう」と。それで高校からラグビー部に入りました。

都立大泉高校2年の時、ラグビージャージーに身を包んで

都立大泉高校2年の時、ラグビージャージーに身を包んで

―― 進学された都立大泉高校のラグビー部は強かったのでしょうか。

強い方だったと思います。東京都の大会ではベスト4に進出するくらいの力がありました。また、国民体育大会に出場した「オール東京」には私も含めて大泉高からも2人が選ばれたりしていました。当時ライバルだった保善高校(東京)や日本大学第二高校(東京)の同期とは未だに「東京ラグビー50年の会」を作って、一緒に飲みに行ったりしているんです。これは卒業してちょうど50年が経った時に「久しぶりにみんなで会って一杯やろう」ということで集まった時につくった会で、それ以来よく集まるようになりました。

―― 保善高校は有名でしたね。ほかに当時、全国的に強いと言われていたのはどんな高校がありましたか?

保善高校は全国でも強かったです。それと福岡高校、修猷館高校(福岡)、秋田工業などが強かったですね。

―― 日比野さんは足が速くて、当時からポジションはウイング(バックスの両翼に位置し、快足を飛ばしてトライを挙げる花形ポジション)でしたが、トライあり、独走ありといったウイングは面白かったと思いますが・・・?

当時は今とはずいぶん違って、オールドファッションのラグビーでしたから、優勢な試合の時にはたくさんボールが回ってきましたが、劣勢な試合ではまったくボールが回ってこないんです。ですから今思えば、ずいぶんとつまらないポジションをやらされていたなと思いますよ(笑)。
要するにみんながつないできたボールがウイングの私のところに来た時には、敵がいない状態ですから、自分が何をしたということもなかったんです。

部歌『荒ぶる』に凝縮された早大ラグビー

早大2年時、早大体育祭にラグビー部として参加。大隈公銅像の前で(後列左から10人目、1955年)

早大2年時、早大体育祭にラグビー部として参加。大隈公銅像の前で(後列左から10人目、1955年)

―― 高校卒業後は、中学生の時に心に決めていた通り早大ラグビー部に入り、1年生から試合に出場されました。

私が1年生の時に、ウイングの4年生がシーズンの初めに足首を骨折したんです。それで私にお鉢がまわってきました。関東大学対抗戦の3連覇がかかった早明戦で、大西監督からは「オマエが(明大のウイング)宮井国夫を止めるかどうかで勝敗が決まる」とプレッシャーをかけられました。しかし、試合当日は土砂降りの雨で、8-14で負けました。あの時のことは今でもよく覚えています。その日の夜、大学のそばのラグビー部ご用達のレストラン「高田牧舎」の2階に集まりまして、上級生はお酒を飲みながら大西監督の話を聞いたんです。大西先生に「この中で、今シーズンベストを尽くしたと言い切れる者はいるか」と問われて、みんな答えられず泣きました。当時、19歳だった私にとって、大学生は大人だと思っていましたので、これだけ大の男の人が自分自身に対して悔し泣きをするのかと驚きました。と同時に、その光景を目にした時に中学校時代に見た光景を思い出しまして「あぁ、自分もこの早大ラグビー部の一員になったんだな」と思いました。

―― 当時の早大は、スクラムの組み方やパスの出し方など、他校がやらないようなさまざまな工夫を凝らしたラグビーをしていましたね。そして、強かった。

私たち早大ラグビー部では、同じ大学生同士で戦って負けたということは、相手が1年間かけてやってきたことを、自分たちは上回れなかったんだと考えていました。ですから、負けたら悔いが残るのは当然という考え方だったんです。よく「ベストを尽くしたら悔いはない」と言いますが、私たちにしてみたらベストを尽くすことができたら勝てるんだと。
負けたら、それはベストを尽くせなかったということになるんです。特に体が大きくて優れた個の力があった明大に、どうすれば勝てるのかというと、やはりそこは工夫が必要で、それをやり遂げて勝った時には特別な達成感がありました。

早大3年時、菅平合宿で法大との泥のグランドでの練習試合後(前列右端、1956年)

早大3年時、菅平合宿で法大との泥のグランドでの練習試合後
(前列右端、1956年)

―― そのやり遂げた達成感が早大ラグビー部部歌『荒ぶる』につながるわけですね。

そうですね。「荒ぶる」という言葉はわかりにくいかもしれませんが、私たちにとってはその一言に凝縮されているんです。努力をして、より苦しい練習に耐え、それによって養われたチームの総合力で勝った喜びがあって、優勝した時にしか部歌『荒ぶる』を歌うことができないわけです。早大ラグビー部では、歴代の優勝した年の4年生の代は「荒ぶるのメンバー」として終生称えられるんです。いくら下級生で試合に出場していても、最上級生以外はそのメンバーには入ることはできません。たとえ試合には出場しなくても、最終学年として最後までポジション争いをして競ってくれた仲間がいたからこそ優勝できたんだ、という考えなんです。

それが100年続いてきたわけですから、まさに伝統ですよね。残念ながら、私が最終学年の時には『荒ぶる』を歌うことができませんでした。

日比野 弘氏(インタビュー風景)

日比野 弘氏(インタビュー風景)

―― 数あるなかで、学生時代の思い出の試合を教えてください。

先ほどお話した1年の時の早明戦もそうですが、勝った試合よりも、負けた試合の方が印象に残っていますね。4年の時、対抗戦で立教大学に6-9で負けたことがありました。私はバックス(パスなどでボールを繋いだり、サインプレーを駆使するなどしてトライを狙うポジションの総称)のリーダーを務めていたのですが、立教大との試合と就職試験とが重なってしまったんです。それで迷ったのですが、当時の監督が「試験に行ってこい。オマエがいなくて立教大に負けるとしたら、その先も見えている。大丈夫だ、勝つから」と言ってくださったので、試験に行ったんです。でも、気になって気になって、試験が終わってすぐに日本ラグビーフットボール協会に電話をしました。そしたら「6-9で負けました」と。それを聞いた時には「なんで試合を選ばなかったんだろう」とひどく後悔しました。結局、リーグ戦で強敵の慶應義塾大学、明治大学には勝ったにもかかわらず優勝できませんでした。

―― 当時の大学ラグビーは、各校がそれぞれの特徴を持って競い合っていましたね。

「縦の明治」と言われていた明大は、フォワード(スクラムを組む8人のこと。密集戦やラインアウトなどのボールの争奪戦でボールをキープしたり、奪ったりするポジションの総称)が強くて前へ前へというパワフルなラグビーでした。慶大はラグビーのルーツ校だけあって、しぶとさがありました。選手層からすると、それほど恵まれているわけではないのに、アップ&アンダーで、徹底してやってきますから、非常に手強いチームでした。
一方、関西の同志社大学は「自由奔放」という言葉がよく似合うラグビーでした。私たち早大のチームカラーは「考えて研究する」というもので、「こうやって戦おう」と型を決めるのですが、同志社大は「一度グランドに出れば、選手の自由」といったような伸び伸びとしたラグビーでした。このようにして、それぞれの特徴がはっきりしていましたから、観ている人たちにも楽しんでもらえていたのではないでしょうか。

全国社会人選手権東京都予選で優勝した東横百貨店チーム(前列右から3人目、1959年)

全国社会人選手権東京都予選で優勝した東横百貨店チーム
(前列右から3人目、1959年)

―― 大学卒業後は、東横百貨店(現東急百貨店)に就職されました。あまりラグビーというイメージがないのですが。

廃部となってだいぶ経ちますが、当時はラグビー部も持っていまして、花園ラグビー場で行われていた「全国社会人ラグビーフットボール大会」(2003年トップリーグ創設の際に解消)にも2回ほど出場しているんです。私がプレーしていた頃は、慶大出身で日本代表も務めたフッカー(最前列でスクラムをコントロールする。ラインアウトのスローワーも務めることが多いポジション)の赤津喜一郎さんがキャプテンをされていて、それと同じ慶大出身でスクラムハーフ(パスのスペシャリスト。スクラムではボールを中に入れる役割を果たすポジション)の今村耕一もいて、彼らと私の3人の日本代表メンバーがいました。

―― 現役引退後には早大のコーチ、監督に就任されます。

最初は早大ラグビー部OB会の幹事をしていまして、1962年に大西さんが早大の監督になった時にはコーチとしてお手伝いをしました。でも、まさか自分が監督になるとは思ってもいませんでした。選手時代は、ウイングとしてただボールを持って走ることしかしていませんでしたから、難しいことはわからなかったんです。ただ、当時大西さんは「若い世代がやった方がいい」ということをおっしゃっていましたね。アマチュアリズムの時代ですから、みんな仕事をしながら監督を務めていまして、とても大変だったんです。ですから当時の早大では、1人にばかり負担がかからないように、1年交代でみんなでまわしていたんです。それで、私のところにまわってきたのが1970年でした。

日体大に勝ち大学日本一になって選手に胴上げされる(1971年)

日体大に勝ち大学日本一になって選手に胴上げされる(1971年)

―― 監督就任1年目にいきなり大学選手権、日本選手権ともに優勝に導かれました。

就任1年目に優勝すると、一躍注目されるわけですが、実際はそれまでに積み上げてきたものがあるからこそで、ただそれに乗っかって優勝できただけのことなんです。ただ、現在JSC(独立行政法人日本スポーツ振興センター)理事長を務めている大東和美がキャプテンを務めていて、とてもしっかりしたチームでした。その翌年は現役時代はNo.8(スクラムをまとめ、攻守にわたって常にボールに絡むポジション)として活躍された白井善三郎さんが監督を務めて、私はコーチとして関わったのですが、その年に大学選手権連覇、日本選手権連覇を達成したんです。

その2年後の1973年からまた私が監督に就任しまして、3年間務めました。最後の年は明大に対抗戦では引き分けて、大学選手権の決勝では負けたんです。当時明大の4年生にはキャプテンを務めた笹田学と、日本を代表するスタンドオフ(パス、キック、ランでゲームをコントロールし司令塔の役割を担うポジション)の松尾雄治がいて、とても強いチームでした。そして、それが私が監督としての初めて負けた試合だったんです。

若い世代の選手を指導

若い世代の選手を指導

―― 日比野さんが指導者として重視されたこととは何だったのでしょうか。

まず、指導者は集団をまとめる力が必要だなと思いました。選手の時には自分のことを一番に考えれば良かったのが、指導者は大勢の選手を動かさなければいけない。たとえ力のない選手でも、それを引っ張り上げなければいけないわけです。そこで重視したのは、きちんと「こういうラグビーができるのではないか」と明確に提示することでした。これは現役時代に大西先生から教わったことですが、例えば負けたときに、「なぜ負けたのか」を分析して、そこを出発点にするんです。当時はビデオは普及していませんでしたから、黒板を使ってフォーメーションを確認しました。「この場面では、●●が○○を止めなければいけなかった。約束事だったはずなのに、一歩遅れてしまった。なぜ遅れたかというと……」といったような分析結果と課題をあげて、それを練習からできるようにしていくようにすれば必ず勝てると。そして、その課題ができるようになった選手が試合に出ることができるんだよ、ということを選手たちに提示しました。もちろん、一方的ではなく、選手からの疑問も聞くようにしました。選手には「もし、それでは勝てないとか、そんなことはできない、と思うことがあったら遠慮なく言ってほしい」と。とにかくみんなが納得したうえで、明確な課題を持ってグランドに出ることを重視しました。ただやらされているのではなく、「自分はこういう課題を持ってやろう」「このレベルまで上げよう」というものを持って練習に臨めるようにしたんです。指導者には負けた時の分析力と、その後のプロセスを考える計画力が必要で、それと最後は責任を持つと。それがチームの力を引き出すのかなと思います。

―― 強かった早大の監督時代で、最も印象に残っている試合はどれですか。

現役時代と同様に、勝った試合よりも、やはり負けた試合の方が強く印象に残っていますね。「なぜ負けたのか」と。例えば当時30代だった上田昭夫君が監督として指揮をとった慶大は、創部100周年の1986年に日本一になったんです。その年の早慶戦、後半32分にウイングの若林俊康にタックルを振り切られて走られてしまいトライ後のゴールが成功して、1点差で負けたんです。あの時トライされるにしても若林をコーナーで止めておけば、厳しい角度からのゴールキックで失敗して勝つ可能性もあったんです。ところが、若林に中央へ回り込まれてトライされてしまい、ゴールキックを楽に決めさせてしまいました。試合後、「オマエら何やってるんだ!」と激高しましたよ。コーナーで止めて、トライの後の難しいゴールキックが入って負けたのなら仕方ない。でも、何人が若林を倒すため、バッキングアップに走ったのか、と。

「強化」と「選手選び」を初めて兼任した代表監督

明大の北島監督(左)と早大の日比野監督(国立競技場、1975年)

明大の北島監督(左)と早大の日比野監督
(国立競技場、1975年)

―― 理詰めの指導で早稲田を率いられた後、3度にわたって日本代表監督を務められました。当時の日本代表というのは、どのような体制だったのでしょうか。失礼ながら、寄せ集めという印象がありました。

当時はまだラグビーW杯はなかった時代で、テストマッチが唯一の国際交流となっていました。また、ラグビー界は純然たるアマチュアリズムの時代でしたから、1人が監督の座に長きにわたって居座るということは好ましくないとされていました。でも、私は1966年から1971年まで代表監督を務めた大西先生を早く退任させ過ぎたと思っています。それで岡仁詩さん(同志社大出身)、横井久さん(早稲田大学出身)、斎藤尞さん(明治大学出身)、そして私のような世代が監督を務めたわけですが、それぞれやってきたラグビーが違いますから、考え方や選手に言うことにもどうしたって違いが出てくるわけです。

本来は指導者が代わっても、軸となるところは継承していくべきだったのですが、そうではありませんでした。自己流を通そうとすると、どうしたって前の監督を否定するようなことになるし、結局は振り出しに戻ってしまいました。

ウエールズ遠征前の日本代表強化合宿にて選手に指示を与える(1983年、栗原達男氏撮影)

ウエールズ遠征前の日本代表強化合宿にて選手に指示を与える
(1983年、栗原達男氏撮影)

―― 当時の日本代表の世界的な位置づけはどのようなものだったのでしょうか。

世界から「日本もラグビーをやっているのか」と驚かれた時代から、徐々に世界に認められ始めた時代へと移行していた時だったと思います。ですから、遠征をするにも断られるということはありませんでした。ただ、試合では最初の内は健闘はするけれども、後半になって点差がつき始めるとガタガタと壊滅してしまう。結局は、50点も60点も取られて大敗するというのが日本でした。

―― そういう時代に日本代表の監督を務めるというのは苦労も多く、辛いことも少なくなかったのではないかと思います。

1983年のウェールズ遠征前に、私に2度目の監督就任の打診があったんです。その時、私は任期を尋ねました。やはりチーム作りには計画が必要ですから、どれくらいの期間なのかを確認したかったんです。そうしたところ「当分やってほしい」という返答でした。結局はっきりとしたことはわかりませんでしたが、「それではウェールズ遠征を目標にチーム作りをします。無様な負け方をした時には責任を取ります」と言って引き受けたんです。「負けたら誰の責任かは明確であるようにしてほしい」ということで、強化委員長とセレクションの委員長を兼務させてもらいました。

1983年の日本代表ウエールズ遠征時にメンバーと(前列右から3人目、前列右端は平尾誠二)

1983年の日本代表ウエールズ遠征時にメンバーと
(前列右から3人目、前列右端は平尾誠二)

―― ウェールズ遠征は24-29と、日本は十分に健闘しましたが、日比野さんはその遠征後に監督を退任されました。これは何か理由があったのでしょうか。協会に何か問題があったのでしょうか。

あのウェールズ戦は、帰国して協会側も「ごくろうさま」と労ってくれて、健闘したことにとても喜んでくれました。私も当然、続投を望まれると思っていましたし、私自身も続けるつもりでいました。ところが、その年、母校の早大がリーグ戦で初めて帝京大学に負けて、5位に転落したんです。それで初めて全国大会に出場できなくなってしまったんです。そこで早大のOBが私に「監督をやってくれないか」と声をかけてきたんです。そのOBは「日本代表と大学のシーズンは重なっていないから、斎藤尞くん(元日本代表監督)もやったことだし、兼任できるだろう」と。

でも、私は監督はそういうものではないと思うんです。やはり一つのチームに専念して力を注ぐべきだと。ですから代表監督を辞めて早大の監督に復帰することに決めました。

「ブーム」ではなく「文化」としての期待

1983年のウエールズ遠征時の日本代表(前列椅子席右から4人目)

1983年のウエールズ遠征時の日本代表(前列椅子席右から4人目)

―― あれはご自身の意思だったんですね。その後、日本ラグビー界は変化を求めて行きます。アマチュアの総本山といわれた協会がプロ化に向けて模索しますが、それはいつ頃からだったのでしょう。

世界のラグビーがW杯中心に動き始めてからだと思います。特に1991年にイングランドで2回目のラグビーW杯が開催されたことが大きかったですね。まさかラグビー発祥の地のイングランドまでプロ化に動くというのは予想していなかったことで、日本は完全に乗り遅れました。当時の日本は、まだアマチュア精神を頑なに守っていたんです。ようやく1995年にプロ解禁となりましたが、それでも完全なるプロ化ではなくオープン化という曖昧なものでした。本当に変わっていったのは、2001年に東京大学ラグビー部出身で東芝副社長を務めた町井徹郎君が日本ラグビーフットボール協会会長となり、日本代表監督時代にはスコットランド戦勝利に導いた宿澤広朗が会計役となってからですね。それが、その後エディ・ジョーンズ(現イングランド代表監督)を指揮官に迎えることに繋がりました。

早大教授としての最終講義を終えた後のパーティでの鏡割(左から4人目、リーガロイヤルホテル、2005年)

早大教授としての最終講義を終えた後のパーティでの鏡割(左から4人目、リーガロイヤルホテル、2005年)

―― ラグビー界が変化していく中で、日本でのラグビーW杯開催の話があがり、はじめは2011年に招致しようと動きました。その招致委員会委員長が日比野さんでした。

招致委員会には町井徹郎(元日本ラグビーフットボール協会会長)、堀越慈(元日本ラグビーフットボール協会理事)、真下昇(2015、2019招致委員会委員長)、そして私が幹部にいまして、W杯を招致しようということで動き始めました。当時は日本でのラグビー人気が落ちてきていた時期でしたし、日本代表の実力も不足しているということで周囲からは「時期尚早」という声が多かったんです。それでも私たちは「やるべきだ」ということで名乗りを挙げました。当時、ラグビーW杯はIRB(国際ラグビーボード)の加盟国である欧州と南半球だけで開催されていたんです。ラグビーの熱狂的な国ばかりでしたから大会の盛り上がりとしては良かったのかもしれませんが、それでは世界に広がっていかないだろうと。サッカーのように「ワールド・スポーツ」にするには、やはりアジアでの開催が必須だろうということで手を挙げたんです。当時は、それこそ香港との共催でもいいと思っていました。とにかくIRB以外の国・地域でラグビーW杯を開催することが必要なのでは、ということをIRBのメンバーにも申し入れました。また、国内の「時期尚早」という意見の人たちに対しては、日本が強豪国になるために、またラグビーをワールド・スポーツにするために、日本にラグビーW杯を招致したいんだということを説明しました。他の競技大会やイベントでもそうですが、日本人というのは開催する前はいろいろとネガティブな意見が出ても、いざ開催すると盛り上がるというところがありますよね。ですから、実際に日本でラグビーW杯が開催するとなれば、強化も進むだろうし、ラグビーへの関心も高まるだろうと。そういうことでラグビーW杯を招致しようとしたわけですが、やはりIRBの壁は厚く、招致は成功しませんでした。

―― しかし、2011年大会に名乗りを挙げたからこそ、2019年大会の招致につながっていくわけですよね。

そうですね。私の後任として森喜朗会長にバトンを受けていただいて、再び招致するということになって本格的に動き始めました。その結果、2009年の会議で、2015年と2019年の2大会の開催地が同時に決定し、2015年はイングランド、2019年は日本での開催となりました。

ワールドカップ2015イングランド大会アメリカ戦勝利後の日本チーム

ワールドカップ2015イングランド大会アメリカ戦勝利後の日本チーム

―― ラグビーW杯が日本で初めて、アジアで初めて、いやラグビー先進国以外では初めて開催される意義についてはどのように感じられていますか。

日本のラグビー界が発展していくかどうかが、来年のラグビーW杯にかかっていると思っています。もし日本代表が大敗を喫するようなことがあれば逆効果につながる可能性もあり、怖い部分もありますが、でも成功すれば必ず日本ラグビー界の発展につながるはずです。そういう意味では、残り1年もありませんが、日本ラグビー界にとって大きな勝負になると思います。実際、ラグビーW杯の招致に動いたからこそ、2003年には完全なプロリーグとして「トップリーグ」が誕生しましたし、競技場も準備されました。また、日本代表の強化という点でも、2015年のラグビーW杯で優勝候補の南アフリカを撃破したことは非常に大きな成果ですし、7人制ラグビーでは、2016年リオデジャネイロオリンピック男子日本代表がニュージーランドを破りました。私が生きている間に、日本が南アフリカやニュージーランドに勝つ試合が見られるなんて、夢にも思っていませんでした。さらに、「サンウルブズ」(国際大会「スーパーリーグ」に参加する日本代表チーム)を設立したことで、トップリーグで活躍した選手は日本代表活動以外でも、普段から海外の選手たちの中に放り込まれて、ぶつかり合うことができるようになりました。こうしたことは、W杯を招致したからこそ。海外のチームと互角に渡り合うだけの実力がついてきていることは確かですので、来年のラグビーW杯では初の決勝トーナメント進出もまったくの夢物語ではなくなってきていると感じています。

ワールドカップ2015イングランド大会の日本対アメリカ

ワールドカップ2015イングランド大会の日本対アメリカ

―― 日比野さんが考えられる2019年ラグビーW杯の成功の条件とは何でしょうか。

まずはやはり「勝利」だと思います。世界中に放映されるわけですから、ぜひ日本の実力を見せつけてほしいですよね。今の日本は、ディフェンスが本当に素晴らしい。よくあんな体格の大きな選手を止められるなと感心しますよ。それだけのパワーと技術を兼ね備えた選手たちが揃っています。

―― 日本代表の活躍が、日本ラグビー界の未来を大きく変えていくということですね。

そう思います。よく「ラグビーブームの再来」ということが言われますが、私はブームで終わってほしくないんです。ブームはいつか消え去ってしまうものですからね。ですから、いきなりラグビー人気が復活するというような極端なものではなく、来年のラグビーW杯開催を機に徐々に右肩上がりで、しっかりと文化として定着してほしいと願っています。そのためにも、日本が決勝トーナメント進出するかどうかがカギを握ってくるとは思いますが、もし進出できなかったとしても、観客を魅了するような素晴らしい内容の試合さえすれば、きっとラグビーの面白さを知る機会になると思いますし、日本のラグビーが再び盛り上がっていく、その大きなきっかけになるのではないかと期待しています。逆に言えば、このチャンスを逃してはいけません。

ラグビー人気拡大に必要なのは広い見地

ウィルチェアラグビー日本チームはリオデジャネイロ・パラリンピックで銅メダルを獲得した

ウィルチェアラグビー日本チームはリオデジャネイロ・パラリンピックで銅メダルを獲得した

―― 普及という点では、ラグビーW杯の翌年に開催される2020年東京オリンピック・パラリンピックでの「7人制ラグビー」「ウィルチェアーラグビー」の日本代表チームの活躍も大きい意味を持つのではないでしょうか。

大きいですね。オリンピックの7人制ラグビーは、日本は強化が遅れてしまいましたが、2016年リオデジャネイロオリンピックで、男子はあのニュージーランドに勝ったんですからね。本当にすごいことですよ。また、女子の方は競技人口が少なく、普及という点ではまだまだ課題はありますが、今年のアジア競技大会(インドネシア・ジャカルタ)で優勝したことは大きな弾みになったと思いますし、「やりたい」という選手も増えてくるのではないでしょうか。日本ラグビーフットボール協会の方でも、例えばビックゲームの前座で女子ラグビーの試合を行うというような工夫も必要だと思います。2020年東京オリンピックは、女性にもラグビーの面白さを知ってもらういい機会ですから、ぜひいかしてほしいなと思います。

また、ウィルチェアーラグビーは今年の世界選手権(オーストラリア・シドニー)でも優勝していますし、2年後の東京パラリンピックでも金メダル候補として注目されていますよね。障がいがあってもラグビーという競技を楽しめるというのはラグビー関係者にとっても嬉しいことですし、またこうして障がいのある方たちが一般社会に出てきてスポーツで注目されるようになったことは本当に素晴らしい時代になったなと感じています。

ラグビー競技の普及にかかせないタグラグビー

ラグビー競技の普及にかかせないタグラグビー

―― 競技人口の増加という点では、「タグラグビー」が小学校の体育の指導要領に入ったということも大きな意味を持っていると思います。

非常に大きいと思います。そのおかげで、子どものラグビーの競技人口は前年度よりも増加しているんです。とてもいい傾向にあると思います。

―― これから日本ラグビーが発展するためには、少子化、人口減少が進み、スポーツ離れが言われるこの時代には何が必要でしょうか。

「スポーツ離れ」が叫ばれている中、まずは子どもたちがラグビーという競技に触れることが大切だと思います。もう一つは、やはり日本のスポーツというのはヨーロッパのように地域クラブではなく、教育の一環として発展してきた歴史があって、だからこそ高校野球や大学ラグビーが人気を博したわけですけれども、そうした日本独特の教育的要素をうまく活用することが重要だと思います。そうした中で、あらゆる分野にラグビーを広げていくと。

日比野弘 氏(インタビュー風景)

日比野弘 氏(インタビュー風景)

そのノウハウはサッカーやバスケットボールなど、すでに日本で成功している競技があるわけですから、他のスポーツからも知恵をお借りするとか、人材を連れてくるとかということもできると思うんですね。「どうすれば、もう一度ラグビーの人気を復活させることができるのか」「新しい人たちがラグビーに目を向けてくれるのか」ということを広い見地で工夫・努力してくれる人たちとともに真剣に考えていってほしいなと思います。もう老齢の人たちが古い考えでやっていてもダメですよ。一生懸命旗を振って、ふと後ろを振り返ったら誰もついてきていなかったということになりかねません。でも、これはリタイアした私自身の反省でもありまして、これからに期待しているということでもあるんです。

―― 最後に、日比野さんにとってラグビーとはどんな存在でしょうか。

色紙を頼まれますと、「ラグビーわが師、わが愛、わが人生」などと書いているのですが、やはり一番は「わが人生」でしょうね。まさに私の人生そのものがラグビーです。

ラグビー・日比野 弘氏の歴史

  • 日比野 弘氏略歴
  • 世相

1871
明治4
イングランドでラグビーフットボール協会(ラグビー・フットボール・ユニオン)が創設
初の国際試合がイングランドとスコットランドの間で行われる
1883
明治16
初の国際大会であるホーム・ネイションズ・チャンピオンシップ(現・シックス・ネイションズ)が開催
1886
明治19
国際統括団体である国際ラグビーフットボール評議会(現・ワールドラグビー)創設
1899
明治32
慶應義塾大学の教授でケンブリッジ大学のラグビー選手でもあったクラーク氏と、
同大学の選手でもあった田中銀之助が日本で初めてラグビーの指導を開始
1900
明治33
ラグビーが夏季オリンピックに採用される (1924年のオリンピックで終了)
1911
明治44
同志社大学でラグビー部が創部される
1918
大正7
早稲田大学でラグビー部が創部される
1919
大正8
第1回日本フットボール大会(現・全国高等学校大会)開催
1921
大正10
京都帝国大学、東京帝国大学(現・京都大学、東京大学)でラグビー部が創部される
1924
大正13
関東ラグビー蹴球協会(現・関東ラグビーフットボール協会)創設
1926
昭和元
西部ラグビー蹴球協会(現・関西ラグビーフットボール協会)創設
日本ラグビーフットボール協会が、関東ラグビーフットボール協会と、関西ラグビーフットボール協会の統一機関として創設
1928
昭和3
高木喜寛氏、日本ラグビーフットボール協会の初代会長に就任
第1回東西対抗ラグビー、甲子園球場にて開催
1929
昭和4
近鉄花園ラグビー場が完成
全日本学生対全日本OBの試合を、秩父宮両殿下が台覧
1930
昭和5
日本代表、カナダで初の海外遠征を行う(6勝1分)

  • 1934日比野 弘氏、東京都に生まれる
1942
昭和17
日本ラグビーフットボール協会、大日本体育大会蹴球部会に位置づけられる

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1947
昭和22
秩父宮殿下、日本ラグビーフットボール協会総裁に就任
九州ラグビー協会(現・九州ラグビーフットボール協会)創設
東京ラグビー場(現・秩父宮ラグビー場)が竣成

  • 1947日本国憲法が施行
1949
昭和24
第1回全国実業団ラグビー大会開催
1950
昭和25
第1回新生大学大会開催
「全国大学大会」の名称となる

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
  • 1951日比野 弘氏、都立大泉高校に入学し、ラグビー部に所属
1952
昭和27
全国実業団ラグビー大会、第5回から全国社会人ラグビー大会に改称
1953
昭和28
田辺九萬三氏、日本ラグビーフットボール協会の2代目会長に就任
東京ラグビー場を秩父宮ラグビー場に改称

  • 1954日比野 弘氏、早稲田大学に入学。ラグビー部に所属し、1年生からレギュラーとして活躍
  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
香山蕃氏、日本ラグビーフットボール協会の3代目会長に就任

  • 1956日比野 弘氏、日本代表に初選出。来日したニュージーランド・コルクと対戦
  • 1958日比野 弘氏、早稲田大学を卒業し、東横百貨店(現・東急百貨店)に入社。ラグビー部に所属する
1961
昭和36
第1回NHK杯ラグビー試合(現・日本選手権)開始

  • 1961日比野 弘氏、東横百貨店を退社し、早稲田大学ラグビー部のコーチに就任
1962
昭和37
秩父宮ラグビー場、国立競技場に移譲
1963
昭和38
日本代表、戦後初の海外遠征(カナダ)

1964
昭和39
第1回日本選手権試合開催

  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
第1回全国大学選手権大会開催

1968
昭和43
湯川正夫氏、日本ラグビーフットボール協会の4代目会長に就任

1969
昭和44
第1回アジアラグビー大会開催
日本は全勝で優勝

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
横山通夫氏、日本ラグビーフットボール協会の5代目会長に就任

  • 1970日比野 弘氏、東横百貨店を退社し、早稲田大学ラグビー部のコーチに就任。
     1973年~1975年にも監督を務め、大学選手権、日本選手権優勝を果たす
1971
昭和46
第1次・高校日本代表のカナダ遠征

1972
昭和47
椎名時四郎氏、日本ラグビーフットボール協会の6代目会長に就任

1973
昭和48
全国高校選抜東西対抗試合開始

  • 1973オイルショックが始まる
  • 1976日比野 弘氏、日本代表監督に就任
     1982年~1984年、1987年~1988年にも監督を務める。
  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
阿部譲氏、日本ラグビーフットボール協会の7代目会長に就任

  • 1981日比野 弘氏、早稲田大学体育局専任講師に就任
1982
昭和57
代表キャップ制度を発足

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1987
昭和63
第1回ワールドカップが開催(オーストラリア・ニュージーランドの共同開催) 以後、第7回大会まで日本代表チームは連続出場を果たす

  • 1987日比野 弘氏、早稲田大学教授に就任
1990
平成2
磯田一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の8代目会長に就任

1992
平成4
川越藤一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の9代目会長に就任
1993
平成5
第1回ジャパンセブンズ開催
1995
平成7
金野滋氏、日本ラグビーフットボール協会の10代目会長に就任

  • 1998日比野 弘氏、早稲田大学ラグビー部監督に再就任
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
  • 1997香港が中国に返還される
2000
平成12
IRBワールドセブンズシリーズ日本大会開催

  • 2000日比野 弘氏、日本体育協会(現・日本スポーツ協会)国体委員長に就任
2001
平成13
町井徹郎氏、日本ラグビーフットボール協会の11代目会長に就任

  • 2001日比野 弘氏、日本ラグビーフットボール協会副会長に就任
2002
平成14
女子ラグビーが日本ラグビーフットボール協会に加入
女子ラグビーは、第4回女子ワールドカップに初参加
2003
平成15
ジャパンラグビー トップリーグが社会人12チームで開幕

  • 2004日比野 弘氏、日本ラグビーフットボール協会会長代行に就任
     日比野 弘氏、2011年ラグビーワールドカップ招致委員会委員長に就任
2005
平成17
森喜朗氏、日本ラグビーフットボール協会の12代目会長に就任

  • 2005日比野 弘氏、早稲田大学名誉教授に就任
2006
平成18
ジャパンラグビートップリーグチーム数は12チームから14チームへ増加

  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
U20世界ラグビー選手権(IRBジュニアワールドチャンピオンシップ2009)開催
2019年ラグビーワールドカップが日本で開催決定
2010
平成22
2019年ラグビーワールドカップ日本開催組織委員会の設立準備を開始

  • 2011東日本大震災が発生
2013
平成25
日本ラグビーフットボール協会が公益財団法人へ移行

2015
平成27
岡村正氏、日本ラグビーフットボール協会の13代目会長に就任

2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催
7人制ラグビーが正式種目として実施