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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のラクビーを支える人びと
第79回
ラグビーワールドカップ2019への道

眞下 昇

 中学校までは野球少年だったという眞下昇さん。高校入学後、先輩たちの勧誘をきっかけに始めたラグビーは、最初は「何もわからずにやっていた」と言います。

しかし、やっていくうちにラグビーに魅了され、大学、社会人まで現役を続けました。現役引退後はレフリーの道に活躍の場を移した眞下さんは、日本ラグビー界の改革を推し進め、ラグビーワールドカップ招致にも尽力されました。「一生涯、ラグビーに関わっていきたい」と語る眞下さんにお話をお伺いしました。

インタビュー/2018年11月5日  聞き手/佐野 慎輔  文/斉藤 寿子  写真/眞下 昇・フォート・キシモト

最高のご褒美は試合後の「レフ、サンキュー」

日本選手権決勝、新日鉄釜石対同志社大戦(右)

日本選手権決勝、新日鉄釜石対同志社大戦(右)

―― 1970年代末から80年代、ラグビーのレフリーと言えば眞下さんでした。実際はどのくらいの試合でレフリーを務められていたのでしょうか。

自分では数えたことがありませんので、正確な数字はわかりませんが、トータルで400試合以上はレフリーを務めたのではないでしょうか。当時の国内の公式戦は1シーズンに15試合ほどで、国際試合を含めたとしても20はいかなかった時代でした。多い時には1週間に1試合というペースでレフリーをしたこともありましたが、ほとんどが2週間に1回という程度だったと思います。春の非公式戦を加えれば更に多くなります。

―― その400試合ほどの中で、最も思い出に残っている試合を教えてください。

思い出に残っているのはたくさんありますが、その中で特出するならば、当時はラグビーと言えば大学ラグビーが盛んでしたので、1987年の関東大学リーグ対抗戦、前夜雪が降り、除雪後のぬかるんだグランドで行われた早明戦(早稲田大学対明治大学)だったり、また秩父宮ラグビー場が客止めとなった早慶戦(早稲田大学対慶應義塾大学)ですね。正面玄関に入り切れないほど大勢の人が群がった光景は忘れることができません。いずれにしても、当時の大学ラグビーは観客で賑わった試合が多かったですね。

全国大学選手権決勝、早大対明大戦の試合前。満員の観客の前での両チームの集合写真(前列中央/1977年)

全国大学選手権決勝、早大対明大戦の試合前。満員の観客の前での両チームの集合写真(前列中央/1977年)

―― あの頃の大学ラグビーは、どの競技場も観客でいっぱいになるほどの人気を博していました。

当時は、例えば「オール早慶明(早大、慶大、明大)」といったOBの試合でさえも多くのファンが詰めかけました。秩父宮ラグビー場はもちろん、あの大きな国立競技場もいつも満員の状態でした。

―― そんな熱戦にはいつもレフリーの眞下さんが白いユニフォーム姿で主審として笛を吹いていて、そして常にきちんとボールが見える的確なポジションにいらっしゃっていたという印象があります。レフリーとして一番心がけていたことは何だったのでしょうか。

レフリーとして大切な事は正確な判断でしょう。もちろん人間ですから、パーフェクトということはないんです。ただ、その中でミスを少なくして、しっかりとルールの適用をはかるということ。そのためには、いい角度、いい位置で選手たちのプレーの細かいところをしっかりと見届けることなんですね。そのうえでルールが守られているかどうか判断するということをレフリーとして最も重要な務めとして心掛けていました。

400試合以上で主審を務める

400試合以上で主審を務める

―― プレーが連続して行われていく中で、レフリーはさまざまな状況を見なければいけませんので、広い視野が必要になりますね。

人よりも視野が広いというのは、よく言われますね。普段も、例えばお店に入った時に、入り口のすぐ近くだけを見るのではなく、パッと瞬間に全体を見る癖があります。少し大げさに言えば、180度くらいの視野を常に見るような感覚でいるんです。人よりも目が左右に大きく動くわけではありませんが、できる限り広く見て、トータル的にどういう状況なのかをバランスよく見ることを心がけていますね。やはりグランドは広いですから、広角的に見ておかないと、誰がどんなプレーをするかということを予測することができないと、次の対応が遅れてしまうんです。

―― 予測するためには、各大学やプレーヤーそれぞれの特徴をすべて頭に入れておくことも必要となるのではないでしょうか。

そのシーズン、この大学はどういう選手がどういうプレーをするのか、そしてどういう流れをつくるのか、ということを頭に入れておくことは非常に大切です。ですから次に担当する試合が決まると、その大学の試合を見に行って観察していました。特にアドバンテージルールを適用してプレーを継続させるだけの高い技術を持ったチームなのかということも考えに入れておくことによって、十分にアドバンテージをとった方がいいのか、これは途中で切った方がいいのか、という判断材料にしていました。

常にプレーの近くにいて的確なジャッジを行った(右、中央は松尾雄治氏)

常にプレーの近くにいて的確なジャッジを行った(右、中央は松尾雄治氏)

―― チームによって試合をコントロールしやすい、しづらいということはあるのでしょうか。

スキルのあるチームは、うまいことプレーが流れていきますね。逆に、まだ出来上がっていないチームほど、どういうプレーをするかが予測しにくかったりしますので、注意深く見ていかなければいけません。私は、早稲田大学、明治大学、慶應義塾大学といったレベルの高いチーム同士の試合をよく吹いていましたので、「どうぞ、皆さん、思い切ってプレーをしてください」という感覚でいられるほど、選手たちに信頼を置いていました。よくレフリーに言われているのは、試合の最初の10分間は厳しくチェックしていくこと。それ以降は、選手たちが日頃鍛えた技を思い切りプレーできる環境を整え、継続を重視して試合を展開させていくことが大切なんです。しかし、私もそうでしたが、若い頃というのは「ちゃんとルールを知っていますよ」と周囲に示そうと、笛の数が多くなってしまいがちなんですね。そうすると、試合がプツン、プツンと切れてしまって、選手たちにとっても観客にとっても、つまらなくなってしまいます。なんでもかんでもすべて笛を吹けばいいというわけではなく、そのプレーが試合相手側にどれだけ悪い影響を及ぼしているか、という判断することが重要なんです。

ボールが見えにくい状況でも鋭い視線で反則は見逃さない(後方)

ボールが見えにくい状況でも鋭い視線で反則は見逃さない
(後方)

―― 眞下さんがレフリーを務めていらっしゃる試合が、とても見やすくて面白かったのは、そのような理由があったんですね。

いえいえ、そんな大したことはなかったと思いますが、気持ちのうえでは試合の流れを止めずに、もっと盛り上がっていけるようにと試合をマネジメントすることを心がけていました。もちろん反則には厳しくということはありましたが、継続を第一に考えてラグビーの醍醐味が失わないように試合の流れというものは大切にしていました。

―― 審判冥利に尽きるといった瞬間というのはどういう時でしょうか。

審判部からの評価も大切でしたが、それよりも試合後、両チームの選手たちから「レフ、サンキュー」と言われるのが、最高に嬉しかったですね。

関東大学対抗戦グループの早大対明大戦(後方/1987年)

関東大学対抗戦グループの早大対明大戦(後方/1987年)

選手たちは日頃精一杯の努力をして、チーム一丸となって勝とうと試合に臨むわけです。それなのに私たちレフリーの判断ミスで大事な試合をつまらなくしてしまえば、責任はレフリーにあります。そういうことがないよう、選手たちが積み上げてきた努力が開花するようにと、いつも心がけていました。選手たちのダイナミックなプレーが出て、それを観客が楽しむと。それができなければ、レフリーを務める意味はありません。そういう中で、選手たちから直接「レフ、サンキュー」と言われたということは、勝敗はともかく、自分たちのプレーが思い切りでき、満足、納得したよという表れでしょうから、それはレフリー冥利に尽きましたね。

先輩の勧誘から始まったラグビー人生

―― そもそも眞下さんがラグビーを始めたきっかけは何だったのでしょうか。

私は中学校までは野球少年でした。当時のスポーツと言えば野球でしたから、自然と野球をやっていたんです。もちろん、将来の夢は「プロ野球選手」でしたから、高校でも野球部に入るつもりでした。ところが、高崎高校に進学すると、同じ中学の野球部の先輩たちがラグビー部に入っていまして、その先輩たちに半ば強制的にラグビー部に入らされたんです。でも、その先輩たちがいなければ、今の僕はいないわけですから、今では感謝しています。

高崎高校ラグビー部創立15周年記念祝賀試合にて(上から2列目、右から4人目)

高崎高校ラグビー部創立15周年記念祝賀試合にて(上から2列目、右から4人目)

―― ラグビーの知識はお持ちだったんですか。

ラグビーは、まったく知りませんでした。ですから、最初は先輩たちが「あれやれ、これやれ」というのを、見よう見まねでやっていただけでした。「なんだこの変な形のボールは?」「なんで後ろにパスをするんだ?」なんて思いながらやっていましたね(笑)。でも、不思議なもので、練習は辛いしやめたいとは思っているのに、「やめたら仲間に悪い」という妙な仲間意識がいつのまにか芽生えていて、実際にやめることはありませんでした。先輩たちもかわいがってくれましたしね。ただ、練習は厳しかったですよ。家に帰れば、ご飯を食べたらすぐに倒れこむようにして寝るだけでしたし、学校でも疲れて教科書を開く力が残ってないんです。それで前期のテストが赤点ばかりのことがありまして、母親が担任の先生から「早くラグビーをやめさせた方がいい」と言われたことがありました。それでこれ以上母親に恥をかかせるわけにはいかないと、それからはなんとか赤点だけは取らないように頑張りました。

眞下昇氏(インタビュー風景)

眞下昇氏(インタビュー風景)

―― 群馬県立高崎高校といえば進学校として知られていますが、ラグビー部も北関東では有数の強豪校でしたね。

それこそ県内では先輩たちの時代から引き継がれた連勝記録は101にものぼるほど、無敵を誇っていました。県内で常に雌雄を争うライバル校である前橋高校と毎年行われるスポーツの定期戦では、高崎高のラグビー部が強すぎたために、代わりに他の競技の選手がラグビーチームを編成して戦いました。一方私たちラグビー部員はそれぞれ他の競技に駆り出されていたのですが、私は陸上部の800mが人数が足りないからというので、「走ればいいんでしょ?」という軽い気持ちで手を挙げたことがあったんです。ペース配分なんてものは全く知りませんから、号砲とともに全速力で走り始めたので、最初はダントツのトップでした。ところが、残り200mあたりからガクンとスピードが落ちて、どんどん後ろから抜かれていったんです。「おかしいなぁ。なんで足が動かないんだろう」と思いながら走りましたけども、最初から全速力で走ったらエネルギーなんか残っていないのは当然ですよね(笑)。結果は4、5着だったと記憶しています。

―― 眞下さんが在籍していた頃、高崎高は全国大会ではどのくらいの成績を収められていましたか。

私の頃は、まだ全国高校ラグビーフットボール大会が花園ラグビー場ではなく、西宮球場で行われていた時代だったのですが、私が2年の時の大会では、秋の第10回国民体育大会(国体)で優勝しました。全国大会では準決勝で保善高校(東京都)に敗けました。3年の時は国体には行けなかったのですが、全国大会では準々決勝まで行きました。

筑波大学(旧東京教育大学)ラグビー部の集合写真(上から2列目、左から8人目)

筑波大学(旧東京教育大学)ラグビー部の集合写真(上から2列目、左から8人目)

―― ポジションはバックスですか。

高校時代はセンター(バックスの中心に位置し、攻撃時には突破役となり、守備ではタックルで相手の攻撃の芽を摘むポジション)をやっていました。大学に入ってからはスタンドオフ(パス、キック、ランでゲームをコントロールし司令塔の役割を担うポジション)でした。というのも、入学してすぐにスタンドオフの先輩がケガをしてしまって、「誰もいないから、オマエやってくれ」ということで急きょやることになったんです。

「引退後もラグビーに携わりたい」とレフリーの道へ

日本選手権に進出した躍進目覚ましい筑波大ラグビー部(2015年)

日本選手権に進出した躍進目覚ましい筑波大ラグビー部(2015年)

―― 高校卒業後、いわゆる古豪ではあっても、決して圧倒的に強いわけではなかった東京教育大学(現筑波大学)に進学されました。強豪校に進むことは考えなかったんですか。

3年の時の担任の先生が東京教育大出身で勧められていたんです。でも、当時は1月15日に秩父宮ラグビー場で全国高等学校大会に出場した関東周辺の高校チームによる出場記念試合が行われていました。そのために本格的な受験勉強は1月16日からスタートするわけです。それで「ずっとラグビーばかりやってきて、8科目も試験がある国立大学なんてとても無理だから、3教科の私立大学に行きたいと思っています」と先生に言ったところ、「ダメだ。東京教育大を受けろ。今から勉強すれば砂漠に水が吸い込まれるごとく覚えられる」と励まされた。1学年上の先輩で東京教育大に行った人も、なぜか私に「受験しろ」と勧めてきまして、それでもう受けるしかなくなってしまったというわけです。先生からは「1教科でも0点を取れば、他がすべて100点でも落ちるからな」とプレッシャーをかけられまして、しかも当時は浪人なんて考えられませんでしたから、「試験に落ちたらどうなるんだろう」と不安しかありませんでした。ですから「これは、大変なことになった」と、もう毎日徹夜で勉強しました。でも、そんな無茶なことができたのも、ラグビーで体を鍛えていたおかげだったかなと思いますね。

―― 当時の東京教育大のラグビー部は強かったんですか、それとも…。

まったく強くはなかったですよ。高校時代は試合をすれば勝つものだと思っていたのが大学では常に敗戦ばかりでした。部員の中には全国大会出場経験者はほとんどいませんでした。当時、関東の大学でラグビー部は17校ほどだったと思いますが、その内の"中の下(ちゅうのげ)"くらいでした。

ドットウエル・ラグビー部時代

ドットウエル・ラグビー部時代

―― 大学時代の一番の思い出といえば、何でしょうか。

大学時代はケガが多くて、部に貢献出来なかったですね。毎年夏には山中湖で15日間の合宿があったのですが、1年の時にはその合宿中に右肩を痛めたんです。そしたら40度の発熱も引き起こして、その時は何が原因かわからなかったのですが、病院で診察してもらったら骨髄炎を発症していました。抗生物質で熱を下げてから、骨を削る手術をしたのですが、結局完治するのに6カ月ほどかかりまして、1年のシーズンはまるまる棒に振りました。2年の時は、シーズン半ばの試合で味方プレーヤーに後ろの死角から左膝に飛び込まれて左膝の前十字靭帯断裂という大けがをしました。3年の時には肋骨を3本ほど折りまして、絆創膏を巻きながらプレーしていました。まともにプレーできたのは最後の4年の時だけでしたね。

エリスクラブ時代の韓国遠征(右から2人目/1969年)

エリスクラブ時代の韓国遠征(右から2人目/1969年)

―― 大学卒業後は外資系商社のドットウエルに入社されて、同社のラグビー部でプレーすると同時にクラブチームの名門「エリスクラブ」でもプレーされています。そのエリスクラブでは1969年にキャプテンとして韓国遠征を経験し、それを最後に現役を引退。その後レフリーになられていますが、レフリーをやろうと思ったきっかけは何だったのでしょうか。

すっかりラグビーに魅了されていたことと、現役時代にお世話になった方々に恩返しをしたいということで、現役引退後も何かしらのかたちでラグビーに携わっていたいという気持ちがあったんです。それでエリスクラブでプレーしていた時に、同じクラブチームの「エーコンクラブ」のキャプテンでレフリー委員会の副委員長を務められていた方が、韓国遠征から帰国して現役引退を表明した際、「これからはレフリーをやりなさい」と。実はそれ以前に社会人リーグ同士の試合では、自分のチームの試合が終わると、次の試合のレフリーを務めていたりもしていたので、迷うことなく「はい」とその場で返事をしました。それまではライセンスなしで見様見真似でやっていたのですが、現役引退後にレフリー資格試験を受けまして、1972年にB級ラインセンスを取得して関東ラグビーフットボール協会主催の試合のレフリーを務めるようになりました。その後、経験を経て推薦されて日本ラグビーフットボール協会のA級ライセンスを取得しました。

日本ラグビーの大改革断行

「トップリーグ」への移行を伝える2003年1月12日付けの朝日新聞記事

「トップリーグ」への移行を伝える2003年1月12日付けの朝日新聞記事

―― さて、来年にはアジアで初のラグビーワールドカップが開催されます。眞下さんは招致の段階から携わってこられましたね。

日本代表が1999年にウェールズで行われた第4回ラグビーワールドカップに臨んだ際、OBとはいえオールブラックス(ニュージーランド代表の愛称)から何人か日本代表チームに加わっていたにもかかわらず、海外チームに歯が立たなかったんです。さらにパワーアップしていかないと、日本は海外に肩を並べることはできないということが示されたわけですが、ちょうど世界的にはアマチュアリズムが撤廃されてプロ化の道に突き進んでいる最中でした。特に欧州や南半球のチームは完全にプロ化の道を進んでいて、日本とは歴然とした差が開いていました。ですから、日本もプロ化に移行していかなければいけないと言われていたのですが、アマチュアリズムが根強かった日本ラグビー界はなかなかプロ化には進みませんでした。しかし私は、プロ化は避けては通れないと思っていましたので、代表チームに海外からプロの選手を入れるか、あるいは国内にプロのチームを作るしかないと思っていました。それで日本ラグビーフットボール協会の当時専務理事を務めていた白井善三郎さんに「日本代表に海外の選手を積極的に入れてはどうでしょうか」と提案したこともあったんです。しかし、当時の協会には海外から選手を呼ぶだけの資金がなかったんですね。それでもなんとか日本代表強化をしていかなければいけないということで、前述の白井専務理事の号令の元、日本協会の大改革を掲げました。そして当時の日本協会理事4名に改革を指示されたのです。私には大会の運営でした。私はそれまで大学と社会人の優勝チーム同士で争われていた日本ラグビーフットボール選手権を発展的に解消し、2003年からは(※55年続いた全国社会人大会を発展的解消しトップリーグを創設)トップリーグの順位決定戦としました。真の強い選手同士で競う場を設け、また海外から選手たちを入れることで、世界と互角に戦える力を普段から身に付けられるような環境を作るというのが目的でした。2001年に協会会長に就任した東大ラグビー部OBの町井徹郎氏には協会の役員制度を刷新し、慶大ラグビー部OBで国際ラグビーボード(IRB:2014年に「ワールドラグビー」(WR)に名称変更)理事でもあった堀越慈氏がマーケティング改革でスポンサー集めに奔走し、日本代表監督も務めた早大ラグビー部OBの宿澤広朗氏が日本代表チームの強化を担当しました。それぞれの専門分野での改革をしていったんです。

眞下昇氏(インタビュー風景)

眞下昇氏(インタビュー風景)

―― そうした大改革の中で、ラグビーワールドカップを招致しようという話はどのように盛り上がっていったんですか。

今年からトップリーグが開幕するという2003年のお正月に、私がある新聞社のフォーラムに招かれたことがあったんです。その時、その新聞社の記者がこう言ったんです。「眞下さん、トップリーグを立ち上げるというだけでなく、将来的にはラグビーワールドカップを開催したいという話もされたらどうでしょうか」と。それで私はフォーラムで「9月からトップリーグが始まります。そしてゆくゆくはラグビーワールドカップを日本に招致して、日本ラグビー界、日本スポーツ界を活性化させていきたいと思っています」という話をしました。それがきっかけとなって、2011年大会の招致活動へとつながっていきました。

小泉純一郎首相(当時)(中央)、河野一郎氏(右)と

小泉純一郎首相(当時)(中央)、河野一郎氏(右)と

―― その後、招致活動がスタートします。この経緯を教えてください。

まずは2003年に、森喜朗元首相と日本ラグビーフットボール協会の当時の町井会長と私の3人で、国際ラグビーボードのシド・ミラー会長(当時)に正式にラグビーワールドカップ招致を申し入れました。その後、帰国してすぐに招致委員会を発足しまして、森氏に会長に就任していただき、そして当時日本ラグビーフットボール協会の専務理事をしていた私がその招致委員会の責任者ということで委員長を務めることになりました。

2011年ラグビーワールドカップ招致活動。IRB(国際ラグビーボード)ミラー会長(前列右から2人目)、森元首相(招致委会長、前列左から3人目)。後列左から2人目が眞下氏

2011年ラグビーワールドカップ招致活動。IRB(国際ラグビーボード)ミラー会長(前列右から2人目)、森元首相(招致委会長、前列左から3人目)。後列左から2人目が眞下氏

―― 当時、招致に関わった人たちに話を聞きますと、森会長の存在がたいへん大きかったといわれています。

おっしゃる通りです。私が森氏のすごさを改めて感じたのは、2011年大会の招致でニュージーランドに2票差で負けた時のことです。私自身は、もちろん負けたことへの悔しさはありましたが、それでもロビー活動をしてきた中で、たくさんの海外のレフリー仲間に助けてもらいましたし、また投票で負けた日も「ノビ(眞下氏の愛称)、次だよ!」と励ましてもらいましたので、「よし、次こそ勝つぞ!」というふうに思っていたんです。
すると、さすが森氏は行動が速かったですね。投票翌日にはミラー会長の元を訪れたんです。会長としては森氏を慰めるつもりでいたと思うのですが、森氏はミラー会長にズバッと問題を指摘されました。というのも、当時はラグビー先進国であるファウンデーションユニオン(イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド、フランス)はそれぞれ理事が2人いましたので、それぞれ投票権を2つ持っていたわけです。ところが、日本を含むその他の4カ国は後進国で理事が1人でしたので、1票しか持っていません。それではファウンデーションユニオンの有利な投票結果になることは誰の目から見ても明らかでした。それで森氏は「仲間うちでボールを回しあっていては、いつまでたってもラグビーはグローバルなスポーツにならないですよ」と、ものすごい剣幕でおっしゃいまして、ミラー会長もその勢いに完全に押されていました。あの時、森氏がはっきりと主張してくださったことが、2019年大会の招致の成功につながったことは間違いありません。

2011年ラグビーワールドカップ招致委員会発足(左から2人目/2003年)

2011年ラグビーワールドカップ招致委員会発足(左から2人目/2003年)

―― その後、日本は2015年大会の招致を目指しましたが、結果的には2009年に行われたWRの理事会で、2015年はイングランド、2019年は日本と、2大会をセットにして同時決定されました。なぜ、こうした形になったんでしょうか。

現実的なことを申しますと、欧州ラグビー界のバックには大きなスポンサーが付いているんです。ですから、大会運営のことを考慮して、欧州以外で開催した次の大会は、必ず欧州に戻さなければいけないということが暗黙の了解としてあります。ですから2011年は欧州ではなくニュージーランドでの開催となりましたので、次の2015年はイングランドになったのは十分に予測されていたことでした。とすると、日本が現実的に目指すとすれば2019年になるわけですね。ところが、2011年大会の時に南アフリカが一次投票で最下位で一番最初に落選したんです。それで決戦投票で日本に2票差で勝ったニュージーランドに決まったわけですが、当然南アフリカも19年大会を狙ってくるだろうと。そうすると、またファウンデーションユニオン相手に厳しい戦いになるわけで、それではなかなか日本開催は実現しないと思いました。そこで、なんとか15年と19年の2大会をセットで決めることはできないかと提案しました。2大会をセットで決めることになり、ラグビーワールドカップリミテッド(ワールドラグビーが設立したラグビーワールドカップを運営する専門会社)が立候補国の能力と可能性を調査して推薦し理事会が案の賛否を問い、2015年大会はイングランド、2019年大会は日本となり、日本開催が実現しました。

2019年ラグビーワールドカップ招致活動(右から2人目/2007年)

2019年ラグビーワールドカップ招致活動(右から2人目/2007年)

―― 2019年大会を招致できた最大の要因は何だったと考えられていますか。

2011年大会の招致活動の時に、当然、アジア圏の理事は日本に投票しようということでバックアップ体制が整っていたはずでした。ところが、アジアラグビーフットボール協会から派遣されていた理事はニュージーランド出身で、これは投票後にわかったことですが、彼はニュージーランドに票を入れていました。それで私は「虎穴に入らざれば虎子を得ず」だということで、もう日本がアジアや世界の中心的なところにまでズバズバと入っていかなければダメだなと思いました。それで立候補しまして、2007年にアジアラグビーフットボール協会およびIRB理事に就任したんです。そうしたら、それまで背を向けていた理事たちが、ころっと態度が変わりましてね(笑)。「やぁ、ノビ」なんて声をかけられるようになりました。「あぁ、やっぱりこういう世界なんだな」と思いましたよ。でも、実際に日本の話に耳を傾けてくれる理事が増えたことは確かでした。それともう一つは、2011年大会の招致活動の時に、私たち日本は欧州のメディアに「グローバリゼーションの必要性」を叫んでいました。その甲斐あって、機会があるごとに欧州メディアが「ラグビーもグローバリゼーションを目指していかなければいけないのではないか。そのためにもアジアに門戸を開くべきではないか」ということを盛んに発信してくれたんです。2011年の招致がニュージーランドに決まった時にはTIMES誌は「IRBよ、恥を知れ!」と言わんばかりに、欧州のメディアが私たちに追い風を送ってくれたことは非常に大きかったですね。

ワールドカップ2015イングランド大会、2019日本大会が同時決定(2009年)

ワールドカップ2015イングランド大会、2019日本大会が同時決定(2009年)

―― さまざまな要素がうまく絡み合って、2019年大会招致の成功につながったと思いますが、なかでも眞下さんがIRBの理事になって世界ラグビー界の中心に入っていかれたということは非常に大きな意味を持っていたと思います。やはりご苦労もあったのではないでしょうか。

もちろん、さまざまな苦労はありましたが、とにかくまずは私という存在を覚えてもらうことからということで、何でもやるようにしました。例えば、理事会の後には必ずと言っていいほど、みんなでパブに行くのですが、「何か歌ってくれ」とミラー会長から言われるたびに、坂本九さんの『上を向いて歩こう』を歌いました。日本語でしたが、海外でもよく知られていた曲でしたから受けはよかったんでしょうね。いつの間にか「ミスター・カラオケ」と理事たちから呼ばれるようになりました(笑)。でも、私としては「名前を覚えてくれるなら何でもいいかな」と喜んで「ミスター・カラオケ」と呼ばれていました。

ラグビーワールドカップが日本スポーツ界の発展につながる大会に

ラグビーワールドカップ2019組織委員会が発足。御手洗会長(中央)、森副会長(左)と(2010年)

ラグビーワールドカップ2019組織委員会が発足。御手洗会長(中央)、森副会長(左)と(2010年)

―― 眞下さんたちが苦労されて招致したラグビーワールドカップが、いよいよ来年に開催されます。一日一日と開幕が近づく中で、現在の状況をどのように感じていらっしゃいますか。

私は2018年からラグビーワールドカップ2019組織委員会のエグゼクティブアドバイザーを務めていますが、運営面で言えば準備は順調に進んでいます。最も気になるのはチケットの売れ行きですが、何とか完売しようと皆で頑張っています。これまでは抽選発売ということで販売していましたが、今後は先着発売されますので、どんどん売れていくと思います。また、これは国内ですが、今懸念されているのは、ラグビーワールドカップリミテッド分のチケットの売れ行きです。国内の需要はありますので、完売の可能性は十分にあると思うんですね。しかし、問題はラグビーワールドカップリミテッドが海外等で売っているチケットの一部が組織委員会に戻り組織委員会で販売されるようになることがあるということで、少し心配です。そこで各開催地の関係者の皆さんには、海外からチケットが戻ってきた時に、どのようにしてPRして販売につなげるかということを今から考えてほしいとお願いしています。

―― 改めて、ラグビーワールドカップ2019とは、日本にとってどのような意味を持つと考えられますか。

ラグビーワールドカップ2019の後には、2020年東京オリンピック・パラリンピック、そして2021年には関西ワールドマスターズゲームズが開催されます。そうした中で、ラグビーワールドカップ2019に限っては全国12会場で行われますから、東京だけでなく、日本のさまざまな地域を海外の人たちに知っていただく、触れていただく機会になると思うんですね。ですから、さまざまなところで交流を図り、日本の文化や日本人の特性を知っていただくということが、大きな役割としてあると思います。そして、ラグビー界において言えば、まだまだラグビー後進地域であるアジアのラグビー界の発展につながっていく大会にしていかなければいけません。ひいては他の競技にもいい影響を与えていけるようにしていきたいですね。

トップリーグ機構の視察で訪れたFCバルセロナにて(2007年)

トップリーグ機構の視察で訪れたFCバルセロナにて(2007年)

―― 眞下さんは、国内の団体球技リーグの強化と発展を目的として結成された日本トップリーグ連携機構の副専務理事も務め、日本スポーツ界に深く携わられています。ラグビーワールドカップ2019開催が日本スポーツ界にどのような影響をもたらすと思われますか。

日本トップリーグ連携機構は、現在9競技12リーグが加盟しており、お互いに連携しながら国際競技力の向上を目指しています。そういう中で、私たち日本ラグビー界が来年のラグビーワールドカップで勝敗だけでなく、観客動員数をはじめとした大会の盛況ぶりや海外の人たちとの交流、さらには若い人たちが世界に羽ばたくきっかけとなるような「成功の姿」を示すことで、他の競技団体に与える影響は非常に大きいと思います。

―― ラグビーという競技だからこそ与えられる影響もあるのではないでしょうか。

おっしゃる通りです。あるフランスの有名な選手が言っていたのですが、「ラグビーは子どもを大人にしてくれるスポーツだ」と。なるほどな、と思いましたね。ルールに則ってプレーする中で、たくさんの人たちの支えを結集して、チーム一丸となって前に進んでいくこと。そういう意味では、「組織論」としてもぴったりの競技だと思います。

ラグビーワールドカップ2007フランス大会 対カナダ戦引き分け後選手等と(前から2列目中央/2007年)

ラグビーワールドカップ2007フランス大会 対カナダ戦引き分け後選手等と(前から2列目中央/2007年)

―― ラグビーワールドカップ2019のレガシーとして、どんなものが残り、何を残していかなければならないと思われますか。

世界最高峰のラグビーの大会が日本で行われるわけですから、まず一つは世界のトップ選手たちのプレーを見ていただき、ラグビーの魅力を知っていただくことが一番重要だと思います。また、既存のラグビーファンにとっても「あぁ、ラグビーにはこんな魅力もあったんだ」というような再発見の場となり、さらにラグビーを好きになってもらえたら嬉しいですね。又、海外から多くの外国の人たちが来日します。若い人達がそれらの人達と交流され世界に羽ばたくきっかけになってくれればと思います。大会自体を成功させることも大切ですが、それ以上に開催をきっかけにして日本ラグビー界、日本スポーツ界が、さらに発展していってもらえたらと思っています。ラグビーワールドカップ2019は、2020年東京オリンピック・パラリンピックの前哨戦ともいえる大会。そういう意味でもしっかりと成功させて、2020年につなぐことが大切。ラグビーワールドカップ2019で、海外の人たちに「おもてなし」をすることができれば、2020年、2021年には、さらに多くの海外の人たちが日本に足を運んでくれるだろうと。その大事なスタートがラグビーワールドカップ2019です。

―― 最後に、眞下さんにとって、「ラグビー」とは何でしょうか。

ラグビーは私の人生すべてと言っても過言ではありません。ラグビーなくして今はないですし、今後もずっとラグビーに携わっていきたいと思っています。

ラグビー・眞下 昇氏の歴史

  • 眞下 昇氏略歴
  • 世相

1871
明治4
イングランドでラグビーフットボール協会(ラグビー・フットボール・ユニオン)が創設
初の国際試合がイングランドとスコットランドの間で行われる
1883
明治16
初の国際大会であるホーム・ネイションズ・チャンピオンシップ(現・シックス・ネイションズ)が開催
1886
明治19
国際統括団体である国際ラグビーフットボール評議会(現・ワールドラグビー)創設
1899
明治32
慶應義塾大学の教授でケンブリッジ大学のラグビー選手でもあったクラーク氏と、
同大学の選手でもあった田中銀之助が日本で初めてラグビーの指導を開始
1900
明治33
ラグビーが夏季オリンピックに採用される (1924年のオリンピックで終了)
1911
明治44
同志社大学でラグビー部が創部される
1918
大正7
早稲田大学でラグビー部が創部される
1919
大正8
第1回日本フットボール大会(現・全国高等学校大会)開催
1921
大正10
京都帝国大学、東京帝国大学(現・京都大学、東京大学)でラグビー部が創部される
1924
大正13
関東ラグビー蹴球協会(現・関東ラグビーフットボール協会)創設
1926
昭和元
西部ラグビー蹴球協会(現・関西ラグビーフットボール協会)創設
日本ラグビーフットボール協会が、関東ラグビーフットボール協会と、関西ラグビーフットボール協会の統一機関として創設
1928
昭和3
高木喜寛氏、日本ラグビーフットボール協会の初代会長に就任
第1回東西対抗ラグビー、甲子園球場にて開催
1929
昭和4
近鉄花園ラグビー場が完成
全日本学生対全日本OBの試合を、秩父宮両殿下が台覧
1930
昭和5
日本代表、カナダで初の海外遠征を行う(6勝1分)

  • 1938眞下 昇氏、東京都に生まれる
1942
昭和17
日本ラグビーフットボール協会、大日本体育大会蹴球部会に位置づけられる

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1947
昭和22
秩父宮殿下、日本ラグビーフットボール協会総裁に就任
九州ラグビー協会(現・九州ラグビーフットボール協会)創設
東京ラグビー場(現・秩父宮ラグビー場)が竣成

  • 1947日本国憲法が施行
1949
昭和24
第1回全国実業団ラグビー大会開催
1950
昭和25
第1回新生大学大会開催
「全国大学大会」の名称となる

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
全国実業団ラグビー大会、第5回から全国社会人ラグビー大会に改称
1953
昭和28
田辺九萬三氏、日本ラグビーフットボール協会の2代目会長に就任
東京ラグビー場を秩父宮ラグビー場に改称

  • 1954眞下 昇氏、群馬県立高崎高校に入学。ラグビー部に所属し、1955年、1956年には全国高校大会に出場
  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
香山蕃氏、日本ラグビーフットボール協会の3代目会長に就任

  • 1957眞下 昇氏、東京教育大学(現・筑波大学)に入学。ラグビー部に所属
1961
昭和36
第1回NHK杯ラグビー試合(現・日本選手権)開始

  • 1961眞下 昇氏、外資系商社ドットウエル社に入社。ラグビー部に所属。ラグビーのクラブチーム「エリスクラブ」にも所属
1962
昭和37
秩父宮ラグビー場、国立競技場に移譲
1963
昭和38
日本代表、戦後初の海外遠征(カナダ)

1964
昭和39
第1回日本選手権試合開催

  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
第1回全国大学選手権大会開催

1968
昭和43
湯川正夫氏、日本ラグビーフットボール協会の4代目会長に就任

1969
昭和44
第1回アジアラグビー大会開催
日本は全勝で優勝

  • 1969眞下 昇氏、エストクラブ主将として韓国遠征。その後、現役を引退。現役引退後、社会人ラグビーの審判を務める
  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
横山通夫氏、日本ラグビーフットボール協会の5代目会長に就任
1971
昭和46
第1次・高校日本代表のカナダ遠征

1972
昭和47
椎名時四郎氏、日本ラグビーフットボール協会の6代目会長に就任

1973
昭和48
全国高校選抜東西対抗試合開始

  • 1973オイルショックが始まる
  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
阿部譲氏、日本ラグビーフットボール協会の7代目会長に就任

  • 1980眞下 昇氏、関東ラグビーフットボール協会理事に就任
1982
昭和57
代表キャップ制度を発足

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1987
昭和63
第1回ワールドカップが開催(オーストラリア・ニュージーランドの共同開催) 以後、第7回大会まで日本代表チームは連続出場を果たす

1990
平成2
磯田一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の8代目会長に就任

1992
平成4
川越藤一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の9代目会長に就任

  • 1992眞下 昇氏、日本ラグビーフットボール協会理事に就任
1993
平成5
第1回ジャパンセブンズ開催
1995
平成7
金野滋氏、日本ラグビーフットボール協会の10代目会長に就任

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
  • 1997香港が中国に返還される
2000
平成12
IRBワールドセブンズシリーズ日本大会開催

2001
平成13
町井徹郎氏、日本ラグビーフットボール協会の11代目会長に就任

2002
平成14
女子ラグビーが日本ラグビーフットボール協会に加入
女子ラグビーは、第4回女子ワールドカップに初参加

  • 2002眞下 昇氏、日本ラグビーフットボール協会専務理事に就任
     眞下 昇氏、日本オリンピック委員会評議員に就任
     眞下 昇氏、日本スポーツ協会評議員に就任
     眞下 昇氏、ジャパンラグビー トップリーグ初代チェアマンに就任
2003
平成15
ジャパンラグビー トップリーグが社会人12チームで開幕

  • 2004眞下 昇氏、ラグビーワールドカップ招致委員会委員長に就任
2005
平成17
森喜朗氏、日本ラグビーフットボール協会の12代目会長に就任

  • 2005眞下 昇氏、日本ラグビーフットボール協会副会長兼専務理事に就任
     眞下 昇氏、日本トップリーグ連携機構副専務理事に就任
2006
平成18
ジャパンラグビートップリーグチーム数は12チームから14チームへ増加

  • 2007眞下 昇氏、アジアラグビーフットボール協会理事に就任
     眞下 昇氏、ワールドラグビー理事に就任
  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
U20世界ラグビー選手権(IRBジュニアワールドチャンピオンシップ2009)開催
2019年ラグビーワールドカップが日本で開催決定
2010
平成22
2019年ラグビーワールドカップ日本開催組織委員会の設立準備を開始

  • 2011眞下 昇氏、日本ラグビーフットボール協会副会長に専任
  • 2011東日本大震災が発生
  • 2012眞下 昇氏、ラグビーワールドカップ2019組織委員会理事に就任
2013
平成25
日本ラグビーフットボール協会が公益財団法人へ移行

  • 2013眞下 昇氏、日本ラグビーフットボール協会顧問に就任
2015
平成27
岡村正氏、日本ラグビーフットボール協会の13代目会長に就任

2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催
7人制ラグビーが正式種目として実施

  • 2018眞下 昇氏、ラグビーワールドカップ2019組織委員会エグゼクティブアドバイザーに就任