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日本のラクビーを支える人びと
第80回
支援の背景にあるラグビーへの愛情と情熱

上原 明

小学生の時からラグビーに慣れ親しみ、ラグビーのルーツ校である慶應義塾大学に進学後は、同大学のサークルである「B.Y.Bラグビーフットボールクラブ」(「Black Yellow Black」の略で1933年に創立されたクラブチーム)に所属していた上原明さん。

上原さんが現在会長を務めている大正製薬では18年間にわたって、ラグビー日本代表のオフィシャルスポンサーを務めるなど、日本ラグビー発展に大きく寄与されてきました。今回はスポンサー企業の視点から、日本ラグビーの現況と今後についてお話を伺いました。

インタビュー/2018年12月7日  聞き手/佐野 慎輔  文/斉藤 寿子  写真/上原 明・フォート・キシモト

冬の体育の恒例だったラグビー

小学校5年の時の野球大会にて(後列左から2人目)

小学校5年の時の野球大会にて(後列左から2人目)

―― 御社(大正製薬)は2001年より、ラグビー日本代表のオフィシャルスポンサー、2016年からはラグビー日本代表のオフィシャルパートナーを務められてきました。
 会長である上原さんご自身が、ラグビーに深い愛情を注がれていますが、ラグビーとの出合いはいつだったのでしょうか。

私は小学校から高校までの12年間、成蹊学園(東京)に通ったのですが、中学、高校では冬の間、体育の授業はラグビーかマラソンと決まっていました。というのも、当時体育の先生は東京教育大学(現筑波大学)から来られていたのですが、なぜか歴代、ラグビー部の選手だったんです。

そのためにラグビーに対しては大変熱心な先生ばかりで、雪の中でもラグビーをやりました。毎年、冬にマラソン大会が1日あったのですが、男子は学年ごとにチームを作って総当たりで対戦するラグビー大会も1日設けられていました。そういうこともあって、私自身、早くからラグビーに慣れ親しむ環境にありました。

中学時代、波左間海岸(館山)の夏の臨海学校にて(後列左端)

中学時代、波左間海岸(館山)の夏の臨海学校にて(後列左端)

―― 当時、中学校の体育でラグビーをやっていたというのは珍しかったのではないでしょうか。

私たちの成蹊学園のほかに、当時都内でラグビーをやっていた中学校は慶應義塾普通部、慶應義塾中等部、成城学園中学校高等学校、学習院中等科、青山学院中等部がやっていたと思います。

―― 上原さんは体格は大きい方だったんですか?

私は早熟で、小学校を卒業する時には身長158センチ、体重58キロほどあったんです。ただ、それ以降はあまり成長しなかったのですが(笑)。子どもの頃は体格が大きいこともあって、運動が好きでしたから、ラグビーをはじめ野球、水泳といろいろやっていました。

―― 中学、高校でのラグビーの思い出はありますか?

一番の思い出は、昭和32年(1957年)、高校2年の時に日本とカナダの学生選抜の大会の前座試合に出て、秩父宮ラグビー競技場でプレーしたことです。

大学では「演劇」を諦め「ラグビー」の道へ

慶大B.Y.Bクラブ時代、試合前(後列左から2人目)

慶大B.Y.Bクラブ時代、試合前(後列左から2人目)

―― 高校卒業後、進学した慶應義塾大学では同大学のサークル「B.Y.Bラグビーフットボールクラブ」に所属しました。

私は運動のほかに、もう一つ好きだったのが演劇でした。文化祭というと、小学1年の時からいつも引っ張り出されて舞台に出ていたんです。それで大学に入った時に、ラグビーと演劇と、どちらを選ぶかでずいぶんと悩みました。結局、ラグビーをやることにして、演劇は「観る」方にまわることにしたんです。「B.Y.B」というのは、ジャージの色を示していて「Black Yellow Black」の略。黒と黄色の横縞のジャージなのですが、黄色よりも黒の方が少し太いのが特徴です。昭和8(1933)年に創立された85年を超える歴史のあるクラブチームです。

―― 演劇ではなく、ラグビーをすることを選んだ理由は何だったのでしょうか。

やはりそれまでの受験勉強で運動不足でしたから、思い切り体を動かしたいという気持ちがありました。それと、将来のことを考えても、演劇で食べていくわけではないだろうと。実は、成蹊学園の演劇部には、同期に長山藍子さんや東野英心さん、一学年上には山本圭さんと後に俳優となって活躍した人がいたんです。でも、自分もとは思いませんでしたから、もう「観る」方に回ろうと。小学1年から毎年舞台に上がっていましたから、十分だと思ったんです。それでラグビーの方を選びました。

慶大B.Y.Bクラブ時代の練習(中央)

慶大B.Y.Bクラブ時代の練習(中央)

―― ポジションはどこだったのでしょうか?

中学時代から、ほとんどプロップ(スクラムの第1列の両端でスクラムを押すポジション)が多かったですね。当時はプロップをやっているとブレイクが一番遅くなりますし、ボールにも特に1、2年の時は触れないんです。ですから、パスをもらってボールを触ることができた時の喜びが大きいポジションでしたねぇ(笑)。最近のラグビーでは両端のプロップが空いている場合は、そのプロップにパスをして外からのオープン展開でトライなどしていますけども、当時はなかなかボールに触れなかったですからね。

―― どこに魅力を感じながらプレーしていましたか?

ラグビーというのは、ベストを尽くし、それぞれの役割を忠実に果たすこと。そして、それをそのほか14人の仲間が見てくれていること。これが最大の魅力でしたね。ですからトライを決めた時にも、今のようにトライした選手のところにワーッと集まるのではなく、そのトライにつながった最高のタックルをした選手のところへみんなが集まって良いプレイだったと称賛することが度々ありました。

慶大B.Y.Bクラブ時代、合宿打ち上げの集合写真(上から2列目中央)

慶大B.Y.Bクラブ時代、合宿打ち上げの集合写真(上から2列目中央)

―― 慶大というとラグビーのルーツ校ですが、体育会の方の慶大ラグビーというのはどのような特徴があると感じられていますか?

現在私は慶應義塾(関連校である高校、中学校、小学校なども含んだ学校法人)の理事・評議員でもあるのですが、以前、理事会で「強い選手をスカウトしてきてはいかがでしょう?」と提案したことがありました。

その時に言われたのは「大学のラグビー部は教育の一環としてやっていますので、"来る者拒まず"の姿勢でいきます。セレクションなどはしません」と。その時に、慶應義塾独自の理念というものがあって、筋が通っているんだなと思いました。

「変革の必要性」と「認知拡大」への思いが支援に

上原明氏(インタビュー風景)

上原明氏(インタビュー風景)

―― 上原さんが現在取締役会長を務められている大正製薬が、ラグビー日本代表のオフィシャルスポンサーとなったのは、どのような経緯からだったのでしょうか。

弊社の主力製品である「リポビタンD」のCMの中には、もともとラグビーシーンがいくつかありました。「リポビタンD」のキャッチコピーは「ファイト!一発!」ですから、ここぞという時にタックルしたり、走ったり、トライするというラグビーは「リポビタンD」のイメージに適していました。

そんな中、ラグビー日本代表のオフィシャルスポンサーとなったのは、始まりは宿澤広朗さん(早大OB、元日本代表、元日本代表監督)とのご縁でした。宿澤さんは単にパスを出すだけではなく、的確な判断に基づいて非常に俊敏な動きをするスクラムハーフ(パスのスペシャリストで、スクラムではボールを入れる役割を担うポジション)であり、非常にキャプテンシーもある方でした。その宿澤さんは大学卒業後に住友銀行(現三井住友銀行)に入行されたのですが、弊社のメインバンクの一つが住友銀行であり、私が海外出張でイギリスを訪れた時に、ちょうど宿澤さんがロンドン支店に赴任されていました。私がロンドン支店を訪れた際に、支店長が「うちの誰かにロンドンをご案内させますよ」と言ってくださったので、私の方から「それでは、宿澤さんにお願いします」と申し上げ、それで宿澤さんが丸一日、ロンドンを案内してくださったという思い出があります。

リポビタンDチャレンジカップ2017で勝利したオーストラリア代表との記念写真(前列右)

リポビタンDチャレンジカップ2017で勝利したオーストラリア代表との記念写真(前列右)
*日本代表とのユニフォーム交換後

その2,3年後に宿澤さんは日本に戻ってこられました。そうしたところ、私と同じ慶大出身の大先輩で大学時代には体育会とB.Y.Bの両方のラグビー部に入っておられ、弊社ともビジネス上の関係もある龍野和久さん(元日本ラグビーフットボール協会名誉顧問)と話をしている際に宿澤さんの話が出たのです。それでロンドンを案内していただいたことを話しましたら「上原さん、宿澤を知ってるんですね。じゃあ、今度みんなで会いましょう」と席を設けてくれました。龍野さん、宿澤さんのほかに堀越慈さん(元日本ラグビーフットボール協会理事)、母校の慶大を日本一に導いた上田昭夫さんも来られていましたね。それ以降、そのメンバーで年に2、3回は食事をするようになりました。皆さんといろいろな話をしましたが、その中で宿澤さんがよく言っておられたのは「日本のラグビー界を変革する必要がある。アマチュアリズムといっても、弱くては世界と互角に勝負できないのだから」ということでした。
そんな経緯があった中で、2000年に宿澤さんが堀越さんと一緒に弊社に来られてこう言われたのです。「今度、私が強化委員長になりトップリーグを立ち上げることにしました。そこで、大正製薬さんには日本代表の冠スポンサーになっていただきたい」と。ただ、弊社には同好会といったラグビーチームしかありません。ラグビーといえば、サントリーさんや東芝さん、パナソニックさんといくらでも大きな企業があるわけです。正直にそう申し上げたところ、宿澤さんは「日本代表に選ばれた選手といえども、普段しのぎを削り合っている相手チームの企業ロゴを入れたユニフォームを着ることには抵抗感があるものです。ですから、ラグビーに理解があって、かつ普段しのぎを削りあうような強いチームを持っていない企業さんが一番いいので、ぜひ御社にお願いしたい。日本のラグビーを本気で強くしていきたいと思っていますので、ぜひよろしくお願いします」と言われました。それを聞いて納得しまして、「わかりました。お引き受けします」と。弊社としても先ほど申し上げたように、「リポビタンD」の製品イメージにラグビーは合っていましたから、お引き受けすることにしたんです。

早大、日本代表で活躍し、その後日本代表監督も務めた宿澤広朗氏

早大、日本代表で活躍し、その後日本代表監督も務めた宿澤広朗氏

―― 1995年に世界のラグビーはアマチュア主義が撤廃されて、プロ化の道を進み始めました。しかし、日本はアマチュアリズムを重視するあまりその流れから完全に立ち遅れてしまいました。そこで宿澤さんや堀越さんが日本ラグビーの変革を訴えられていて、それに上原さんも共感されたと。

そうですね。私自身ラグビーが好きでしたから、もっと日本にラグビーが根付いてほしいという気持ちがありました。そのためにも日本ラグビー界の変革は不可欠だと感じていました。

そもそもなぜ日本にこれだけラグビーが受け入れられたのかを考えてみますと、日本的な美意識、いわゆる「侍の精神」に共通したものがラグビーにあったからだと思うのです。つまり自分自身の名声や富よりも、チームのために献身、貢献しようとする精神。それは日本で古くから脈々と流れてきたものだと思います。だからこそ、1899年にイギリスから伝わったラグビーがすんなりと日本に受け入れられたわけです。そのラグビーの良さを、つぶしてはいけないと思っていました。

―― ラグビーの良さを継承していく中で、新たにビジネスとして考えていかなければならない時代になった。そのことをいち早く感じて行動に移した宿澤さん、そしてそのことに理解を示し支援してくださった上原さんという存在がいなければ、今の日本ラグビーはなかったのではないかと思います。

大正製薬の3代社長を務めた上原正吉氏

大正製薬の3代社長を務めた上原正吉氏

私はそれほど大したことをしたわけではありません。ただ、弊社には宿澤さんも好まれていた言葉ですが、上原正吉(大正製薬3代社長)が残した「商売は戦い 勝つことのみが善である」「紳士の商人(紳商)であれ」という創業の精神があります。それはどんなことをしてでも勝てばいいという意味ではありません。商売で勝つためには3つの大切な要件がありまして、一つは薬ですから良く効く品質であること。二つ目は経済的に相手(小売り)が利益をあげること。最後はサービスが良くなければいけない。この三つがそろえば、薬の商売の競争でライバルに勝つことができ、三つのうち一つでもあれば有利な勝負ができると。そして、その三つを実現させるために創意工夫をしていく。また、相手も研究してくるはずだから、お互いに切磋琢磨することにより、自由主義経済の社会においては歯車が良い方向に回って、世の中が進歩するという考え方なんですね。

これをラグビーに置き換えると、戦略・戦術など、いろいろと工夫するところに価値がある。体力勝負で強い者だけが勝つのではなく、創意工夫の部分がラグビーの醍醐味であると。

リポビタンDチャレンジカップ2014試合終了後マオリ・オールブラックスとの記念写真(前列中央)

リポビタンDチャレンジカップ2014試合終了後マオリ・オールブラックスとの記念写真(前列中央)

―― スポーツと商売には共通した「価値」があると。

はい、私はそう思います。私が瀬島龍三先生(元伊藤忠商事会長)の勉強会に出席していた際に、先生がおっしゃっていたのは「一番重要なのは『着眼大局 着手小局』だ」ということでした。つまり、世の中の時代の流れに反するような動きをしても決して成功するものではないということなんですね。いつの世も時代の流れを把握して、どうしていかなければいけないかを考えることが重要だということを教わりましたが、スポーツの世界も同じなのではないかと思います。

FIFAワールドカップアメリカ大会アジア最終予選、イラクと引き分け出場を逃す“ドーハの悲劇”(1993年)

FIFAワールドカップアメリカ大会アジア最終予選、イラクと引き分け出場を逃す“ドーハの悲劇”(1993年)

―― 18年間もの長い間、ラグビー日本代表のスポンサーを続けてこられた最大の理由とは何でしょうか。

今ではワールドカップ出場が当たり前となったサッカー日本代表も、つい20年程前まではなかなかアジアでも勝つことができませんでしたよね。1993年の「ドーハの悲劇」(試合終了間際にイラクに同点ゴールを決められてワールドカップ初出場を逃した試合)など苦しい時代を乗り越えて、ようやく1998年にワールドカップ初出場を果たし、2002年日韓共催ワールドカップで日本にサッカー文化が根付き、それ以降、サッカー日本代表はワールドカップの常連となりました。

弊社がラグビー日本代表のスポンサーとなったのは、やはりラグビーも日本に定着してほしいという気持ちがあったからです。その時点でラグビー日本代表はワールドカップでは未だ1勝(1991年、ジンバブエ戦)しか挙げられていなかったのでそのことは非常に寂しく思いましたが、しかし単に勝ち負けだけではなく、ラグビーというスポーツを一人でも多くの人に経験してほしい、その思いが一番強かったですね。ラグビーを知ってもらうとわかると思うのですが、試合が始まると息つく間もないほど見入ってしまうんです。接触プレーが多いですから、迫力もありますしね。それと、ラグビーの良さは仲間意識の強さ。スコットランドの製薬会社の方と話をしていた時も、私がラグビー経験者だと言うと、「オマエもラグビーをやっていたのかい?」と言って、あっという間に仲良くなってしまうんです。そんなことを一人でも多くの人に味わってほしいんです。

ラグビー文化を日本全国へ

ラグビーワールドカップ2015イングランド大会で日本は南アフリカから歴史的勝利をあげる

ラグビーワールドカップ2015イングランド大会で日本は南アフリカから歴史的勝利をあげる

―― いよいよ今年9月にはアジア初のラグビーワールドカップが日本で開催されます。現在の日本ラグビーは、上原さんの目にはどのように映っているのでしょうか。

前回の2015年ラグビーワールドカップで、日本が優勝候補の南アフリカを破った時には、「これで日本にもラグビーブームが来る」と思っていました。確かにワールドカップ直後はラグビー人気も高かったと思うのですが、残念ながら一時的なもので、長くは続きませんでしたね。今ではトップリーグの試合でさえも観客が集まっていません。観客席にいるのは、ほとんどがチームのスポンサー企業の関係者というのはあまりにも寂しい光景です。今のやり方では限界があるのではないでしょうか。

私が強く思うのは、地域活性化の道を推し進めていかなければいけないということ。そのためにもまずはチーム名から企業名を外して、地域名を前面に出していくことが必要だろうと。サッカーのJリーグがそうでしたよね。当時チェアマンだった川淵三郎さんが指揮を執り、企業を説得して企業名を外しました。あれは川淵さんの英断だったと思いますし、企業側もよくぞ理解を示してくださったなと。チーム名に企業の名がなくても、ファンは自分たちのチームに、どの企業がバックアップしてくれているかということは知っているだろうし、感謝の気持ちを抱いていると思うのです。企業側にはそういうことで納得してほしいなと。今やバスケットボールのBリーグも、プロ野球のパ・リーグもそうですよね。企業よりも地域の方を表に出している。こうして成功している競技やチームがたくさんあるわけですから、ラグビーもそういうところから学ぶことは多いのではないかなと思いますね。

今のトップリーグを見ていると、どうもプレーヤーサイドの方にばかり目がいっていて、観客を楽しませるという観点は少しおろそかになっている気がします。ルール説明一つとっても、ラグビー経験者ではなく、初めて観戦に訪れた女性や子どもにもわかるようにするにはどうすればいいのか、といったことを考える。もっと「観客主権」にならないといけないと思います。

ラグビーワールドカップ2019日本大会の日本代表を応援するポスター

ラグビーワールドカップ2019日本大会の日本代表を応援するポスター

―― スポンサーを務められているラグビー日本代表についてはいかがですか。

昨年11月に行われたオールブラックス(ニュージーランド代表)やイングランド代表との試合を見ても、トライ寸前までいっても、ちょっとしたミスで相手にボールを取られてしまい、すぐにバックスに展開されて逆襲されてしまう。その辺が弱いところかなと。相手のフォローアップが非常に優秀ということもありますが、日本のバックアップが弱いなと。相手にやられたというよりも、日本がミスでこぼしたボールを奪われて相手にトライを決められるというような試合でしたからね。

―― さまざまな課題がある中で、ラグビーワールドカップが開催されるわけですが、上原さんはどのようなことを期待されていますか?

ラグビーワールドカップの日本開催が決定した際に、「ラグビーワールドカップ2019組織委員会」の一人として意見を述べさせていただいたことがあるんです。今回は全国12会場で試合が行われるわけですが、ラグビーワールドカップに関係している地域というのは、それだけにとどまりません。各国の代表チームのキャンプ地が全国に50以上もあります。ですから会場都市だけでなく、キャンプ地にもラグビー文化が根付くような仕組みを各地方自治体と一緒になってやっていってもらいたいなと。2002年サッカーワールドカップでは大分県中津江村(現日田市中津江村)がカメルーン代表のキャンプ地となったことをきっかけに、大分県とカメルーンの交流は今も続いていて、地元企業が進出するなど、ビジネス関係にもつながっていると聞いています。それはラグビーワールドカップのいいモデルケースとなるのではないかと思います。ぜひ自分たちの自治体ではどういうことをしているかということをHPで発表するなどして、ほかの自治体との情報交換も活発にしていただきたいなと。こうしたことが地域活性化につながるはずです。

大正製薬はラグビーワールドカップ2019日本大会のスポンサーを務める 

大正製薬はラグビーワールドカップ2019日本大会のスポンサーを務める 

―― 上原さんにとって、ラグビーワールドカップの成功とは何でしょうか。

日本にとって、インパクトのある、そしてその後につながる衝撃的出来事となってほしいなという思いがあります。2002年サッカーワールドカップは、まさにそういう大会だったと思います。あの大会開催を機に、どれだけ日本のサッカー界が発展し、成長していったか。ラグビーも今年のワールドカップ開催を機に、ぜひラグビー文化が根付いていってほしいなと思います。 それと今はアメリカをはじめ、世界が「For One Country」になり始めているけれども、そんな時代に国境なくして純粋に交じり合うことができるのは「スポーツ」と「芸術」だと思います。そういう意味で、日本は今年ラグビーワールドカップが開催され、2020年には東京オリンピック・パラリンピック、2021年にはワールドマスターズゲームズ2021関西、そして2025年には大阪で日本万国博覧会の開催が決定しました。世界規模のイベントを立て続けに日本で開催する意義は大きく、昔から言われているラグビー精神である「One for All, All for One(1人はみんなのために、みんなは1人のために)になぞらえて「One country for All country, All country for One country」を世界に発信していくことも大事な役割だと思っています。その大事なスタートとして、ラグビーワールドカップで具現化してほしいですね。

ラグビーワールドカップ2015イングランド大会で南アフリカに勝ち喜ぶ日本代表

ラグビーワールドカップ2015イングランド大会で南アフリカに勝ち喜ぶ日本代表

―― レガシーという観点では、ラグビーワールドカップの後には、どんなものが残ってほしいと思われますか。

やはり日本にラグビー文化が根付く、その素地を今年のラグビーワールドカップでは作ってほしいなと思いますね。そのためにも、ラグビー経験者だけが楽しむようなものではなく、初めてラグビーを見たという方にも十分に楽しめるようなものであってほしいなと。そうすると、子どもたちが「自分もラグビーをやってみたい」と思ってくれたり、あるいは親御さんが「自分の子どもにもやらせてみようかな」と思ってくれて、ラグビーがどんどん広がっていくのではないかと思います。特に、やはり一番大事なのは女性への広がりをどう増やしていくかということだと思います。女性は家族や友人、子どもたちを連れてきてくれますから、大きな広がりが見込まれるんじゃないかと思いますね。

これからの普及が期待される女子ラグビーとウィルチェアーラグビー

これからの普及が期待される女子ラグビーとウィルチェアーラグビー

スポーツを「観る」から「する」の時代へ

―― 来年は2020年東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。オリンピックには「7人制ラグビー」があり、パラリンピックには「ウィルチェアーラグビー」があります。

15人制ラグビーとはまた違う種類のスポーツではあると思うのですが、「ラグビー精神」を大切にしているところは7人制ラグビーにもウィルチェアーラグビーにも感じられます。また、7人制では男子だけでなく女子もありますが、女性にもラグビーを実際にやって、その面白さを体感してもらえるというのは非常に嬉しいなと思いますね。同じく、障がいがあっても工夫してラグビーをしようという気持ちが嬉しいですよね。

―― 日本のスポーツ環境という点においては、どのようなご意見をお持ちでしょうか。

現在、日本の名目GDP(国内総生産)は約550兆円(2017年度)。1960年頃はサービス産業はGDPの3分の1程度しかありませんでした。現在は3分の2になっています。そうするとサービス産業というのは生活者主体ですから、いかに楽しんでもらうかということが今後も重要になってくるのだろうと思います。そのための環境づくりを考えますと、これは他のスポーツにも言えることですが、まずは「観る」環境、そして次に「やれる」環境が大切になってきます。「観る」環境はだいぶ整えられてきたとは思いますので、今後着手しなければいけないのは「やれる」環境だろうと。ところが、現状は空き地や公園がどんどんなくなり、子どもたちが自由にスポーツをする環境は激減してきています。難しい課題はたくさんあると思いますが、今後は「観る」スポーツから「する」スポーツへと注力していく必要があるのではないでしょうか。

上原明氏(インタビュー風景)

上原明氏(インタビュー風景)

―― また、現在は選手たちが現役引退後にどう生活していくのか、セカンドキャリア問題が浮上しています。これは企業人としてどのようにお考えでしょうか。

会社の仕事と同じで、その選手がどれだけ真剣に競技に取り組んできたか、その姿勢が一番重要だと思います。「一芸に秀でる」とよく言われますが、秀でるために、どれだけ努力、工夫をしてきたか、ということが現役引退後にもつながっていくのではないかなと。競技を中途半端にやってきた選手というのは、仕事においても同じだと思います。もちろん専門知識や技術も必要だとは思いますが、それ以上に何事に対しても努力、工夫する姿勢があれば、次につながっていくはずです。

―― 最後に、上原さんにとってラグビーとはどんな存在でしょうか?

ラグビーというのは、プレーするうえで自分自身のことを一番よく知っているのは自分なんですよね。自分が正しいプレーをしたのか、しないのか。あるいは、どれだけの努力をしたか、努力することを怠ったのか。自分を律するスポーツがラグビーなのだと思います。一方で、いくら努力をしても永遠に完璧には解決することができません。それはなぜかというと、相手がいるからです。だからこそ努力をして工夫をし続けていかなければいけない。それはラグビーも仕事も同じ。だから私にとってラグビーは「一生、学びの場」なんです。

ラグビー・上原 明氏の歴史

  • 上原 明氏略歴
  • 世相

1871
明治4
イングランドでラグビーフットボール協会(ラグビー・フットボール・ユニオン)が創設
初の国際試合がイングランドとスコットランドの間で行われる
1883
明治16
初の国際大会であるホーム・ネイションズ・チャンピオンシップ(現・シックス・ネイションズ)が開催
1886
明治19
国際統括団体である国際ラグビーフットボール評議会(現・ワールドラグビー)創設
1899
明治32
慶應義塾大学の教授でケンブリッジ大学のラグビー選手でもあったクラーク氏と、
同大学の選手でもあった田中銀之助が日本で初めてラグビーの指導を開始
1900
明治33
ラグビーが夏季オリンピックに採用される (1924年のオリンピックで終了)
1911
明治44
同志社大学でラグビー部が創部される
1918
大正7
早稲田大学でラグビー部が創部される
1919
大正8
第1回日本フットボール大会(現・全国高等学校大会)開催
1921
大正10
京都帝国大学、東京帝国大学(現・京都大学、東京大学)でラグビー部が創部される
1924
大正13
関東ラグビー蹴球協会(現・関東ラグビーフットボール協会)創設
1926
昭和元
西部ラグビー蹴球協会(現・関西ラグビーフットボール協会)創設
日本ラグビーフットボール協会が、関東ラグビーフットボール協会と、関西ラグビーフットボール協会の統一機関として創設
1928
昭和3
高木喜寛氏、日本ラグビーフットボール協会の初代会長に就任
第1回東西対抗ラグビー、甲子園球場にて開催
1929
昭和4
近鉄花園ラグビー場が完成
全日本学生対全日本OBの試合を、秩父宮両殿下が台覧
1930
昭和5
日本代表、カナダで初の海外遠征を行う(6勝1分)

  • 1941上原 明氏、東京都に生まれる
1942
昭和17
日本ラグビーフットボール協会、大日本体育大会蹴球部会に位置づけられる

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1947
昭和22
秩父宮殿下、日本ラグビーフットボール協会総裁に就任
九州ラグビー協会(現・九州ラグビーフットボール協会)創設
東京ラグビー場(現・秩父宮ラグビー場)が竣成

  • 1947日本国憲法が施行
1949
昭和24
第1回全国実業団ラグビー大会開催
1950
昭和25
第1回新生大学大会開催
「全国大学大会」の名称となる

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
全国実業団ラグビー大会、第5回から全国社会人ラグビー大会に改称
1953
昭和28
田辺九萬三氏、日本ラグビーフットボール協会の2代目会長に就任
東京ラグビー場を秩父宮ラグビー場に改称

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
香山蕃氏、日本ラグビーフットボール協会の3代目会長に就任

1961
昭和36
第1回NHK杯ラグビー試合(現・日本選手権)開始

1962
昭和37
秩父宮ラグビー場、国立競技場に移譲
1963
昭和38
日本代表、戦後初の海外遠征(カナダ)

1964
昭和39
第1回日本選手権試合開催

  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
第1回全国大学選手権大会開催

  • 1966上原 明氏、慶應義塾大学を卒業。
     在学中にはアメリカに留学し、BYBラグビーフットボールクラブに所属
1968
昭和43
湯川正夫氏、日本ラグビーフットボール協会の4代目会長に就任

1969
昭和44
第1回アジアラグビー大会開催され、日本は全勝で優勝

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
横山通夫氏、日本ラグビーフットボール協会の5代目会長に就任
1971
昭和46
第1次・高校日本代表のカナダ遠征

1972
昭和47
椎名時四郎氏、日本ラグビーフットボール協会の6代目会長に就任

1973
昭和48
全国高校選抜東西対抗試合開始

  • 1973オイルショックが始まる
  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1977上原 明氏、NECを経て大正製薬に入社
  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
阿部譲氏、日本ラグビーフットボール協会の7代目会長に就任

1982
昭和57
代表キャップ制度を発足

  • 1982上原 明氏、大正製薬 代表取締役社長に就任
  • 1982東北、上越新幹線が開業
1987
昭和63
第1回ワールドカップが開催(オーストラリア・ニュージーランドの共同開催) 以後、第7回大会まで日本代表チームは連続出場を果たす

1990
平成2
磯田一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の8代目会長に就任

1992
平成4
川越藤一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の9代目会長に就任

1993
平成5
第1回ジャパンセブンズ開催
1995
平成7
金野滋氏、日本ラグビーフットボール協会の10代目会長に就任

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
  • 1997上原 明氏、日本大衆薬工業協会 会長に就任
  • 1997香港が中国に返還される
  • 1999上原 明氏、世界大衆薬協会 会長に就任
2000
平成12
IRBワールドセブンズシリーズ日本大会開催

2001
平成13
町井徹郎氏、日本ラグビーフットボール協会の11代目会長に就任

  • 2001大正製薬がラグビー日本代表チームをオフィシャルスポンサーとなる
2002
平成14
女子ラグビーが日本ラグビーフットボール協会に加入
女子ラグビーは、第4回女子ワールドカップに初参加

  • 2003上原 明氏、薬事功労者厚生労働大臣表彰受賞
2003
平成15
ジャパンラグビー トップリーグが社会人12チームで開幕

2005
平成17
森喜朗氏、日本ラグビーフットボール協会の12代目会長に就任

2006
平成18
ジャパンラグビートップリーグチーム数は12チームから14チームへ増加

  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
U20世界ラグビー選手権(IRBジュニアワールドチャンピオンシップ2009)開催
2019年ラグビーワールドカップが日本で開催決定

  • 2009上原 明氏、社会教育功労者文部科学大臣表彰受賞
2010
平成22
2019年ラグビーワールドカップ日本開催組織委員会の設立準備を開始

  • 2011上原 明氏、日本一般用医薬品連合会 会長に就任
  • 2011東日本大震災が発生
2013
平成25
日本ラグビーフットボール協会が公益財団法人へ移行

  • 2013上原 明氏、大正製薬ホールディングス 代表取締役社長に就任
2015
平成27
岡村正氏、日本ラグビーフットボール協会の13代目会長に就任

  • 2015上原 明氏、大正製薬 取締役会長に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催
7人制ラグビーが正式種目として実施

  • 2016上原 明氏、アジア太平洋セルフメディケーション協会 会長に就任