Search
国際情報
International information

「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

知る学ぶ
Knowledge

日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

日本のラクビーを支える人びと
第81回
「ラグビー・スピリット」の浸透でラグビーを文化に

堀越 慈

高校生の時に初めて目にしたラグビーに目を奪われ、すっかり魅了されたという堀越慈さん。ラグビーのルーツ校である慶應義塾大学ラグビー部に所属し、ロック(スクラムでは第2列に位置して第1列を肩で押す。長身選手が多く、ジャンプ力が求められる空中戦に強いポジション)として活躍しました。

社会人時代には日本代表としてニュージーランド遠征メンバーに選ばれ、オールブラックス・ジュニアを破る大金星を挙げました。現役引退後は日本ラグビー界の改革に寄与し、アジア初のラグビーワールドカップ開催にも大きく貢献しました。テレビ解説者としても活躍された堀越さんに日本ラグビー界が歩んできた道のりについてお話をうかがいました。

インタビュー/2018年12月13日  聞き手/佐野 慎輔  文/斉藤 寿子  写真/堀越 慈・フォート・キシモト

ラグビールーツ校での本格的デビュー

4歳のころ(東京/滝野川にて)

4歳のころ(東京/滝野川にて)

―― 堀越さんと言えば、テレビ解説者として長きにわたって活躍されたことでも知られています。堀越さんご自身、ラグビーを始めたのは大学時代からだったそうですね。

私の出身校である東京都立三田高校の前身は、東京府立第六高等女学校で、男女共学となったのは1950年でした。ですから、私が同校に通っていた1958~60年という時代も、まだ男子は全校生徒の4分の1ほどしかいなかったんです。人数が少なかったですから、男子で本格的な活動をしている運動部はなかったんです。

一応ラグビー部もあったことはあったのですが、3学年合わせても15人に満たされていませんでした。私自身は所属はしていませんでしたが、当時から体が大きい方でしたので、ラグビー部に駆り出されて試合に出たこともありました。ポジションはウイング(バックスの両翼に位置し、快足を飛ばしてトライを狙うポジション)でしたが、今のように「花形ポジション」ではなく、当時は最もボールが回ってこないポジションで、「とにかく相手が来たら捕まえればいいから」と言われていました(笑)。そんなことで高校時代から少しラグビーを経験していたのですが、本格的に始めたのは慶應義塾大学に入ってからのことでした。

―― 試合に出られるようになったのはいつ頃からだったんでしょうか。

慶大ラグビー部に入部してみると、予想をはるかに超えた過酷な練習が待ち受けていました。それでも一生懸命に練習をしまして、2年から試合に出させてもらえるようになりました。1年の時にみっちりと絞られたのが良かったんでしょうね。

1970年代の慶大の試合

1970年代の慶大の試合

―― 子どもの頃からラグビーへの憧れというのはあったのでしょうか。

もともとはあまりラグビーについては知識もなかったですし、そこまでの思いはありませんでした。きっかけは1958年、私が高校1年の時にオールブラックス(ニュージランド代表)が来日しまして、「オール慶應」と対戦した試合を観に行ったことでした。「オールブラックス」と名乗ってはいましたが、実際は22歳以下の若い代表チームでした。それでも結果はオールブラックスの一方的な勝利に終わったんです。

ただ、体格の大きなオールブラックスの選手たちが突進を繰り返す中、小柄な「オール慶應」の選手たちが健気にタックルする姿を目にしまして、「これは男らしい素晴らしいスポーツだな」と感動したんです。それでラグビーに関心を持つようになりました。それと高校時代に時々ラグビー部に駆り出されて試合に出ると、同級生に「オマエは体も大きいし、結構運動神経もいいから、ラグビーをやってみたらいいんじゃないか?」と言われていたんですね。そんなおだてに乗せられてということもあって、大学ではラグビー部に入りました。

インタビュー風景(堀越慈氏)

インタビュー風景(堀越慈氏)

―― 身長、体重はどのくらいあったのでしょうか。

大学入学当初は、身長183cmあったのですが、体重は68kgと細かったんです。それが大学1年の時にみっちりと鍛えられて、2年になる頃にはだいぶ横のサイズも大きくなっていました。それでなんとか使えるなということで、試合にも出させてもらえるようになったんだと思います。

―― 慶大ラグビー部というと、他の強豪校のようにエリートの選手がこぞって集まるというよりは、勉強にも力を入れた中でラグビーが好きな選手たちが入ってくるというイメージがあります。

慶大ラグビー部の中心は、系列校である慶應義塾高校でラグビーをやっていた選手たちでした。当時は、チーム全体の3分の2ほど占めていたと思います。彼らに加えて、その他の高校からも割と上手い選手が入ってきていました。とはいえ、エリート集団の早稲田大学や明治大学と比べると、それほど能力の高い選手が入ってきていたわけではありませんでしたので、入学後に相当過酷な練習をして、なんとかレベルを保っているというところだったと思います。

―― 特に有名なのが、山中湖(山梨)で行われる夏の合宿です。血反吐を吐くほどの過酷さだったと伺っていますが、実際はどうだったのでしょうか。

15日間、毎日朝に1時間半、午前に3時間、午後に4時間の3部練習が続く、まさに「地獄」の夏合宿でした。毎日「雨が降らないかな」と願っていました(笑)。

―― 夏合宿が終わると、9月から対抗戦があったわけですが、そこで早大や明大という強豪校と互角に戦う力を山中湖で養っていたというわけですね。

そうですね。「自分たちには素質がないのだから」という認識でいましたから、その中で勝つには、何かをプラスしなければダメだろうと。それで厳しい練習をし、また首脳陣が知恵を絞った戦略で、勝ちにいくという感じでした。

地獄の合宿で培った泥臭いプレーでエリート校に対抗

早稲田大学

早稲田大学

―― 当時の大学ラグビーは、関東では慶大、早大、明大の3校と、関西の同志社大学を加えた4校が強豪校として日本一を争っていました。4校ともにそれぞれ特徴的なラグビーをしていたと思いますが、堀越さんから見られていて、どのように感じられていましたか?

当時、最も特徴的だったのは早大だったのではないかと思います。"横に揺さぶるラグビー"と言われていましたが、オープンにボールを回して外側で勝負をするかたちでした。それに対して明大は"縦のラグビー"と言われていて、とにかく前へ前へというラグビーでした。同志社大は素質のある個性的な選手が割とたくさんいるチームで、特にモール(ボールを持った選手がタックルされても倒れず、その選手を中心に立ったまま体を密集させた状態でのボールの奪い合い)が上手かったですね。監督だった岡仁詩先生が熱心にニュージーランドのラグビーを研究されて、新しい戦法を取り入れていたと思います。そういう中で、我々慶大はその3校に比べて素質がそれほど高いわけではありませんでしたし、特にスピードという面で優れた選手が伝統的に少なかったんですね。ですから、割と狭いエリアで展開していくラグビーだったのですが、低い姿勢と体力勝負の連続プレーで活路を見出していく。あるいは高くキックをしたボールを追いかけて相手にタックルしてラック(ボールを持った選手が相手のタックルで倒れ、地面上のボールを体を密集させた状態で奪い合う)にするという「アップ・アンド・アンダー」という戦法をとっていました。他の3校と比べると、非常に泥臭ささのあるラグビーだったと思います。

全慶大vsイングランド/デュークオブウェリントン戦(前から4人目。前から2人目が弟の堀越優)

全慶大vsイングランド/デュークオブウェリントン戦
(前から4人目。前から2人目が弟の堀越優)

―― 慶大はラグビーのルーツ校でもあります。その誇りと伝統を背負ってプレーしていたのでしょうか。

ふだんはルーツ校としての意識を背負うということはそれほどなかったと思うのですが、「自分たちのラグビーの原点」ということで、先輩から伝統的に継承してきたプレーや慶大ラグビーの良さというのは代々受け継がれ、浸透しているとは思います。

―― 例えば山中湖での夏合宿でOBの皆さんが来られて、そういう伝統というものを教示されることもあるのでしょうか。

そうですね。そういった思想的なものが、練習や強化の方針になり、それをグランドで実践するわけですけども、その際に個々のプレーについて「慶大らしさというのは、こういうふうに出していくんだ」ということを先輩たちからアドバイスいただき、それが脈々と継承されてきたと思います。

日本代表のロック、ヘル・ウヴェ、のプレー

日本代表のロック、ヘル・ウヴェ、のプレー

―― 大学時代、堀越さんのポジションはロックでした。やはり大きな体を生かしてというところがあったのでしょうか。

そうですね。今はどこのポジションにも体格のいい選手ばかりが揃っていますが、当時は身長の高い選手がロックをやるというのが一つのセオリーでした。

―― ほかのポジションをされたことはありましたか?

ナンバーエイト(花形ポジションと呼ばれ、スクラムの最後方でリードし、サインプレーにも多く絡むポジション)をやったことがあります。面白さで言えば、やはりナンバーエイトの方でした。早めに相手の動きに対応することができて、オープンに展開しやすいですからね。

―― 逆にロックの面白さとはどういうところに感じられていましたか?

当時のロックは、ラインアウト(ボールがタッチラインの外に出た際、その地点からボールの投入によって競技を再開する)、スクラム(軽めの反則や、どちらのボールかわからない場合に、両チームが8人ずつで組み合いボールを奪い合う)キックオフ(前後半の開始時や、トライ後にボールを蹴り上げて試合が開始・再開されること)でのシーンの時に重要な役割があったのですが、私はキックオフでのプレーが得意でした。味方がキックオフで蹴ったボールを追いかけてキャッチし、突進するというプレーです。
もしキャッチできなかった場合は、自分がマークする選手にタックルにいくと。そういうプレーが自分としては一番にやりがいを感じていました。

歴史的快挙が生まれた3つの要因

ライオン時代。自宅付近の高校の校庭で一人で練習に励む

ライオン時代。自宅付近の高校の校庭で
一人で練習に励む

―― 大学卒業後は洗剤などの日用品大手のライオン(旧社名・ライオン歯磨)に入社されました。ラグビー部のないライオンに入社されたのはどのような経緯があったのでしょうか。

実は大学時代には、ラグビー部のある企業からも結構勧誘をしていただいていたんです。ただ、自分としてはラグビーはいつまでもできるものではないし、また当時のラグビー界はアマチュアリズムが重視されていましたので、若くて元気な時はラグビーはできるけれど、どこかで区切りをつけて社会人として遅れをとらないようにやっていこうという意識が強くありました。一方で自分の目標として大学4年あたりからは、日本代表になって世界一のラグビー大国であるニュージーランドに遠征に行くというのがありました。その目標が達成されるまでは、どんなに辛いことあってもライオンで自分一人でも工夫をしながら練習をしていこうと思っていました。

―― たった一人で練習をして日本代表を目指すというのは、相当大変なことだったと思いますが、どのように工夫されていたのでしょうか。

毎日仕事を終えて帰宅してから、夜の7時から9時くらいまで一人で練習をしていました。また1946年創立の伝統のあるクラブチーム「エーコンクラブ」にも入っていましたので、土日に試合がある時にはエーコンクラブの一員として試合をしていました。エーコンクラブは試合感覚を失わないようにするために非常にありがたい場でした。

エーコン vs エリス戦でのプレー

エーコン vs エリス戦でのプレー

―― エーコンクラブというのは非常に歴史のある強豪クラブですが、どのような体制のものだったのでしょうか。

私のようにほとんどがどこのチームにも所属していないフリーの選手でした。ただ一時期は企業にラグビー部がどんどん設立されて盛んに活動される時代がありまして、その時にはエーコンクラブに所属する選手は少なかったですね。逆に現在は企業のラグビー部が減少傾向にありますので、またエーコンクラブに入る選手が増えてきているようです。

―― 実際、企業のラグビー部でプレーしていないにもかかわらず、堀越さんは日本代表に選ばれて、1968年のニュージーランド遠征に行きました。

やはり「日本代表に入りたい」という強い思いを持ち続け、エーコンクラブでの練習を続けていたことと、いつまでもできるわけではないのだから、1968年のニュージーランド遠征に日本代表として参加することができたら競技人生に一区切りつけようと思っていたのが良かったのかもしれません。

ニュージーランド遠征時の日本代表集合写真(1968年)

ニュージーランド遠征時の日本代表集合写真(1968年)

―― そのニュージーランド遠征では、同志社大から近鉄に入社し日本を代表するウイングとして活躍した坂田好弘さんが4トライを挙げるなどして、日本が地元のオールブラックス・ジュニア(※)から歴史的勝利を挙げました。堀越さんは、そのメンバーのお一人だったわけですが、勝因はどこにあったのでしょうか。

当日、現地の新聞には試合の予想記事が掲載されていたのですが、「オールブラックス・ジュニアの勝利は不動」というふうに大きな見出しが出ていました。日本はその予想を覆したわけですが、最近になって資料などを整理して改めて振り返ってみると、勝因は3つあったと思います。1つ目は、日本代表はニュージーランドに行って最初に4連敗を喫しているんです。その後、選手みんなで集まって話し合いをしまして自分たちがやるべきことを確認して臨んだところ、その後の試合で日本は3連勝しました。その次の8試合目にオールブラックス・ジュニアとの対戦だったんです。ですから、7試合を終えて、ちょうど日本代表がニュージーランドでの試合に慣れてきて、さらに3連勝という勢いにも乗っていた状態でオールブラックス・ジュニア戦だったということが大きかったと思います。2つ目は、日本のバックス(最前線でパスなどでボールをつないだり、サインプレーを駆使するなどしてトライを狙うポジション)のタックルが強かったこと。日本には強力な両ウイングがいましたので、タックルでボールを奪ってウイングにつなげてトライを狙うという考えがありました。だから3連勝で勢いに乗っていたこともあったと思いますが、バックスの選手一人一人が「自分たちのタックルで勝つんだ」という意識が徹底していたのだと思います。

ニュージーランド遠征時のジュニア・オールブラックス戦(1968年)

ニュージーランド遠征時のジュニア・オールブラックス戦(1968年)

3つ目は、これは私見ではありますが、オールブラックス・ジュニア側の作戦ミスかなと。当時のオールブラックス・ジュニアは深いラインを引いていまして、一方日本は浅いラインだったわけです。日本はディフェンスでも比較的浅いラインからバーンと飛び出していったのですが、それにもかかわらず、オールブラックス・ジュニアは「勝利は間違いないだろう」という余裕があったんでしょうね。ふだんなら彼らはフォーワード(スクラムを組む8人。ボールの争奪戦でボールをキープしたり、奪ったりしてボールをつなぐポジション)戦を挑み、大きくボールを蹴ってフォワードが突進するという「アップ・アンド・アンダー」という戦法のラグビーをしていたはずなのに、深いラインでバックスにボールを回してきたんです。しかもバックスはそれほどパスが速いわけではありませんでしたから、浅いラインを引いた日本の飛び出しディフェンスがピタリとはまって潰しにいくことができました。そのこぼれ球を回して、坂田が4トライを挙げました。後半になってオールブラックス・ジュニアはフォワードが猛攻撃を仕掛けてきましたが、日本はタックルにつぐタックルで凌ぎました。日本の作戦が的中し、一方のオールブラックス・ジュニアの作戦が空回りしたと。それが歴史的勝利が生まれた要因だったと思います。

※オールブラックス・ジュニアとは、「オールブラックス」とは別に、23歳以下の選手で構成されたニュージーランド代表。

人格形成にプラスとなる「ラグビー・スピリット」

ニュージーランド遠征時のホームスティ先にて

ニュージーランド遠征時のホームスティ先にて

―― ニュージーランド遠征から帰国後、堀越さんは現役を引退されました。

当時、日本代表が海外遠征をするのは、3、4年に一度のことだったんです。そんな貴重な海外遠征を、しかも世界一のラグビー大国であるニュージーランドに行くことができましたから、自分としては目標を達成できたなという思いがありました。また、当時は26歳でしたので、仕事の方もそろそろ本格的に忙しくなっていた時期だったということもありました。

―― その後、指導者としてご活躍されました。企業に勤めながらで、大変なご苦労もあったかと思いますが、それでもラグビーに携わり続けてきたのは、それだけラグビーに魅力を感じられているからだったのでしょうか。

高校1年の時に初めて見た時に感じた「男らしさ」というのが、最大の魅力としてずっと持ち続けていました。今はだいぶラグビーのスタイルも変わりましたが、本来ラグビーというスポーツは、さまざまな役割のポジションがありますので、一人一人に際立った能力がなくても、どんな体格の人でも、やり方次第である程度のレベルまで高めていくことができますし、チームに貢献することができるんです。また、やっていくうちに自然と身に付く「ラグビー・スピリット」は、人が成長していく過程での人格形成に非常にプラスになります。そういうものを持った人たちが「ラグビー仲間」として信頼し合える関係性になることができる。そうした魅力がラグビーにはあると思います。

堀越氏の著書「ラグビーへの道」の表紙

堀越氏の著書「ラグビーへの道」の表紙

―― 堀越さんのご著書『ラグビーへの道』(三一書房)には「ラグビー・スピリット」として「アマチュアリズム」「マンズ・ゲーム」「フェアプレー」「チーム・スピリット」「キャプテンシー」「ノーサイド」「レフリング」「フレンドシップ」とあります。ラグビーの発祥地であるイングランドのパブリックスクールでジェントルマンを養成するためにラグビーというスポーツが生まれ、育まれていったわけですが、「ラグビー・スピリット」というのはもともとはジェントルマンを養成するために生まれたものなのでしょうか。

ルーツはそこにあると思います。特に「フェアプレー」や「チーム・スピリット」というところが最もコアになる部分だと思います。また、「キャプテンシー」はラグビー特有のものだと思います。ラグビーでは監督がゲームを中断して指示をしたり、あるいは外部から指示や作戦を与えることはできません。ゲームがストップするのは、ハーフタイムの時に限ります。ですから、ゲームの運営や指示、コミュニケーションなどはすべて、動きのある中でキャプテンがやらなければいけません。つまり監督は試合中に何も口を出すことはできませんので、ラグビーをするうえで、キャプテンというのは非常に重責を担います。一つ一つの細かいサインを出したり、あるいはゲーム中に相手の反則があった場合に次のプレーの選択をするのもすべてキャプテンの仕事。レフリーから忠告を受けてチームに伝達するのもキャプテンです。ですから、ラグビーでのキャプテンの役割というのは、ほかのスポーツ以上に大きいんです。

私がずっとラグビーに携わってきて思うのは、最もキャプテンシーが必要なのはチームが劣勢に立たされた時。そこでキャプテンが流れを変えるきっかけを作れるかどうかだと思います。それぞれキャプテンが務めるポジションによって考え方ややり方は違うと思いますが、いずれにしても流れを変えて、ピンチをチャンスにできるかどうか。それがキャプテンとして最も重要な部分だと思います。

イギリスで感じた「ラグビー経験者」であるメリット

イングランドのプレー

イングランドのプレー

―― 30代前半の1973~74年には、イギリスのクランフィールド大学大学院に留学されました。ラグビーの本場であるイギリスを選択したのはラグビーと関係していたのでしょうか。

当時からライオンには留学制度があったんです。社内で試験、論文、面接と受けて、毎年数人が留学しているのですが、それに私も合格した際に当時の役員の一人が面接の時に「堀越くんは、元ラグビー日本代表なのだから、どうせ留学するならイギリスに行ったらどうだ?」と言ってくれたんです。当時の社長もラグビーが好きだったこともあって「それはいいアイディアだ」とその場で留学先が決まりました。ただ、行ったのはビジネススクールのMBA取得コースだったのですが、あまりにも大変で勉強以外のことは何もできませんでした。ですから、留学中はほとんどラグビーに触れることはありませんでした。

ただ、ちょうど私が留学した1年目の1973年に大西鐵之祐監督率いる日本代表がウェールズに遠征に来たんです。そのことを聞いて選手たちに会いに行ったのですが、大西さんから「堀越、ちょっと手伝ってくれ」と言われまして、翌日練習用具を持ってこさせられたんです。そうしたら、"タックル・マシン"にさせられまして、いやぁ、まいりました(笑)。大西監督からすれば背丈の大きい私だからちょうどいいと考えたと思うのですが、現役を引退して5年ほど経っていましたからね。そんな私に向かって、現役バリバリの日本代表選手たちが思い切り突進してくるわけですから大変でした(笑)。ビジネススクールでの授業が始まる前だったので、まだ良かったんですけどね。

インタビュー風景(堀越慈氏)

インタビュー風景(堀越慈氏)

―― その後、留学中はラグビーには触れることはなかったと。

そうなんです。ところが、修了する間際にビジネススクールで文化祭のようなイベントがありまして、付近のスクールとの対抗戦がいくつかの競技で行われたんです。その中にラグビーもあったんですね。それで「ラグビーの経験がある人」というので私も手を挙げましたら、事務局の人に「どれほどのキャリアなんだ?」と聞かれまして「日本代表でした」と言ったら非常に驚かれました。それで試合に出るメンバーが貼り出されていて、見たら私の名前にだけ「◎」が付いていたんです。事務局の人が「◎はインターナショナルメンバーだ」と説明しましたら、クラスのみんなが驚いていたんですけど、その中の一人が「そんな大事なことを、なんでスクールに入った時に最初に言わないんだ?そしたらみんなすぐに友だちになって、勉強も手伝ってやったのに。それを今頃になって知ったって、もう遅いじゃないか」と言われました。つまり、ラグビー先進国では、「ラグビーをやっていました」と言うだけで仲間になれるんですよね。

慶大の監督時代

慶大の監督時代

―― 指導者としては、どのような経緯を辿られたのでしょうか。

現役引退後、大学関係者からの要望がありまして、イギリス留学前にも慶大でコーチを務めていました。留学から帰国後も慶大で指導していました。当時の慶大の指導体制では、監督はサラリーマンの方が仕事の合間を縫ってやっていましたので、何年も続けてやるというのはあまりにも負担が大きいと。それでトータル3年間で、監督やコーチいずれかの要職に関わるということになっていました。私も最初はコーチをやって、翌年は監督をし、その後で再びコーチに戻るという感じでした。また、その監督やコーチのローテーションは、慶大ラグビー部にあった強化委員長が決めていたのですが、その強化委員長も数年やらせていただいたこともありました。

―― 一方で、堀越さんはテレビで解説者としてもご活躍されていましたが、解説するうえで心がけていたことは何だったのでしょうか。

一番はラグビーの面白さを視聴者にわかりやすく伝えるということでしたが、私の場合は各チームがどういうことを考えてプレーしているのか、どんな戦略で得点したり得点を防いだりしているのか、ということを伝えるように心がけていました。ラグビーの試合を見るにあたっては3つ大事なことがありまして、1つはボールの争奪戦。2つ目はボールを運んでトライすること。3つ目はトライを防ぐためにタックすること。その3つを軸にして解説していました。

ニュージーランド/オールブラックスのプレー

ニュージーランド/オールブラックスのプレー

―― テレビ解説者時代の一番の思い出を教えてください。

1987年にオールブラックスが来日したんです。その時、ニュージーランドの国有テレビ局である「テレビ・ニュージーランド」も来日して、日本とのテストマッチを中継したんです。その1試合目が近鉄花園ラグビー場(現東大阪市花園ラグビー場)だったのですが、テレビ・ニュージーランドからの依頼でその試合の解説を私もすることになっていました。当時のオールブラックスの助監督がアレックス・ワイリーという方だったのですが、当初はその助監督がメインの解説をして、私はサブとして日本の選手についてコメントするという予定でした。ところが、いざ放送席に行ったら、キース・クイーンという地元では有名なアナウンサーが「助監督が急に来られなくなったから、一人でなんとか解説をしてほしい」と言うんです。「これは困ったことになったな」とは思いましたが、他に誰もいませんから、引き受けるしかありませんでした。そうしたところ、ハーフタイムの時にクイーンさんがニュージーランドに電話を入れたのですが、現地の人が「日本人の解説者、なかなかいいじゃないか」とほめてくれたようなんです。それを聞いて「良かった」と胸をなでおろしました。おかげで後半は少し気を楽にして解説することができました。

日本ラグビー界のプロ化に貢献

1970年代後半から1980年代に日本代表で活躍した松尾雄治氏

1970年代後半から1980年代に
日本代表で活躍した松尾雄治氏

―― 1980年には、日本代表Bチームの監督を務められ、1990年には日本ラグビーフットボール協会の理事に就任されました。

強化という点では、最初に少し菅平高原(長野)での代表合宿に行くこともありましたが、どちらかというと、その後はマーケティング関係の仕事の方が大きかったですね。2000年からは国際ラグビーボード(IRB:2014年にワールドラグビー(WR)に名称変更)の常任理事を務めましたので、そちらでの仕事を主にやっていました。

―― 当時IRBは「アマチュアリズムの総本山」と言われ、長い間、スポンサードを頼りにしない運営を誇りにしていました。そのIRB自体が、時代の流れとともに、少しずつ変わっていきました。

特に私がIRBの常任理事に就任した頃は、アマチュアリズムからプロ化へと移り変わっていく、ちょうどそのステージにいた時でした。

―― 世界のラグビー界がプロ化に移行していく中で、日本ラグビー界は頑なにアマチュアリズムを守ろうとして遅れをとったことは否めません。

当時はIRBの中で日本側の意見や考えを発信したり、逆にラグビー先進国の考え方を吸収したりする力が不足していたことが大きかったと思います。ただ南半球のオーストラリア、ニュージーランド、南アフリカが率先してプロ化の道を進んだのですが、それがその3カ国のラグビーの強さにもつながっていましたので、他国もそれに続き、最終的には日本もアマチュアリズムを撤廃せざるを得なくなりました。

日本ラグビーフットボール協会会長を務めた町井徹郎氏(右から2人目)

日本ラグビーフットボール協会会長を務めた町井徹郎氏(右から2人目)

―― 2001年には日本ラグビーフットボール協会会長に就任した東京大学ラグビー部OBの町井徹郎氏が協会の役員制度を刷新し、日本もプロ化の道を進み始めました。

日本も世界のプロ化にあわせて、まずは協会の体制を改革していかなければいけないということで、ようやく2001年からそういう動きが具体的に出てきました。町井さんが会長になられて、私がマーケティング、日本代表監督も務めた早大ラグビー部OBの宿澤広朗さんが強化の方を担当し、いろいろと新しいことを取り入れていったわけですが、日本ラグビー界もビジネス化を強めていかなければ、このままどんどん世界に置いていかれてしまうという危機感があったからです。

現在のトップリーグ

現在のトップリーグ

―― 最も大きな動きとしては、大学と社会人の優勝チーム同士で争われていた日本ラグビーフットボール選手権を発展的に解消し、2003年からは(※55年続いた全国社会人大会を発展的解消しトップリーグを創設)トップリーグの順位決定戦としたことでした。

その2年前に、幹部の指示の下、私が関東、関西における社会人ラグビーの1部リーグの上位20チームほどを集めまして、「日本ラグビー協会としては、こういうアイディアがあがっているけれど、どう思いますか?」という話をして、トップリーグ創設の準備にとりかかりました。最初は猛反発をくらいまして、大変苦労しましたが、世界の趨勢がプロ化に向かっているという事情を徐々に理解していただき、少しずつ道が開けていったという感じですね。

協会の強化委員長を務めた宿澤広朗氏

協会の強化委員長を務めた宿澤広朗氏

―― 堀越さんと宿澤さんがタッグを組まれたことが、非常に大きかったと思います。

宿澤さんとはビジネス化、特にマーケティングをやっていかないといけないという点で意見が一致していましたので、2人で協力してやっていこうと何度も話し合いを重ねて進めていきました。宿澤さんは住友銀行(現三井住友銀行)に勤めていまして、ビジネスマンとしても非常に優秀な方でした。彼は日本ラグビーフットボール協会では財務を担当していたのですが、日本ラグビー界のビジネス化を進めるためには不可欠な存在だったと思います。考え方も新しく、例えば彼が強化委員長をしていた時だったと思うのですが、「堀越さん、日本代表の赤白ジャージは何十年も同じデザインですよね。もうそろそろ変えませんか。今の現役選手が好んで着られるものにしましょう」と言って、デザイナーに見本を描いてもらって、日本ラグビーフットボール協会に提案したんです。同じ赤白でも、等間隔だった赤白の幅や色味を変えたものだったのですが、最初は年配の人たちの猛反対にあいました(笑)。それでも粘り強くやったおかげで、その後、少しデザインが変わったんです。

ラグビーワールドカップ開催決定の背景

日本代表のユニフォームに付けられたリポビタンDのロゴ

日本代表のユニフォームに付けられたリポビタンDのロゴ

―― 今年はアジアで初のラグビーワールドカップが日本で開催されます。招致に動き始めた最初のきっかけは何だったのでしょうか。

町井会長の下で刷新した日本ラグビーフットボール協会にマーケティング委員会ができまして、私がマーケティング分野でラグビーのために動いてくれそうな人を10人ほど集めました。数カ月に一度、会議を開いて、いろいろな問題について話し合ったのですが、その一番最初の会議の時に広告代理店に勤めていた若い世代の人たちなどから「将来、日本でラグビーワールドカップを開催することは考えられないでしょうか」という声が初めてあがりました。その時はいきなり上程して結論づけるというところまではいかず、正直私自身も「そんなことが果たしてできるのだろうか」と半信半疑でした。

―― その後、ラグビーワールドカップ日本開催の機運をどのように盛り上げていったのでしょうか。

日本ラグビーフットボール協会がもっとマーケティングに投資をしなければいけないということで、広告代理店など民間の力も活用して、日本ラグビー界に広くマーケティングを浸透させていこうということになったんです。その中でマーケティング委員会の一つのアイディアとして、大正製薬さんに日本代表のオフィシャルスポンサーになってほしいということをお願いに行きました。当時は委員会の中でもさまざまな可能性を検討したのですが、私なりに考えて大正製薬さんにお願いしようと決めたのには3つの理由がありました。1つは同社の主力製品がラグビーというスポーツのイメージに合っているということ。2つ目は大正製薬にはトップリーグのチームがなく、ラグビーで他の企業と競合しないこと。3つ目は大正製薬の当時社長だった上原明さん(現大正製薬会長)自身が慶大の学生時代にラグビークラブ「B.Y.Bラグビーフットボールクラブ」に所属してプレーしていたということ。この3つの理由だったら、他の企業も納得するだろうと思ったんです。それで私が宿澤さんと共に上原さんに会いに行きまして、その理由を説明して、日本代表のオフィシャルスポンサーをお願いしたんです。そしたら上原さんは「堀越さん、うまいこと言うね」と言われまして、お引き受けしてくださいました。それから18年、今もオフィシャルスポンサーを継続してくださっています。これだけ長期にわたって契約を続けてくださるとは、当時は思ってもいませんでした。本当にありがたく思っています。そして、それがラグビーワールドカップ開催に向かっていく大事な一歩になったと思います。

2011年ラグビーワールドカップ日本招致委員会発足記者会見(右端)

2011年ラグビーワールドカップ日本招致委員会発足記者会見(右端)

―― その後、2011年のラグビーワールドカップ開催を目指して招致活動が始まりました。日本に立ちふさがった壁は相当厚かったのではないでしょうか。

ラグビーワールドカップ開催に向けて具体的に動き始めたのは、2005年あたりからだったと思います。2011年大会には日本のほかに、ニュージーランドと南アフリカが立候補していました。1回目の投票で南アフリカが落選して、日本とニュージーランドとの決戦投票になったのですが、日本はわずか2票差で負けたんです。本当に惜しかったなと。

IRBのAnnualミーティングにて(2003年、後列右から4人目)

IRBのAnnualミーティングにて(2003年、後列右から4人目)

―― 「惜しかった」というところまでいくことさえも、日本にとっては大変な道のりだったのではないでしょうか。

それはもう大変でした。私も会議があるたびに、25人のIRBの理事に対してロビー活動をしましたし、また、IRBやオーストラリア、フランス、カナダ、アジアのラグビーフットボール協会に5回ほどプレゼンテーションをしまして、日本開催の意義をアピールしました。そこで高く評価していただいたのが、私の個人的な思いとしてあった「ラグビーはオリンピックやサッカーと同じように、世界に広く普及していくことが望ましいのではないだろうか。だからこそ次のワールドカップはアジアで初めて行われることに大きな意義がある」という内容を書いた論文でした。オーストラリアやフランスなどは、日本を強く推してくれました。しかし、一方で日本で開催して果たして採算はとれるのか、といったことが危惧されていました。また、ニュージーランドは世界を代表するラグビー大国ではあるけれども、国自体は人口も少なく小さな島ですので、ラグビーワールドカップを開催することができるのは今回で最後ではないかということが言われていたんです。今後は大会自体が大きくなり、大金がかかってしまうだろうから、ニュージーランドでの開催は不可能ではないかと。そういうこともあって、ある意味での同情票がニュージーランドに集まったのではないかなと思います。

2011年ラグビーワールドカップの前に行われたテストマッチ

2011年ラグビーワールドカップの前に行われたテストマッチ

―― 2009年に行われた理事会で、2015年のイングランド開催、2019年の日本開催とが同時に決定しました。

本来なら2011年に惜しくも落選した日本で2015年に開催ということも十分に可能性はあったと思います。しかし、IRBの方で日本開催の前に、きちんと経済的に計算ができるところでの開催を一度挟んでから、日本開催にしようという意見があったんじゃないかなと。それで2015年はイングランドで開催し、2019年に日本で開催ということになったのだと思います。

「ラグビー・スピリット」の浸透と地域密着がレガシーに

子ども青少年へのラグビー普及が課題

子ども青少年へのラグビー普及が課題

―― いよいよ今年、アジアで初のラグビーワールドカップが日本で開催されます。盛り上がるためには、どのようなことが重要だと思われますか?

まずは日本代表がいい成績を収めることだと思います。初の決勝トーナメントに進むことが使命と言ってもいいのではないでしょうか。もう1つは、日本では文化としてのラグビーが十分に浸透されていません。ですので、ラグビーワールドカップ開幕までに、いかに子どもや青少年の間に普及することができるか。あるいは地域と一体化した発展につなげていくことができるか。つまり、強化サイドを離れた部分で、ラグビーを根付かせることができるかだと思います。

―― ラグビーワールドカップの成功とはどのようにお考えでしょうか。

観客の動員数や勝敗だけでなく、大会を通じて、より多くの子どもや青少年がラグビーに触れ、「ラグビー・スピリット」が浸透すること。それに関連して、ラグビーがより地域に根付き、本当の意味で文化として発展していくこと。これこそがレガシーだと思います。

―― 堀越さんご自身では、「倶楽部かまくら」創設に向けての準備を進めておられます。

全国各地にラグビースクールは結構あるのですが、いずれも対象は小学生、中学生なので、中学校を卒業すると終わりになってしまうんです。ですから、これからは中学校を卒業した後は地域のラグビークラブが育成していく必要があるだろうと。私の地元の鎌倉にも1975年創設と、40年以上の歴史をもつ「鎌倉ラグビースクール」があるのですが、そこでラグビーをやっていた子どもたちが、中学卒業後にどこでラグビーを続けているのだろうかと思ったものですから、いつまでも続けることのできるクラブを作りましょう、ということで動き始めたところです。今年8月にも創設をして、それこそラグビーワールドカップで勢いづいた人気を「倶楽部かまくら」にもつなげていきたいと思っています。これが一つのモデルケースになればと考えています。

リオデジャネイロオリンピックの正式競技として行われた7人制ラグビー

リオデジャネイロオリンピックの正式競技として行われた7人制ラグビー

―― 来年には東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。オリンピック種目には7人制ラグビーがあり、男女ともにあります。

オリンピックで7人制ラグビーが採用された利点としては、特に女子ラグビーのステップアップのための大きな機会になると思います。ただ、今の最大の問題は、女子選手の数が少ないということ。その点でラグビーの予備的スポーツとして「タグラグビー」が普及してきていますので、これを一つの拠点として地域、特に学校をベースとしたラグビーの普及・発展につながることを期待しています。

―― 最後に、堀越さんにとってラグビーというスポーツはどのような存在でしょうか。

ラグビーを通じて夢や目標を達成する喜びを得ましたし、それによって自分への自信や豊かな心を持つことができたのではないかと思っています。もう1つは、ラグビーをしてきたからこそ、素晴らしい友人を得ることができました。この2つが私の人生において非常に大きいと感じています。

ラグビー・堀越 慈氏の歴史

  • 堀越 慈氏略歴
  • 世相

1871
明治4
イングランドでラグビーフットボール協会(ラグビー・フットボール・ユニオン)が創設
初の国際試合がイングランドとスコットランドの間で行われる
1883
明治16
初の国際大会であるホーム・ネイションズ・チャンピオンシップ(現・シックス・ネイションズ)が開催
1886
明治19
国際統括団体である国際ラグビーフットボール評議会(現・ワールドラグビー)創設
1899
明治32
慶應義塾大学の教授でケンブリッジ大学のラグビー選手でもあったクラーク氏と、
同大学の選手でもあった田中銀之助が日本で初めてラグビーの指導を開始
1900
明治33
ラグビーが夏季オリンピックに採用される (1924年のオリンピックで終了)
1911
明治44
同志社大学でラグビー部が創部される
1918
大正7
早稲田大学でラグビー部が創部される
1919
大正8
第1回日本フットボール大会(現・全国高等学校大会)開催
1921
大正10
京都帝国大学、東京帝国大学(現・京都大学、東京大学)でラグビー部が創部される
1924
大正13
関東ラグビー蹴球協会(現・関東ラグビーフットボール協会)創設
1926
昭和元
西部ラグビー蹴球協会(現・関西ラグビーフットボール協会)創設
日本ラグビーフットボール協会が、関東ラグビーフットボール協会と、関西ラグビーフットボール協会の統一機関として創設
1928
昭和3
高木喜寛氏、日本ラグビーフットボール協会の初代会長に就任
第1回東西対抗ラグビー、甲子園球場にて開催
1929
昭和4
近鉄花園ラグビー場が完成
全日本学生対全日本OBの試合を、秩父宮両殿下が台覧
1930
昭和5
日本代表、カナダで初の海外遠征を行う(6勝1分)

  • 1941堀越 慈氏、東京都に生まれる
1942
昭和17
日本ラグビーフットボール協会、大日本体育大会蹴球部会に位置づけられる

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1947
昭和22
秩父宮殿下、日本ラグビーフットボール協会総裁に就任
九州ラグビー協会(現・九州ラグビーフットボール協会)創設
東京ラグビー場(現・秩父宮ラグビー場)が竣成

  • 1947日本国憲法が施行
1949
昭和24
第1回全国実業団ラグビー大会開催
1950
昭和25
第1回新生大学大会開催
「全国大学大会」の名称となる

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
全国実業団ラグビー大会、第5回から全国社会人ラグビー大会に改称
1953
昭和28
田辺九萬三氏、日本ラグビーフットボール協会の2代目会長に就任
東京ラグビー場を秩父宮ラグビー場に改称

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
香山蕃氏、日本ラグビーフットボール協会の3代目会長に就任

1961
昭和36
第1回NHK杯ラグビー試合(現・日本選手権)開始

1962
昭和37
秩父宮ラグビー場、国立競技場に移譲
1963
昭和38
日本代表、戦後初の海外遠征(カナダ)

1964
昭和39
第1回日本選手権試合開催

  • 1964堀越 慈氏、慶應義塾大学を卒業し、ライオンに入社。
      大学在学中にはラグビー部に所属していたが、同社にはラグビー部がなく「エーコンクラブ」にてラグビーを続ける
  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
第1回全国大学選手権大会開催

  • 1967堀越 慈氏、ニュージーランド学生代表が来日した際の日本代表に選出
1968
昭和43
湯川正夫氏、日本ラグビーフットボール協会の4代目会長に就任

  • 1968堀越 慈氏、ニュージーランド遠征日本代表に選出され、歴史的勝利に貢献
1969
昭和44
第1回アジアラグビー大会開催され、日本は全勝で優勝

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
横山通夫氏、日本ラグビーフットボール協会の5代目会長に就任
1971
昭和46
第1次・高校日本代表のカナダ遠征

1972
昭和47
椎名時四郎氏、日本ラグビーフットボール協会の6代目会長に就任

1973
昭和48
全国高校選抜東西対抗試合開始

  • 1973オイルショックが始まる
  • 1974堀越 慈氏、クランフィールド大学大学院を卒業し、MBAを取得
  • 1976堀越 慈氏、慶應義塾大学ラグビー部監督に就任
  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
阿部譲氏、日本ラグビーフットボール協会の7代目会長に就任

1982
昭和57
代表キャップ制度を発足

  • 1981堀越 慈氏、1983年まで日本代表コーチ、監督を歴任
  • 1982東北、上越新幹線が開業
1987
昭和63
第1回ワールドカップが開催(オーストラリア・ニュージーランドの共同開催) 以後、第7回大会まで日本代表チームは連続出場を果たす

1990
平成2
磯田一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の8代目会長に就任

  • 1990堀越 慈氏、日本ラグビーフットボール協会理事に就任
1992
平成4
川越藤一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の9代目会長に就任

  • 1992堀越 慈氏、ニールセン・ジャパン取締役社長に就任

1993
平成5
第1回ジャパンセブンズ開催
1995
平成7
金野滋氏、日本ラグビーフットボール協会の10代目会長に就任

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
  • 1997香港が中国に返還される
  • 1998堀越 慈氏、ニューズコーポレーション・ジャパン取締役上席副社長に就任
2000
平成12
IRBワールドセブンズシリーズ日本大会開催

  • 2000堀越 慈氏、ワールドラグビー常任理事に就任
2001
平成13
町井徹郎氏、日本ラグビーフットボール協会の11代目会長に就任

  • 2001堀越 慈氏、マーケティング会社フォーサイト21を設立し、代表取締役社長に就任
2002
平成14
女子ラグビーが日本ラグビーフットボール協会に加入
女子ラグビーは、第4回女子ワールドカップに初参加

2003
平成15
ジャパンラグビー トップリーグが社会人12チームで開幕

2005
平成17
森喜朗氏、日本ラグビーフットボール協会の12代目会長に就任

2006
平成18
ジャパンラグビートップリーグチーム数は12チームから14チームへ増加

  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
U20世界ラグビー選手権(IRBジュニアワールドチャンピオンシップ2009)開催
2019年ラグビーワールドカップが日本で開催決定

2010
平成22
2019年ラグビーワールドカップ日本開催組織委員会の設立準備を開始

  • 2011東日本大震災が発生
2013
平成25
日本ラグビーフットボール協会が公益財団法人へ移行

2015
平成27
岡村正氏、日本ラグビーフットボール協会の13代目会長に就任

2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催
7人制ラグビーが正式種目として実施