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スポーツ界と新型コロナウイルス感染症
第99回
今こそ発信していきたいスポーツの価値

尾縣 貢

自己流で練習して、中学時代に100mハードル走で全国の頂点に立った尾縣貢氏。その後、高校時代も110mハードル走でインターハイ優勝。十種競技に転向した大学時代も日本選手権で優勝を飾りました。現役引退後は競技の世界から離れていた時期もありましたが、母校の筑波大学陸上競技部の監督に就任後は、日本学生陸上競技連合強化委員会委員長を務め、2011年には日本陸上競技連盟(以下日本陸連)専務理事に就任されました。

現在はJOC(日本オリンピック委員会)常務理事および選手強化本部長、東京オリンピック競技大会日本代表選手団総監督を務めています。日本スポーツ界の中枢を担う尾縣氏に、東京オリンピック・パラリンピック開催に向けての対策、今後の日本スポーツ界が進むべきビジョンについてうかがいました。

聞き手/佐野慎輔  文/斉藤寿子  写真/フォート・キシモト  取材日/2021年1月15日

ハードル走のリズムに魅了されて始めた陸上

―― 新型コロナウイルスの感染状況は、年が明けても収束の見通しが立っていません。1月7日に東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県の一都三県に緊急事態宣言が発出されて以降、その対象地域が拡大し、再び行動範囲が狭められています。尾縣さん自身はどのような影響を受けていますか。

緊急事態宣言が発出されて以降は、行動範囲は再び都内の自宅におさまっているような状態です。また、私は筑波大学東京キャンパス社会人大学院の教授として東京キャンパスで教鞭を執っているのですが、昨年4月に入学した今年度の新入生と会えたのは一度きりで、あとはずっとオンラインでの授業が続いています。



―― 自粛で自宅での時間が激増したと思われますが、何か健康面で気をつかっていらっしゃることはありますか?

たいした距離ではありませんが、週に5日くらいは走るようにしています。時間に余裕がある時には1時間ほど走りますが、ふだんは朝30分程度ですね。40代の頃、筑波大学陸上競技部の監督を務めていた時には学生と一緒に走ったり、ウエイトトレーニングをしていましたが、今ではすっかり健康管理という側面が大きいですね。



中学3年・全日本J100mH優勝(1974年11月)

中学3年・全日本J100mH優勝(1974年11月)

―― 現役時代から陸上選手として活躍し、現在は日本陸連やJOCの役員を務めるなど、陸上を中心に日本スポーツ界を牽引する存在の尾縣さんですが、実はもともと野球部だったそうですね。陸上とはどのようなかたちで出合ったのでしょうか。

中学校では野球部に所属していました。通っていた中学校の野球部は地区大会では優勝するような強豪校だったので、朝から夕方まで野球漬けの毎日を送っていたんです。ただ、中学2年の時に体育の授業でやったハードルが面白く感じまして、野球の練習が終わって自宅に帰ると、こっそり練習するようになったのが始まりでした。と言っても練習はまったくの自己流でした。竹で手製のハードルを作りまして、自宅裏のぼこぼこのあぜ道で15分ほど練習するというのが日課でした。陸上のスパイクは貴重品で簡単に手に入るものではありませんでしたので、履き古した靴のゴムの底をはぎとって、野球のスパイクの底を張り合わせた即席のスパイクで走っていました。中学校には陸上競技部がなかったのですが、毎年秋になると地元の陸上大会に学校から何人か選出されて出場していたので、その大会に出ることを目標にこっそりと練習に励んでいました。



―― 実は私自身、中学校では陸上競技部でハードル走の選手でした。あのハードルを越える時の感覚というのが、何とも言えない気持ちよさがありました。

おっしゃる通りです。ふわっと浮いて、着地した後にたたたたっと駆けて、またふわっと浮くという、あのリズムが気持ちよく感じて、すっかりはまってしまいました。中学3年の時には、全日本中学校陸上競技選手権大会に出場し、100mハードルで優勝することができました。そのほか思い出深いことと言えば、陸上の県大会と野球の地区大会決勝戦の日程がちょうど重なってしまったことがありました。その日は、100mハードルの決勝で優勝した後、すぐに野球場に移動をしまして、今度は野球の決勝戦に出て優勝と、一日で陸上と野球の二冠を達成したんです。



高校3年・インターハイ近畿予選110mH優勝(1977年6月)

高校3年・インターハイ近畿予選110mH優勝(1977年6月)

―― 野球とハードル走の両方の経験が、後に大学時代には十種競技で活躍される土台となったのではないかと思います。ハードル走から十種競技に転向されたきっかけは何だったのでしょうか。

高校では陸上競技部に入部し、3年の時にインターハイ(全国高等学校総合体育大会)の110mハードル走で優勝しました。高校卒業後は、もともと教員になりたいと思っていましたので、筑波大学に進学しました。もちろん陸上競技部に入部しまして、はじめはハードル走をしていたのですが、ハードルの高さが高校までの時よりも7センチも上がる一般の部では、なかなか記録が伸びず、早々に挫折を味わいました。当時ビデオが普及し始めていた時代で、練習時の自分の走りをビデオで見た時に、「これはダメだな」と。今考えると、本来基礎を身につけるべき中学時代に自己流で練習していましたので、悪い癖がたくさんあったのだと思います。それが高校3年間では修正しきれなかったんです。ただ、まだ1年生ということもありましたので、「もう一度、何かで日本一を目指したい」と思って1年の冬から本格的に始めたのが十種競技(100m、400m、1500m、110mハードル、走幅跳、走高跳、棒高跳、砲丸投、やり投、円盤投の10種目を2日間にわけて行い、合計得点で競う)でした。



大学院1年・日本陸上競技選手権十種競技優勝(1982年9月)

大学院1年・日本陸上競技選手権十種競技優勝(1982年9月)

―― その十種競技で、大学4年時には日本陸上競技選手権大会を制覇しました。日本一になるという目標達成までの道のりというのは、どのようなものだったのでしょうか。

とにかく残り約3年間で日本一になろうと決めたものの、先述したように高校まではハードル走以外の種目はほとんど経験がなく素人同然でしたので、時間がいくらあっても足りない状況でした。そこで、特にまったく経験がなかった投てきに注力して、授業の合間を縫って練習していました。この時に目覚めたのが、授業で習ったり、本を読んで学んだスポーツ科学です。バイオメカニクスや運動生理学、栄養学からテーピングの巻き方まで、競技に必要だと思ったことはすべて練習に取り入れました。



高校時代の恩師の背中から学んだ哲学

奈良教育大時代・卒業式で研究室の学生と

奈良教育大時代・卒業式で研究室の学生と

―― 筑波大学大学院を卒業された後、26歳で現役を引退されました。その後は高校や大学で教員を務められ、2001年からは母校である筑波大学の陸上競技部監督に就任されるなど、教育の現場に携わってこられました。そうしたなかで尾縣さんは、「勝利至上主義」ではなく、スポーツを楽しむことを何より大事にされてこられました。その考えに至った背景を教えてください。

現役引退後、しばらくは競技の世界から離れて、教員に専念していた時期がありました。最初に赴任した大阪府立大阪女子大学(現在は大阪府立大学に統合)での5年間と、次の赴任先となった奈良教育大学での4年間は、学校体育のことだけに従事していました。その9年間はすっかり競技の世界から離れていたわけですが、逆に冷静になってトップスポーツを客観的に見ることができた時期でもありました。発育・発達を無視した勝利至上主義的なトレーニング、あるいは体罰など閉鎖的な部分で起こっている問題点が目につき、日本スポーツ界に蔓延する問題点について気になるようになりました。いずれも指導者主体というのが常識的であるからこそ起きている問題で、非常に疑問に感じていたんです。というのも、私自身の現役時代は指導者に恵まれていまして、高校時代の陸上競技部顧問の先生2人はどちらも真夏の日照りの中、率先してグラウンドの草取りや水まきをするような方でした。そうすると、3年生は「先生にやらしてはいけない」ということで、下級生よりも早くグラウンドに出て準備するんです。そんな高校時代を過ごしたものですから、上の立場の人たちが模範となるような体制が運動部としてあるべき姿だということが、私の哲学として刷り込まれています。筑波大学も指導者不在で自分たちで運営しているということもあって、他校のように厳しい縦社会はなく、下級生の意見もきちんと通るような組織でした。そうした経験のうえに、現役引退後に9年間も客観的に競技の世界を見る機会がありましたので、なおさら問題が気にかかっていたんです。



筑波大学陸上競技部監督時代。新入生を迎えて。

筑波大学陸上競技部監督時代。新入生を迎えて。

―― 9年間も競技の現場から離れていた尾縣さんが、日本陸連に関わられていく経緯について教えてください。

私は自分の哲学とはかけ離れた競技の世界には、もう戻るつもりはありませんでした。そのため、1994年に母校の筑波大学に赴任した際には陸上競技部の指導者への打診もあったのですが、2カ月ほどはお断りしていました。でもふとグランドを見ると、陸上競技部の学生たちが一生懸命に練習しているわけです。それでやっぱり陸上に携わることが楽しいと思うようになって指導をするようになっていきました。2001年からは筑波大学の監督を務めまして、2003年には日本学生陸上競技連合(以下、日本学連)の理事に就任したんです。いつの間にか日本学連の強化委員会委員長も務めるようになりまして、そこで日本陸連とのつながりが出てきまして、2004年から理事に就きました。とはいえ、2011年に専務理事に就任するまでは、学連から派遣された一理事でしかありませんでしたので、何の議決権もありませんでした。



河野洋平日本陸連会長(当時)(2012年)

河野洋平日本陸連会長(当時)(2012年)

―― 尾縣さんが日本陸連の専務理事に抜擢されたのは、河野洋平氏(元自民党衆議院議員で副総理などを歴任した河野一郎氏を父に持ち、参議院議長を務めた河野謙三を叔父に持つ政治家。一郎、謙三両氏とも日本陸連会長を務めた。一時は自民党を離党し、新自由クラブを結成し代表を務めた。2010年で解党し、自民党に復帰した後は、内閣官房長官、自民党総裁、外務大臣などを歴任し、2003年から政界を引退した06年まで衆議院議長を務めた)が会長を務められていた頃です。河野さんから直接打診されたのでしょうか。

ある日突然、河野さんに呼ばれまして、私は「強化委員長でも打診されるのかな」と思っていましたら、「専務理事をやってくれないか」と言われたので驚きました。
ただ、私が日本学連の強化委員長を務めていた頃、河野さんが日本学連の会長をされていて、その時から私のことを知っていらしたというのも大きかったんだろうと思います。



―― 日本陸連の専務理事ということで、それまでの教育スポーツの現場とは異なり、競技の世界ですので選手に結果を求めるシビアな部分も必要とされたのではないでしょうか。

もちろん、競技者として勝つことは非常に大事なことです。アスリートがオリンピックや世界選手権で活躍することが、日本陸上界、ひいては日本のスポーツ界を動かすエンジンになると思います。どんな競技でも、弱くてまったく勝てないようでは、その魅力を発信することは難しい。やはり強くなって、勝って初めて努力が報われるのだと思います。一方で目を向けなければいけないのは、過程だと思うんですね。アンチ・ドーピングなどインテグリティ(誠実さ)にマネジメントされた中で結果を出すということが大事であって、決して勝利至上主義でいいということではないと思います。



コロナ禍での大会開催にこめられた「スポーツの火を消さない」という思い

箱根駅伝スタート風景(2021年1月)

箱根駅伝スタート風景(2021年1月)

―― 昨年から新型コロナウイルスの感染拡大によって、さまざまなスポーツイベントが中止、延期となっています。それでも感染対策をした中で開催を実現させた大会もあります。たとえばお正月の風物詩である「東京箱根間往復大学駅伝競走」は、今年も1月2、3日に行われ、劇的なドラマが生まれました。
開催にあたっては、選手や関係者への検温、ウォーミングアップやレース中の選手以外のマスク着用を義務付け、円陣や胴上げ、次走者への声かけを禁止するなど、厳戒態勢がしかれました。そして沿道の応援も自粛を促した結果、前年比85%減にまで抑えました。

ただ、感染状況はいまだに収束の見通しは立たず、1年延期となった東京オリンピック・パラリンピックの開催も危ぶまれています。

正直に申し上げますと、昨年の今頃の心境としては、「絶対に予定通り、東京オリンピック・パラリンピックを開催してほしい」というのが本音でした。4年という歳月をかけて苦しいトレーニングに耐えてきたアスリートたちのことを考えれば、どの競技の関係者も同じ気持ちだったと思います。とはいえ、やはり得体のしれないウイルスが世界中で猛威をふるっているという状況に、不安や心配する気持ちも少なくありませんでした。結局、3月24日にIOC(国際オリンピック委員会)から延期を決定したという発表があったわけですが、その時は「果たして、どうしていくべきだろうか」と頭を抱えました。ただ、とにかく陸上の火は消してはいけないと思いましたので、2020年度に予定されていた大会は実施の方向で動いていたんです。しかし、4月7日に緊急事態宣言が発出された時に、「これではとても無理だ」と思いました。強行に大会を開催して感染者を一人でも出せば、日本のスポーツ界全体が崩れ落ちていくと思ったのです。そこで日本陸連は、全国の陸上関係者に6月までは大会やイベント開催を控えてほしいと通達をしました。

もちろん、その間ただ手をこまねいていたわけではありません。7月からは開催できるようにと、ガイダンス作成にとりかかりました。日本陸連では指導方針として一連の行動を決定する「ガイドライン」ではなく、手引きである「ガイダンス」としたのは、各自治体によって状況が異なりますので一概には言えないところが多々あるだろうと。状況に見合った対策をしてもらうためには、ガイダンスの方が使いやすいだろうと考えたからです。そこで5月14日にスポーツ庁から発表された「社会体育施設の再開に向けた感染拡大予防ガイドライン」や、日本スポーツ協会と日本障がい者スポーツ協会が作成した「スポーツイベント再開に向けた感染拡大予防ガイドラインについて」をベースにして、感染学の専門家からもお力添えいただきながら陸上競技の特性を考慮したガイダンスを作成しました。6月21日に概要、同月25日にガイダンスの資料を日本陸連の公式ホームページから誰でも閲覧できるようにし、その後も改訂するたびに公式ホームページで発表しています。その時から変わっていないのは「どうしたらやれるか」というスタンスで考えているという点です。特に自粛期間中は当然アスリートも自宅にこもることしかできず、ある意味、世界が閉ざされた状況だったと思うんです。ですから、とにかく小さくてもいいからアスリートたちがお互いに顔を合わせられる活動の場を用意したいという思いが一番でした。一方で、世間一般の皆さんにどう納得していただけるかということが一番気がかりでしたので、ガイダンスを提示することによって、少しでも理解を得られればという思いでした。



セイコーゴールデングランプリ会場全景(2020年8月)

セイコーゴールデングランプリ会場全景(2020年8月)

―― その後、8月にはセイコーゴールデングランプリ、10月には日本陸上競技選手権大会(以下、日本選手権)、12月には長距離種目の日本選手権を開催しました。

8月23日に新しい国立競技場でゴールデングランプリを開催した時には、「日本のスポーツ界は決して立ち止まってはいないぞ」ということを陸上競技からも発信できたという思いがありました。また、10月1~3日にはデンカビッグスワンスタジアム(新潟)で日本選手権を開催したわけですが、これも大変な苦労がありました。新潟県は全国の中でも非常に感染者数が抑えられていますので、そこに県外から大勢の人たちが入ってくることに強い抵抗感を持たれていたんです。それは当然だったと思います。しかし、観戦者を新潟県民に限定するなどの条件を提示するなどして理解を求め、新潟県陸上競技協会のご尽力のおかげもあって、なんとか開催することができました。続いて12月4日にはヤンマースタジアム長居(大阪)で東京オリンピック日本代表選手選考会を兼ねた長距離種目の日本選手権も無事に実施することができました。当時の思いとしては、1年後の東京オリンピック・パラリンピックにつなげていきたいということと同時に、トラック&フィールドに続いてロードレースも対策を講じれば開催することができる、ということを示すことが使命としてありました。しかし、競技場という箱の中で行われ、行動範囲が限られているトラック&フィールドとは異なり、公道を使用するロードはどうしても一般の人たちとの接点がありますので、行政や警察官の理解と力添えが必要になり、開催のハードルは非常に高いものでした。

そんななかで12月20日には全国高等学校駅伝競走大会を京都市で開催したわけですが、正直に申し上げますと、直前まで本当に開催できるかどうかわからない状況でした。実は大会2日前の18日に京都府内の14の病院長が医療のひっ迫している状況について声明を出されていましたので、関係者の間でも開催すべきどうか本当に悩みました。しかし、きちんと予防対策は講じていましたし、今ここでコロナ禍でも開催できるということを全国の皆さんに示さなければ、東京オリンピック・パラリンピックの開催を世論が納得した状況で開催することはできないだろうと。そんな思いの中で開催を決断しました。



日本陸上競技選手権2020 男子100m決勝(2020年10月)

日本陸上競技選手権2020 男子100m決勝(2020年10月)

―― 昨年、大会を開催してみて、予防対策という点において東京オリンピック・パラリンピックに向けて手応えや課題を感じたことはありましたでしょうか。

密を避けるための導線の引き方という点については、ある程度、形作られたかと思います。他競技においても大会は開催されていますし、組織委員会の方々もそれらを視察されていますので、昨年一年間でスタジアムの中でスポーツイベントを行うためのノウハウは構築できたのではないかと思っています。ただ、問題は観客です。例えば、スタジアムの観客席に一席ごとに間隔をあけて座っていただくようにしたものの、試合が盛り上がっていくと、どうしても近づいて声援を送るという様子も見受けられました。本来であれば、スポーツ観戦というのはそうした盛り上がりこそが醍醐味なわけですが、このコロナ禍においては観客同士で接する機会を減らせるように、どうコントロールしていくか、それこそ海外の方たちをお招きした場合は、その点がより問われてくると思います。



東京オリンピック・パラリンピック開催に不可欠な"安心・安全"の提示

1964年東京オリンピック。マラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉(左)

1964年東京オリンピック。マラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉(左)

―― 半年後に迫った東京オリンピック・パラリンピックの開催については、否定的な意見も少なくありません。東京オリンピック競技大会日本代表選手団総監督であるの尾縣さんとしては、コロナ禍の中で開催する意義について、どのようにお考えでしょうか。

そもそもスポーツには、人に元気を与える、健康にする大きな力があります。いつの時代も人は、体を動かすことで心身を健康に保ってきたわけです。そう考えれば、人が生きていくうえでスポーツはなくてはならないものと言えると思います。しかし、今はそのスポーツの必要性を忘れかけてしまっているのかなと。だからこそ、アスリートが頑張っている姿や美しいパフォーマンスに心震わせ、鍛え上げてきた肉体美に魅了されることによって、スポーツの力を再確認する場が必要とされているのではないでしょうか。その最たるものがオリンピック・パラリンピックだと思います。私自身は64年に東京オリンピックが開催された時は5歳だったのですが、日本でオリンピックがあったことは記憶には残っていないんです。にもかかわらず、東京オリンピックで"東洋の魔女"と呼ばれた全日本バレーボール女子がソ連(当時)を破って金メダルを取ったとか、陸上競技ではマラソンでアベベ・ビキラ(エチオピア)が史上初の連覇をした、あるいは銅メダルを獲得した円谷幸吉さんの国立競技場での激走シーンとか、たくさんの名シーンを挙げることができます。さらには開会式で流れた「東京オリンピック・マーチ」を耳にするたびに心が躍ります。そんなふうに東京オリンピックを実際には見ていない人たちまでが当たり前のように知っているくらい、ずっと語りつがれてきたわけです。それほどオリンピックは人々に影響を与えるものだと思うんです。今年、東京オリンピック・パラリンピックが開催されれば、きっとその後の人生を輝かせてくれる財産を得られると思います。だからこそ、東京オリンピック・パラリンピックは開催してほしいですし、私たちも開催を信じてできる限りのことをしていきたいと考えています。とはいえ、一向に感染が収まらない中では、東京オリンピック・パラリンピックが必要なものとは考えられないということも十分に理解しています。だからこそ今、安心・安全に開催できるという根拠を示すとともに、国民の皆さんにもスポーツの力を理解していただけるようなメッセージを発信していくことが重要だと思っています。



2020東京オリンピック日本選手団団長福井烈氏(左)と総監督尾縣氏(2018年)

2020東京オリンピック日本選手団団長福井烈氏(左)と総監督尾縣氏(2018年)

―― 実際に東京オリンピック・パラリンピックを開催するにあたって、最も重要なこととは何でしょうか。

安心・安全に開催できるという具体的な感染予防対策を明確にし、国民の皆さんにしっかりと提示して理解していただくことに尽きると思います。これに関してはスポーツ庁や東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の担当する事柄になりますが、私たちNF(国内競技団体)やIF(国際競技団体)が考えなければいけないのは、公平で公正な代表選考をすることです。それができなければ、たとえ東京オリンピック・パラリンピックを開催したとしても、真の"世界一決定戦"にはなりません。それでは成功とは言えないと思います。



―― 国内での理解や気運が高まったとしても、やはり海外の情勢が好転していなければ、東京オリンピック・パラリンピックの成功どころか開催は不可能です。世界の現況は、どのように把握されているのでしょうか。

東京オリンピック競技大会日本代表選手団総監督の立場から、各NFとはそれぞれ1時間ほどのヒアリングをするなどして、世界の情勢、各競技の状況、東京オリンピックを開催するためにはどうしたらいいのか、ということについてやり取りをしています。また、月に一度はオリンピック全33競技のNFの責任者を集めてオンライン会議を開いています。 ただ、残念ながら現在のところは好転しているという状況の報告は皆無に等しく、どこの国・地域、競技団体も停滞している状態です。世界のスポーツ界に蔓延している閉塞感をなんとかやわらげていかないと、東京オリンピック・パラリンピック開催への光は見えてこないと思いますので、開催地である日本から積極的に発信していきたい。そのためにも、まずは安心・安全で開催できることを明確に示していく必要があると思います。



スポーツ界にも求められている多様性

マルクス・レーム選手。2016年リオ・パラリンピック

マルクス・レーム選手。
2016年リオ・パラリンピック

―― 近年では、障がいのある選手がオリンピックに出場することについてはさまざまな意見があります。2016年リオデジャネイロ大会の時には、走幅跳(片脚下腿切断)の世界記録保持者、義足ジャンパーのマルクス・レーム選手(ドイツ)が「オリンピックとパラリンピックの両方に出場したい」という意向を示し、国際的な議論が巻き起こりました。結局、IAAF(国際陸上競技連盟=現ワールドアスレティックス・WA)が求めた「競技をするうえで義足が有利でないことの証明」を提示することができず、レームのリオオリンピックへの参加は見送られましたが、この問題についてはどんなお考えをお持ちでしょうか。

パラ陸上の世界記録でもある彼の自己ベスト(8m48)は、リオオリンピックの金メダリストの記録(8m38)を超えていて、実際に彼の跳躍は迫力があって魅力的です。義足を履けば簡単に跳べるものではなく、それだけのトレーニングと技術が必要であることは事実だと思います。ただIAAFが要求したように、義足が有利に働くことがないと証明されない限り、公平・公正なレースというのは難しいのかなと思います。2012年ロンドンオリンピックには、両脚大腿切断のオスカー・ピストリウス選手(南アフリカ)が400mに出場して話題となりましたが、私も現地で彼の走りを見ました。間近でレース前のウォーミングアップを見ても、一度スピードがつくと加速力がすごいんですね。「これはやはり有利なんじゃないかな」と感じたというのが正直なところです。本当に難しい問題で、どういう判断をすべきかということについては、私自身、明確な答えは導きだすことはできていません。ただ思うのは、パラリンピックや障がい者スポーツを、オリンピックや一般の競技と"別世界"にしてはいけないと思っています。同じスポーツ、同じアスリートとして評価され、それを見た人たちが元気や勇気を与えられるものとして共に歩んでいく形が望ましいと思います。特にパラリンピック競技は、障がいがあっても夢や目標を持つことができる、そんな生きる希望を与える大きな役割があると思うんですね。そう考えると、単に大記録だけを求めていくのは少し違うような気もしています。いずれにしても、すぐに答えが見つかるような問題ではないと思いますので、議論を重ねていくことが大事だと思います。



日本パラ陸連会長 増田明美氏

日本パラ陸連会長 増田明美氏

―― 今やオリンピック・パラリンピックの成功は、パラリンピックの成功なくしては考えられないほどになっています。テニスやカヌーなど、健常者と障がい者の垣根を超えて、IFが一つになっている競技もあります。国内でもサッカー界では、JFA(日本サッカー協会)の加盟団体として、障がい者サッカーの7競技団体を統括するJIFF(日本障がい者サッカー連盟)が2016年に発足し、JFAと障がい者サッカー団体をつなぐ中間支援組織となっています。日本の陸上界ではどのような交流があるのでしょうか。

国内には障がい者の陸上競技団体は、日本パラ陸上競技連盟をはじめ、日本知的障がい者陸上競技連盟、日本聴覚障害者陸上競技連盟など、いくつもあります。そこがまずは一つにまとまったうえで、次に日本陸連としてどのように関わっていくかということになるのだと思います。いずれにしても何らかの形で関りを持ち、同じ陸上競技として発展していきたいと考えています。すでに日本パラ陸連とはさまざまな交流が図られていまして、例えば、増田明美さん(1984年ロサンゼルスオリンピック女子マラソン日本代表。現在はジャーナリスト、解説者、タレントとして幅広く活躍)が、2018年からパラ陸連の会長を務められています。さらに2022年に神戸市で開催される予定の世界パラ陸上選手権の大会アンバサダーには野口みずきさん(2004年アテネオリンピック女子マラソン金メダリスト)が就任しました。また、昨年は実現できませんでしたが、過去には何度も日本陸連が主催するゴールデングランプリや織田幹雄記念国際陸上競技大会などでパラ陸上の選手がエキシビジョンで参加するなど、さまざまな交流が行われていまして、協力体制がしかれています。



セメンヤ選手。2017年世界陸上

セメンヤ選手。2017年世界陸上

―― 陸上に限った話ではありませんが、スポーツ界においてもLGBT(セクシュアル・マイノリティの総称のひとつ)の問題を見過ごすわけにはいきません。

LGBTについては、すぐにでも取り組まなければいけないと思っています。選手の立場や心情を考慮することはもちろんですが、スポーツという領域だけでは答えを導き出せない問題ですので、人権、科学、心理など、さまざまな分野の専門家の知恵をお借りしながら、スポーツ界が他をリードして解決していくべきことだと考えています。すでに陸上では、女子800mでロンドン、リオと2大会連続で圧倒的な差で金メダルを獲得したキャスター・セメンヤ選手(南アフリカ)が、筋肉量などの増加を促す男性ホルモンであるテストステロンの値が、一般の女性よりも高く、女子選手としての国際大会出場資格をめぐっての法廷上の争いが起きています。IAAFは薬などでテストステロンを基準値まで下げなければ出場を認めないと規定し、それに対してセメンヤ選手はスポーツ仲裁裁判所(CAS)に異議申し立てをしましたが、退けられました。スイス連邦最高裁にも上訴していましたが、昨年9月にセメンヤ選手が敗訴となっています。



国際陸連会長 セバスチャン・コー氏(2019年)

国際陸連会長 セバスチャン・コー氏(2019年)

―― セメンヤ選手については、ドーピング問題にもかかわってくる難しい問題です。このような明確に白黒はっきりさせることが難しい問題がスポーツ界に山積している現状をどのように見ていらっしゃいますか。

多様化が求められていく時代のなかで、スポーツ界も見過ごすことができない問題が増えてきていると感じています。これまで常識とされてきたものを、いろいろと見直す時期に来ているのだと思いますので、さまざまな意見を取り入れて、今後のスポーツ界発展のためにもしっかりと正面から向き合っていかなければいけないと思っています。これは日本スポーツ界、日本陸上界のビジョンに関わってくる問題でもあります。日本陸連ではすべての人がすべてのステージにおいて陸上競技を楽しめる環境づくり「ウェルネス陸上」の実現に向けて、2018年11月に新プロジェクト「JAAF RunLink」を発足しました。トップアスリートの育成・強化に限らず、これからは誰もがそれぞれのライフスタイルに合わせたランニングを楽しめる環境・機会を提供していきたいと考えていますが、LGBTDの問題は、このプロジェクトにも深く関わってきますので、日本陸連としてもしっかりと考えていきたいと思っています。



日本スポーツ界が目指すビジョン

―― 新国立競技場の東京オリンピック・パラリンピックの後利用については、日本陸連としてはどのようにお考えでしょうか。

これも非常に繊細な問題ですが、2017年には政府の「新国立競技場整備計画再検討のための関係閣僚会議」で東京オリンピック・パラリンピックの後は、陸上トラックを撤去し、球技専用の競技場として使用される方針が出されました。その関係閣僚会議自体が解散しているので、何とも言えないところですが、収益が見込めないことからも、陸上トラックを存続させる方向で再検討しているという話もあります。また、昨年10月に来日して国立競技場を視察した世界陸上競技連盟のセバスチャン・コー会長も、「2025年に東京都で世界選手権を開催したい」という意向を示しています。そして当然、陸上関係者のなかには、国立競技場は陸上の聖地だという思いが強い人は少なくありません。日本陸連としては陸上に限らず、さまざまな競技の聖地となり、日本スポーツ界の象徴となることを望んでいますし、そうなるようにすることが専務理事である私自身の使命でもあると思っています。しかし、大会開催の条件であるウォーミングアップのためのサブトラックを作ることは不可能ですので、なかなか難しい問題があります。ただ、これまではサブトラックがなければ、陸上の大会は開催することはできないと強く主張してきたわけですが、日本陸連としても頑なに拒むのではなく、柔軟に対応する姿勢が必要だと思っています。大規模な国際大会は無理としても、最低限ウォーミングアップできる場所が確保できれば、日本選手権や全日本インカレ、ゴールでグランプリなどは開催が可能だと思いますので、内部の規程を変更するなどの努力も必要だと思っています。



柔道男子日本代表監督 井上康生氏

柔道男子日本代表監督 井上康生氏

―― 一方、JOCとしての立場から、今後の日本スポーツ界のビジョンをどのように考えていらっしゃいますか。

これまで日本スポーツ界は競技力向上・強化という部分だけに注力しすぎてきた傾向があると思いますので、スポーツの果たすべき役割というものをしっかりと見つめ直すべき時期に来ていると感じています。これまでJOCとしての最重要課題は「オリンピックで活躍すること」で国際的競争力の強化を図ってきました。しかし、今後は「オリンピックでの活躍が何につながるのか」ということも考えていかなければいけません。その一つが、子どもたちに対するオリンピック選手への憧れの醸成です。単に「あの選手、すごいな」「かっこよかったな」で終わらせるのではなく、「自分も頑張ってみようかな」「何かに挑戦してみようかな」というような子どもたちに次への言動を促すことができるかが重要です。なかでもスポーツの参画という点においては、オリンピック選手の活躍をエネルギーにして、子どもたちがスポーツに関心を抱き、スポーツを始めるきっかけにしていくというようなサイクルを構築したいと思っています。JOCではそのための施策をつくろうと動き出していて、私が座長を務めるJOCの中期計画では東京オリンピック終了後の2022年からの施策や行動計画を作成するために、井上康生さん(2000年シドニーオリンピック柔道100キロ級金メダリスト。2013年には国際柔道連盟の殿堂入りを果たした。2012年ロンドンオリンピック後、全日本男子柔道監督に就任し、現在に至る)など若い世代の人にも入っていただいて進めています。JOCは国内のオリンピック関連を統括する立場ということで注目度も高く、存在としては国民に浸透していると思います。一方で、日本スポーツ協会のように各都道府県に根がはれていないという弱点もある。だからこそ、JOCがどんなことを理念とし、何を目指しているのか。そして実際に何をしているのか、ということを、しっかりと国民に向けて発信していく必要があると思っています。



ラグビー日本代表 福岡堅樹選手。2019年ラグビーワールドカップ。

ラグビー日本代表 福岡堅樹選手。2019年ラグビーワールドカップ。

―― 日本スポーツ界全体の問題でもありますが、セカンドキャリアについてはどのようにお考えでしょうか。

「アスナビ」(企業と現役トップアスリートをマッチングするJOCの就職支援制度)を活用して多くの選手たちが恵まれた環境で競技に取り組めることができていますし、企業のみなさまには多大なるご支援をいただき、大変感謝しております。そうしたなかで私が危惧しているのは、アスリートたちに甘えが生じていないかどうかということ。競技を終えれば、そのまま企業に残ることができるという安易な考えを絶対にもってはいけません。アスリートは苦しいことから逃げずにチャレンジするなど、パフォーマンス以外の部分でも、多くのすぐれた能力を持っています。しかし、企業で働くうえで必要なスキルは身につけていないということを、しっかりと理解していなければなりません。アスナビとしても、単に就職口を見つけるというだけでなく、引退後に企業の社員としてしっかりと働けるようにスキルを身につけるというところまでのサポート体制を考えていかなければいけないと考えています。私が現役時代、ドイツ遠征に行った際、ドイツ人の選手たちはみんな「将来は医者になる」「引退後は弁護士になる」と、しっかりとした将来設計を持っていて、そのための勉強をしっかりとやっていて驚きました。日本も本来はアスリートが競技と同じくらい必死になって働くためのスキル磨きをするというのが当然のようになっていかなければいけないと思います。そういう意味では、2019年ラグビーワールドカップで初の決勝トーナメントに進出に大きく貢献した元ラグビー日本代表の福岡堅樹選手が、引退後は医師を目指すと言って、実行している姿には感銘を受けましたし、日本スポーツ界のロールモデルになると感じました。スポーツ選手が引退後も、自分の得意な分野、あるいは新しい分野でこんなにも活躍しているんだ、ということが当たり前にならないと、スポーツは単なる趣味としか見られず、文化として認められないと思います。

スポーツ庁やJOCが、選手に手を差しのべる必要もあると思いますが、結局やるかどうかは選手次第。今後は「セカンドキャリア」ではなく、現役の時からスキルを身につける「デュアルキャリア」の考えが当然になっていくことが望まれます。日本陸連ではすでに取り組みが始まっています。昨年12月7日から総合人材サービス企業の東京海上日動キャリアサービスのサポートを得て、アスリートのパフォーマンス向上とキャリア自立の両立を目指した「ライフスキルトレーニング」というプログラムがスタートしています。これは、大学生アスリートを対象に、競技力の向上とともに、競技以外の面でも能力を最大限に活かして社会で活躍する人材を育て、最終的には企業とのマッチングまでを行うことを狙いとしたものです。初めて公募したところ、全国各地の大学から30~40人の応募がありました。現在の若い選手たちは、思っていた以上に将来を見据えて現役生活を送るということに対しての意識が高いと感じています。



知ってほしい誇れる学校体育の素晴らしさ

―― 2019年には大学スポーツ界の振興を目的に、各大学の競技団体を横断的に統括するUNIVAS(大学スポーツ協会)が設立されました。しかし、慶應義塾大学や同志社大学、あるいは尾縣さんの母校で、現在も教鞭を執られている筑波大学など、学生スポーツ界を牽引してきた主要大学の多くが加盟していません。これについては、どのようにお考えでしょうか。

UNIVASは、アメリカのNCAA(全米大学スポーツ協会)を基にして創設されたわけですが、私はそもそも海外の模倣をするのではなく、日本独自の施策や制度が必要だと思っています。日本スポーツ界には課題が山積していることは事実ですが、実は海外からうらやましがられるほど優れたものもあるんです。ドイツでヒアリング調査を行った際に言われたのは、「日本の学校体育は素晴らしい。教育をしながら、さまざまなスポーツを子どもの時に体験することができるシステムは本当にすごい」とか「成人した選手の受け皿として、プロだけでなく、実業団という受け皿があるなんて、日本人選手は羨ましいです」と。隣の畑は青く見えるものですが、海外の良い部分を取り入れつつ、日本の良さにも目を向けて、それを今後どのようにしてスポーツ施策に盛り込んでいけるのか、ということを考えることの方が重要ではないかと思います。



嘉納治五郎

嘉納治五郎

―― 「日本のオリンピックの父」であり柔道の創始者でもある嘉納治五郎は、東京高等師範学校(現・筑波大学)の学校長時代には、課外活動として運動会(学校運動部活動)を結成し、学生たちのスポーツ活動を奨励しました。また、体育科を設置し、文科、理科と同等のものとし、体育を重視した教育を行っています。

まさに嘉納先生の理念が、現在の学校体育には継承されていると思います。日本の学習指導要領は海外には類を見ない、本当に素晴らしいものです。日本体育学会が未だに「スポーツ」ではなく「体育」という言葉を残しているのは、体育そのものに大きな意味があるからです。現在の学校体育の中心的な考えは「リテラシー」を養うといった内容になっています。基礎的な運動の知識や技能を身につけると同時に、「運動の楽しさや喜びを味わう」ということも重視しているんです。 そのリテラシーを育むためのカリキュラムが小学生から高校生まで段階的に作られているのですが、小学1年生から4年生の間には体の動きを重視していて、小学5年生から中学2年生の間にはあらゆるスポーツを経験します。そして中学3年生から高校3年生の間には、自分が得意とするスポーツに特化して行うというカリキュラムになっていて、 最終的には生涯にわたって豊かなスポーツライフを実現するというところにつなげることが目的となっています。 つまり、現在の学校体育のカリキュラムというのは、子どもたち全員がスポーツを好きになり、なかでも得意なものを2つ、3つはしっかりとマスターして、社会に出ていこうという形なんです。実際、小学校の学習指導要領には「全ての児童が、楽しく、安心して運動に取り組むことができるように」という言葉が盛り込まれています。 これ以上ないカリキュラムだと思います。また、リオオリンピックでは男子4×100mリレーで日本代表チームが銀メダルを獲得しましたが、なぜ日本人選手はリレーが強いのかというと、子どもの頃からリレーを経験しているから、ということが挙げられます。学校の運動会では必ずリレーがありますし、クラスのイベントやレクリエーションの中でも何かというとリレーが行われたりしますよね。日常の中にリレーをする機会がある日本人の中には深く浸透していて、「どうやったら勝てるか」ということを常に真剣に考えているから勝つコツも知っているし、またみんなが応援して盛り上がります。運動会の花形がリレーであるように、日本人と海外とのリレーへの価値観は、まったく異なります。また、日本代表のランナーたちがやっていることは、日本人が誰しも学校体育の中でやってきたことの延長上にあることなんです。これが日本のリレーを強くした要素の一つだと考えられています。そして、それはリレーに限ったことではありません。レベルは違っても、オリンピック競技の中には学校体育で経験しているものが多くあります。そんなことは、世界の中でも日本しかありません。ですから、日本人はもっと学校体育に対して自信を持ってほしいと思います。最近では、体罰や事故など学校体育のマイナス面ばかりが注目されています。でも、実際はプラスの面もたくさんあるんです。もともとある素晴らしさはそのまま残しつつ、問題についてはしっかりと向き合って解決していく。その両面が大切です。



2016年リオオリンピック。陸上男子400mR銀メダル 日本チーム

2016年リオオリンピック。陸上男子400mR銀メダル 日本チーム

―― 最後に、後世に伝えたいものとは何でしょうか。

私は学会でさまざまな分野の専門家と一緒になる機会が多いのですが、その時に未だにスポーツという分野を研究対象としている身として、肩身の狭さを感じてしまうんです。なぜかというと、「スポーツは過小評価されていて見下されているのではないか」という気持ちがどうしても拭えないからなんです。自分自身ではスポーツには大きな価値があると自信を持って言えるのですが、どうしても学会のような場では委縮してしまうんですね。でも、やはり人間が心身ともに健康的に生きていくためには、スポーツは絶対に不可欠です。スポーツによって身体だけでなく、精神も鍛えることができ、病気の予防にもなります。そのスポーツの価値を、もっと高めていく努力をすることが大切だということを、若い人たちに伝えたいと思います。また教育者という立場から申し上げますと、スポーツというのは医学や生理学、心理学、栄養学など、親学問が多岐にわたっています。つまり、スポーツをするということは、多くの分野を学ぶことでもあるんです。ですから、大学、競技団体がしっかりと協力体制を構築していけば、さまざまな学問の英知を結集し、スポーツの価値を高めていくことができるはずです。若い人たちには、ぜひスポーツの価値を高め、しっかりと文化として根付かせてほしいと思います。



  • 尾縣貢氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)
1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

  • 1959 尾縣貢氏、兵庫県に生まれる
1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1984 尾縣貢氏、筑波大学大学院修士課程体育研究科コーチ学専攻を修了
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1998 尾縣貢氏、筑波大学体育科学助教授に就任
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2001 尾縣貢氏、筑波大学陸上競技部監督に就任
2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2003 尾縣貢氏、日本学生陸上競技連合理事に就任
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
  • 2009 尾縣貢氏、ナショナルコーチに就任
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011 尾縣貢氏、日本陸上競技連盟専務理事に就任
  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

  • 2012尾縣貢氏、筑波大学人間総合科学研究科教授に就任
  • 2013尾縣貢氏、日本オリンピック委員会理事に就任
2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2019 尾縣貢氏、日本オリンピック委員会常務理事・選手強化本部長に就任
2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期