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スポーツ界と新型コロナウイルス感染症
第101回
“命”と“世界平和”あってのスポーツの祭典

土田 和歌子

パラリンピックは、1994年リレハンメル(ノルウェー)から、2016年リオデジャネイロ(ブラジル)まで、夏冬あわせて7回出場し、7個のメダル獲得を誇る土田和歌子選手。1998年長野ではアイススレッジスピードレースで2個の金メダル、2004年アテネ(ギリシャ)ではパラ陸上の5000mで金メダルと、日本人史上初の夏冬パラリンピック金メダリストという快挙を成し遂げました。

現在は、パラトライアスロンと車いすマラソンの2競技で東京パラリンピック出場を目指しています。20年以上も世界のトップで活躍し続けている土田選手に強さの秘訣と、コロナ禍におけるパラリンピックのあり方や東京パラリンピックへの思いについてうかがいました。

聞き手/佐野慎輔  文/斉藤寿子  写真/フォート・キシモト  取材日/2021年1月21日

選手としてストレスフリーだった大分車いすマラソンの予防対策

―― 2020年から新型コロナウイルス感染が拡大し、いまだに収束の見通しが立っていません。土田さん自身の生活にも大きく影響していることと思います。

一年前に新型コロナウイルスの感染拡大が一気に広がり始めた当初は、先行きが真っ暗な状態で、非常に困惑した時期もありました。ただ、必ずその先にはスポーツというものが世界で大きな力を持つということは思い描くことができていましたので、アスリートの一人として、その時に向けてしっかりと土台を作ろうということにシフトチェンジしました。



トレーニングルーム

トレーニングルーム

―― 新型コロナウイルスの感染が世界に広がり、昨年3月24日にはIOC(国際オリンピック委員会)から東京オリンピック・パラリンピックを延期することが発表されました。その時、土田さんはどんなお気持ちになられましたか?

私は1994年リレハンメルパラリンピック(ノルウェー)から、夏冬あわせて7回のパラリンピックに出場してきました。しかし、"4年に一度の"パラリンピックが延期となるということは前代未聞のことで、当たり前ですが私自身にとっても初めてのことでした。

 

競技人生の中で最も予測不可能な事態でしたし、パラリンピックを一番の目標としてトレーニングに励んでいるものとしては、目の前の目標が突然なくなり、とても困惑しました。また、オリンピックと同様にパラリンピックは"4年に一度"というサイクルの中、1年1年プランを立てて積み上げていきますので、それが1年延期となったことによって2020年の東京パラリンピックに向けてのプランが崩れてしまいました。2021年に向けてプランを設定し直したり、目標設定することは簡単なことではありませんでした。というのも、私が競技をするうえで関わってくださっている方たちの人数が多いので、その方たちのスケジュールをすべて組みなおして、プランニングするというのは困難を極めました。

そうしたさまざまな問題にも直面するなかで、ただ東京オリンピック・パラリンピックが1年延期となったすぐ後の4月7日には日本では緊急事態宣言が発出されて自宅での自粛となりましたので、すぐに何かにとりかかるということはできず、まずは自分自身に目を向けるしかありませんでした。今振り返ると、それがかえって良かったのだと思います。1年延びたことを良い準備期間ができたというふうに捉えまして、まだ自分にないものをじっくりと追求できる期間にしようということで、自宅でできる範囲ではありましたが、しっかりとトレーニングに取り組むことができました。



大分車いすマラソン2020ゴールシーン

大分車いすマラソン2020ゴールシーン

―― 5月25日に緊急事態宣言が解除されて以降は、少しずつスポーツ大会も開催されるようになりました。1年後に延期となった東京パラリンピックに向けて、土田さんはどこに照準を合わせていたのでしょうか。

私はパラトライアスロンと車いすマラソンの2競技での東京パラリンピック出場を目指しているのですが、どちらもまだ内定はしていませんので、とにかく選考レースに出場をしてランキングを上げるということが求められています。しかし、昨年は予定されていた選考レースがほぼすべて中止となり、私にとっては大きな痛手でした。

 

ただ唯一、「大分車いすマラソン」は11月に開催する方向で準備が進められていましたので、それを目標にしていました。大分車いすマラソンは、本来は「大分国際車いすマラソン」として1981年に世界で初めて車いすマラソン単独で開催されて以降、これまでは海外のトップランナーたちもエントリーする国際大会として開催されてきました。しかし、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、昨年に限っては日本人選手だけの国内大会として開催されたのですが、とにかくモチベーションをキープするうえでも、大分車いすマラソンに向かっていけたというのはとても大きかったです。



―― その大分車いすマラソンでは、女子のフルマラソンの部で若手の喜納翼選手に1分42秒の差をつけ、圧倒的な強さを見せての優勝でした。

喜納選手は30歳と若く、勢いのある選手で、同じ日本人として頼もしい存在です。世界で勝つということを考えても、やはり国内で切磋琢磨できる相手がいるのといないのとでは大違いですので、世界で戦えるランナーが女子車いすマラソン界に出てきたというのは、本当に嬉しいことです。なので、その喜納選手と戦えることを非常に楽しみにしていました。とは言っても、余裕があったわけではありません。自分自身が2年ぶりのフルマラソンのレースということもありましたし、出るからには世界トップレベルの走りをして一つでも世界ランキングを上げなければいけないと考えていましたので、自分自身にフォーカスしていました。そうしたなかで優勝できたことは、嬉しかったですし、大きな自信となりました。



土田和歌子選手(当日のインタビュー風景)

土田和歌子選手(当日のインタビュー風景)

―― 大分車いすマラソンでは、どのような感染予防対策が行われていたのでしょうか。

大会運営側が、さまざまな知恵をしぼって、いろいろと工夫したなかで大会を開催してくれていることを感じ、とても安心してレースに臨むことができました。
まずはレース前日に大分県庁舎に設けられた選手受付で全参加選手がPCR検査を受けました。それも分散できるようにと、関東地区、関西地区、九州地区というようにブロックごとに時間が分かれていましたので、密になることなくスムーズに受付とPCR検査を受けることができました。PCR検査の結果も、その日の夜までには出ましたので、特にストレスを感じるようなことはなかったです。あとはレース以外のところではマスク着用が義務付けられ、外出もなるべく控えるようにと通達されていました。

 

私がとても細かいところまで気を使ってくださっているなと感じたのは、受付の時に一人ひとりにアルコール除菌のスプレーが配布されたことです。というのも、私たち車いすユーザーは常に車いすの車輪を手で触れていますので、例えば自宅では屋内と屋外とで車いすを乗り換えている選手がほとんどだと思いますが、自宅以外の施設ではどうしても屋外で使っている車いすでそのままホテルなどの屋内施設を利用します。衛生面では非常に懸念される部分なのですが、そういうところでも使えるようにと一人ずつにアルコール除菌のスプレーを配布されたのはとても助かりました。
それと大会運営という点では、開閉会式などのセレモニーはすべて中止となり、沿道での観戦も自粛していただくように周知されていましたので、実際にレース当日は沿道で観戦する人というのはほとんどいないような状態でした。もちろん、選手としてはとても寂しい思いをしたというのも事実です。これまで沿道からの声援のおかげで、苦しい時にも頑張ることができたり、背中を押していただけるというのはありましたので、そうした応援の力がゼロの状況でレースが行われるということが、こんなにも寂しく、これまでどれほど声援が大きな後押しとなっていたかということをしみじみと感じる大会でもありました。また、優勝した時も本来ならたくさんの人と喜びを分かち合える場面で、握手やハグのできないもどかしさはありました。ただ、今後は国際大会でも新しいスタイルのコミュニケーションが必要になってくるのかなと思いますので、いい経験になりました。



健康な体と生きる活力になるスポーツの存在

リオデジャネイロパラリンピック(2016年)

リオデジャネイロパラリンピック(2016年)

―― 新型コロナウイルスはいまだに世界中で猛威をふるっており、今年の東京オリンピック・パラリンピックの開催については、否定的な意見も少なくありません。そうしたなか、現役のアスリートとしてはどのように感じていらっしゃいますか?

当然、賛否両論あると思いますし、厳しい状況が続くなかでは否定的な意見が多くなるのは致し方ないことだと思います。
ただ、私自身の人生はスポーツとは切り離せられないものだと思っています。これまで私自身を成長させてくれたのもスポーツでした。

 

また、パラリンピックの存在を広く知っていただくためには、自分たちアスリートが歩みを止めてはいけないという思いが強くあります。とはいえ、今回のような事態はスポーツの力だけではどうすることもできませんし、何より人命に関わる問題です。人の命は最優先にしなければいけませんし、そもそも人の命があって、世界の平和が約束されて、初めてスポーツがあるのだと思いますので、オリンピック・パラリンピックが安心・安全が担保された大会でなければ開催の意義はなくなってしまいます。もちろん選手としては開催されることがベストですが、安心・安全がしっかりと約束されているということが、参加する選手としてもとても重要なことだと思います。



―― 特に、パラリンピック選手にとって"安心・安全"であることが非常に重要になります。

おっしゃる通りです。パラリンピックに参加する選手の中には、疾患を抱えている人もたくさんいますので、"安心・安全"を無視するわけにはいきません。パラリンピックの意義を考えても、そこはしっかりと向き合っていかなければいけない部分だと思います。



全国障害者スポーツ大会(1993)

全国障害者スポーツ大会(1993)

―― このコロナ禍におけるスポーツの意義、アスリートの価値というのは、どのようにお考えでしょうか。

健康ということを考えると、スポーツは欠かすことはできないものだと思います。実際、私自身がそうでした。前回の2016年リオデジャネイロパラリンピックが終わった2カ月後の11月6日に、ニューヨークシティマラソン(アメリカ)に出場した際、レース途中で運動性の喘息を発症して途中棄権したんです。「もうスポーツはできないのかな」と思っていたのですが、帰国をして受診したところ医師から体質改善のために水泳を勧められました。それがきっかけで、パラトライアスロンに転向するという決断に至るわけですが、何より今も自分自身が健康でいられる、さらに競技者レベルの体を作れているというのは、水泳をしたおかげでした。これは一例にすぎませんが、実際に病気やケガを経験しているパラリンピック選手にとって、スポーツは生きていくうえで非常に重要な位置を占めていると思います。それは、パラリンピック選手だけでなく、オリンピック競技の選手もそうですし、高齢者にとっても言えることだと思います。
また健康面だけでなく、スポーツは生きる力にもなります。私自身がそうでした。17歳の時に交通事故に遭い、「もう一生、自分の足では歩くことができず、車いす生活になる」という宣告を受けた時のショックは非常に大きく、数日間は泣き続けました。しかし、そこからリハビリの一環としてスポーツを始めることによって目標もでき、多くの方たちとの出会いによってパラリンピックへの道につながっていきました。こうしたさまざまな部分に派生していくスポーツの価値というものを広く伝えていくことも私自身の役割だと考えています。



今も追い続ける初のパラリンピックで目にしたアスリート像

リレハンメル冬季パラリンピック(1994年)

リレハンメル冬季パラリンピック(1994年)

―― 土田さんにとって初めてのパラリンピックが、1994年リレハンメルでした。アイススレッジスピードレースの日本代表として出場したわけですが、この競技を始めたきっかけは何だったのでしょうか。

先ほども申し上げた通り、「車いす生活になる」ということに直面した時は、本当にショックでした。ただ私が入院していたのは、障がいのある人が社会復帰するためのリハビリ施設がある病院だったので、病室で寝ていると、廊下をカラフルな車いすで勢いよく駆け抜けていく姿が見えました。それを見て、「あぁ、車いすでこんなにアクティブに動けるんだ!私も早くあのかっこいい車いすに乗って社会復帰をしたい!」と思えたことで、割と早い段階で自分自身の障がいを受け入れることができました。そういう意味では、環境に恵まれていたと思います。もし、入院してすぐにアクティブに動いている方たちを目にすることがなければ、車いすでの生活がイメージできず、長い間ふさぎ込んだままだったかもしれません。そんなふうに環境にも助けられて、リハビリでスポーツに取り組むようになり、パラリンピックを目指す道へとつながっていきました。

実は最初は、アイススレッジスピードレースではなく、小学生の時にはミニバスケットボールを経験したこともあって車いすバスケットボールをやろうかなと考えていました。入院していた病院には体育館もありまして、そこで社会復帰を目指す患者さんたちが車いすバスケをしていたんです。それを見て「かっこいいな」と思っていました。また一方では、担当医からの紹介で知り合った障がい者スポーツ指導員の方の勧めで、入院した翌年の1993年には、徳島県で開催された「全国身体障害者スポーツ大会」(以下、全スポ)にパラ陸上の選手として、100mとソフトボール投げの2種目に出場しました。両種目ともにメダルも取れたのですごく楽しくて、「陸上もいいな」と思っていました。ただ、車いすバスケのクラブチームから勧誘されていたので、全スポ後に「やっぱり車いすバスケにしようかな」と女子のクラブチームに加入するつもりで、練習に参加していたんです。

そうしたところ、5年後の1998年に開催が決定していた長野パラリンピックの正式種目の一つで、それまで日本人は一人も選手を派遣したことがなかったアイススレッジスピードレースの選手を育成しようと長野県が主催した講習会に、私たちのチームが招待を受けまして、私も参加することになりました。その講習会に、アイススレッジスピードレースの発祥の地でもあるノルウェーの講師がいたのですが、19歳と若く体力もあった私が一人で、スレッジに乗ってクルクルとスケート場を回っているのを見て、「彼女は体も柔軟だし、素質があるよ」と言っていただいたようなんです。それで講習会後、東京に戻った時に日本の競技関係者から連絡がありまして、「リレハンメルパラリンピックに出場してみませんか?」というオファーを受けました。でも、大会は3カ月後だったんです。正直、ただ講習会で一度、見よう見まねでやっただけで、何も知らないのに本当に出られるのか不安しかありませんでした。ただ、私を指導してくださったコーチが、とても情熱のある方でしたので、一緒に試行錯誤しながらトレーニングに付き合ってくださいまして、なんとかリレハンメルパラリンピックの舞台に上がることができました。

結果はもちろん惨敗でした(笑)。世界との実力差を目の当たりにして、恐怖心を抱いてしまって、「早く日本に帰りたい」とばかり思っていました。ただ、得られたものは小さくはありませんでした。アイススレッジスピードレースには、地元のノルウェーから40、50代の選手が何人も出場していて、そのうち3人の選手が、100、500、700、1000mの全4種目の表彰台を独占してしまいました。100mと500mで金メダルを獲得した当時49歳のBrit Mjaasund Oejen選手は、1980年ヤイロパラリンピック(ノルウェー)ではクロスカントリーで2個の金メダルを獲得し、リレハンメルパラリンピックではアイススレッジスピードレースのほかにアイススレッジホッケー(現パラアイスホッケー)にも男子に交じって出場し、銀メダルを獲得しています。700mで優勝した当時50歳のRagnhild Myklebust選手は、1998年長野パラリンピックではクロスカントリーで4冠を達成。その後2002年のソルトレイクシティパラリンピック(アメリカ)まで出場し、冬季パラリンピックでは最多となる27個のメダル(金22、銀3、銅2)を獲得した選手です。
彼女たちはみんな筋骨隆々の、まさにアスリートの体をしていたんです。そんなストイックなアスリートの体を初めて間近で見て、「障がいがあっても、この年齢でも、トレーニングを積めば、こんなにもアスリートの体になれるんだ」ということを知りました。そして大会期間中にも海外選手のストイックな食事やトレーニングを見て、「パラリンピックとは、これだけやらないと勝てない世界なんだな」と思いました。リレハンメルでの彼女たちの姿は今でも鮮明に覚えていますし、その後の競技人生にも大きな影響を与えてくれたと思います。私自身、46歳となりましたが、今もリレハンメルパラリンピックで見た選手たちの姿を追いかけているようなところがある気がしています。苦しくてくじけそうになった時には、彼女たちの姿が頭に浮かび、また頑張ることができるんです。



長野冬季パラリンピック(1998)開会式・日本選手団入場(前列左から3人目)

長野冬季パラリンピック(1998)開会式・日本選手団入場(前列左から3人目)

―― リレハンメルパラリンピックから帰国後は、すぐに気持ちを切り替えて、1998年長野パラリンピックに向かっていったのでしょうか。

すぐに長野パラリンピックに気持ちを向けられたわけではありませんでした。というのも、リレハンメルパラリンピックでは100mのレースで転倒して、自分の実力を出し切ることができなかったんです。もちろん、たとえ100%の力を出し切ったとしても勝てなかったとは思います。ただ、アクシデントによって発揮できなかったことで、この競技が自分に向いているか向いていないかと考えた時に、「アイススレッジスピードレースではなくてもいいんじゃないのかな」と思ったんです。ですので、リレハンメルパラリンピックから帰国してしばらくはまた車いすバスケのチームに戻って練習していました。ところが、数カ月も経つと、沸々と「次の長野パラリンピックでリベンジを果たしたい」という気持ちがわいてきました。それで、アイススレッジスピードレースで長野パラリンピックを目指すことを決意しました。



人財というレガシーを残した長野パラリンピック

―― その長野パラリンピックでは、1000m、1500mで金、100m、500mで銀と4つのメダルを獲得しました。周囲からのサポートも大きかったのではないでしょうか。

おっしゃる通りです。それともう一つ大きかったのは、私を指導してくれたコーチの情熱があったと思います。当時はまだ選手への強化体制が整っていなかった時代に、トレーナーから栄養面から、アスリートに必要なことを取り入れていただいたことで、しっかりと土台を築くことができました。今考えても、あの時代において、私は本当に恵まれた環境にあったなと思います。また、一緒に長野パラリンピックを目指す仲間がいたことも大きかったです。リレハンメルパラリンピックの時はスピードレースには日本からは男女一人ずつの参加で、私と、男子は長野県出身の加藤正さんの2人だけでした。でも、長野パラリンピックでは"日本選手団"として活動しましたので、みんなで一緒に強くなっていこうと、励まし合いながらやっていくことができたんです。



長野冬季パラリンピック(1998)・松江美希選手

松江美希選手 長野冬季パラリンピック(1998)

―― その中の一人が、土田さんとはクラスは違いますが、同じスピードレースで3個の金メダルを獲得した松江(旧姓)美季さんがいらっしゃいます。

はい、現在はご結婚をされてマセソン美季さんとなりましたが、美季ちゃんとはクラスが違いましたので同じレースは走ってはいないんですけども、それでも結果というところでいいライバル関係にあったかなと思います。また他の競技にも、例えばパラアルペンスキー・滑降で大日方邦子さんも金メダルを獲得されるなど、競技を超えて日本人みんなで切磋琢磨できたことが、良い結果を生み出したと思います。



長野冬季パラリンピック(1998)・大日方邦子選手

大日方邦子選手 長野冬季パラリンピック(1998)

―― また、今でも皆さんはご活躍をされていて、それぞれの立場で長野パラリンピックのレガシーを継承しているというのが素晴らしいですね。マセソンさんは、日本財団パラリンピックサポートセンターで勤務されてパラリンピック教材『I'm POSSIBLE』日本版の開発の中心です。またIPC(国際パラリンピック委員会)教育委員も務められています。一方、大日方さんは日本パラリンピアンズ協会会長や日本障がい者スポーツ協会理事、JPC(日本パラリンピック委員会)副委員長、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会・顧問会議顧問などを務められています。そして現役アスリートである土田さんは、前回の16年リオデジャネイロパラリンピックまで、夏冬あわせて7回のパラリンピックに出場し、常に世界のトップランナーとして第一線で活躍しています。今もなお日本人女子選手を牽引する存在です。そう考えると、長野パラリンピックは本当の意味で成功だったと言えるのではないでしょうか。

そう言っていただけると、本当に嬉しいですね。長野パラリンピックは、私の競技人生の中でも重要な位置を占めている大会です。あの時、アイスリンクから見た満員のスタンドの光景は未だに忘れることができません。自国開催であれだけ盛り上がり、観客席からの大声援の中でパフォーマンスを披露できたことは、私の財産です。それを経験しているからこそ、東京パラリンピックでもあの自国開催でしか味わえない感動を多くの日本人選手に味わってほしいという思いが強くあります。



長野冬季パラリンピック(1998)

長野冬季パラリンピック(1998)

―― 長野パラリンピックの成功によって、国内での障がい者スポーツに対する見方にも変化があったのではないでしょうか。

はい、とても影響は大きかったです。特に、メディアの皆さんの私たち選手に対する扱い方が変わったかなと思います。それまではたとえ取材を受けたとしても、たとえば私と美季ちゃんが一緒にいると、「スピードレースの選手」としか見られていなかったんです。でも、長野パラリンピック後は、ちゃんと「ワコさん(土田選手の愛称)」「ミキさん」と、それぞれの名前で呼んでくれるようになりました。
それと長野パラリンピックでは、開会式用や式典ユニフォームといった公式服装、競技用ユニフォームが、オリンピックの選手と初めて同じデザインに統一されたことで、私たちパラリンピック選手のモチベーションは非常に高まりました。自分たちがアスリートとして憧れていたオリンピックの選手と、同じ会場で同じユニフォームを着てパフォーマンスを披露できるということで、とても励みになりました。パラリンピックがオリンピックと同じ"世界最高峰のスポーツ大会"ということを認めていただいたような気がしました。

 

―― 残念だったのは、長野パラリンピックで日本人選手が大活躍したアイススレッジスピードレースが、それ以降の大会では採用されず、廃止となってしまったことです。

まず一つ大きな理由は、参加国が非常に少なかったことです。長野パラリンピックの参加国は、日本、ノルウェー、フィンランド、エストニアの4カ国とリレハンメルパラリンピックの7カ国よりも減少してしまいました。リレハンメルで男女あわせて8種目のうち男子100mで銅メダルを獲得したオーストリア人選手を除いて、すべてノルウェー陣が表彰台を独占したということも大きかったかもしれません。そのために、2002年ソルトレークシティパラリンピック(アメリカ)では除外されたんです。競技人口が増えなかった要因の一つは、今考えると、環境面も大きかったように思います。アイススレッジスピードレースは、そりのようなものに正座をして乗りながら、両手に持ったスティックで氷上を漕いでいくわけですが、スティックの先には「ピック」と呼ばれる鋭い歯が付いているんです。それを思い切り氷上に打ち付けながら漕いでいきますので、選手が走った後には大きな穴が開いてしまいます。その穴を修復することは容易ではありません。一方、オリンピック競技のスケート競技では氷上は繊細に整備されますので、整備の面で同じ会場で練習をしたり競技をするということが難しく、共存するのに苦労したのかもしれませんね。



大観衆の前で銀メダルを獲得したシドニー五輪での快走

―― 土田選手自身は、長野パラリンピック以降は、どうしようと考えていたのでしょうか。

まさに「これからどうしようかな」と考えていた時に、アイススレッジスピードレースが廃止されるということを耳にしまして、パラ陸上に転向することを決意しました。実はもともと夏季パラリンピックにも出場してみたいという気持ちもあったんです。というのも、長野パラリンピックに向けてのトレーニングの一環として、夏は陸上競技を取り入れていました。夏に氷上での練習環境を求めることは難しかったですし、コーチが国立市にある東京都障がい者スポーツセンターに勤めていたということもありました。そのスポーツセンターには、1992年バルセロナ(スペイン)や1996年アトランタ(アメリカ)と夏季パラリンピックに出場したパラ陸上の選手たちがたくさんトレーニングに来ていて、クラブチームのようなものが形成されて選手同士での交流がありました。私も、そのクラブチームの仲間に加えてもらって、レーサー(競技用車いす)で走ることが許されていた大学の競技場に週に3回ほど行って一緒にトレーニングをしていました。そういうつながりもありましたので、長野パラリンピック後は自然とパラ陸上の方で夏季パラリンピックを目指したいなという思いが芽生えていきました。



シドニーパラリンピック(2000)マラソン

シドニーパラリンピック(2000)マラソン

―― 土田さんにとって初めての夏季大会が、2年後の2000年シドニーパラリンピック(オーストラリア)で、車いすマラソンでは銅メダルを獲得しました。

シドニーパラリンピックも簡単に出場することができたわけではなく、本番4カ月前の2000年5月にようやく出場が決まったんです。パラ陸上に転向して以降、一生懸命に練習をしてもなかなか記録が出ず、苦しい状況が続きました。そこで強化のために週末には、男子の強豪選手たちがたくさんいた関西地区に行って一緒にトレーニングをさせてもらって、夜行バスで月曜日の朝に東京に帰って来て、すぐに仕事に行くというようなことをしていました。

 

スケジュール的にはとてもハードではありましたが、それでも武者修行できる場があったことは本当にありがたかったです。そのおかげで、なんとかぎりぎりで出場権を得ることができました。シドニーパラリンピックに参加して驚いたのは、海外では当時からすでにプロで活動しているパラ陸上選手がたくさんいたということと、女子選手でも男子選手並みにフィジカルを鍛え上げられていることでした。また、車いすランナーの特性として、トラックでは800m以上の中長距離種目から、ロードのマラソンまでこなしている選手がたくさんいましたので、私もパラ陸上の世界で活躍するためには"右に倣え"で、まずはフルで挑戦しようと、トラックの800m、1500m、5000mとマラソンの4種目にエントリーしました。そのために大会期間中は、ほぼ毎日レースがありました。しかも、トラック競技では1種目で準決勝、決勝と多くて2本のレースがありましたので、マラソンも合わせると6本のレースに臨みました。その結果、最高でマラソンの銅メダルに終わりました。



シドニーオリンピック800m

シドニーオリンピック800m

―― シドニーではパラリンピックの前のオリンピックで、公開競技として男子1500mと、女子800mの車いすレースが行われ、土田さんは女子800mで銀メダルを獲得しました。私はそのレースを記者席から見ていまして、初めて車いす競技というものを目にしたのですが、日本人選手が銀メダルを取ったことにとても感動したことを覚えています。
手元にあった資料を見て、「土田和歌子」と書いてあり、2年前の長野パラリンピックを取材して知っていましたので、「あれ、陸上もやるんだ!」と思って驚いたという記憶があります。

 

あのレースを見ていただいていたんですね。ありがとうございます。とても嬉しいです。もちろんシドニーパラリンピックも初めての夏季大会として印象深いのですが、それ以上にシドニーオリンピックでの800mは強く印象に残っています。公開競技とはいえ、事前に予選がありまして、運よく決勝に残り、超満員の競技場で走ることができました。あの時、トラックの中から大観衆を目にして、「私はこんなところで走れるんだ」とレース前から感動していまして、スタンドにいる人々が、みんな光のように見えたことを覚えています。そこで銀メダルを取ることができて、スポーツ紙の一面で取り上げていただきました。車いす競技やパラリンピックのことを広く知っていただく良い機会になったかなと思っています。実際にオリンピックから一度帰国した時には、多くの人から「車いすって、あんなに速く走ることができるんですね」と話しかけられることもよくありました。
一方、2週間後のパラリンピックでは逆に厳しいレースを強いられました。長野パラリンピックで金メダルを取っていたとはいえ、夏季のパラリンピックには出場したことがなかったので、パラ陸上界では無名に近い存在でした。その私が銀メダルを取ったということで、一気に注目度が上がり、実際のパラリンピックでのトラック競技では厳しいマークにあってしまいました。私自身もそういうプレッシャーの中で勝てるだけの実力もなかったので、トラックでは表彰台に上がることができませんでした。



不運と僅差で逃してきたマラソン金メダル

アテネパラリンピック(2004年) トラック5000m 金メダル

アテネパラリンピック(2004年) トラック5000m 金メダル

―― 4年後の2004年アテネパラリンピックでは、トラックの5000mで金メダル、マラソンでは銀メダルを獲得。日本人としては、史上初となる夏冬の金メダリストとなりました。

5000mの決勝ではレース中にクラッシュがあり、私自身は転倒することはなかったものの、一度ストップしてしまいました。そこから再び走り始めて追走し、なんとか1位でゴールしたのですが、そのレースが成立するかどうかの判定に時間を要しまして、すぐには表彰式が行われなかったんです。結局、半日ほどはどうなるか不安の中で過ごさなければいけなかったのですが、翌日にレースの成立が確定されて、表彰式で金メダルを首に下げていただいた時には喜びでいっぱいでした。
一方、マラソンではシドニーから一つ繰り上がって銀メダルだったのですが、金メダルを獲得したのが、同じ日本人選手の畑中和さん(1992年バルセロナから2004年アテネまで4大会連続でパラリンピックに出場した女子車いすランナーのパイオニア的存在。車いすマラソンでは1996年アトランタ、2000年シドニーと2大会連続で銀。アテネでついに金メダルを獲得した)でした。偉大な大先輩である彼女の背中を一生懸命に追って走ったのですが、最後は力及びませんでした。2位でゴールラインを踏んだ時に、「次は、私がマラソンで金メダルを取る!」という強い気持ちが芽生えました。

 

そのためにも練習環境を整えようと考えまして、それまでは東京都の職員として働きながらアスリートとの"二足のわらじ"で頑張っていたのですが、海外選手と同じように競技に専念できるプロになろうと思いました。縁あって、翌2001年1月から橋本聖子さん(スピードスケート選手として冬季オリンピックには1984年サラエボから、1994年リレハンメルまで4大会連続で出場し、1992年アルベールビルでは女子1500mで銅メダル。夏季は1996年アトランタオリンピックに自転車競技代表として出場。7回のオリンピック出場は、日本人女子選手としては最多。現役引退後、日本スケート連盟会長、日本オリンピック委員会理事として2010年バンクーバーオリンピック選手団団長を務めるなど、さまざまな要職に就く。一方、1995年7月の参議院議員選挙に立候補して当選。自由民主党副幹事長、外務副大臣、自民党参議院議員会長などを歴任し、2019年9月からは東京オリンピック・パラリンピック競技大会担当、女性活動担当、内閣府特命担当大臣を務める)が設立されたマネジメント会社「セイコ・ハシモト・インターナショナル・コーポレーション」に翌2001年1月から所属しました。そこでマネジャーとして勤めていた夫と出会ったのも、その時でした。



リオデジャネイロパラリンピック(2016年)マラソン

リオデジャネイロパラリンピック(2016年)マラソン

―― 2005年に髙橋慶樹さんとご結婚されて、翌年にはご子息を出産されました。

2004年アテネパラリンピック以降、次の北京パラリンピックに向かうにあたり、出産という女性としての一大イベントを経験し、環境も心境も変化しました。ただブレずにあったのは、北京パラリンピックに出場し、マラソンで金メダルを目指すためにトレーニングを続けていく、ということでした。とはいえ、子育てと競技との両立は、予想以上にとても大変でした。
それまでは1年1年、しっかりとプランニングし、一つ一つ埋めていくなかで生まれた自信を持って本番に臨むというかたちでしたが、子育てはイレギュラーなことがたくさん起きますので、なかなかプランニング通りにはいきません。だいぶ葛藤もありましたが、「もうこれは臨機応変にやっていくしかないんだ」と割り切ってからは、徐々に両立できるようになったかなと思います。夫もはじめ、さまざまな方たちに協力をいただきながら、練習や遠征の時にはアスリート、帰宅したらしっかりとママをやる、というふうにメリハリのある生活環境を整えられたことが大きかったです。出産して2カ月後にはトレーニングを再開し、7カ月後には復帰レースとなったボストンマラソンに臨みました。当日は嵐というような豪雨と強風の中でも優勝することができ、北京パラリンピックに向けての第一歩となりました。

 

ただ、その北京パラリンピックでは5000mで前を走っていた選手たちのクラッシュに巻き込まれて大転倒して途中棄権となってしまったんです。すぐに救急車で病院に搬送されたのですが、肋骨骨折の重傷を負い、絶対安静の状態で2カ月の入院を余儀なくされましたので、最終日のマラソンに出場することはおろか、「このまま選手生命が終わるかもしれない」と引退の二文字が頭をよぎりました。それでも周囲からの手厚いサポートもあって競技に復帰することができ、2012年ロンドンパラリンピックに臨むわけですが、今度はマラソンでスタートしてすぐのカーブで転倒してしまいました。なんとか気持ちを切り替えて追走し、5位にまでは上がりましたが、目標の金メダルには遠く及びませんでした。そんな2大会の悔しさを晴らそうと臨んだ2016年リオデジャネイロパラリンピックではマラソンに絞ってエントリーしました。結果は4位とメダルまであと一歩届きませんでしたが、金メダリストとわずか1秒差という混戦でしたので、自分の力は発揮できたかなと思います。ただ、金メダルを狙っていましたので、やっぱり悔しかったですね。



蓮の花のように"耐えて美しく咲く"アスリートに

ご家族と

ご家族と

―― ママさんアスリートの先駆け的存在でもある土田さんですが、女性選手に対して何か伝えたいことはありますか?

私もまだ中学生の息子の子育て奮闘中というところで、自分は良い母でいられているのだろうか、ということに直面することも多々あります。ですので、人さまに胸を張って言えることというのはそう多くはないのですが、女性アスリートに限らず、家庭を持ち、子どもを育てていきながら自分自身の挑戦を続けるということを、少しでも可能性がある限りは諦めずにチャレンジしてみてほしいなと思っています。もちろん簡単ではないことは私自身重々わかっています。それでも、もし自分の挑戦も続けたいという気持ちがあるのなら、何もやらずして諦めるのではなく、チャレンジしてほしい。
私自身、やらずに後悔するよりも、やって後悔した方がいいと思って、ここまで突き進んできました。子どもが年齢を重ねるなかで、なかなか理解できないことが出てきたりと、子どもに対して躊躇することも増えてはきましたが、それもチャンレジしたなかでわかったことでもあるのかなと思っています。



 

―― 土田さんにとって、息子さんはどのような存在でしょうか。

息子には「自分の母親は、アスリートなんだ」ということが自然と刷り込まれているようで、例えば彼が幼いころ、必ず朝食に出すカップ型のヨーグルトがあったのですが、その蓋にはそれぞれ1、2、3、4と番号が付けられていたんです。たまたま4の番号が付けられたヨーグルトが私の所に置かれていると、「母さんは一番になってね!」と言って、わざわざ1が付いたヨーグルトに代えてくれたりしていました。そうやって、ずっと応援してきてくれました。ただ、私自身が挑戦する姿というのは背中で見せてこられた分、息子自身の行動範囲を狭めてしまって、チャレンジする気持ちを削いでしまっている部分もあったんじゃないかなと思うこともあります。どうしても特に幼いころは、自分の練習に子どもを付き添わせなければならず、親として子どもが好きなことをするサポートにまわってあげられていないということがありましたので、どうなのかなと悩んだこともありました。ただ、子どもの性格を見るということも大事かもしれません。私の息子はどちらかというと消極的な性格で、自分から何かをするということが苦手なタイプ。ですので、私の背中を見せてあげることで、将来、彼が社会に出た時のヒントを少しでも与えられたらなと思っています。



―― 競技を続けていくうえで、ご苦労も多かったと思いますが、それでも土田さんは常に結果を出し続けています。メディアへの対応も、いつも明るくさわやかで、"芯の強さ"を感じます。もちろん落胆することもあるかと思いますが、そういう時はどのようにして気持ちを上げていくのでしょうか。

私は泥水の濃度が高ければ高いほど大輪を咲かせると言われる蓮の花を連想させる「逆境に耐えて咲く花こそ美しい」という言葉が大好きで、自分が苦しい時に、この言葉を思い出して気持ちを上げることがよくあります。また、もともと根底には「たった一度の人生、せっかくなので楽しく生きたい」という気持ちがあって、よく落ち込んだりはするのですが、そこから上がっていくのは早い方かもしれません。とはいえ、人間ですので、逃げたいと思うこともありますし、実際にこれまで逃げてしまったこともあったと思うんです。でも、逃げたことはそっくりそのまま自分に返ってくるんですよね。ですので、何事に対しても、まずはしっかりと向き合っていきたいと思っています。



不安よりも挑戦心が上回った結果の"二刀流"

世界トライアスロン(2017年)

世界トライアスロン(2017年)

―― 今年開催が予定されている東京パラリンピックに出場すれば、夏冬あわせて8回目の大会となりますが、どんな思いがありますか。

先述した通りに2016年のニューヨークシティマラソンのレース中に喘息を発症したことで水泳を始め、それがこうじてパラトライアスロンで東京パラリンピックを目指すことを決意しました。そして現在は、パラトライアスロンと車いすマラソンの"二刀流"で東京パラリンピックを目指しています。なぜ2種目なのか、とよく問われるのですが、もちろん茨の道であることはわかっています。パラトライアスロンは、オリンピック競技のトライアスロンの半分の距離(オリンピックはスイム1.5キロ、バイク40キロ、ラン10キロ。パラリンピックはスイム0.75キロ、バイク20キロ、ラン5キロ)で行われるのですが、だからこそいずれの3種目もスプリント的な要素があり、持久力というよりはトップレベルの瞬発力が必要となる過酷な競技です。一方、マラソンは周知の通り42.195キロという長距離を走り切るスタミナと駆け引きを要する競技です。この2競技をやるということがどんなに難しいことかはわかっています。ただ、一度はスポーツができないと思った中で、競技に復帰できるまでに健康を取り戻すことができたのは水泳のおかげでしたし、それで始めたパラトライアスロンへの思い入れは強いものがあります。そして、マラソンはアテネ以降、ずっと金メダルを取るという目標を掲げて取り組んできた競技です。喘息を発症したことで一度は離れましたが、マラソンに復帰しようと再び競技場で走り始めた時に、とても楽しかったんです。「あぁ、やっぱり私、走ること好きなんだなぁ」と思いました。今、私がこうしていられるのは、この2競技のおかげなんです。その2競技のどちらか一方を切り離すことはできないと思いましたし、どちらの魅力も伝えられる選手でありたいと思いました。過酷であることはわかってはいましたが、それ以上に「2競技で挑戦したい」という気持ちの方が勝りました。それと、相乗効果もあると思っています。実際、昨年11月の大分車いすマラソンでの優勝は、パラトライアスロンで行ってきたトレーニングのおかげでもあったと思っています。



土田和歌子選手(当日のインタビュー風景)

土田和歌子選手(当日のインタビュー風景)

―― 東京パラリンピックで、初めてパラリンピック競技やパラアスリートを目にする人も多いと思います。改めて東京パラリンピックでは、どんなものを見て、感じてほしいと思っていますか。

何よりも人間の可能性の大きさを感じてもらえる大会になるといいなと思います。パラリンピック選手にはそれぞれ、さまざまな障がいがありますが、スポーツによって人の可能性が引き出され、トレーニングによって卓越した技術を身に付けた選手たちが、素晴らしいパフォーマンスを披露してくれます。そんな選手たちの姿を目にすることによって、障がいのある人への理解が進み、障がいの有無にかかわらず生きやすい社会の創出へとつながっていくことを願っています。



―― 私は障害をつくりだすのは環境だと思っています。共生社会という点で、車いすユーザーにとって日本は住みやすい国だと思われますか?

もちろん以前よりは、エレベーターの数も増えましたし、多くの施設にスロープや障がい者用のトイレが取り付けられるなど、進んでいるとは思います。

 

ただ正直に申し上げますと、建前とも思える法律やルールを作ることが優先されて、車いすユーザーの目線では考えられていないと思う部分が多々あるかなとは思います。たとえスロープがあっても、とても車いすでは一人で上がれないような勾配だったりとか。あるいは移動も不便を感じることが少なくありません。
例えば、新幹線に乗る場合は必ず何時何分にどこを出発し、何時何分にどこに到着する新幹線に乗車するかを、事前にJRに知らせなければいけません。海外では、そんなことは考えられません、障がいがあっても健常者と同じように、どの電車にも自由に乗ることができます。そこで何か手伝う必要があれば、周囲の人たちがサポートするという自然なかたちなんです。日本も障がい者と健常者とで線引きしないような仕組みになるといいなと思います。ですので、「住みやすいか」と問われたら、「以前よりは住みやすくなっていますが、まだまだ課題はあります」というのが私の答えです。そういう意味では、東京パラリンピックによって、たくさんの方の意識が変わるきっかけになってくれるといいなと思います。



―― 今後のパラリンピックのあり方については、どのようなことを望まれていますか。

このコロナ禍において、人間にとって何が大切なのかを改めて教えられた気がしています。「命」と「世界平和」は何ものにも代えられないものです。そしてスポーツはそれらがあって、初めて成立するものです。東京に限らず、世界の人々が平穏な毎日を取り戻し、安心な暮らしの中でオリンピック・パラリンピックは開かれる大会であってほしいと思います。そして、パラリンピックの理解が進むことで、共生社会が築かれていくことを願います。



―― 最後に、後世に残したいと思うものを教えてください。

今、日本では子どもたちへのパラリンピック教育に注力しています。それが、あと数年後には実を結んで、大きな花が開いていくと思います。もう今の子どもたちや学生の思考は、私が子どもの頃とはまるで違うはずです。ただ授業では習っても、実際には身近な存在として障がいのある方々と接する機会というのは、まだまだ少ない。頭では理解していても、生身の人間として触れあわなければ理解が進まないということはたくさんあると思うんです。そういう部分で、私たち選手をテレビやネットを介してでも、見て、知っていただくことで、何かを感じてもらえたらと思います。



  • 土田和歌子氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)
1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
  • 1974 土田和歌子氏、東京都に生まれる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1994 土田和歌子氏、リレハンメルパラリンピックに出場
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1998土田和歌子氏、長野パラリンピックに出場し、 アイススレッジスピードレース100m、500mで銀メダル、1000m、1500mで金メダル獲得
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2000土田和歌子氏、シドニーオリンピックの公開競技として行われた 車いす陸上800mに日本人として初出場、銀メダル獲得
    土田和歌子氏、シドニーパラリンピックに出場し、車いすマラソンで銅メダル獲得
  • 2001土田和歌子氏、大分国際車いすマラソンに出場し、世界新記録で優勝
2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2004土田和歌子氏、アテネパラリンピックに出場し、車いす陸上5000mで金メダル、車いすマラソンで銀メダル獲得
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008土田和歌子氏、北京パラリンピックに出場
  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011 土田和歌子氏、IPC世界選手権車いすマラソンで2位
  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

  • 2012土田和歌子氏、ロンドンパラリンピックに出場
2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

  • 2016土田和歌子氏、リオデジャネイロパラリンピックに出場
  • 2017土田和歌子氏、ASTCパラトライアスロンアジア選手権優勝
    土田和歌子氏、ITU世界パラトライアスロンシリーズ優勝
2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2018 土田和歌子氏、ITU世界パラトライアスロン選手権2位
  • 2019 土田和歌子氏、ITU世界トライアスロンシリーズ グランドファイナルに出場
2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期