Search
国際情報
International information

「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

知る学ぶ
Knowledge

日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」
冬季オリンピック・パラリンピック
第115回
一度きりの人生を輝かせるチャレンジ精神

浅田 真央

女子では史上最年少の14歳で「トリプルアクセル」を成功させて以降、数々の功績を残し、天才フィギュアスケーターとして名を馳せた浅田真央さん。2017年に現役を引退するまで強さと美しさを兼ね備えた演技で、世界中のファンを魅了し続けました。

冬季オリンピック初出場の2010年バンクーバー大会(カナダ)では銀メダルを獲得。2度目の2014年ソチ大会(ロシア)では表彰台を逃したものの、フリーではショートプログラムでのミスをものともしない最高の演技で締めくくり、世界中に感動を与えました。現役を引退した現在も幅広い年齢層から高い人気を誇る浅田さんに、フィギュアスケート人生を振り返っていただきました。

聞き手/佐野慎輔  文/斎藤寿子  写真/フォート・キシモト、浅田真央 取材日/2022年10月6日

 

アイスショーにこめた“挑戦”と“共に乗り越える”

「BEYOND」ポスター

「BEYOND」ポスター

―― 2022年9月10日の滋賀公演を皮切りに全国で開催されている「浅田真央アイスショー BEYOND」は大盛況ですね。2023年7月まで続く長丁場ですので大変だと思いますが、手ごたえはいかがでしょうか?

選手時代にアイスショーに出演した際にはひとつのショーで自分が滑るのは2曲ほどだったのですが、今回は10曲滑っています。長いものでは1曲で15分というのもあります。1日2公演の時には20曲を滑りますので、体力的にはとてもハードで大変です。でも、皆さんの笑顔を見ていると、パワーをいただけるんです。

―― 同じフィギュアスケートでも、競技とは違うアイスショーならではの魅力とはどんなところでしょうか?

私のアイスショーは、競技とはまったく別ものと考えていただきたいと思っています。競技は勝ち負けの世界ですので、ルールのなかで試合が行われ、全員が同じステージの上で競い合って順位がつきます。緊迫したなかで喜びや悔しさといったさまざまな人間ドラマが生まれ、見ている方たちも選手と一緒に戦っている気持ちで応援するところに醍醐味を感じていただいているのだと思います。一方、アイスショーにはルールがなく、それぞれが自由に表現することができる舞台です。カラフルな照明や小道具が使えますし、衣装もさまざまなものを着ることができます。滑る人数もいろいろなパターンに変えることができますので、可能性は無限大です。また私がつくるアイスショーにはミュージカルやクラシックバレエ、音楽ライブといったすべての要素が詰まっていますので、ひとつの舞台を楽しむという感覚で見ていただけると思います。

―― アメリカなどでアイスショーはショービジネスのひとつとして確立されています。一方、日本ではまだまだ根付いていないように思いますが、浅田さんはアメリカのアイスショーに近づけようとする思いで、これまでにはなかった試みをされているそうですね。

日本のアイスショーでは、全日本や海外でメダルを獲ったことがある選手だけが出演できるというのがほとんどです。でも、私は多くのスケーターたちに夢や可能性を感じてもらいたいので、オーディションで出演者を決めています。これまで一度も大きな舞台を経験したことがないスケーターにもチャンスがあるんです。

―― チケットの価格も、通常のアイスショーより低く設定されていますね。

私自身、選手時代にアイスショーに出た時にチケットの値段を見て「高いなあ」と驚いたんです。その時は自分が値段を決めることはできなかったので、引退をして自分が主催する時には家族で来ていただけるような価格にしたいと思っていました。私は子どもの時に伊藤みどりさんが出演しているアイスショーを見て「私もいつかこういう舞台で滑りたいな」と憧れてここまでずっとがんばることができました。だから私のショーを子どもたちに見てもらって、夢を与えられたらなと。そのためには家族で来ていただけるような価格設定にする必要があると考えました。またアイスショーというと、ほとんど東京、名古屋、大阪、福岡といった大都市で開催されることが多いのですが、私は地方の方々にも間近でアイスショーを見ていただきたいという気持ちが強かったので、会場も日本全国あちこち行きますし、その会場の地元の人たちが優先してチケットを購入できるようにしています。ひとりでも多くの方に見ていただきたいので、さまざまな工夫を凝らしています。

「BEYOND」の一場面

「BEYOND」の一場面

――「BEYOND」と名付けられた今回のアイスショーの内容を教えてください。

私と10名のスケーターが交互に滑るプログラムになっていまして、全員で滑る曲もありますし、ソロやペアのプログラムもあります。今回新しいチャレンジとしては、スケートリンク上に大きなスクリーンを置いて、観客の皆さんがよりストーリーを感じられるように工夫されているところです。

―― 曲のなかには、浅田さんが現役時代に使用していた思い出の曲もたくさんあるそうですね。

現役時代に滑っていた曲は思い出深いものばかりですので、ファンの皆さんにも当時のことを懐かしく思い出していただきたいと思っています。ただ、曲は同じでも振り付けは今回のショーで新しくしたものもあります。「BEYOND」だけで見られる特別なプログラムとなっていますので、また新たな楽しみも生まれているのではないかなと思っています。

「BEYOND」の一場面

「BEYOND」の一場面

―― どんな思いを込めて、今回のショーを「BEYOND」と名付けられたのでしょうか?

私自身においては、これからもさまざまなことを乗り越えて進化していきたいという思いが強いので、そういった意味が込められています。また皆さんへのメッセージとしては、このショーを見て、生きていくうえでの何かしらの力にしていただいて一緒に乗り越えていきましょう、という意味が込められています。

――「一緒に乗り越えていきたい」と思ったきっかけは何かあったのでしょうか?

現役引退後に開催したアイスショー「サンクスツアー」は、現役時代にお世話になった皆さんに「支えてくださってありがとうございました」という感謝の気持ちをお伝えしたいという気持ちで行いました。今はコロナ禍でもあり、誰もが過ごすなかでいろいろと乗り越えていかなければいけないことはあると思うので、このショーを見てみんなでそれを乗り越えていただきたい、という思いを届けたいなと思いました。

―― 現在ツアーの真っただ中ですが、どんな反響がありますか?

アイスショーを見に来てくれた子どもたちの笑顔を見ることができたり、たくさんの人から声をかけていただいたりして、とても嬉しいです。また地方を訪れることで、現役時代とは観客の層がまったく違うなと感じています。それこそ赤ちゃんからお年寄りまで、本当に幅広い年齢層の方に見ていただくことができているなと。私自身が行うアイスショーとしては「サンクスツアー」に続いて2回目となりますので、「BEYOND」では「サンクスツアー」を超えたものを皆さんにお見せしたいと思い、強い覚悟を持って臨んでいます。そういうことも含めてショーをつくるのは本当に大変ですが、やっぱりお客さまの笑顔や拍手をいただくと、本当に嬉しい気持ちになりますし、たくさんの幸せをいただいています。

「サンクスツアー」の一場面

「サンクスツアー」の一場面

――「サンクスツアー」は2018年5月から2020年9月までのあしかけ3年間、延べ50会場200回以上の公演が行われました。これをやり遂げられたのは、本当にすごいことだと思います。

ツアーが始まる前は、私自身も「本当に200公演も大丈夫かな」と心配していたのですが、終わってみて「自分ってこんなにも体力があるんだ!」と驚きました(笑)。改めて現役時代からしっかりと練習を積み重ねてきたおかげだなと思いました。

―― 3年間にも及んだ「サンクスツアー」のあと、ほとんど休む間もなく、すぐに「BEYOND」のツアーを始められたのはなぜだったのでしょうか?

実は当初は「サンクスツアーが皆さんの前で滑る最後の舞台になる」と思いながら滑っていました。実際に終わったあとはすべてを出し尽くしたと思ったので、まずはしばらく休養しようと思っていたんです。ところが、思っていた以上に早く次の「BEYOND」の準備に取り掛かり始めたので、自分でも驚きました(笑)。 でも、実は「サンクスツアー」の終盤に「これで自分のスケート人生が終わってもいいのかな。いや、まだまだできるな」という思いもあったんです。まずはサンクスツアーを悔いなく滑り切ろうと思っていたので次のことは考えずに集中していたのですが、実際に終わって少し休んだら、すぐに次に取り掛かりたいという気持ちが沸いてきました。

―― 浅田さんには「滑りたい」という気持ちが強いんですね。

そうですね。それと「チャレンジしたい」という思いが強いです。チャレンジってできる時期が限られていると思うので、常に今しかできないことを思い切りやりたいという気持ちが行動につながっているのだと思います。

―― 現在の積極的な行動力は、女優の吉永小百合さんや黒柳徹子さんとの出会いも大きいそうですね。

「サンクスツアー」が終わったあと、少し休養している間に、吉永さんと黒柳さんにお会いする機会があり、大きな刺激を受けました。お二人のようにひとつのことを長く続けて極められる方って、とても素敵だなと思いましたし、自分の憧れの姿でもあると思いました。そんなお二人に比べたら、自分はまだひよこどころか生まれたての卵のようなものかもしれないなと。まだまだがんばらなくては、という気持ちになりました。

――「BEYOND」のあとにも、さらに何か見せていただけることを思わず期待をしてしまいます。

はい、楽しみにしていただけたらと思います。今はやりたいことがたくさんありますので、ひとつずつ叶えていきたいと思っています。

長野大会をきっかけにフィギュアスケートの道へ

5歳、初めて試合に出場

5歳、初めて試合に出場

―― 改めて、浅田さんがフィギュアスケートを始めたきっかけを教えてください。

母には娘たちをバレリーナにしたいという希望があったんです。それで姉と一緒に3歳からバレエを習い始めました。フィギュアスケートを始めたのは5歳の時で、当初はバレエのために足首の強化をするというのが狙いでした。そしたら姉がフィギュアスケートを習いたいと言ったんです。それで私も必然的に一緒にフィギュアスケートを習うようになったのがきっかけでした。習いごとはほかにもジャズダンスや水泳、ピアノなどをやっていましたが、小学2年生の時に初めて冬季オリンピック(1998年長野大会)を見て、金メダルに輝いたタラ・リビンスキー選手(アメリカ)の姿に憧れ「私もああいうふうになりたい」と思いました。それで母に「私はフィギュアスケートの道でがんばりたい」と伝えたら、「諦めずに精いっぱいがんばってみなさい」と言ってもらえて嬉しかったことを覚えています。

母(左)、本人(5歳、中央)、姉の舞(右)

母(左)、本人(5歳、中央)、姉の舞(右)

―― 2歳上のお姉さん、浅田舞さん(元フィギュアスケート選手で現役引退後はスポーツキャスター、タレント、女優など活躍の場を広げている)の存在は幼少時代から大きかったそうですね。

何をするにも2人一緒でしたので、フィギュアスケートもずっと一緒に練習をしていました。子どもの時に練習をがんばれたのは、姉に負けたくないという気持ちがあったからだったんです。仲が良い分、喧嘩をすることもあって、そういう時には母から「全部、試合で勝負しなさい」と言われました。でも、試合で姉にはかなわなくて「一緒に始めたのに、なんでいつも私が負けちゃうんだろう。悔しいな」という思いがありました。だから1分でも1秒でも姉より長く練習してうまくなるんだ、という気持ちで滑っていました。私がここまでこられたのは、ライバルでもあった姉の存在があったから。2歳上の姉に追いつきたいと思って常に上のレベルをめざして練習していたからこそ、強くなれたのだと思います。

―― お母さまはタラ・リビンスキー選手の滑りをビデオで研究して、教えてくれたそうですね。

母は研究熱心な人で、朝から晩までずっとリンクにいて私と姉が滑って練習しているのを見てくれましたし、夜遅くに帰宅してからもリビンスキー選手など世界トップ選手のビデオの映像を見て研究していました。母自身はフィギュアスケートの経験はなかったのですが、コーチのように私たちを指導してくれました。

―― お母さまをはじめ、ご家族のサポートが大きかったんですね。

本当にその通りで、家族の支えがなければ、私はここまでくることはできなかったので、感謝しています。

―― 伊藤みどり*1) さんの現役時代の滑りは御覧になったことはありますか?

現役を引退した後、一緒に滑ったり、お話をする機会はありましたが、残念ながら、みどりさんが選手時代の滑りは直接は見れていません。ただ小学生の時からみどりさんが出演されたアイスショーを何度も見に行って、そこでたくさんの夢をいただきました。また母も、みどりさんのジャンプをビデオ映像で研究してくれていました。

*1)伊藤みどり:元フィギュアスケート日本代表。1988年、19歳の時に女子では世界で初めてトリプルアクセルに成功し、翌1989年にはアジア人初の世界選手権優勝。冬季オリンピックには2度出場し、1992年アルベールビル大会<フランス>で銀メダル。全日本選手権8連覇など国内では無敵を誇った

―― 浅田さんご自身は伊藤さんに憧れたということですが、笹川スポーツ財団が全国の18歳を対象として行っている「スポーツライフに関する調査」2022年版の「好きなスポーツ選手」の調査結果では、浅田さんは男女アスリート全体で7位、女性では1位でした。現役を引退してもなお子どもたちの憧れの存在であり続けているというのは、やはり浅田さんご自身が幼少時代からがんばってきたことが、今につながっているという証でもありますね。

現役を引退して5年経っていますが(笑)。 それでもトップ10に入っているなんて嬉しいですね。すごく光栄です。本当に子どもの時からがんばってきたからこそ今があるんだと思います。ただこれまでのことは、今はもう過去のことだと思っていますので、今できることに挑戦していきたいですし、皆さんの期待以上のものをお届けしたいという気持ちが強いです。

―― 現役時代に築き上げた数々の栄光については、今はどのように考えていらっしゃいますか?

もともと過去にはこだわらない性格で、オリンピックのメダルも、今はどこにあるのかさえも、わからないくらいです(笑)満足することなく、常に過去の自分を超えていきたいという気持ちが強いので、次はどんなことにチャレンジしたいかということしか考えていません。

「トリプルアクセル」にこだわり続けた理由

2004年ジュニアグランプリファイナルで優勝

2004年ジュニアグランプリファイナルで優勝

―― 衝撃とともに全国に「浅田真央」という名前が知れ渡ったのは、浅田さんが14歳で出場した2004年のジュニアグランプリファイナルで、女子のジュニアでは世界で初、史上最年少でトリプルアクセルを成功させた時でした。その後「トリプルアクセル」は浅田さんの代名詞ともなりますが、いつからトリプルアクセルを意識していたのでしょうか?

子どもの時からみどりさんが私にとって大きな憧れであり目標とする存在でした。しかも同じ名古屋出身で同じ山田満知子*2)先生に師事していましたので、みどりさんが守ってきたトリプルアクセルを受け継ぐのは私だと思っていましたし、みどりさんからのバトンを受け継ぎたいという気持ちで練習していました。練習で初めて成功したのが13歳の時で、それから試合でもプログラムに組み入れるようになりました。14歳の時にジュニアの試合で成功させた時「伊藤みどりさん以来だ」ということを言っていただくようになってからは、さらにみどりさんから受け継いだトリプルアクセルを世界に届けたいという気持ちが強くなりました。

―― 翌シーズンにはシニアデビューを果たし、グランプリファイナル*3)では初出場で初優勝に輝きました。取材をしていた私たち報道陣も「とんでもない天才が現れた」と驚愕したことを今でも鮮明に覚えています。

当時はまだ中学生だったので、わかっていたのはシニアの大会ということだけで、あとはどういうものなのかよくわからずに出ていました。グランプリシリーズとグランプリファイナルの意味もまったく理解できていなかったんです。ただ年上のお姉さんたちと一緒に大好きなフィギュアスケートを滑れて嬉しいな、自分はどこまでやれるのか楽しみだなとしか思っていませんでした。何も知らなかったからこそ、まったくプレッシャーを感じずに演技できたのが良かったのだと思います。

山田満知子コーチ(右)と

山田満知子コーチ(右)と

*2)山田満知子:日本フィギュアスケート界随一の名コーチ。伊藤みどり、浅田真央、村上佳菜子、宇野昌磨など多くの世界トップスケーターを育てたことで知られる

*3)グランプリシリーズ/グランプリファイナル:グランプリ(GP)シリーズはISU(国際スケート連盟)が承認するフィギュアスケートのシリーズ戦。前年度の成績などにより出場資格を得る。アメリカ、カナダ、中国、フランス、ロシア、日本で6大会が開催される。GPシリーズの成績上位6名のみがGPファイナルに出場できる。上述の6大会とGPファイナルを合わせた総称がGPシリーズ。

―― 周囲からのプレッシャーを感じるようになったのは、その後のことだったのでしょうか?

自分自身に対するプレッシャーが一番大きかったように思います。すべてをかけてやっていたので、「失敗したらどうしよう」という怖さが、だんだんと出てくるようになりました。思うようにできないことも増えて悩むこともあって、10代の終わりころからは試合に出ることが怖くなったこともありました。

―― そうした怖さを感じながらも、トリプルアクセルにこだわり続けたのは、それだけ浅田さんにとってはご自身の滑りを象徴する重要なものだったということでしょうか?

私自身の気持ちを強くしてくれるものでもありましたし、誰もやっていないことに挑戦したいという気持ちが強くて、それが自分の強みだと思っていました。だからどんなことがあってもトリプルアクセルにチャレンジし続けていました。そんな私のことを中学生のころから見続けてくれた方々が多くいらしゃって、その方たちと一緒に乗り越えてきたように思います。その象徴が「トリプルアクセル」だったのだと思います。

「銀メダル」の価値を感じたバンクーバー大会

2005年グランプリファイナルで優勝

2005年グランプリファイナルで優勝

―― 2005年グランプリファイナルの優勝で、翌2006年のトリノ大会への期待も膨らみましたが、ISUが定めた年齢制限の規程(オリンピック前年の6月30日までに15歳)により87日足りず、代表資格を得られませんでした。当時はどんなふうに思っていたのでしょうか?

小学生の時から「トリノ大会には出られない」ということを知っていましたので、最初から私自身は2010年バンクーバー大会をめざしていました。確かにトリノ大会の前シーズンは調子自体も良く好成績を挙げていて、ルール改正が議論に上がっていることも知っていましたので「出られたらラッキーだな」とは思っていましたが、ルールはルールなので仕方ないという気持ちでいました。それに今考えると、当時14歳でトリノ大会に出て金メダルを獲っていたら、満足してやめていたかもしれません。ここまでフィギュアスケートを続けていたかどうかはわからなかったなと思うと、やっぱりあれはあれで良かったのだと思います。

―― トリノ大会では、荒川静香さんが日本人で初めて金メダルに輝きました。テレビで見ていて、どんなふうに感じていましたか?

「私もいつかこの舞台に出るぞ」とか「私が出たら、こんなふうに滑りたいな」とかイメージしながら見ていました。

2010年バンクーバーオリンピック
女子シングルで銀メダルを獲得

2010年バンクーバーオリンピック 女子シングルで銀メダルを獲得

―― 4年後の2010年バンクーバー大会では、初めてのオリンピックで銀メダルを獲得されました。

いろいろな方から「オリンピックはほかの大会とはまったく違う特別なものだよ」というふうに聞いていたのですが、正直「何が特別なんだろう?」と不思議に思っていました。でも、現地入りして会場に入ったとたんに「何かが違う」と思いました。これまで出場した大会より規模も大きいですし、会場の照明も明るかったり、もう雰囲気自体がそれまでのどの大会とも違っていて「やっぱりオリンピックって特別な舞台なんだな」と思いました。

―― 怖さもあったのでしょうか?

バンクーバーの時は怖さはあまり感じませんでした。ただ緊張はすごくしました。5歳でフィギュアスケートを始めて、小学5年生の時に1998年長野大会を見て「オリンピックに出たい」という憧れを抱いてずっとやってきたなか、「ついにこの時が来たんだな」と思うと、高揚したのを覚えています。

―― その緊張のなかで、女子ではオリンピック史上初めてトリプルアクセルを成功させました。

トリプルアクセルをショートプログラム、フリーあわせて3回決めるというのは、当時の私にとって最大限の攻めの構成でしたので、それをすべて成功させることができたのはとても嬉しかったです。

―― 成功した要素のすべてのGOE(出来栄え点)、演技構成点が自己ベストでした。ただフリーでは後半の3回転フリップが回転不足、また3回転トゥループが1回転となってしまったのが本当に残念でした。

緊張からズレが生じてしまったのだと思います。それでもメダルを獲ることができて、良かったです。最高のプレゼントでした。もちろん子どものころからオリンピックでの金メダルをめざしていたので、銀メダルとなった時は悔しい気持ちがありました。でも、表彰式でメダルを受け取った時に、スタンドから「おめでとう」「良かったよ」「ありがとう」というような声がたくさん聞こえたんです。それで「ああ、銀メダルでもいいんだな」と思うことができました。表彰式のあとに母に銀メダルをかけてあげた時も「ありがとう。嬉しいよ」と言ってもらえたんです。銀メダルにもちゃんと意味があると思いましたし、とにかく自分は全力で努力してきたので、悔いはなかったです。

2010年バンクーバーオリンピック女子シングルで金メダルのキム・ヨナ(右)
と銀メダルの本人

2010年バンクーバーオリンピック女子シングルで金メダルのキム・ヨナ(右)と銀メダルの本人

―― 同い年で良きライバルだったキム・ヨナさん(韓国)は金メダルに輝きました。彼女とは比較されることも多かったと思いますが、それについてはどんなふうに感じていたのでしょうか?

キム・ヨナ選手とは13歳の時にジュニアの国際大会で初めて会った時から「この選手とはずっとライバルとして、共にフィギュアスケート界を引っ張っていく間柄になるんだろうな」と思っていました。実際とてもいいライバル関係にあって、彼女ががんばっているから私もがんばろうと思えるような存在でした。そのような存在に出会えたことは奇跡だと思いますし、キム・ヨナ選手との出会いは私の競技人生において特別なことでした。今は連絡を取り合っているわけではありませんが、いつかまた会う機会があったら嬉しいなと思います。

2010年世界選手権女子シングル金メダルの本人(中央)と銀メダルのキム・ヨナ(左)

2010年世界選手権女子シングル金メダルの本人(中央)と銀メダルのキム・ヨナ(左)

―― バンクーバー大会から1カ月後の世界選手権では、浅田さんが金、キム・ヨナさんが銀と逆の結果となりました。バンクーバーの雪辱を果たしたいというお気持ちは強かったのでしょうか?

とても強くありました。オリンピックの悔しさはオリンピックでしか晴らせないという気持ちはありましたが、それでも世界選手権はオリンピックに次ぐ舞台ですし、まずはここでバンクーバーでの悔しさを晴らして金メダルを獲りたいという気持ちがありました。だから優勝した時は嬉しかったです。

 

姉からの言葉に再燃した闘争心

姉の舞(左)と

姉の舞(左)と

―― 2度目のオリンピックとなった2014年ソチ大会は、「今度こそ金メダルを」という強い気持ちで臨まれたと思いますが、ショートプログラムでミスが続いて16位と出遅れ、その結果メダルを逃すという残念な結果となりました。

ショートプログラムは自分の競技人生のなかで一番と言ってもいいくらい悔しい試合で、演技を終えた時には「もう終わった」と思いました。

―― どう気持ちを立て直したのでしょうか?

ショートプログラムをすべて終えたのが夜の12時くらいで、翌日は朝8時くらいに練習の時間が割り当てられていました。その短い時間では、まったく気持ちを切り替えることができなくて、練習をしながら「私はこのまま終わってしまうのかな」と思っていました。練習後も「自分はこれまで何をやってきたんだろう」と落ち込んでいたら、突然姉から電話が来たんです。
テレビで私が練習している姿を見て、顔色も悪いし、調子もあまりにも悪く見えたそうで心配をして電話をかけてくれたんです。でも姉の「楽しんでやったらいいんだよ」という言葉に、私はつい「楽しめるわけないじゃん!」と怒りをぶつけてしまいました。ただ、それがかえって良かったのだと思います。それまでどうしようもなく苦しくて、辛くて、悲しくて仕方なかった気持ちが、姉の言葉によって怒りに変わったことで、闘争心が生まれて私のなかのスイッチが入ったんです。「もうダメだ」から「このまま負けたくない」と思えたことで、攻めの気持ちになれた。それがほぼノーミスというフリーでの演技につながったのだと思います。でも、ほかの誰でもない姉だったからこそ怒りをぶつけられたのだと思うので、あのタイミングで電話をかけてきてくれて本当に感謝しています。

―― フリーでの演技中は、何を考えていましたか?

リンクに立つ前はとても緊張していました。でも、とにかく自分はやれることはすべてやってきたのだから、転んでもいいから思い切り滑ろうという気持ちでリンクに上がりました。滑っている最中は無我夢中で、頭で考えるよりも体が自然に動いていたという感じでした。ただ、自分の力だけではなく、たくさんの人に支えられてこの演技ができているんだなというふうに思っていました。

2014年ソチオリンピック、フリー演技の終了後、感極まって涙をこぼした

2014年ソチオリンピック、フリー演技の終了後、感極まって涙をこぼした

―― 演技が終わった瞬間、大粒の涙を流されていました。あの涙に、多くの人たちが感動したのですが、どのような感情が沸き上がってきていたのでしょうか?

やり切ったという達成感というよりも、とにかく練習してきたことを出せた、そしてすべてが終わったんだ、とほっとした気持ちでした。ようやく緊張から解放されるというのが一番大きかったです。

―― 会場中から歓声と拍手が送られていましたが、どのように受け止めていましたか?

本当に嬉しかったです。大勢の人がスタンディングオベーションしてくれているのが見えて、「良かった」と思いました。

―― ソチ大会後の記者会見で去就について訊かれた際には「ハーフハーフ」と答えられました。当時の正直な気持ちとしてはどうだったのでしょうか?

ソチ大会のあと、すぐに世界選手権が控えていましたので、そこまではやることは決めていました。ただその後どうするかは、本当に悩んでいました。特に大きなケガをしているわけではなく、体はまだまだ滑れる状態でしたが、正直これ以上プレッシャーを背負うようなことはしたくないという気持ちがありました。それでも中途半端でやめるのは違うなと思ったので、とにかくできるところまでやってみようと思い、2016年のシーズンまで大会に出場し続けました。

2017年5月の引退記者会見

2017年5月の引退記者会見

―― 2017年5月に現役引退を表明されましたが、決断した理由は何だったのでしょうか?

2017年3月の全日本選手権前に、競技者としては心身ともに限界が来ているというふうに感じましたので、全日本選手権を最後に引退しようと決めました。

―― 真央さんはいつも明るくふるまっていらっしゃったけれど、スケートをやめたいとは思わなかったのでしょうか?

2014年のソチオリンピックのあと、「スケートはもう続けられないかもしれない」と落ち込んで、ずっと自宅にこもっていた時期もありました。でも、今考えると、それは決して悪いことではなかったように思います。あの時、立ち止まったからこそ、また続けられたと思いますし、今があるんだろうなと。それにスケートはとても大好きでしたが、それだけが自分の人生のすべてとは思っていませんでした。本当に辛かったらやめてもいいと思っていたんです。それでもやっぱり「滑りたい」と思えたので、またリンクに戻っていきました。辛いな苦しいなと思った時に立ち止まるというのは決して悪いことではないと思います。それでまたもう一度がんばってみよう、と思えたら、その時はまた立ち上がればいいのかなと。自分の気持ちに素直に正直になることが一番大事なのだと思います。

―― ふだんは何をしている時が一番リラックスできる時間なのでしょうか?

ツアーがある現在は、月曜日から金曜日まで練習があり、土日に公演があるのですが、公演後の2日間は休養に当てています。その時は外には一歩も出ずに、家のなかにこもっています。アイスショーで体力を使い果たすので、翌週のアイスショーに向けて、愛犬に癒されたりしながら、とにかく体を休ませることを優先しています。

―― 将来は田舎暮らしをしたいそうですね。

現役引退後、自然のなかの宿に泊ったり、有機野菜のレストランに行ったりして、そこでパワーをもらってすごく元気になれたんです。それから自然のなかで暮らしたいという気持ちが強くなり、田舎暮らしに憧れるようになりました。

日本フィギュアスケート界の追い風にしたい「真央リンク」

ロシアのタチアナ・タラソワコーチ(右)

ロシアのタチアナ・タラソワコーチ(右)

―― 浅田さんにはぜひ次世代の選手を育ててほしいという期待も大きいのですが、いかがでしょうか?

そういう気持ちはとてもあります。現在私自身のスケートリンク建設の話が進んでいますので、将来はそこで自分が経験したことを子どもたちに伝えていきたいと思っています。

―― 浅田さんご自身は、山田先生をはじめ、ラファエル・アルトゥニアン(ロシア)、タチアナ・タラソワ(ロシア)とすばらしい指導者との出会いがあったと思いますが、選手にとってコーチとはどんな存在なのでしょうか?

二人三脚と言いますか、選手のことを常に見守り、何かあれば手を差し伸べてくれて一緒に戦っていく存在ですので、選手にとっては不可欠だと思います。私が師事したコーチはみんな全力で一生懸命に指導してくださいました。だから私も「先生の期待に応えたい」という気持ちになってがんばれました。なかでも私が小、中学生の時に指導してくださった山田先生は、家族のような存在でした。私自身がまだ子どもだったこともあって、母とよく話をしてくださっていたのですが、リンク外のことについても、私と同様に母にも親身になってくださって、とても大きな愛情を持って私たちを支えてくださいました。家よりもリンクにいる時間のほうが長かったので、練習後にご飯を食べに行ったり、時にはみんなで温泉に行ったりしたこともあったのですが、山田先生にはいろいろな話をしていただきました。

―― 浅田さんはどのようなコーチになりたいと思いますか?

私が出会ったコーチは皆さん大きな愛のある先生ばかりでしたので、私も選手に親身になって接するコーチになりたいです。

浅田 真央氏(当日のインタビュー風景)

浅田 真央氏(当日のインタビュー風景)

―― これから日本のフィギュアスケート界をさらに発展させていくためには、どんなことが必要だと思いますか?

一概にはこれとは言い切れないように思います。もちろん選手自身の努力は絶対に必要ですが、周囲からのサポートや環境、指導者なども欠かすことはできません。やはりスケーターひとりの努力だけでは世界のトップにいくことは難しいので、選手の才能を引き出すような周囲のサポートや環境も不可欠だと思います。今でもすばらしい選手が次々と生まれていますが、環境やサポート次第で、さらに可能性は広がると思います。

―― フィギュアスケートの強豪国と比べると、日本は厳しい環境のなかで選手たちは本当によくがんばっているなという気がしています。

おっしゃる通りで、海外と比べると、アスリート専用のリンクが少ないですし、そもそもリンクの数自体が圧倒的に少ないのが日本の現状です。例えばアメリカやカナダといった北米では、自宅から車で5分、10分も走れば、リンクがあって、誰でも気軽に滑れる環境にあります。また規模の大きさもすごくて、なかには5面のリンクを持つ施設もあるんです。そういうところと比べると、日本はまだまだスケートが身近なスポーツとは言えない環境にあると思います。そういう厳しい環境のなかでも、これまでずっと日本は世界トップでがんばってきましたので、リンクの数だけということではなく、選手本人のがんばりだったり、周囲からのサポート、国内のシステムだったりと、いろいろなことが重要なのだと思います。とはいえリンクがないとフィギュアスケート選手は練習ができませんので、環境を整えるということは必須です。

―― 競技人口を増やすことを考えても、リンクは必要ですね。

そうですね。子どもの時に身近に滑れる環境があると、スケートに興味を持つ子どもが増えると思います。建設予定の「真央リンク」は、子どもたちが気軽に集まってくれるようなものにしたいなと思っています。

幅広い年齢層に与える「生きる力」がスポーツの価値

―― 札幌市が2030年のオリンピック・パラリンピックの招致をめざしていることについては、どのようなお考えをお持ちでしょうか?

スポーツには無限の可能性があって、大きな力を与えてくれるものだと思います。だから日本でオリンピック・パラリンピックが開催されれば、日本中に元気やパワーをお届けできると思いますので、もし札幌でオリンピック・パラリンピックが開催となれば、私はすごく嬉しいです。

―― 浅田さんが考えるスポーツの価値とはどういうものでしょう?

「生きる力」だと思います。私自身、現役引退直後は夢や目標がなくて気持ちがストップしてしまったことがありました。何もする気が起きなくて外にも出ず、家に閉じこもる生活をしていました。でも、そんな時にひょんなことからホノルルマラソンに挑戦してみようと思ったんです。それで外に走りに行くようになったのですが、その時に改めて「体を動かすって、こんなに気持ちがいいものなんだ」と思えて、自然と気持ちが前へ前へと進んでいくようになりました。人生を振り返ってみても、私自身は体を動かすことに救われてきた気がします。なかでも大きかったのは、やはりフィギュアスケートとの出会いで、フィギュアスケートを通じて学んだことがたくさんありましたし、人間的にも成長させてもらえたと思っています。それは自分がフィギュアスケートをしているからというだけではなく、フィギュアスケートを通じてたくさんの人の声援や笑顔によって生きる力を与えていただいたのだと思っています。それは今も同じです。だから私自身も滑っている姿をお見せすることによって、皆さんに生きる力や、子どもたちに夢を届けたいと思っています。

―― 今やスポーツは社会課題の解決ツールとしても重視されています。健康寿命を延ばすために体を動かすことが大事になってきますが、フィギュアスケートは年齢関係なくできるものでしょうか?

はい。実際、私が練習しているリンクでは大人の方を対象としたクラスがあり、毎日30人以上の方が滑っています。大人になってから始める方も結構たくさんいますので、いくつになってもスポーツとして楽しむことができると思います。「真央リンク」も子どもたちやアスリートの練習環境をサポートするだけでなく、一般の大人の方たちにもスケートの楽しさを味わっていただきたいと思っています。実際に経験することで、さらに選手たちを応援する気持ちが膨らむと思いますので、子どもから大人まで、幅広い年齢の方が楽しめるクラスをつくりたいと思っています。

―― 近年ではスポーツ界においてもSNSでの誹謗中傷が問題となっていますが、浅田さんはどのように対策しているのでしょうか?

私の場合は、プラス思考でとらえるようにしています。たとえマイナスなことを言われても、「そういう意見もあるんだな。教えてくださってありがとうございます」と思って、あとはすべてパワーに変えます。

―― 浅田さん自身は、今後もアイスショーを中心に活動を続けていかれるのでしょうか?

いつまでも自分が滑りたいとは思わないと思います。どこかのタイミングで指導者への道にシフトチェンジして、後進を育てたいという気持ちもあります。ただ「BEYOND」のあとにもやりたいことはまだありますし、滑ることをやめたあとも、いろいろと夢はあるので、自分自身これからが楽しみです。

―― 今も幅広く活躍され、子どもたちの憧れの存在でもありますが、浅田さんが一番大切にしてきたことは?

何事にも全力で一生懸命に取り組むこと。そして感謝の気持ちを忘れないこと。この2つを常に心がけています。

―― 最後に、浅田さんが次世代に伝えたいものとは何かを教えてください。

何をするにも「好き」とか「楽しい」という気持ちを忘れないでほしいなと思います。もちろん苦しいこと辛いこと、いろいろなことがあると思いますが、夢や目標を持って、一度きりしかない人生を楽しんでほしいなと思います。私自身、まだまだ楽しむつもりです!

  • 浅田 真央氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)
熊谷一弥氏、テニスのシングルスで銀メダル、熊谷一弥氏、柏尾誠一郎氏、テニスのダブルスで 銀メダルを獲得

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
内藤克俊氏、レスリングで銅メダル獲得
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
日本女子初参加
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)*日本は敗戦により不参加
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1990浅田 真央氏、愛知県に生まれる
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2002浅田 真央氏、特例で全日本フィギュアスケート選手権に出場
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2004浅田 真央氏、ジュニアグランプリファイナルで優勝し、女子ジュニア史上初のトリプルアクセルに成功
    浅田 真央氏、全日本フィギュアスケートジュニア選手権で優勝
  • 2005浅田 真央氏、世界ジュニアフィギュアスケート選手権で優勝
    浅田 真央氏、グランプリファイナルで優勝
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2006浅田 真央氏、NHK杯国際フィギュアスケート競技大会で優勝し、歴代最高得点を更新
2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008浅田 真央氏、四大陸フィギュアスケート選手権で優勝
    浅田 真央氏、グランプリファイナルで2度目の優勝
  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2010浅田 真央氏、全日本フィギュアスケート選手権で4連覇
    浅田 真央氏、バンクーバーオリンピックで銀メダルを獲得し、女子シングル史上初一競技大会中に3度のトリプルアクセルに成功
    浅田 真央氏、世界フィギュアスケート選手権で優勝
  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2013
平成25
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2014浅田 真央氏、ソチオリンピックで6位入賞
    浅田 真央氏、世界フィギュアスケート選手権で3度目の優勝
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

  • 2017浅田 真央氏、現役を引退
2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期
2021
令和3
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)