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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」
冬季オリンピック・パラリンピック
第119回
感動を共有する!スポーツ実況の世界

工藤 三郎

 プロ野球、陸上競技、ゴルフ、スキージャンプなど、約40年にわたってNHKのスポーツ実況放送に携わってきた工藤三郎さん。オリンピックは、冬季8大会、夏季4大会の計12大会で実況を務め、数々の名シーンを伝えられてきました。2018年夏にNHKを退職後はフリーアナウンサーとしてスポーツを中心にテレビやラジオなどで幅広く活躍されています。特に冬季オリンピックに深く関わってこられた工藤さんに、メディアの視点からオリンピック・パラリンピックや、日本スポーツ界についてお伺いしました。

聞き手/佐野慎輔 文/斎藤寿子 写真/フォート・キシモト、工藤三郎 取材日/2022年10月24日

冬季競技への熱い思い

甲子園球場にて西田善夫氏(左)と

甲子園球場にて西田善夫氏(左)と

――工藤さんと言いますと、冬季オリンピックという印象が強くあります。かつての名アナウンサー西田善夫*1)さんらの先輩たちが形をつくられ、工藤さんらが磨き上げてこられた冬季オリンピックの実況は、私たちに大きな影響を与えてくださいました。

大先輩のお名前と並べていただき、とても恐縮です。西田さんは最初に勤務されたのが北海道の室蘭放送局でした。アイスホッケーが盛んな苫小牧市もその電波のエリアにあります。そこで西田さんは、アイスホッケーのレフェリーの資格を取得されるほど熱心に冬のスポーツに取り組まれたと聞きました。その蓄積が、例えば1980年レークプラシッドオリンピックでのアイスホッケー「アメリカ対ソ連」戦、“氷上の奇跡”と呼ばれた試合の名実況につながったのだと思います。

私が新人アナウンサーとして旭川放送局に赴任したのは1976年です。当時、西田さんは東京で勤務されていて雲の上の方でした。しかし、研修会などでは「これからのウィンタースポーツの放送は、寒さや、雪や、氷を身近に感じる土地で働いた者がリードしていくべきだ」と話されて、私たちのように北海道や東北に勤務する若いアナウンサーを励ましてくださっていました。

ウィンタースポーツがそれまでにはない規模で放送されるようになったのは1972年の札幌オリンピックからで、私がNHKに入局する四年前のことです。

札幌オリンピック、笠谷幸生氏の金メダルジャンプ(1972年)

札幌オリンピック、笠谷幸生氏の金メダルジャンプ(1972年)

「さあ笠谷、金メダルへのジャンプ!」と、日本が金・銀・銅のメダルを独占した70m級ジャンプの実況を担当した北出清五郎アナウンサーの初任地は私と同じ旭川で、名寄市にあるピヤシリのジャンプ台に取材に行った時に、「この木の脇で、北出さんはジャンプ実況の練習をしていたんだよ」と地元の方が教えてくれました。しかし、当時のスポーツアナウンサーの花形は大相撲や野球の担当で、北海道や東北などでウィンタースポーツを伝える技術を培っていこうというアナウンサーは少数でした。 その傾向が札幌オリンピックを機に変わり始めていたんですね。

*1)西田善夫:元NHKアナウンサーとして、オリンピックほか多くの国際大会、国内大会の実況を担当。1978年放送開始の「スポーツアワー」では初代キャスターを務めた

――最初の赴任地が北海道となった時には、どう思われましたか?

やっぱり!と思いましたね。なにせ私は九州育ちですから、逆に北のほうに行かされるんじゃないかという予感はあったんです。その予感的中でした。ただ、実際に行くとなると、興味半分不安半分でした。旭川は北海道のなかでも特に寒さの厳しいところですし、氷点下の暮らしなんて…想像もできませんでした。ただ、NHKに入れば全国どこに行かされるかわからないと覚悟していましたから、旭川と言われて驚きはありませんでした。実際、ひと冬越してマイナス30度の朝も経験し、鼻毛の凍り具合で気温がわかるようになっていて、「フンフン、この鼻毛の感じだと、マイナス15度くらいかな」という感じでした。

そして、厳しい冬が終わると迎える春の美しさ。カッコーの声で目が覚める夏の清々しさ。若かったからでしょうか、慣れるのも早かったと思います。
結局、旭川から札幌に転勤して北海道には8年間勤務しました。札幌で結婚し、子どもは2人とも北海道生まれです。

――工藤さんは大分県出身ですが、冬季競技のご経験はあったのでしょうか?

まったくと言っていいほど、ありませんでした。スケートリンクが大分にもあって、転びながら滑ったことはあったのですが、スキーは旭川で初めて経験しました。スキー板に乗ったとたんに「転倒!」です(笑)。「滑る」という感覚は南国育ちの私にはほとんどゼロだった思います。凍結した街中を歩いていてもよく転びましたからね。

工藤 三郎氏

工藤 三郎氏(当日のインタビュー風景)

――北海道に勤務された8年間が、その後の工藤さんのアナウンサー人生において大きな糧となっているわけですね。

それは、間違いありません。
北国に暮らすと独特の連帯感が生まれる気がします。雪に車輪が埋まって動けない車があれば見ず知らずの人が一緒になって車を押してくれます。多分、人間一人では太刀打ちできない自然の力の大きさを、暮らすみんなが身にしみて知っているからじゃないでしょうか。大自然の前では人間なんて本当に弱い存在だとわかりますね。それを知ったことがまず大きいです。

それと、その厳しい自然のなかで、生きる手段としていろいろな道具が生まれ、やがてそれを使って“遊んでやれ!冒険してやれ!”となっていったのがウィンタースポーツだと思うんです。ですから、ウィンタースポーツの言葉は北国の生活感覚に根差すものが多いんですね。

例えばスキー板を「踏む」とか、雪が「刺さる」とか。スケートやスキーも滑ってはいるけど、「走る・歩く」と言います。そういう言葉一つひとつを、感覚として理解できるようになったことも大きかったですね。

ただ、ジャンプ競技だけは、飛ぶ選手たちの気持ちはすぐには理解できませんでした。
あんな高いところから飛び降りるんですよ。ジャンプのスタート地点には何度立っても足が震えます。 しかし、そうした北海道生活があったがゆえに、ウィンタースポーツを単に競技としてだけではなく、北国に暮らす人たちの文化として、見よう、考えよう、伝えようという思いに向かわせたのだと思います。それはその先、ヨーロッパや北米の大会を取材しても、常に意識することにもなりました。

実況アナウンスの基本をラジオで学ぶ

野球(小学1~2年生のころ)

野球(小学1~2年生のころ)

――工藤さんご自身は、子どものころはどんなスポーツをされていたのでしょうか?

子どものころの写真に、父の兵児帯(へこおび)を廻し代わりに腰に巻いている姿が残っています。実家にテレビが入ったのが小学1年生のころで、確か、最初に見たのが大相撲中継でした。時代は栃錦・若乃花ですよ。おそらくナマで動く相撲を見てよほど興奮したんでしょうね。

それと、当時の一番人気はやはり野球でした。ユニフォームを持っている子はほとんどいなかったのですが、2人いた兄たちのお古を着せてもらえました。背番号はもちろん「3」。書道で使う黒い下敷きを、母が切り抜いてつくってくれました。やっぱり長嶋茂雄さんがスーパースターでした。地域の野球チームに入って、5年生くらいになってセカンドをやらせてもらいましたが、試合でエラーを連発しまして…(笑)決して運動神経が良いとは言えない子どもでしたね。中学に入学した1966年に地元大分県で国民体育大会が開催されたんですが、「これをやれば必ず国体に出られるよ」という甘い言葉に誘われてブラスバンド部に入部して、始めた楽器がトロンボーンでした。

国体の開会式で、真っ白い帽子をかぶったブラスバンド隊が最初に入場しますが、先頭を歩くのがトロンボーンです。「君は背が高いからちょうどいい」という理由で始めましたが、このあと大学時代まで続けました。

――スポーツではなくて音楽でしたか……でも野球はお好きだった?

そうですね。やるのは下手でも見るのは大好きでした。
高校1年生の夏に観た三沢高校(青森)と松山商業(愛媛)の決勝戦*2)の延長再試合。忘れることができませんね。あの夏(1969年)は、甲子園とアポロの月面着陸。テレビにくぎづけの夏でした。

*2)第51回全国高校野球選手権大会。0-0延長18回引き分け、翌日の再試合で松山商が4-2で優勝

――アナウンサーを志したのは、いつごろだったのでしょうか?

志したのは、NHKに入ってからでした。えっ?と思われるかもしれませんが、実際にそうでした。と言いますのも、私がNHKを受けたのは自由公募という枠で、職種別ではなかったんです。自分としては記者になりたい気持ちがあったのですが、採用の際に、「アナウンサーで採用」と言われて、そこから初めてアナウンサーをめざすことになったんです。

今の学生さんはアナウンス専門の学校に通ったりして準備するようですが、私にはまったくそうした経験はありませんでしたから、そこから大慌てでアナウンスの勉強を始めました。同期のアナウンサーもほとんどそうしたスクールなどの経験者はいなかったようで、ズブの素人ばかり。当時のNHKは自前でアナウンサーを育てるという方針だったようです。

入局すると6月末までは、都内の研修所に合宿です。そこで発声法からニュースの読み、インタビューなど基本的なアナウンス技術を学ぶのですが、もちろんなかにはスポーツ実況研修もあって、2日間、神宮球場に出かけて野球の実況を体験しました。

研修所にカンヅメ状態から、外に出られるだけで心が弾んでくるんですが、その時の試合に、法政大学の江川卓投手が投げていたんですね。ボールはとにかく速かった!それでまた気分が盛り上がったのか、けっこう気分よくしゃべれた記憶があります。

高校を卒業して上京し、大学の4年間は下宿生活をしたのですが、部屋にはテレビがありませんでした。四畳半一間で、灯油は使用禁止でしたのでストーブもなく、炬燵一つしかないような寒々とした部屋でした。そこで、毎晩のようにラジオのプロ野球中継を聴いていました。今思うとそれが良かった。その時に聴いたプロ野球中継のアナウンサーの心地よいしゃべりのリズムが耳に残っていたのが幸いしたのではないかと思います。

やがて、研修が終わると新人たちは全国各地に赴任して行きます。ちょうど夏の高校野球地方大会の真っ最中です。旭川に着任した最初の夏は実況者の横についてゲームのスコアを付ける役。しかし、秋の大会では45分という短い時間でしたが初めてラジオ実況を経験させてもらいました。スポーツに限らずいろんな仕事を覚え、先輩に教わりながら過ごして、なんとかアナウンサーでやっていけるかなあと思い始めたのは、札幌に転勤する入局4年目くらいだったでしょうか。それでもスポーツアナウンサーとしてやれるという自信まではなかなかつきませんでした。

――視覚的なものがないなかでのラジオの実況は、試合の内容だけでなく、細かな状況説明や選手の表情など、多角的に伝えなければいけないという難しさがあります。その実況を聴いていたことが、アナウンサーとして生かされているわけですね。

まずはリズムですね。どのスポーツにも固有のリズムがあります。
サッカー、野球、バスケット、格闘技でも相撲、柔道。それぞれが特有のリズムを持っていると思います。学生時代に聴いたラジオ中継からは野球のリズムが伝わってきて、それが身に付いたのだと思います。

それと、実際にやってみると、ラジオって楽しいんです。実況アナウンスでは、どうしゃべるかの前に、何をしゃべるかを決めなければいけません。この場面で話すべきは、ピッチャーのことなのか、バッターのことなのか、監督のことなのか、スタンドの応援団のことなのか…。それを判断するために、取材をしたり、試合をたくさん見て「目」を養うんです。

その基本はテレビもラジオも同じなんですが、テレビでは、どの画を撮るかはカメラマンやディレクターが決めて、こちらはそれに合わせてコメントしていく立場になりますので、どうしてもストレスが溜まりやすい。一方のラジオは、何を描写するか、しゃべるアナウンサーに任されますので、「今日はこの話からいって、次にこの話に触れよう。今日は暑いから天気の話はここで入れよう」とか、自分で自由に組み立てる面白さがあるんです。

ですから、ラジオで一試合しゃべりきると「やり切った」という達成感と喉の渇きでビールが本当に美味しいんです!楽しさと同時にスポーツ実況の基本を、ラジオを聴いて、しゃべって覚えたと思っています。NHKを定年退職した現在は、「NHKラジオ深夜便」を担当して、またラジオの世界に戻っています。

忘れてはいけない“教わる”姿勢

札幌オリンピック70m級ジャンプで
銅メダルを獲得した青地清二氏(1972年)

札幌オリンピック70m級ジャンプで銅メダルを獲得した青地清二氏(1972年)

――最初の勤務地である旭川放送局の後は、札幌、名古屋、大阪、東京で勤務されましたが、いずれもスポーツの実況をされていたんですか?

札幌放送局の時は、スポーツアナウンサーとしてはまだ半人前でした。それでもアイスホッケー、フィギュアスケート、スピードスケート、スキーマラソンの取材や実況を経験しました。ジャンプの取材で毎週、大倉山や宮の森に出かけて、実況も一度だけでしたが担当させてもらいました。解説が札幌オリンピック銅メダルの青地清二さんで、ガチガチに緊張しながら放送したのを憶えています。

そのあと名古屋に転勤してやっとスポーツの要員としてカウントされたのだと思います。名古屋には大相撲もあれば中日ドラゴンズもありましたから。アナウンサーになって9年目ですね。以降は、ずっとスポーツ中心です。

――名古屋放送局時代は、スキージャンプなど冬季競技の実況はされていたのでしょうか?

ほとんどしていません。
名古屋は、当時のナゴヤ球場に通いながらプロ野球の取材と放送のやり方を学んだ時期です。星野仙一さんが最初に監督に就任したころです。あと大阪にも頻繁に出張して駅伝やマラソンのスタッフにも入れてもらえるようになりました。そして、大阪に転勤して迎えた1988年のカルガリー大会で、初めて実況要員としてオリンピックに行かせてもらいました。

――ご自身がスポーツの実況アナウンサーとして自信を持てるようになったのは、何かきっかけはありましたか?

自信はなかなか持てませんね。40歳過ぎたくらいから「なんとかなるだろう」とは思えるようになりましたが。だって、今に至っても「完璧にやれた」とか「100%できた」という放送はありませんから。 生放送は言い直しができない一発勝負で、あれだけ早く複雑に動くスポーツを数時間も見続けて集中力を切らさずにコメントして、すべてが適切だったなんて難しいですよね。どこかに、ああ言えば良かったとか、あの動きに触れるべきだったとか、あのエピソードをもっと詳しく言いたかったとか…どうしても悔いが残ってしまいます。

不思議なことに、あとから録画を見返すと、むしろ「うまくやれた」と思った時ほど失敗が見つかります。言葉の選び方、表現、タイミング、解説者への質問など、嫌なところがいっぱい出てきます。逆に表現に悩んだり、言葉に苦しんだ時の放送のほうが、すっきり聞けたりするんですね。

私はあまり自信を持ちすぎるよりも、自信を持つことに慎重であっていいと思っています。自信を持ちすぎると思い込みに陥りやすくなります。思い込みが強くて独りよがりの実況ほど聞きづらいものはありませんから。

カルガリーオリンピックに派遣されたNHKアナ。
左から3人目が羽佐間氏。右が本人(1988年)

カルガリーオリンピックに派遣されたNHKアナ。左から3人目が羽佐間氏。右が本人(1988年)

――アナウンサーの方はただ当日実況をすればいいというわけではなく、その前の準備も大変だと思います。

アナウンサーでただ一人、野球殿堂入りを果たしている志村正順さん(元NHKアナウンサー。昭和の時代に大相撲やプロ野球などスポーツ実況中継を担当)は「100試合見て、1試合しゃべりなさい」と言っていたそうです。それだけ多くの試合を見てやっと、選手の動きの意味、チームの特徴、試合の流れが見えてくるのだと思います。

要はスポーツを見る目を磨くというのが実況者の一番の準備だということだと思いますが、選手への取材や資料、特にデータ類の整理は欠かせない準備です。 日常のデータ整理として、例えばプロ野球担当のアナウンサーが毎日やっているのが「帳付け」と呼ばれる作業です。

前日に行われたプロ野球の全6試合の記録を、今ならインターネット上の結果画面を見ながら、選手ごとに、何打数何安打、ホームラン何号…というようにノートに書き写していくのです。これが1試合に15分かかるとして、6試合で1時間半くらい、ダラダラとやっているとすぐに2時間以上はかかってしまいます。

私も、プロ野球中継をやり始めたころからNHKを退職するまで30年以上続けました。海外出張の時も、家族で温泉に行く時もこのノート持参です。雨で全試合が中止になった翌朝は「帳付け」がありませんので、安心してゆっくり寝ていました。

こうした「帳付け」以外にも対戦成績やら選手プロフィールなどの資料を用意するわけですが、実際の放送でどれだけ使われるかというとせいぜい2~3割だと思います。あとはボツ。無駄になってしまいますがしょうがないですね。スポーツは筋書きのないドラマだと言われますが、想定外の事態に備えるためにもたくさんの資料を準備するしかないんです。

カルガリーオリンピック、オーバル放送席。左が本人(1988年)

カルガリーオリンピック、オーバル放送席。左が本人(1988年)

――もちろん自分でも準備をしていきますが、ラジオの実況中継を聴いて「なるほど、そういうことだったのか」と気づかされることも多々ありました。特に新聞記者にとっては早版の締め切り時間がありますので、その場で情報を知れるというのはとてもありがたいことでした。

私たちも、実況した翌日の新聞の見出しや談話というのは、とても気になりました。自分がしゃべっていたことと合致していれば「あれで良かったんだ」と安堵しますし、「そんなことがあったのか。それは知らなかった」と反省することもありました。

――解説者もそれぞれ性格や意見が違いますので、聞き方や質問の内容を変えたりするなどご苦労もあったのではないでしょうか?

解説者の方のバックグラウンドはさまざまです。種目やポジションのスペシャリストであったり、指導者としての実績を残されたり、高い競技力のなかで厳しい勝負の世界を生きてこられた稀な経験をお持ちの方だったりと。そして、皆さん一家言お持ちで、個性的な方たちです。私は、解説者はそのスポーツを教えてくれる「師匠」であり、放送を一緒につくり上げる「共演者」だと思ってきました。

まず大事なのは「教わる姿勢」だと思っています。素直に教わるんだ、という気持ちを持ち続ければ必ず解説者は教えてくれます。だって彼らは「教える」ために放送席にいるのですから。ここで注意しなければいけないのが思い込みや予断です。思い込みや予断でする質問が一番、嫌われます。解説者の教えてやろうという意欲をそいでしまいます。教わる姿勢で話を聞けば「発見」があります。「あっ、そうか!」「えっ、違うの!」と。知らなかったことを知ることは驚きです。驚くと心が弾みます。だんだんそれが重なって感動につながっていくんです。

だから「発見」の多い放送は面白いのです。「ああ、今日もいろいろなことを教わった」とアナウンサーが思うような実況は、きっと視聴者の方も耳を傾けてくれただろうと思います。解説者といえば、鶴岡一人*3)さんや川上哲治*4)さんという大監督と放送をご一緒させていただいた経験は私の宝です。初めての時鶴岡さんから「あんた、給料いくらもろとんかい?どうせ、安いんやろ」と聞かれて戸惑ってしまいました。あとでわかるんですが、これは、「お前は、まだ給料も安い若造だから失敗はあたりまえだ。ワシに任せて何でも聞いてこい!」という意味の鶴岡さん流の励ましなんですね。“親分”と慕われた鶴岡さんの懐の大きさを感じました。川上さんは放送中に何を話すのか、事前にしっかり確認される方でした。「今日のゲームは、これとこれを言いたい。このことは必ず聞いてください」とか。ところが、そんな堅物のイメージの強い川上さんに「工藤くんの実況は面白くないんだなあ。1時間に1回くらい私を笑わせてみなさい」と言われたことがありました。えっ、あの“哲のカーテン”の川上さんをどう笑わせるの?とほとほと困りましたが、これもつまりは、もっと視野を広げて、ゆとりを持ちなさいという川上さんの教えだったと思っています。

川上さんの笑い声って、「わっはっはっは」と豪快でしたね。声が大きくて。放送が終わるとよく笑われましたが、放送中はなかなか笑っていただけませんでした。

*3)鶴岡一人:現役時代は南海<現・福岡ソフトバンクホークスの前身>でプロ1年目に本塁打王、その後初代MVPに輝くなど活躍。監督としても南海の黄金時代を築き、史上最多の1773勝を記録した名将

*4)川上哲治:高校卒業後に巨人に入団し、本塁打王、首位打者に輝くなど活躍。また“赤バット”の異名で人気を博した。監督として巨人を9シーズン連続で日本一に導くなど知将としても知られる

感動を共有する

――工藤さんが初めて冬季オリンピックの実況を務めたのは、1988年カルガリー大会(カナダ)でしたね。

羽佐間正雄*5)さんをリーダーに、朝妻基祐アナ、杉林昇アナ、山本浩アナ、そして私の5人。羽佐間さんと朝妻さん以外は初めてのオリンピック。しかも5人のうち3人が北海道勤務経験者というそれまでにないメンバー構成でした。衛星放送(BS)の試験放送が始まり、スポーツ放送の転換点が近づいていることを感じるオリンピックでした。

私が主に担当したのはスピードスケート。解説の鈴木正樹*6)さんと連日、カルガリー大学構内にできたばかりの高速リンク「オリンピックオーバル」に通いました。まず目を見張ったのが施設のすばらしさ。なにせ当時とすればオリンピック初の屋内リンクです。明るく綺麗で暖かい。こんなところでスケートが見られるんだとまず感心。そして大会が始まれば、連日の世界新記録の量産にただただ興奮するばかりでした。

また、アイスホッケー会場のNHLカルガリー・フレームスの本拠地サドルドームでも、シートの座りやすさ見やすさに驚きましたが、ウィンタースポーツを楽しむ環境のカナダと日本の差の大きさを至るところで痛感しました。

カルガリーオリンピック、スピードスケート男子500m
で銅メダルを獲得した黒岩彰氏(1988年)

カルガリーオリンピック、スピードスケート男子500mで銅メダルを獲得した黒岩彰氏(1988年)

スピードスケートの注目はもちろん500mの黒岩彰*7)さんです。前回のサラエボ大会で期待されながら降雪によるレース遅延の不運もあってメダルを逃した黒岩さんがメダルを獲れるかどうかでした。タラレバは禁物ですが、サラエボがカルガリーのような屋内リンクだったら…と思ってしまいます。当時500mのレースは1回のみの一発勝負。30数秒ですべてが決まります。そのスタートの緊張感は今まで体験したことのない世界でした。黒岩さんは4組アウトスタートとサラエボの時と同じ。同走は東ドイツのウーベ・イェンス・マイ。ピストルが鳴ったあと、自分でどうしゃべったかの記憶はほとんどありません。最初からマイがスーッと先行したんです。黒岩さんも懸命に追うんですが届かない。マイはそのままもの凄いスピードで滑って、世界新記録でフィニッシュ。後ろから黒岩さんがフィニッシュしました。 黒岩さんがリードされた時点で、私の頭のなかは整理がつかなくなっていました。フィニッシュの瞬間は、黒岩負けた!マイは世界新!それでも黒岩メダルか!メダルの色は!…いろんなことが順不同に駆け巡ります。結局、黒岩さんは3位で銅メダルを獲得。それがわかった私は、そこでホッとした気持ちになったことを記憶しています。

今聞くと、自分が恥ずかしくなるくらい緊張してぎこちない実況でしたが、うまく喋れなくて落ち込んでいた私に、羽佐間さんが言葉かけてくださいました。

黒岩選手とは別の組で滑ったセルゲイ・フォキチェフ(ソ連)という有力選手がいたのですが、彼が第2カーブで少し膨らんでしまったんです。羽佐間さんはそれを私が実況で伝えていたことに触れて「あれを言えただけで、もうお前は立派な実況アナウンサーだ」と仰ってくださいました。過大な褒め言葉と感じながらもこれほどありがたく身にしみた言葉はありませんでした。

オリンピックのような大舞台での実況アナウンスの出来不出来はそのアナウンサーの一生を左右します。大きな間違いがあれば二度とそのアナウンサーはその放送席に座ることができないかもしれません。ですから実況アナウンサーも、選手の何分の1に過ぎないかもしれませんが、大きなプレッシャーを感じながらオリンピックには臨みます。
羽佐間正雄さんの一言のおかげで、私はその後の十数回のオリンピックを経験できたのだと思っています。

*5)羽佐間正雄:元NHKアナウンサー。ゴルフをはじめ、プロ野球、サッカー、陸上競技、スキーなど幅広くカバーし、オリンピックの実況は11大会で務めた

*6)鈴木正樹:グルノーブル、札幌、インスブルック、オリンピック3大会スピードスケート短距離の日本代表。所属は王子製紙(当時)

*7)黒岩彰:元スピードスケート日本代表。1988年カルガリー大会では500mで銅メダルを獲得。現役引退後はプロ野球の西武ライオンズの広報課長、球団代表などを歴任。2008年には富士急行スケート部監督に就任。現在は日本スケート連盟スピードスケート強化部副部長、日本オリンピック委員会のアシスタントナショナルコーチを務め、2014年ソチ大会<ロシア>、2018年平昌大会<韓国>、2022年北京大会<中国>に帯同した

アルベールビルオリンピックノルディック複合団体で金メ
ダルを獲得した荻原健司氏のV字ジャンプ(1992年)

アルベールビルオリンピックノルディック複合団体で金メ ダルを獲得した荻原健司氏のV字ジャンプ(1992年)

――工藤さんはジャンプの実況も多かったと思いますが、思い出に残っている大会はありますか?

オリンピックでのジャンプの実況は1992年のアルベールビル大会から1998年長野大会まで3大会連続で担当しました。この期間は日本ジャンプ陣の黄金期です。ご存じのように、それは「V字」というジャンプスタイルの革新から始まりました。

Ⅴ字ジャンプが衝撃的にオリンピックに登場したのが1992年アルベールビル大会です。ここでは日本ジャンプ陣はメダルにまでは届きませんでしたが、Ⅴ字の威力を見せつけたのは三ヶ田礼一さん、河野孝典さん、荻原健司さんのノルディック複合陣でした。前半ジャンプでリードして後半クロスカントリーで逃げきるという勝ちパターンで見事な金メダルでした。

アルベールビルオリンピックでの放送風景(1992年)

アルベールビルオリンピックでの放送風景(1992年)

次が、1994年リレハンメル大会。ほぼ全員がⅤ字ジャンプをやるようになって“三強”と言われていたイェンス・バイスフロク(ドイツ)、アンドレアス・ゴルトベルガー(オーストリア)、エスペン・ブレーデセン(ノルウェー)が圧倒的に強かったシーズンです。しかし、層の厚さから見れば日本ジャンプ陣は世界のトップにいたと思います。ですから一番の狙い目は団体の金メダルでした。

団体戦の1回目が終わって日本は首位。2回目の3人目までに2位のドイツを大きく引き離し、ほぼ金メダルを手中にしていた状況で、最後の4人目が原田雅彦*8)さんです。

そこで私は「普通に飛べば金メダル!」と言葉を発して、飛び出した瞬間、「高く出た!」と叫びます。ところが、そう見えたのは原田さんの踏み切るタイミングが早すぎたから。早すぎて上体がたった姿を「高く出た」と見誤ってしまったのです。結果は距離が伸びない失敗ジャンプ。日本は銀メダルに終わりました。

失敗して頭を抱えてうずくまる原田さんにチームメイトの岡部孝信*9)さんが近づいて声をかけ、起こしてあげたんですね。それをそのままお伝えしたのですが、岡部さんに救ってもらったというような思いでした。

*8)原田雅彦:元スキージャンプ日本代表。オリンピックには1992年アルベールビルから2006年トリノまで5大会連続で出場。1994年リレハンメル大会では団体銀メダル、1998年長野大会では団体金メダル、ラージヒル個人で銅メダルを獲得。2022年北京大会では日本選手団総監督を務め、現在は雪印メグミルクスキー部総監督および全日本スキー連盟副会長

*9)岡部孝信:元スキージャンプ日本代表。団体では1994年リレハンメル大会で銀メダル、1998年長野大会で金メダルと2大会連続でのメダル獲得に貢献。2006年トリノ大会団体6位、2010年バンクーバー大会選手団主将だったが試合出場なし。現・雪印メグミルクスキー部監督

――あの時、私もミックスゾーンにいて優勝原稿だけが頭にあり、日本との時差で締め切り時間ギリギリで、どうしようと焦ったことを覚えています。ただ、選手たちはメダルが獲れたことを素直に喜んでいたとあとから聞きました。

優勝あるいは2位や3位だった時のコメントは誰もが思いつきます。ところが、予想が外れて下位に沈んだ時は何を言えばいいのか言葉を失いそうになります。
実況する私が言葉を失いそうになったあの時、岡部さんが凍った空気を和らげてくれたのでやっと話すことができました。

ソチオリンピックジャンプ台にて(2014年)

ソチオリンピックジャンプ台にて(2014年)

――そういう意味では、2014年ソチ大会の時の女子ジャンプで金メダル候補の高梨沙羅選手が4位とメダルを逃した時の工藤さんのインタビューはすばらしかったと思います。「これからもみんなが沙羅さんのことを応援すると思います」「よくがんばりましたね」と高梨選手の気持ちに寄り添っていらっしゃった。こういう時には取り繕う余計な言葉は不要で、シンプルな言葉のほうがより感情移入できるんだなということを勉強しました。

正直言って、私もあの時は「何を聞けばいいのだろう」と動揺していました。そういう想定外の状況になった時に大切なのは、いい意味で開き直れるかどうかだと思います。開き直ってやるべきことは基本に戻ることだと思います。おっしゃるように基本はいつもシンプルでやり慣れた手順ですから、動揺している時にこそ頼りになるんですよね。ですからあのインタビューでは特別なことは聞いていません。今日の自分のジャンプの出来は?ワールドカップとオリンピックの違いは?…など。

ただ、インタビューの最後に「がんばりましたね」という私の言葉が、皆さんからは「良かったです」と言っていただくことが多いのですが、アナウンサーとしてそれが正しかったのかどうかはわかりません。私情と言えば私情ですから。高梨選手の言葉や様子に触れて自然と出た言葉でした。開き直れた自分が素直に向かい合った結果でした。

長野オリンピック個人ラージヒルで銅メダルを獲得した原田雅彦氏(1998年)

長野オリンピック個人ラージヒルで銅メダルを獲得した原田雅彦氏(1998年)

――そうした意味では、1998年長野大会ラージヒル個人で原田選手が個人では初めてのメダル(銅)を獲得しました。あの時、工藤さんはK点越えの大ジャンプをした原田さんに「立て、立て、立て、立ってくれ!」と叫ばれました。あれもすばらしい名言でした。

実況の前にはいろんな言葉を準備しますが、あれは準備した言葉ではありませんでした。
その前のノーマルヒル個人で原田さんは1回目でトップに立ちながら、2回目に失敗をして5位入賞に終わってしまいました。その4日後のラージヒル個人でした。

「今度こそは」という思いで私も放送席に座っていましたから、2回目をスタートする時には「因縁の2回目」とコメント。これは準備していた言葉です。ところが飛んだら、あの大ジャンプです。すぐに、「立てるかどうかわからないほど危ない大ジャンプだ」ということはわかりました。それで無我夢中で「立て、立て、立て、立ってくれ!」と、とっさに出でしまったのです。原田さんが着地した瞬間、疑いもなく「これでメダルは確実」と思いました。でも、あとでスコアを確認すると、4位とはわずか0.1ポイント差の銅メダル。ですから、皆さんに期待させるような言葉を投げかけておきながら、原田さんが僅差でメダルを逃した可能性も十分にあったわけですが、なんとかメダル圏内に入って本当に良かったです。

――団体戦では4年前のリレハンメル大会で、あと一歩のところで逃した金メダルを獲得。1本目を終えて4位からの大逆転というドラマでしたが、工藤さんはインタビュアーとしてフィニッシュ地点にいらしていたんですね。

日本が金メダルを獲った団体戦の時はインタビュー担当で、ブレーキングトラックのなかにいました。そこから見上げても、スタートはおろかカンテ(踏み切り台)も見えない状況でした。「よく2本できたな。金メダルは奇跡だった」と現場にいた誰もがふり返ると思います。

1回目が終わった時点では原田さんが大失速で日本は4位で続行は難しい状況。そのまま終われば日本のメダルはありませんでした。
私も放送席に駆け上がって解説の八木弘和*10)さんと「これは無理かもしれませんね」「厳しいかもしれない」という言葉を交わしていました。そんななかでテストジャンパーの皆さんはよく飛びましたよね。 2回目が始まると岡部孝信、齋藤浩哉と大ジャンプを見せて次々と私のいるブレーキングトラックに降りてきました。まだ、インタビューはできません。そして、原田さんも超特大のジャンプで着地。場内がもの凄い歓声に包まれます。

スキーを外して船木和喜選手を待つ原田さんにマイクを持って近づくと「ふなき~ふなき~」と、唸るように泣きながらスタートを見上げます。そして、船木のジャンプで金メダルが確定。本当に筋書きのない感動的なドラマでした。

*10)八木弘和:元スキージャンプ日本代表。1980年レークプラシッド<アメリカ>70m級で銀メダル。現役引退後は全日本スキー連盟のジャンプ・ヘッドコーチを務めるなど指導者や解説者として活躍

オリンピックをどう伝えるか

リオデジャネイロオリンピック開会式(2016年)

リオデジャネイロオリンピック開会式(2016年)

――数多くのオリンピックを伝えられて感じることはどんなことですか?

私は、2016年リオデジャネイロ大会(ブラジル)には現地には行かずに、久しぶりに日本で、オリンピックをテレビで観戦しました。夏のオリンピックを日本で見たのは1988年ソウル大会以来28年振りでした。

すると、日本選手のことはよくわかるのですが、日本以外の国や選手の情報が伝わってこないのです。オリンピックに200を超える国や地域が参加しているはずなのに入ってくる情報の90%以上は日本のこと。もちろん日本選手の活躍ぶりがもっとも知りたい情報ですから多くなるのは仕方ないにしても、送り手として現地にいた時には、ここまで極端だとは感じていませんでした。

現地にいますと、大会の関係者やボランティア、地元の人々と毎日どこかで接する機会がありますし、「こんな面白い話があった」「こんな人がいた」と、世界中の国や選手、観客たちのエピソードにたくさんに出会います。ですから、私たちの日本も、世界からオリンピックに集まった200の国と地域の一つ。200分の1という感覚を持って動いています。日本だけが特別な参加者ではないのですから。

それが、日本では、オリンピックは日本のために開催されているかのように見えてしまいます。せっかくのオリンピックですから、もっと世界を知る機会にしてもいいのではとこれまでの反省を含めて思いました。

――同感です。私も現場にいた時は「日本県版」にならないようにと意識してきましたし、後輩たちにもそのように指導してきました。しかし…。

そうですね。スポーツだけの観点からも、最近のオリンピックの報道は日本人選手がメダルを獲得するかどうかだけが重要で、海外選手はメダリストであっても報道されないことが多くなっているように思います。日本人選手のファンは増えると思いますが競技そのものの魅力を伝えるにはやはり頂点に立った選手、その競技を極めた選手のことを伝えずして世界最高峰と言われるオリンピックの報道と言えるのかなと思います。

1932年ロサンゼルス大会をラジオで中継した時から日本のオリンピック放送が始まり、1964年東京大会で大きな盛り上がりを見せました。そうしたなかで日本のメディアは日本人選手の活躍を中心にした報道をしてきたわけです。それはそれですばらしいことだと思いますが、あまりにもその傾向が強すぎて、私たち伝える側のアンテナが内向きすぎていないかと思います。もっと外にアンテナを向けるべきではないかと。そうすると、もっと凄いアスリートがいたり、戦略があったりと、いろいろなことを知ることができる。そうしたなかで日本人選手を応援する。それが求められていると感じます。

――冬季は8大会、夏季は4大会で実況をされましたが、夏と冬の違いはありますか?

冬の大会は一つひとつの会場が離れていますが、それでも全競技をある程度把握しながら大会期間を過ごすことができます。一方、夏の大会は競技数がとても多いので、もはや個人で全体像を把握するということがとても難しくなっています。

無観客の東京2020大会で感じたスポーツの力

東京オリンピック陸上女子1500m で
8位入賞を果たした田中希実選手(2021年)

東京オリンピック陸上女子1500m で8位入賞を果たした田中希実選手(2021年)

――東京2020大会、そして2022年北京冬季大会はコロナ禍で開催され、基本的には無観客で行われました。何か感じられたことはありましたでしょうか?

東京大会では、メディアにも厳しい人数制限がありましたので、現場で見ることがなかなか叶わなかったのですが、1日だけ国立競技場で陸上競技を見ることができました。その時に見たのが女子1500m決勝。田中希実選手が8位入賞したレースでした。本当にあのレースを間近に見られたのは幸運でした。 レースが始まる前に場内アナウンスで名前をコールされた田中選手がトラックに跳び出して来た時、ほかの海外選手と比べて小柄なはずなのにとても大きく見えました。それほどあの日の彼女は躍動感がありました。

レースでもとにかく積極果敢に走ってくれました。1500ⅿの先頭グループは格闘技のようなせめぎ合いがあります。そのなかに入っても彼女の姿は際立っていました。ラストも驚くべき粘りを見せながらフィニッシュ!その瞬間です。「ワーッ」という地響きのような歓声が聞こえたような気がしたのは。聞こえるはずのない無人の観客席からですよ。おそらく田中選手にも聞こえたんじゃないかなと思えるほどの大きな歓声が聞こえたんです。

不思議な現象でしたが、もしかするとどんなに離れていてもコミュニケーションを可能にしてしまうほどにスポーツ選手のパフォーマンスは大きな力を持っているんじゃないかと思ってしまいました。おそらくあのレース中、日本中でテレビを見ていたたくさんの視聴者が手に汗して声援を送っていたんだと思います。その巨大なエネルギーが国立競技場に届いて聞こえた。冗談じゃなくそう感じてしまいました。 まあ、これは私の幻聴だとしても、田中選手の走りは誰かに何かを届けて、届けられた誰かも彼女に声援を送っていた。目には見えないところでスポーツが強い一体感をつくったんだと思います。

――いま東京2020大会をめぐってさまざまな不祥事が取りざたされています。不信感が充満しているなかで札幌が2030年大会の招致をめざしていることについては、どのように考えていらっしゃいますか?

難しい問題ですが、正直なことを申しますと、私は焦ってはいけないような気がしています。というのは、まずは札幌市民や日本国民の皆さんから理解を得られるのだろうかということを考えますと、今の段階では非常に難しいだろうと思っています。理屈ではなく、心の底から応援してもらえるような状況になるかどうか、とても気がかりです。だからと言って、何をどうすればいいか具体策はなかなか難しいのですが、とにかくオリンピック・パラリンピックを招致することばかりが先行してしまっては拒否反応を示す人たちも多いのではないだろうかと思います。

工藤 三郎氏(当日のインタビュー風景)

工藤 三郎氏(当日のインタビュー風景)

――オリンピック・パラリンピックの今後のあり方についてはいかがでしょうか?

オリンピックは大きくなりすぎたように思います。これだけのすばらしい国際大会ですが、求めていた共感を抱きづらくなっています。参加するにしても、見るにしても、支えるにしても、自分の関わる部分だけのオリンピックで終始してしまいます。一つの共通体験としてまとめるのはもう限界ではないでしょうか。また、これからさらに競技も技術も用具も新しいものが取り入れられていくのだと思いますが、あくまでも「人間」が中心にいるオリンピック・パラリンピックであって欲しいと願っています。

――最後に工藤さんが後世に残したいもの、伝えたいことは何かを教えてください。

AIアナウンサーが実況する時代がもうすでに始まっています。しかし、逆にこれからは「人間力」が、試されるような気がしています。人間が伝えるからこそ面白い、人間だからわかるんだ!そう言われたいものです。確かに人間にしか理解できない魅力がスポーツにはまだ潜んでいます。スポーツの力をもっと引き出してください。感動を共有させてくれる名実況を期待しています。

  • 工藤 三郎氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)
熊谷一弥氏、テニスのシングルスで銀メダル、熊谷一弥氏、柏尾誠一郎氏、テニスのダブルスで 銀メダルを獲得

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
内藤克俊氏、レスリングで銅メダル獲得
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
日本女子初参加
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)*日本は敗戦により不参加
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1953工藤 三郎氏、大分県に生まれる
  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976工藤 三郎氏、NHK入局
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1988工藤 三郎氏、カルガリーオリンピックにて閉会式実況を担当
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

  • 1992工藤 三郎氏、バルセロナオリンピックにて開・閉式実況を担当
  • 1992工藤 三郎氏、アルベールビルオリンピックにて開会式実況を担当
1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1994工藤 三郎氏、リレハンメルオリンピックにてスキージャンプ団体ラージヒルの実況を担当
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1998工藤 三郎氏、長野オリンピックにてスキージャンプラージヒルの実況を担当
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2000工藤 三郎氏、シドニーオリンピックにて開・閉式実況を担当
2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2002工藤 三郎氏、ソルトレークシティオリンピックにて開・閉式実況を担当
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2006工藤 三郎氏、トリノオリンピックにて東京スタジオキャスターを担当
2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008工藤 三郎氏、北京オリンピックにて野球・ソフトボール・アーチェリーの実況を担当
  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

  • 2012工藤 三郎氏、ロンドンオリンピックにて現地キャスターを担当
2013
平成25
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2014工藤 三郎氏、ソチオリンピックにて現地キャスターを担当
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 20182018 工藤 三郎氏、NHKを退職
2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期
2021
令和3
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2022
令和4
北京オリンピック・パラリンピック開催(冬季)