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「Right to Play」~ヨハン・オラフ・コスの挑戦

佐野 慎輔 【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】

オリンピック競技大会が始まると、血が騒ぐ。とりわけオリンピック好きで知られる日本では、報道も含めて大いに盛り上がる。

しかし、地球上にはこの地上最大のイベントが開かれていることも、いや、スポーツの存在すら知らない人たちがいる。貧困、食糧難、戦争への不安……その日を生きることだけで精いっぱい。人生の大半を楽しむことも知らずに生きて、そして死んでいく。

ノルウェーのオスロ大学医学部に籍を置くスピードスケートのオリンピック金メダリスト、ヨハン・オラフ・コスが北東アフリカ、紅海に面したエリトリアを訪れたのは1993年のことだ。30年に及ぶ長い独立戦争の末にエチオピアからの独立を果たし、国際連合加盟が認められた直後である。

1994年リレハンメル大会スピードスケート男子5000mで世界記録を更新したヨハン・オラフ・コス

1994年リレハンメル大会スピードスケート男子5000mで世界記録を更新したヨハン・オラフ・コス

ノルウェー・オリンピック委員会とリレハンメル大会組織委員会が創設した慈善活動組織「オリンピック・エイド」の要請に応え、混乱の残る土地に赴いた。そこで見たものとは……国の貧困と住民の困窮、そして夢をみることもなく、病気にかかっても満足な治療も受けられない子供たち。話に聞いて知ってはいたが、目の当たりにした現実に26歳の青年は立ち尽くすしかなかった。

「衝撃でした。僕は恵まれた環境にいて、スケートに打ち込むことができている。しかし、彼らは遊ぶことの楽しさも知らないで死んでいく。彼らと比べて、ケガやスケートでの悩みなんて小さなことだ。それよりも、僕に何ができるか、真剣に考えました」

エリトリアの子どもたちは戦争ごっこをしていた。兵士のふりをして互いに撃ち合う。それは、もしかしたら兵士になるための訓練だったかもしれない。

悲しい光景から始まった活動

「悲しい光景だった。兵士になる以外の道を彼らに教えるのが、平和を希求するオリンピックに出場した僕の役割だと考えた」

コスは子供たちとボールを蹴って遊んだ。スポーツをする楽しさを伝えたかった。遊んでいるうちに子どもたちに笑顔が生まれ、目に生気が戻った。それを深く心に刻んだ。

コスは1992年アルベールビル冬季オリンピックのスピードスケート1500mで金メダル、10000mで銀メダルを獲得。2年後の1994年に母国ノルウェーのリレハンメルで開かれる冬季オリンピックに向けて大学を休学、強化練習の只中にあった。

オリンピックはそれまで冬と夏の大会が同一年に開催されていた。しかし、国際オリンピック委員会(IOC)が各国・地域オリンピック委員会の選手派遣業務の煩雑さを理由に、実はスポンサー収入の拡大を背景に冬と夏を2年ごと、交互に開催すると決めた。1992年と1994年、2つの冬季オリンピックの開催間隔が2年しかないのはそのためだ。

オリンピックが終わってすぐ、またオリンピック。しかも母国での開催。準備に集中しなければならない。それでもエリトリアに行ったのは使命感にほかならなかった。

1994年2月、コスは嵐のような歓声のなかにいた。

大きなコスのお面も登場した

大きなコスのお面も登場した

登場した最初の種目5000mに世界新記録で優勝すると、続く1500m、10000mと相次いで世界記録を塗り替えて金メダルを獲得したのだ。「コス・ザ・ボス」―驚異の3冠達成に会場は総立ち、「コス」コールに沸いた。「コスの銅像を建てよう」―ノルウェー紙にはそんな記事さえ掲載された。

コスはしかし、嵐のような称賛とは別のことを考えていた。「スポーツをする楽しさも知らずに死んでいく子どもたちのために何かできるか」という思いの実践である。

偉大な頭脳とけた外れの運動能力、大きく優しい心

リレハンメル大会の開会式で「サラエボ犠牲者」への黙祷を呼びかける ファン・アントニオ・サマランチIOC会長

リレハンメル大会の開会式で「サラエボ犠牲者」への黙祷を呼びかける
ファン・アントニオ・サマランチIOC会長

リレハンメルの選手村や競技会場には募金箱が置かれた。「オリンピック・エイド」が中心となった「サラエボを救う」ための募金だ。1984年冬季大会の開催地となったサラエボはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で街が破壊され、おびただしい死者が出た。住民は困窮のどん底にあり、それでも選手団がリレハンメルにやってきた。ファン・アントニオ・サマランチ会長が開会式で「サラエボ犠牲者」への黙祷を呼びかけ、女子フィギュアスケートのカタリナ・ビットは反戦への思いを込めて『花はどこへ行った』を舞った。

コスは選手仲間に募金を呼びかけた。熱のこもった呼びかけはIOC委員や報道陣らにも広がり、多くの人たちが応えた。もちろん自身も3つの金メダルの報奨金3万3000ドル(当時のレートで約380万円)を寄付し、世界新記録を出したスケート靴を競売にかけて9万ドルを調達した。仲間たちの協力で集めた募金ももとに基金を創設。「オリンピック・エイド」の議長となり、活動の中心となった。サラエボとエリトリアの子どもたちに食料や衣料を届け、スポーツする楽しさを教え、伝染病の予防接種を施した。

コスは1994年5月、競技生活を退き、オスロ大学に復帰した。両親はともに医師という家庭に育っている。「医者になる」という夢は自然な流れ。しかし、エストリアの子どもたちは劣悪な環境のなかで困難な生活を強いられて、夢みることも忘れているのだ。彼らを支え、笑顔を取り戻すためにも医者にならなければ……との思いがあった。

「練習と学業の両立は無理だと思う。毎日8時間も練習して、勉強はできない。だったら新しい挑戦の道を選ぼうと考えた」

指導者への勧めもあったが、やんわりと断った。「コーチで指導できるのはせいぜい数人程度。オリンピック・エイドならば世界中の子どもたちに援助できる」

オスロ大学に復学したものの、周囲はしかし、コスをそっとしておいてはくれない。IOCのサマランチ会長を皮切りに国連のガリ事務総長、米国のゴア副大統領、パレスチナ解放機構のアラファト議長、イスラエルのペレス外相など世界の要人を訪ね、難民支援を訴えた。さらに2年後のアトランタ大会組織委員会にも呼びかけなければならない。この年の暮には国連児童基金(ユニセフ)スポーツ特別代表となり、米スポーツイラストレイテッド誌の「スポーツマン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。人道的な活動が評価された。同誌はコスを「偉大な頭脳とけた外れの運動能力を持つ男」そして「大きく優しい心を持つ男」と称えた。

スポーツを活用して、子どもたちの未来を

1996年アトランタ大会でも募金活動を行い、リレハンメル大会と合わせて3100万ドルを集めてサラエボとエリトリアに病院と学校を建設した。15カ国の紛争地域の子どもたち120万人と8万人の女性を対象に伝染病の予防接種を施してもいる。こうした活動は長野やシドニーなどその後のオリンピックでも続けられた。

その間、コスはオーストラリア・クィーンズランド大学に移って医学研究を続け、選手会選出のIOC委員も務めた。また、ノルウェー政府の反麻薬・ドーピングフォーラム会長としてドーピング撲滅の先頭に立った。そして活動主体を「オリンピック・エイド」を基に、2000年に創設した非政府組織(NGO)「Right to Play(RTP)」に軸足を移していく。

RTPは文字通り、「遊ぶ権利」を通して、子どもの生活スキルの向上を目指す組織である。困難な状況にある地域で教師や指導者をトレーニングし、「遊びの力を利用して、子どもたちを保護し、教育し、逆境を乗り越える力を与えることを使命としている」とホームページに記されている。

2001年3月、中部アフリカのアンゴラと西アフリカのコートジボワールの難民コミュニティでスポーツと遊びのプログラムを実施したのが、始まりだった。この年はまた、「ワクチンと予防接種のための世界同盟」(GAVI)と協力し、ガーナで「スポーツ・予防接種フェスティバル」を開催。数千人の参加者がサッカーボールを蹴ったりしながらスポーツの楽しさに親しみ、同時に2600人以上の子どもたちに予防接種を施すという世界初の試みも行った。

2002年ソルトレークシティー冬季オリンピックでは「スポーツを活用して、世界中の子どもたちの明るい未来を築く」と題したラウンドテーブルを開催。紛争地帯の子どもたちの支援を呼びかけた。

ユニセフや世界保健機関(WHO)などともに医療活動も行う。資金の6割を世界各国の政府からの支援を仰ぎ、4割は企業や個人からの寄付を求める。イベントやプログラムを毎年、拡大していくためには安定した財政基盤が欠かせない。そんなときはオリンピックで活躍したコスの顔が有利に働く。毎年50回以上地球上を飛び回り、支援を訴えた。

RTPは本拠をカナダのトロントに置く。数多くの出自を持つ人たちが住む多文化国家であり、福祉への意識も高く、国連のある米国にも近い。ドイツやノルウェー、オランダ、スイス、英国、米国にも拠点を置き、アフリカ、アジア、中東地域15カ国・地域で活動している。コスは創設者であり、長くCEOを務めた。

2004年、フォーラム参加のために日本を訪れた際、都心のホテルでお茶を飲み、話を聞いた。コスの活動に理解を示すIOC委員(現名誉委員)、猪谷千春さんの紹介だった。

「アフリカやアジア、中東には遊ぶことさえできない子どもたちがいる。すべての子どもたちには等しく遊ぶ権利があるのに、それができない子どもたちをユニセフなどと援助していくのがRTPの目的だ」

じつはこの頃からRTPはIOCなどとの活動と距離を置き始めていた。

「IOCにも途上国への支援プロジェクトがあるが、オリンピック出場をめざすエリートアスリートが対象だ。そうではない子どもたちへの支援はIOCではなく、われわれのようなNGOの草の根活動の役割だと思う」

IOCの途上国支援とは「オリンピックソリダリティ事業」にほかならない。RTPの活動はそれと一線を画した「子どもの遊ぶ権利を守る」ことが目的である。オリンピックを通じて始まったコスの活動は、さらに広がりを持つ国際的な事業となった。この頃からコスは「社会起業家」と呼ばれている。

アスリートに広がる活動の輪……

RTPは夏と冬のオリンピックで公に活動が許されていた。選手村でアスリートたちに子どもたちへの支援を呼びかけた。しかし2008年、IOCと2010年バンクーバー大会組織委員会からオリンピック関連施設での活動は禁じられた。RTPのいくつかのスポンサーのカテゴリーがバンクーバー大会の公式スポンサーと競合していたからだ。スポンサーの権利はIOCや組織委員会が擁護しなければならない約束となっている。以来、コスとRTPはオリンピックという舞台から離れていった。

しかし、その思いと活動はアスリートたちに理解され、RTPに寄付を申し出る選手も少なくない。そして、自らも慈善活動に積極的に協力、実践するアスリート、オリンピアンが増えていった。

日本サッカー協会の社会貢献活動「JFAこころのプロジェクト」で子どもたちに熱く語りかける有森裕子先生

日本サッカー協会の社会貢献活動「JFAこころのプロジェクト」で子どもたちに熱く語りかける有森裕子先生

日本では、女子の陸上選手として1928年アムステルダム大会陸上女子800m銀メダルの人見絹枝以来のメダリストとなったマラソンの有森裕子(1992年バルセロナ銀、1996年アトランタ銅)の活動がよく知られる。

1996年、カンボジアで開かれたチャリティーレース「第1回アンコールワット国際ハーフマラソン」に参加。カンボジアでの状況に心を痛めたことがきっかけだ。チャリティーを通して対人地雷の廃絶と対人地雷被害者への支援し、子どもたちの健康改善を支援するという趣旨に賛同、1998年にNPO法人「ハート・オブ・ゴールド(HG)」を創設して運営に携わってきた。対人地雷被害者への支援や子どもたちの健康改善に加え、マラソンだけではなく、サッカーやバスケットボール、バレーボールなどを現地の先生に指導し小学校の体育教育の支援も行ってきた。

有森はこうした貢献について、「マラソンを通して、カンボジアの安全性を世界にアピールすることになり、スポーツイベントの果たす社会的な役割と可能性を気づかせてくれた」と語っている。

HGは大会の運営担当者の育成も行い、2013年から運営をカンボジアに全面的に移譲を完了。世界有数なチャリティーマラソン大会に育てた。

有森自身はカンボジアで得た経験から視野を広げて、現在は特定非営利活動法人「スペシャルオリンピック日本(SON)」理事長、国連人口基金親善大使を務めている。SONは知的障害者のスポーツを通した社会参加を支援するスペシャルオリンピックの国内活動を推進する組織。知的障害のある人たちに対する社会の否定的な思いや差別などを変革する活動を続けている。

活動の推進役としての有森の姿は社会に対して大きな影響力を持っている。スポーツの持つ力といっていい。アスリートがスポーツにかけた情熱を社会貢献に注いでいく。コスや有森の活動は、新時代のアスリートのひとつのあり方を創ったといっていい。

コスは、こんな風に話していた。「スポーツには人を動かす力がある。金銭面の支援も重要だが、スポーツの力を信じて、積極的にボランティア活動に参加していくべきだと思う」

  • 佐野 慎輔 佐野 慎輔 産経新聞客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

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