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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

臼井二美男
「走りたい」の思い、支え続けて

【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】

2020.02.12

障害者スポーツの歩んできた足どりを振り返ってみると、その発展への「個人」の寄与が大きいのにあらためて驚かされる。社会全体や組織の力ではなく、一人の人間が道を開いてきた例が多いのだ。パラリンピックのルーツを築いたルードウィヒ・グットマン博士しかり、日本の障害者スポーツの魁となった中村裕博士しかり。練習場所や指導者が少ない中、独自の工夫で競技に取り組むアスリートたちも、その一人一人がゼロから独自に流れをつくってきているといえるだろう。組織としての幅広い取り組みに乏しかったこの世界では、並外れた情熱と努力による「個の力」が前進の原動力となってきたのである。

2012年ロンドンパラリンピックで佐藤(当時)真海さんと

2012年ロンドンパラリンピックで佐藤(当時)真海さんと

義足の競技における臼井二美男も、個人の力で新たな道を切り開いてきた一人だ。「義足でも走ることができる」のを、脚を切断した障害者たちに伝え、走り始めようとする人々を支えてきたのが臼井である。日本での義足のスポーツが着実に前進してきたのは、その活動があったからこそと言わねばならない。

臼井自身は競技者ではない。障害があるわけでもない。義手や義足をつくる義肢装具士である。その仕事をしながら、けがや病気で脚を切断した人々と接するうちに、「義足でも走れる」の発想を得て、実践の輪を少しずつ広げていった。競技のスペシャリストでも、医療やリハビリの専門家でもない立場で、かつて例をみなかった試みを推し進めてきたのだ。

最初はごくささやかな形で始まったが、しだいに輪は広がっていった。そこからはパラリンピック選手も次々と誕生するようになっている。臼井二美男はその価値ある活動をほぼ独力で、つまりはまさしく個の力で推進してきたのである。

鉄道弘済会の義肢装具サポートセンターに勤務し、長年にわたって義肢製作に携わってきている。1984年に28歳でこの仕事についた臼井がふと思いついたのは、義肢装具士として働き始めて何年かたったころだった。「義足だって走れるんじゃないか」とひらめいたのだ。

それまでは、義足で走るなどということはおよそ不可能だと思われていた。以前の義足は重く、耐久性にも問題があった。激しい動きで壊したりすれば、たちまち日々の生活に大きな影響が出てしまう。とりわけ、ヒザ上切断で大腿義足を使っている人にはまず無理とされていたのは、ヒザの代わりをするヒザ継手の動きが、速い動作に対応しきれないとされていたからだ。

だが、アメリカでは軽くて耐久性にすぐれたカーボン製の義足の足部がつくられるようになっていた。性能のいいヒザ継手も登場してきた。それをつけて走っている様子を撮ったビデオもあった。そこで臼井は「やってみよう」と決断する。1992年のことだ。

初めての義足ランナー・柳下さん(1992年)

初めての義足ランナー・柳下さん(1992年)

最初は、右脚をヒザ上から失っていた27歳の女性。最新の足部とヒザ継手をつけた彼女は、臼井に見守られながら、ゆっくりと、だがちゃんと走ってみせた。義足でも「走る」という行為ができる。そのことが、この試みではっきりと証明された。画期的な第一歩である。

これを受けて、臼井はセンターに来ている義足使用者に声をかけ、義足で走る活動を少しずつ広めていった。何人かが集まってからは、定期的に練習会も開くようになった。簡単なことではない。一人一人の状況に合わせ、義足の調整や走りの手ほどきを丁寧に進めていかねばならない。一人を走れるようにするだけでも、相当な手間と労力がかかる。だが、臼井はそれを苦にしなかった。走れるようになった人の喜びと感激がどれほど大きいかを知っていたからだ。

スポーツの激しい動きにも耐えうる義足ができると、活動には拍車がかかった。薄いカーボンファイバーを何枚も重ねて板にし、カギ状に湾曲させた義足は、その形から「板バネ」と呼ばれ、義足スポーツの発展を加速させた。そうした中、臼井の練習会にやって来る人数はしだいに増え、「ヘルスエンジェルス」というクラブ名もついた。走るのはけっして不可能ではない。こつこつと練習を重ねていけば、必ず風を切って走れるようになる。そんな意識が義足使用者たちの間に広まっていったのだ。

そうした活動から、競技を志す者が現れ、パラリンピックに出場するようにもなった。最初のパラリンピアンは二人。短距離の古城暁博と走り高跳びの鈴木徹が、2000年のシドニー大会に日本代表選手として出場した。最初は一人の女性の小走りから始まった活動が、ついに障害者スポーツの最高峰まで到達したのである。

以前は、「義足で走るのは不可能」「走れるわけがない」と誰もが思い込んでいた。それを、一人の義肢装具士のひらめきと、地道に積み重ねてきた努力が変えた。個の力が、義足のスポーツの道を一から開き、着実に発展させていったというわけだ。障害者スポーツ史に残る功績と言っていいだろう。

その後もパラリンピックを目指す競技者が次々に出てきた。陸上以外の競技でパラリンピアンになる者も現れた。臼井の努力のたまものである。ただ、当の本人はパラリンピック選手誕生を誇るつもりはなかった。この活動を始めたのは競技者育成のためではない。スポーツをあきらめていた義足使用者たちに、走る喜びを味わってもらうためなのだ。不安を抱きながらも、勇気を奮い起こして走りに挑戦する初心者を大事にしたい。臼井はいつもそう考えていた。

2008年北京パラリンピック、鈴木徹のハイジャンプ

2008年北京パラリンピック、鈴木徹のハイジャンプ

本業である義肢づくりと、「義足で走る」活動の推進。臼井の日々は休みなしだった。まずは朝早くから職場に入り、天職とも思う義肢製作に没頭する。スポーツ義足の関係は仕事の一部にすぎない。できるだけ多くの人たちに、それぞれの状況にぴったりと合った義足を提供していくことを、彼は何より大事にしていた。「ミニスカートがはけるように、本物の脚と見分けがつかないくらいリアルな義足をつくってほしい」という若い女性からの求めに、苦心に苦心を重ねて応じたのも、できる限り患者の願いをかなえていきたいという思いがあったからだ。

休日は「義足で走る」活動の実践にあてた。クラブの練習会を開き、大会があれば選手たちに同行して面倒をみる。そうしていれば休む間はない。だが、そんな生活を変えるつもりはなかった。義足づくりの仕事そのものが大好きで、義足の人たちが輝けるように後押しをしていくのにも大いなるやりがいを感じていたのである。走れるようになった人々の笑顔を見れば、働き通しの日々でたまった疲れもすっと消えていった。

活動の基本にあったのは、「続けていくことが大事」「無理はいけない。長続きさせるのが第一」という考え方だ。地道に練習会を続けていって、走ろうと思い立った人たちをいつでも迎え入れられるようにしておく。走り始めた人にはけっして無理をさせず、少しずつ上達していけるようにする。臼井は継続を第一に考えていた。そのための手間はけっして惜しむまいと彼は決意していた。

練習会にやって来る義足使用者の多くは、なんらかの悩みを抱えていた。脚を失うとはそういうことなのだ。治療を終え、義足をつけて職場や学校に戻っても、どこかに深い傷跡が消えずに残っている。表面は元に戻ったように見えても、内面は癒えていないのだ。その悩みをなんとか振り切ろうとして走り始める人も少なくないのである。そして、走ることには、そうした傷を癒す効果があると臼井は確信していた。

いずれにしろ、走り始めれば何かが始まる。いままでにない新たな世界が目の前に開けていく。走り始めれば、それだけで人生の幅が広がっていくのだ。どうあっても元には戻れないと打ちのめされ、悩み続けていた日々に、新しい窓が開くのだ。となれば、この活動をやめるわけにはいかない。多くの悩める人々のために、走る場を提供し、走るための手助けを続けていかなければならない。その思いが、休みなしに働き続ける臼井のエネルギー源だった。

職場の臼井氏(2008年)

職場の臼井氏(2008年)

「義足で走る」活動はしだいに規模を拡大していった。臼井のもとからは次々とパラリンピアンが生まれ、臼井自身もメカニックとしてパラリンピックの日本選手団に毎回加わってきた。義足スポーツの道を開いた臼井二美男の名は、障害者スポーツの枠を超えて知られるようになってきている。だが、本人には、自分を目立たせようという気はまったくない。これだけのことをなし遂げてきたことを、ことさらに誇る様子もない。彼はまったく変わらず、縁の下の力持ちに徹している。

空前のスポーツ・ブームの時代である。オリンピックやプロスポーツの人気競技ともなれば、選手だけでなく、指導者やスタッフ、家族に至るまでスター扱いされるようにもなっている。競技にかかわる者すべてが、自分の存在をアピールしようとしているようにも見えるのが最近の風潮ではないか。

臼井の姿勢はその正反対だ。その名を知られるようになっても、自分からはいっさい目立とうとしない。裏方に、支える側に徹しようとしている。飄々と、だが、うちに熱い情熱を秘めて、勇気を奮い起こして走り出そうとしている義足の人々を支えることにすべての力をそそごうとしている。

「できれば風みたいに、いるのかいないのかわからないような存在に」。臼井はそう考えている。選手たちの背中をそっと押して手助けする風のようになれれば、それでいい。臼井二美男とはそういう人物である。

既に60代。東京パラリンピックの開かれる2020年には65歳になる。だが、朝から晩まで義足づくりに没頭し、使用者のためにはいかなる手間も惜しまない毎日も、週末には練習会や試合に行って休みなしに活動を続けていくことも、まったく変わっていない。義足使用者たちに尽くし、走ろうとする人々を後押しし、高いレベルで活躍する競技者を支えるために、エネルギッシュに動き続ける日々である。「義足を使いこなせば人生は変わる」の確信が、この義肢装具士を駆り立てている。

「ヘルスエンジェルス」は2017年、「スタートラインTOKYO」に名称変更した。初心を忘れず、そして常に先を目指していく姿勢も崩さない。新しいクラブ名には、そんな思いが込められているようだ。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐藤 次郎 スポーツジャーナリスト

    1950年横浜生まれ。中日新聞社に入社し、同東京本社(東京新聞)の社会部、特別報道部をへて運動部勤務。夏冬6 回のオリンピック、5 回の世界陸上選手権大会を現地取材。運動部長、編集委員兼論説委員を歴任。退社後はスポーツライター、ジャーナリストとして活動。日本オリンピック・アカデミー(JOA)正会員。ミズノ・スポーツライター賞、JRA馬事文化賞を受賞。著書に「東京五輪1964」(文春新書)「砂の王 メイセイオペラ」(新潮社)「義足ランナー 義肢装具士の奇跡の挑戦」(東京書籍)「オリンピックの輝き ここにしかない物語」(東京書籍)「1964年の東京パラリンピック」(紀伊国屋書店出版部)など。