Search
国際情報
International information

「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

知る学ぶ
Knowledge

日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」

「異形の」オリンピック、歴史の評価は?
 ――深まる危機、改革につなげたい

【2020年東京オリンピック・パラリンピック】

2022.01.18

 20202021)東京大会は、オリンピック史の中で長く語り継がれるものになるだろう。それも、なんとも複雑な思いとともに語られるに違いない。新聞に大見出しが躍ったように、それがかつてない「異形の」オリンピックだったからだ。

 全世界を覆った新型コロナウイルスの急速な感染拡大は、かつて出合ったことのない深刻な災厄だった。そのパンデミックのただ中で、世界中から何万人もが一都市に集まる大イベントを開くことにはそもそも無理があった。当初は「そんなこと、あり得ない」といわれた史上初の大会延期がいとも簡単に決まったのは、その「無理」があまりにも大きく、他に選択肢がなかったからだ。

 そうした中、一年の延期だけで、あとは予定通りに開催しようとすれば、どうなるか。国内だけでなく、世界中から疑問の声、開催反対の論がわき起こったのは当然だろう。無理に無理を重ねるのは誰の目にも明らかなのである。にもかかわらず、「なぜこの時期に」という疑問に答えないまま開催を強行しようとすれば、強い反発が生まれるのは当然だ。少なくとも、政府や東京都、IOCといった開催主体の中枢は、この強行開催について、多くの人を納得させるだけの大義も理念も示せなかったと言っておかねばならない。

 結局、開幕直前にあわただしく「無観客」を決めて大会は開かれた。観客なしとは、オリンピックの精神からすればあってはならない措置だったが、そうでもしなければこの大会は開けなかったのである。

無観客で行われた野球オープニングラウンド、ドミニカ共和国vs日本(福島あづま球場)

無観客で行われた野球オープニングラウンド、ドミニカ共和国vs日本(福島あづま球場)

 結果として、17日間の会期は全うされた。予選中止で参加できなかった選手も少なくなかったが、ともあれ205ヵ国・地域と難民選手団の1万1千選手が出場し、32競技が行われるという大会とはなった。関係者の来日による感染拡大も最小限のレベルに抑えられた。これらをもって「成功」と評価する見方もあるようだ。

 だが、もちろんそうは言えない。これまではオリンピックを待ちかねていたファンの間で聞かれたのは、「今回はテレビを見る気がしない」「あまり楽しめない」――といった声だった。白熱の競技をテレビ観戦していても、これまでのように心から楽しめないと感じていた人々も少なくなかったのではないか。すなわち、オリンピック大会と、草の根でオリンピックを支えてきたファンの間に、かつてない溝が生まれたのが今回の大会だったのだ。

 無理を重ね、国民・都民に「なぜ開くのか」の明快な説明や語りかけもないまま開いた大会は、オリンピックそのものへの疑問や不信や反感を生み、深い傷を残した。開催の是非が論じられる中でしばしば聞かれた「オリンピックはなんのために開くのか」「オリンピックは本当に必要なのか」という声に象徴される疑問であり、不信である。そこから「しょせんカネのためのイベント」などという批判が噴出し、果ては「オリンピックなんかいらない」という嫌悪感まで生まれた。これまでは、一部に反対論があっても、おおむね歓迎を受けていたオリンピック。それがなんと「歓迎されざる」存在になったのが今回だった。受けた傷はそれだけ大きく、深かったと言わねばならない。

 いつもと同じ規模を保ち、大きなトラブルなしに会期を全うしても、各競技で熱戦が繰り広げられて感動を呼んだとしても、この大会を「やってよかった」「成功した」と評価できないのはそれゆえだ。今大会は「地元でこぞって歓迎されない」「あまり愛されもしない」という、かつてないオリンピックになってしまった。それが今後に暗い影を落とすのは間違いない。

 もともと、近年のオリンピックは深刻な危機に陥っていた。開催希望都市の激減である。その原因は主として開催経費の高騰だ。立候補都市の住民が到底受け入れられないほど経費が膨らんだのである。

 そこに今回は、新たに生まれた疑問や不信が加わり、「歓迎されざるオリンピック」の流れがますます強まった。危機の上に、もうひとつ危機が重なったのだ。だからこそ、コロナ禍のもとでの強行開催は避けるべきだった。それが強い不信や反発を生み、オリンピックの危機をさらに深めるのは明らかだったからである。

 ひとつの対応としては再延期があった。あと1年などという弥縫(びほう)策でなく、4年延期、すなわち夏季大会を一回飛ばして順送りにするという方策である。何より大事なのは、世界共通の宝であるオリンピックの輝きを保つことなのだ。ならば、大会を一回飛ばしても、オリンピックが深く傷つくような事態は避けた方がよかった。再延期などできるわけがないと決めつけず、早めに決断して粘り強く交渉していけば、十分に実現可能だったのではないか。

 ただし、パンデミックのもとでも開催すべきだという主張が一方にあったのは間違いない。その主張に沿った形で大会が開かれ、会期が全うされたのは先に触れた通りだ。では、多くの反対や疑問がありながら、しかも無観客にまでして、あえて開催した意義は、どこに見いだせるだろうか。

 ここを目指してきた選手のためにも開くべきだとの声は多かった。だが、それは強行開催を正当化する理由にはなり得ない。オリンピックは選手だけのものではなく、さまざまな形で大会を支える多くの人々、たとえば世界各国のファンのものでもあるからだ。

 東京大会開催が残した意義はといえば、やはり「継続」ということになるだろう。世界大戦というやむを得ない状況を除けば、途切れることなく開かれてきたオリンピック大会。今回も、1年延期とはなりながらも、このかけがえのない祭典を継続して開くという形はかろうじて保たれた。到底無理だと多くの人々が考える状況でも、あえて大会を開いたことは、それなりのインパクトを世界に与えたと言っていい。パンデミックという未曽有の事態のもとでも開いたという事実は、オリンピックという存在が唯一無二であることをあらためて世界に示したといえる。かつてない傷あとを残し、危機をさらに深めたこと。それでもなお、途切れずに開かれたこと――。双方がどのようにオリンピックの今後に影響していくかは、いずれ歴史が語るだろう。

 

 いずれにしろ、大会は開かれ、幕を閉じた。開催の是非や強行開催が残した傷について検証が不可欠なのはもちろんだ。ただ、大事なことはもうひとつある。この機会に、オリンピックの今後のあり方を徹底的に考え、必要な改革を実現するための方策を探って、その具体的なプランを広く示すことである。

 東京大会は、そのための絶好のチャンスを残した。激しい論議を呼んだ強行開催が、多くの人々の目を向けさせる役割を果たしたからだ。オリンピックの抜本的改革に踏み出す好機を逃してはならない。

 有力都市が次々に開催に背を向けていく非常事態を食い止め、多くの人々が抱いた不信や反発を和らげて、二乗の危機を脱するためにはどうすればいいのか。まず考えるべきは、「カネのかからないオリンピック」をいかに実現するか、その形をいかに具体的に示すか、だろう。

 たとえば開閉会式である。その費用は、全体からすればさほどの割合を占めてはいないが、「カネをかけない」シンボルとしてこれ以上のものはない。ショーはすべて廃して、ごくシンプルなものとすればどうか。そして、その姿勢を大会全体で貫くようにしたらどうか。もちろん、豪華な競技場の新設などは不要だ。

 と、こう書くのは簡単だが、実行は至難の業と言わねばならない。多くのステークホルダーを抱え、さまざまなビジネスの舞台となっている巨大イベントである。方向性を大きく変えるのがきわめて困難なのは明らかだ。本来の理念と、発展を支えてきたビジネスとのバランスをどうとるのか。関係者すべてが納得するような形を見つけ出せるのか。改革の道はひどく険しい。

シンプルな開会式は可能か?

シンプルな開会式は可能か?

とはいえ、やるしかない。危機の深さは再三指摘している通りだ。それに真っ向から立ち向かわない限り、オリンピックは衰退の道を歩む。改革に踏み切らなければ、輝きは取り戻せない。

 頭に置いておきたいのは、「変革は不可能ではない」という確信だ。「あり得ない」といわれた大会延期や無観客も実現したではないか。オリンピック改革にはタブーや不可侵の聖域などない。

 では、その根本的な改革は、誰に委ねればいいのだろうか。

 本来はIOCが担うべき責務だが、ここはまったく新しい枠組みを考えるべきではないか。既存の大組織や権威に頼るのではなく、多くの人々の考えや意見を幅広く結集する形が望ましいように思う。利害がからむ当事者に任すのは好ましくない。公平中立な立場から冷静にものごとを判断していかなければ、抜本的改革など到底なし得ないからだ。

 オリンピックを真に愛する人々、たとえば識者やジャーナリスト、現状を憂えるスポーツ人、さらにはファン代表などの英知を結集し、論議や検討を深めていく枠組みができないものだろうか。もし、それが各国にできて、ひとつにまとめることができたら、これからのオリンピックのあるべき姿を的確に、明快に指し示す改革プランができるに違いない。

 夢物語に過ぎないという見方もあるだろう。が、そもそもオリンピックは世界共通の宝であり、ファンも含めたみんなのものではないか。ならば、その方向性や将来像も、幅広く、みんなで考えるべきではないか。

 それらのアイディアをわずかでも形にして、画期的な改革の糸口としたい。そうなれば、東京2020という異形の大会は、理想のオリンピックへと一歩踏み出した、記念すべき節目として記憶されることになる。

関連記事

スポーツ歴史の検証
  • 佐藤 次郎 スポーツジャーナリスト

    1950年横浜生まれ。中日新聞社に入社し、同東京本社(東京新聞)の社会部、特別報道部をへて運動部勤務。夏冬6 回のオリンピック、5 回の世界陸上選手権大会を現地取材。運動部長、編集委員兼論説委員を歴任。退社後はスポーツライター、ジャーナリストとして活動。日本オリンピック・アカデミー(JOA)正会員。ミズノ・スポーツライター賞、JRA馬事文化賞を受賞。著書に「東京五輪1964」(文春新書)「砂の王 メイセイオペラ」(新潮社)「義足ランナー 義肢装具士の奇跡の挑戦」(東京書籍)「オリンピックの輝き ここにしかない物語」(東京書籍)「1964年の東京パラリンピック」(紀伊国屋書店出版部)など。