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地道な歩み、史上初の女子2冠…──競泳女子・大橋悠依

【2020年東京オリンピック・パラリンピック】

2022.08.30

 実力は確かだったが、これほどの活躍を誰が予想しただろうか。東京オリンピックで競泳女子の大橋悠依(イトマン東進)は、女子個人メドレーで2冠に輝いた。夏季オリンピックの日本女子史上、初の快挙だ。大会直前には大不振に陥っていたにもかかわらず、華々しい結果を残せたのはなぜか。「自分らしさを出せた」という戦いぶりの裏には、緻密で周到な準備や、長年の歩みがある。

女子400m 個人メドレー 大橋のラストスパート

女子400m 個人メドレー 大橋のラストスパート

的確な戦術

 1個目の金メダルは、2021725日に決勝が実施された400m個人メドレーだった。大橋の作戦は明確だった。「最後の自由形に入ってすぐ、300m350mで勝負を決める」というものだった。

 ライバルとして照準を定めたのは、米国のエマ・ウェイアントとハリ・フリッキンガーだった。これまでの実績や、前夜の予選の泳ぎから、自由形のラストスパートで追い上げてくると想定。自由形に入って追い上げられる展開になると、相手は元気になり、逆転のムードが高まるため、このポイントを最大の警戒点とした。相手のレース展開に持ち込ませないため、大橋は自由形に入ってすぐにギアを上げて突き放す戦術を定め、レースに挑んでいた。

 平泳ぎを終えた300mのターン。大橋は2位のウェイアントと199差のトップで通過した。リードを維持するだけでもいい状況だが、大橋はターン直後から力強いキックを打ち、引き離しにかかった。食い下がる相手を寄せ付けず、350mの通過で、リードを206と、わずかながら広げた。これで精神的に優位に立った大橋は、最後の50mこそ差を縮められたものの、悠々と逃げ切った。「落ち着いて自分のレースができた」というように、盤石のレース運びだった。

女子200m 個人メドレーで2個目の金メダルを喜ぶ

女子200m 個人メドレーで2個目の金メダルを喜ぶ

 同28日の200m個人メドレーも、同じく自由形勝負とにらんだ。400mよりも混戦になることを見込んだ大橋は、朝のウオーミングアップで、その対策に力を入れていた。ラスト15mでかわしてゴールするイメージを繰り返し練習し、息継ぎをせずに突っ込む最後の泳ぎ方や、タッチのタイミングを入念に確認したという。イメージをしっかり頭に刻み、決勝に挑んだ。

 レースは、まさに想定通りの展開になった。150mの通過は、アレックス・ウオルシュ(米国)と007差の2番手。ここから、どちらが前に出るか分からない大接戦に。大橋は、ウオーミングアップでのイメージ通り、残り15mから顔を上げないままゴールに向かって突っ込んだ。残り3m、水面下でちらりと隣のウォルシュを目に入れた大橋は「勝ったかな」。ぐっと腕を伸ばして練習通りにタッチを合わせ、013差で競り勝った。

 2種目とも、北島康介らを育てた名将、平井伯昌コーチとともに考えた作戦が、見事にはまった。共通しているのは、自身の優位性を最大限生かし切ったことと、的確な事前の分析があったことだ。

 大橋の泳ぎ方は、ストローク数が少なく極端にゆっくりとした動作だ。400m個人メドレーでは、力みの抜けた泳ぎで予選3番手通過だった大橋に対し、平井コーチが「周りはお前に一番びびっているぞ」と告げた。ライバルたちの目線で考えると、力を入れているのか、入れていないのかが分かりづらく、決勝でどの程度タイムを上げるか読めない。予選である程度、最後まで力を出し切ったように映った米国勢より、肉体的にも精神的にも余裕があるとの判断から、先述したようなレースプランが編み出された。

女子200m 個人メドレー表彰式の後、平井コーチ(監督)とともに

女子200m 個人メドレー表彰式の後、平井コーチ(監督)とともに

 200m個人メドレーでは、既に金メダル一つを手にした心の余裕が大きかった。決勝の招集所に向かう直前の、大橋と平井コーチのやりとりが興味深い。

 大橋「米国の2人は、きっとメダルを取りたいから緊張してますよね。たぶん、最後は力むんじゃないかと思います」

 平井コーチ「そうだ。おまえが一番、余裕があるんだぞ」

 落ち着いてレースに挑んだ大橋は、前半を「大きく遅れなければいい」と無理することなく、滑らかに泳いだ。だから、最終盤の激戦でも「気持ちに余裕があった。体の硬さは誰よりも少なかったと思う」と、心身ともに余力があった。

 そして何より、頂点を争うであろう相手をきっちり見極めていたことが光る。近年、個人メドレー2種目で圧倒的な強さを誇っていたのはリオデジャネイロ・オリンピック3冠のカティンカ・ホッスー(ハンガリー)だった。しかし平井コーチは、東京オリンピックシーズンの戦績や、予選の泳ぎを見て「ホッスーは来ないと思って、(ターゲットから)外した」と明かす。他にも中国やカナダの実力者も決勝に残っていたが、2種目とも、米国勢が最大の強敵になるとターゲットを絞った。この読みが当たっていたからこそ、レースプランが生きた。

 両種目とも自身の日本記録には届かなかったように、大橋も決して万全に仕上げられていたわけではなかった。泳ぎの部分に関しては、大会直前になかなか好タイムが出ないなど調子を落としていた。精神的なダメージも大きく、7月上旬には、長野県で高地合宿をしていた大橋が「東京に帰りたい」と、合宿中断を平井コーチに直訴したほどだった。それでも粘り強く話し合いを重ね、何とか持ちこたえた。大会前の練習で勝因があったとすれば、選手村に入る前後から「とにかく自分の気持ちいい泳ぎを」と、今できる最大限のパフォーマンスを発揮することに集中したことだろう。

 オリンピック直前はどの選手も緊張感が高まり、デリケートになる。「繊細でネガティブ」と自認する大橋はなおさらだった。最終的には相手を分析したり、レースプランを考えたりすることも必要だが、まずは自身の泳ぎを出し切ることに専念した。メンタル面に不安のあった大橋だからこそなおさら、自身の長所を大切にしながら仕上げたことが、快挙の一因になったと言える。

地道で堅実な歩み

 自身や相手の状態を冷静に見極め、地に足の付いた戦いぶりを見せた大橋だが、一朝一夕にできるようになったものではない。もともと、決して精神的にタフなタイプではないが、直面した課題にこつこつと向き合い続けてきたことで、大舞台での爆発につながった。

 まず一つは、「失敗を繰り返さない」と心がけていること。きっかけは、一躍ヒロインになった2017年の世界選手権だった。大会序盤に200m個人メドレーで銀メダルを獲得したが、「気が抜けてしまった」と、最後の400m個人メドレーは4位に終わった。競泳競技で1週間を超える大会期間中、いかに集中力を維持するかとの反省が残った。

 東京オリンピックでは、400m個人メドレーで金メダルを獲得しても「実感がない」と浮かれる様子はなく、すぐに200m個人メドレーへ気持ちを切り替えていた。これは、意識的に取り組んだ結果だ。オリンピックの戦いを終えた記者会見で、大橋はこう語っている。「(400m個人メドレーの直後に)金メダルの実感がないと言ってきたが、無理やり実感しないようにしていた部分もある」。歓喜に浸りたい状況だっただろうが、自身の感情をうまくコントロールしたことで気持ちを切らさず、二つ目の金メダルが生まれた。

 また、大橋は「神経質なくらい、ものすごくいろいろなことを考える」という選手だ。これは長所でもあるが、時に短所にもなる。考え込みすぎて精神的に落ち込むことも多かったが、その経験から「自分で不安なことをつくり出さない」ことを意識しているという。マイナスに考え始めればきりがないが、東京オリンピックでは自身の強みに目を向け続けることができたのも勝因だろう。

 そして最後に大橋が挙げたのは「普通の学生生活を送ってきたこと」だという。滋賀・草津東高から東洋大に進んだ大橋は、大学時代に学業も手を抜くことなくこなしてきた。競技と学業を大学生活の中心に据え、2017年に世界選手権メダリストとなった後も、競技者として取り上げられる媒体以外への露出は控えめだった。

 東京オリンピック・パラリンピックの開催決定もあり、近年はアスリートのバラエティー出演や、SNSでの発信が以前に比べて目立つようになっている。こうした活動に加え、所属先やスポンサーからの収入、大会での獲得賞金など、選手の懐事情も大きく変化してきている。芸能事務所がスポーツ選手のマネジメントを担うケースも増えてきた。

 もちろん、アスリートやスポーツの価値向上のためには大切なことであり、競技普及につながる側面もある。血のにじむ努力をした選手が、相応の対価を得ることも否定しない。むしろ、まだまだオリンピック・パラリンピック競技の選手たちの収入は、プロスポーツに比べて多いとは言えない状況にある。華々しい振る舞いは、ときに子どもたちの憧れになり、競技の発展の礎になるという部分もある。

 しかし一方で、選手の本分は何か、と感じさせられる場面、事象が増えているのも現実だ。競技者として結果を残すことに加え、さらにその先、どのように社会に貢献するか、どのようなメッセージを社会に発信するか。東京オリンピック・パラリンピックバブルも永遠に続くことはなく、今後スポーツ界が厳しい状況に置かれかねない今こそ、選手、競技に携わる関係者は足もとを見つめ直すべきだろう。

 その点において、大橋は地道で堅実だった。「高校、大学と普通に学校に行きながら水泳をやって、社会人になってこういう結果を出せた。若い時から活躍する選手は学校にあまり行けない人もいるかもしれないが、私はいろいろ学びながら歩んできた。そういう方法、道もあるんだということは伝えたい」。必ずしもこの言葉が全てではなく、さまざまな道があっていいとは思う。しかし、着実に歩んできた末に、25歳にして偉業を成し遂げた大橋の言葉は、示唆に富むものがあった。

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スポーツ歴史の検証
  • 菊浦 佑介 1983年、鹿児島県生まれ。2006年、共同通信社に入社。福岡支社運動部、大阪支社社会部を経て、10年から東京本社運動部で五輪担当。東京五輪開催決定後は大会準備、運営面に関して政府、組織委などを取材。競技は水泳、スピードスケートを中心にカバー。夏季五輪は12年ロンドン大会から、冬季五輪は14年ソチ大会からいずれも3大会連続で取材。現在は五輪やスポーツ関連の施策、札幌五輪招致などを担当。