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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

【東京デフリンピック】明日から私たちができること「違いは素敵。違いから生まれる配慮と理解のある社会に」応援アンバサダー・川俣 郁美

 2025年11月15日から開催されている、耳が聞こえない・聞こえにくいアスリートのための国際スポーツ大会「東京デフリンピック大会」。4年に1度開催されるデフリンピックは、日本初開催となり、陸上や水泳、バドミントンやバスケットボールなどオリンピックでもおなじみの競技のほか、ボウリングやオリエンテーリングなどが実施されます。日本選手団は、過去最多の273名(男性160名、女子113名)が全21競技に参加します。

 デフ(deaf)とは、英語で「耳が聞こえない・聞こえにくい」という意味です。出場資格は、補聴器などを外した状態で聞こえる音が55dB(デシベル)以上、また各国の「ろう者スポーツ協会」に登録されており、国内の出場基準を満たしたアスリートが出場します。

 ※dBは、音の大きさを表し、数字が大きいほど音が大きい。55dBは、日常の会話の声や車の走音が聞こえない程度。

 基本的にはオリンピック競技と同じルールとなりますが、耳の聞こえないアスリートのために、様々な工夫がされています。陸上競技や水泳などのスタートはランプの光(フラッシュランプ)、反則もランプで知らせる競技も多くあります。例えばサッカーでは、審判の笛以外に、旗や手をあげるなどして選手に合図をします。「目」で状況を瞬時に判断しプレーを行うのが、デフリンピックの特徴と言えます。また、試合中は補聴器を外してプレーしなければなりません。

 日本財団職員の川俣さんは、2023年に東京2025デフリンピック応援アンバサダーに就任しました。東京デフリンピックの認知度や関心を高めていくことはもちろん、デフリンピック終了後、障害の有無にかかわらず、多様な人がお互いに尊重し支えあい、そして社会参加できる共生社会の実現を目指しています。(聞き手:笹川スポーツ財団 広報 清水健太)

川俣 郁美(かわまた いくみ)日本財団職員、東京2025デフリンピック応援アンバサダー

川俣 郁美(かわまた いくみ)日本財団職員、東京2025デフリンピック応援アンバサダー

目次

【東京デフリンピック】明日から私たちができること「違いは素敵。違いから生まれる配慮と理解のある社会に」応援アンバサダー・川俣 郁美

「自分は聞こえないからダメなんだ」苦悩を抱えた学生時代。なぜ変化できたのか?

留学という人生のターニングポイント

川俣さんとデフリンピック

東京デフリンピックが紡ぐ共生社会「違いは素敵」

 

「自分は聞こえないからダメなんだ」苦悩を抱えた学生時代。なぜ変化できたのか?

―― 地元の幼稚園と小学校に通われましたが、耳が聞こえないことを自覚したのはいつ頃ですか?

3歳のときに、おたふくかぜと水疱瘡にかかり高熱が続いた後、耳が聞こえていないことが分かりました。幼稚園のお遊戯会で、みんなが逃げるシーンがあって一斉に動き出すけど、私だけタイミングが遅れてしまったんです。今振り返ると、みんなを真似して動いていましたが、理解はしていなかったのだと思います。小学校では3年生から補聴器を使うようになりましたが、違和感がありましたね。小学校から高校2年生くらいまで、私の席は"教卓の前"と決まっていました(笑)先生の口の動きを理解するためです。先生も板書する際には口が見えなくなるのでなるべく書き終わってから話してくれる、分からないところは友人に聞くなどして授業を受けていました。自分がろう者であることに気付き始めたのは、小学校の音楽の授業、歌うことがきっかけです。高学年くらいでしょうか。私が歌うと周りが自分を見るのです。なぜ?と思いましたが、音程がずれていると指摘されました。そのとき初めて声に音程があることを知り、自分では普通に話していると思っていましたが、人とは違うということに気付きました。

小学校の運動会(写真;本人提供)

小学校の運動会(写真;本人提供)

―― 中学校になるとどのような変化がありましたか?

思春期、中学校になると苦しさが増しました。仲の良いグループでの会話では、みんなが同時に話すとついていけません。みんなが笑っていても自分は分からない。自分への自信が無くなっていった、自分はダメなんだ、そう思うようになりました。

―― 中高時代、耳が聞こえないことの悩み・葛藤が大きくなった?

はい。中高時代は本当に自分に自信が無く、自分が嫌いだった時期です。友人は私がろう者であることは理解していました。ただ、私自身、補聴器が恥ずかしくて、髪の毛で耳を隠していました。手話もできますが、拒んでいました。ろう者同士でも手話ではなく口話でコミュニケーションをとりました。聞こえているふり、をしていたのです。私の祖父母もろう者です。自宅から近くに住んでいたので、よく祖父母宅に遊びに行っていました。行くと落ち着く、心のオアシスのような場所で祖父母が大好きでした。それでも、聞こえたほうが良い・話せた方が良いという思い込みや、私自身少しだけ話せるという理由で、私は祖父母を見下していた自分がいました。そうすることで自尊心を保っていたように思いますが、中高時代は自分がろう者であることへの悩み・葛藤がとても大きくなっていきました。

中学校の卒業式(写真;本人提供)

中学校の卒業式(写真;本人提供)

留学という人生のターニングポイント

―― どのようにして悩みや葛藤は乗り越えたのですか?

一番の理由は留学です。高校2年生くらいのときに、国際協力、教育という分野に興味を持ち、海外で働くには英語やフランス語が必須ですので、留学を決意しました。先生には反対されましたが、「ご両親が認めてくれれば良いのではないか」と。両親に話してみると「いいんじゃない」とあっさり。ただ、条件として「必要な申請・手続きは自分でやること」と言われたので、必死に自分でいろいろ調べて頑張りました。まずは自費で留学したのですが、その後、日本財団聴覚障害者海外留学奨学金に申請をして5期生として留学が叶いました。留学先のギャロデット大学は、生徒の約9割がろう者で、教員、職員のほぼ全員が手話を使えます。警備員も手話ができる環境でした。このような環境ですと、例えば先生や友人が何気なく発した言葉や独り言も理解することができ、幅広い情報が入ってきます。何より、授業などで議論ができる、というのはこれまでにない経験でした。学ぶことの楽しさとともにろう者のアイデンティティも芽生え、気づいたら自然に補聴器を使用しなくなりました。

―― 留学のきっかけは?

高校2年生くらいから、勉強に遅れをとるようになりました。そうすると、やはり少しずつ学校が嫌いになり…。当然、進路や将来について悩みます。そんなとき、偶然テレビのドキュメンタリー番組をみました。ガーナのカカオ農園で暮らす兄弟についての話なのですが、父がいなく母が病気で生活保護制度もない ため、小学生の兄弟が働いて生活費、治療費を稼いていました。学校で学ぶべき子どもが働かなくては生活できない現実は、学校に行く意味を失いかけていた自分の心を動かす出来事でした。また、学校は学問だけでなく、社会性やコミュニケーションなど人間的成長を身に着けられる、教育の大切さに気付かされました。そして、世界には学校に行きたくてもいけない子どもがいる、そのような環境にも耳が聞こえない子どもたちが困っている、そう思い、国際開発、教育に大きな関心を持つに至りました。

ギャロデット大学(学士)卒業式。両親とろうの祖父母(写真:本人提供)

ギャロデット大学(学士)卒業式。両親とろうの祖父母(写真:本人提供)

川俣さんとデフリンピック

―― 東京2025デフリンピック応援アンバサダー就任のきっかけは?

ろう当事者ということでお声がかかりました。現在、ろう学校に通う子どもたちは減少しています。子どもたちの多くは私と同様、地域の学校に通います。そうすると、普段の生活で同じ障害を持つ大人たちと出会う機会が少なくなります。デフリンピックという社会的注目が高いイベントを通して、ろう者であっても頑張る大人を目にできますし、障害があっても活躍できる共生の社会を発信し、子どもたちの明るい未来の選択肢を増やせる、そのように考えました。大変な重責ですので、悩みました。しかし、家族や友人、職場 に何度も相談し、私の経験も含めて貢献できるのであればということで、僭越ながらお引き受けました。

―― 川俣さんが考えるデフリンピックの観戦の楽しさやポイントはありますか?

音に頼らずにみんな対等に勝負をすること、その中で、音を可視化・視覚化しているところはデフスポーツの特徴と言えると思います。プラス、音が聞こえない状態でデフアスリートが積み重ねてきた戦術です。特に「情報の取り方」です。多くの競技でスタートや販促はランプで合図をしますが、勝負の世界で、音に頼らない代わりに相手を倒す上でどこから情報を得ているのか。バドミントンや卓球では、相手の目や表情を追って次のプレーを察知する、自転車競技では腕の間から後ろの選手の位置が把握する、など小さな工夫をしながらプレーしていると聞きます。

中野区立桃花小学校デフリンピック出前授業 集合写真(© 東京都)

中野区立桃花小学校デフリンピック出前授業 集合写真(© 東京都)

東京デフリンピックが紡ぐ共生社会「違いは素敵」

―― 東京デフリンピック後、デフスポーツや社会がどのように変わることを望みますか?

大会に出場する際の"配慮"が変われば良いなと思います。デフスポーツもオリンピックも競技ルールは同じです。ろう者も聴者の大会に参加することが可能ですが、例えば、聴者の大会でランプによる合図などの配慮があれば、障害の有無にかかわらずスポーツを楽しめる社会ができるはずです。テレビなどでのスポーツ観戦では、字幕のみならず手話解説や実況などもあるととても助かります。東京デフリンピックをきっかけに、スポーツだけでなく、日常生活でもろう者に対する配慮が増えることを社会全体で気付き変わっていくことを望みます。

―― 共生社会の実現に向けて私たちに何ができますか?

かわいそうと思わないでほしいですし、ろう者だからできないと決めつけないでほしいです。私は大人になってから病院に行くと「ご両親は一緒ですか?」と言われることが多々ありました。日常生活では、駅のホームで「すみません」と声をかけられた経験がありますが、聞こえないことが分かると、「すみません」と言って去ってしまう。つまり、ろう者は、何かを訪ねたり話を聞く対象外となっているのです。人として対等に見られていないというか…声をかけられれば、筆記やスマートフォンのアプリを使って、何か小さな困りごとを解決することができるかもしれません。これまでの生活でろう者とあまり接点がないのでどう接すればいいのかわからないという方も多いかもしれませんが、東京デフリンピックを機に、聞こえない・聞こえにくい人がいるということ、手話や筆談、音声認識アプリ、ジェスチャーなどでコミュニケーションをとることができることを知ってほしいです。手話以外もコミュニケーション手段はあります。一方で、ろう者自身も自身が必要とする対応を伝えていくことも大切だと考えています。お互いを理解すること意識が広がることで、共生社会に近づくのではないでしょうか。

―― 川俣さんのご経験から子どもたちに伝えられることは?

"違いは素敵"ということです。今、聞こえない・聞こえにくい子どもたちは、音が聞こえないことで、必ず日常生活で不便なことを経験しているはずです。私も学生時代は本当に悩みました。でも、いろいろな人と出会って思ったことは、「聞こえないからこそ、気づける視点、できる経験がある」ということです。東京デフリンピックを観て、アスリートの音が聞こえないからこその工夫は、日常生活で役立つことも出てくるかもしれません。何より、音が聞こえないという違いがあるからこそ、聞こえる聞こえない、障害の有無に関係なく、お互いの配慮が生まれ優しさのある行動につながる。困っていることを一緒に気付き、一緒に解決していける社会になるはずです。

川俣 郁美さん

 

川俣 郁美(かわまた いくみ)

栃木県出身。公益財団法人日本財団職員。3歳の時に高熱でろうに。幼小中高と宇都宮市で過ごす。大学は米国のギャロデット大学に留学し、ソーシャルワーク学部を卒業。同大学院行政・国際開発専攻修士課程、修了。帰国後、日本財団に入職し、アジアのろう者支援事業のコーディネート等の業務に従事。2023年、東京2025デフリンピック応援アンバサダーに就任し、イベントへの出席やSNS、メディア等を通じて、デフリンピックのPR活動を行う。