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セミナー「子供のスポーツ」

スピードスケート全種目制覇─エリック・ハイデン

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2023.12.21

 2022年北京冬季オリンピックのスピードスケートで女子の高木美帆が金1、銀3のメダル合計4個を獲得したのは記憶に新しい。瞬発力がものをいう500mから持久力が必要な団体追い抜きまで、幅広い種目で好成績を収め、万能スケーターぶりを発揮した。でも高木の活躍の42年前、それを大きく上回る快挙を成し遂げた選手がいた。1980年レークプラシッド冬季オリンピックの男子5種目すべてで金メダルに輝いたエリック・ハイデン(米国)だ。

 当時、団体追い抜きはまだ採用されておらず、男子で実施されたのは500m1000m1500m5000m10000m5種目。全レースでオリンピック新記録をたたき出し、10000mでは世界新記録のおまけまでつく圧倒的な強さだった。スピードスケート史上、オリンピックの全種目制覇は1964年インスブルック大会で女子4種目を制したリディア・スコブリコーワ(ソ連=当時)とハイデンの2人しかいない。近年は種目ごとに専門化が進んでおり、ハイデンを超える選手は将来も現れないだろうといわれている。

 1958年614日、ウィスコンシン州マディソンで誕生。同州はカナダと国境を接し、冬は最高気温が氷点下という日も多い寒い州として知られる。スケートが盛んな土地柄で、少年時代は凍結した湖で時間を忘れて滑った。高校生で早くも頭角を現し、1976年インスブルック冬季オリンピックに17歳で出場。1500m7位、5000m19位となった。

 初めてのオリンピックの後、その才能は一気に花開く。19772月に開催されたオールラウンドの世界選手権と世界スプリント選手権の両方で総合優勝を飾ったのだ。世界選手権は短距離から長距離までの4種目を得点に換算して争われる。世界スプリント選手権は500m1000m2レースずつ滑って総合王者を決める。3年後のレークプラシッドでの大活躍の予兆はこのとき既に始まっていた。

 この年から世界選手権で3連覇、世界スプリント選手権は4連覇を達成した。しかもオリンピック前年の1979年は、両大会とも4種目すべてで1位になる「完全優勝」で制している。大本命として自国開催のオリンピックに挑む重圧はどれほどのものだったか。もちろん5種目全制覇への期待も高まっていただろう。

 筆者はハイデンに2002年ソルトレークシティー冬季大会の際にインタビューしたことがある。現役引退後、整形外科医となり、米国のチームドクターとして22年ぶりにオリンピックの現場に戻ってきていた。輝かしい実績を鼻にかけることもなく、柔らかな物腰で丁寧に質問に答えてくれたのが印象的だった。

 そのときに口にしたのが、注目を浴びる選手たちへの気遣いだった。「大会は商業的になったし、巨大になった。選手たちのプレッシャーも大きくなり、気の毒に思う」と自身に重ねるように話していた。同時に「昔の仲間に会えて楽しんでいる。これからも続けたい」とも。その言葉通りに2014年ソチ冬季大会まで、4大会でドクターとして米国チームに加わった。

1980年レークプラシッド大会で力走するハイデン

1980年レークプラシッド大会で力走するハイデン

 1980年に話を戻そう。ニューヨーク州北東部のリゾート地、レークプラシッドで213日に開幕した第13回冬季オリンピック大会で、スピードスケート男子の最初の種目は15日の500mだった。同じ組で滑ったのは世界記録保持者で前回覇者のエフゲニー・クリコフ(ソ連)。最難関といえる種目だったが、強敵を034差で退けて勢いに乗った。当時の会場はまだ屋外リンク。翌日の5000mは風と雪に苦しみながらも勝利を収め、19日の1000m2位に1秒半の差をつけて圧勝した。21日の1500mは中盤でバランスを崩しかけたが持ちこたえ、これも1秒以上の大差で制した。

 目標の完全制覇へ残すは23日の10000mだけ。しかし、ここで思わぬハプニングが待っていた。レース前夜にアイスホッケー男子決勝リーグの米国-ソ連が行われ、ハイデンも応援に出かけた。当時はプロ選手のオリンピック参加が認められていないため、米国は大学生でチームを組み、少年時代にアイスホッケーでも有望選手だったハイデンの元チームメートも出場していた。一方のソ連は「ステートアマ」と呼ばれる国家が養成したエリート選手が代表だ。米国は圧倒的不利の予想だったが、「ミラクル・オン・アイス(氷上の奇跡)」と呼ばれる歴史的勝利を挙げ、レークプラシッドの町はお祭り騒ぎになった。

 道路は渋滞し、早く帰りたいのになかなか選手村にたどり着けない。帰ってからも興奮と緊張で寝付かれず、翌朝はドアをたたくコーチの声で起こされた。目覚まし時計に気づかなかったのか、レース3時間前に起床するはずが既に1時間半前だった。慌ててパンを何切れか詰め込んでリンクへ。それでも「いつものルーティンができないから、どうやって準備するかを考えていた」というから肝が据わっている。

1980年レークプラシッド大会、表彰されるハイデン

1980年レークプラシッド大会、表彰されるハイデン

 レースでは同走選手が無謀なハイペースで飛び出したが、動じることなく着実にラップを刻み、142813の世界新記録で5冠に花を添えた。身長185cm、体重84kg。太もも周りは70cm前後もあったという。9日間で5レースを滑り切る鍛え抜かれた肉体と無尽蔵のエネルギー、強靱な精神力があったからできた快挙だった。「メダルに大きな意味はない。レースのために費やした努力が大事なんだ」。偉業を成し遂げた後に残したコメントも、21歳とは思えない落ち着いたものだった。

 そんな性格ゆえだろう。スピードスケートで目標を達成すると、惜しげもなく競技を引退。次に挑戦の舞台に選んだのは自転車ロードレースだった。スケートと自転車は使う筋肉が似ていて、夏場のトレーニングに自転車を取り入れる選手も多い。ハイデンも自転車にはなじみが深く、能力を発揮するのに時間はかからなかった。1985年の全米プロ選手権を制し、1986年には世界最高峰のツール・ド・フランスに出場した。だが、第18ステージの急な下り坂で激しく転倒して脳しんとうを起こし、完走することはできなかった。

 近年の米スポーツ専門放送局ESPNの記事によると、自転車に転向する前に、短期間ながらアイスホッケーにも挑んでいる。ノルウェーに渡ってオスロのプロチームに加わったのだ。記事でハイデンは「自分の気が済むようにしたかったのだと思う」と振り返っている。少年時代のチームメートには、後に北米プロリーグのNHLで活躍した選手もいる。負けず嫌いの万能アスリートは、自分がどこまで通用するか試したかったのだろう。

 スポーツへの未練がなくなると、スタンフォード大医学部で学業に専念し、父と同じ整形外科医の道へ進んだ。練習メニューを決めると必ずやり遂げたというスポーツでの意志の強さは、勉強でも生かされたはずだ。医師としても成功し、現在はユタ州パークシティーなどに「ハイデン整形外科」を複数開業している。スポーツ医療を中心に10人以上のスタッフを率い、自身も肩と膝のスペシャリストとして治療に当たる。

 ただ、患者にかつての名声をひけらかすようなことはしないし、スケート選手だったことすら自分から言うことはないという。医院のホームページにも目立った宣伝はなく、院長の経歴を知らずに診察に訪れる患者も多いそうだ。それでも周囲から教えられたり、インターネットで調べたりして、何度目かの来院で「あのエリック・ハイデンですか?」と聞かれることもあるという。「それはうれしいことなんだ。現在の医者としての私の力を頼って来てくれるわけだからね」。2010年バンクーバー冬季大会のインタビュー映像で、楽しそうにそう話している。

 チームドクターとしては周囲に配慮し、自身の立ち位置に細心の注意を払ってきた。偉大な金メダリストの経験値に期待して、選手からアドバイスを求められることも多いが、一線を画すよう心がけたという。「あるとき自分の発言の重みに気づいたんだ。それがコーチの考えと違うこともある。選手とコーチの関係は特別なものだから、指導には立ち入らないようにしている」というのがその理由だ。

 医院で患者を診る仕事は「人を助けられて、とてもやりがいがある」と語り、充実した日々を送る。そんな今も、かつて父に言われた言葉が心に響いているという。「チャンピオンになりたいなら、チャンピオンにふさわしい練習をしなさい。たくさんの時間と労力を費やさなければならない。決して近道はないのだから」。スポーツに限らず、どんな仕事にも当てはまる教えだろう。最高の整形外科医を目指し、手術の執刀技術などを磨くため、選手時代と同じように努力を続けてきたという。

 1980年2月、厳寒のレークプラシッドで繰り広げられた栄光の9日間は、アスリートとしての絶頂だった。だが、その思い出を引きずるのでなく、常に前を見据えて歩んでいく生きざまは、圧倒的な実力を誇った氷上だけでなく、人生においても「ミスター・パーフェクト」と呼ぶのにふさわしい。

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スポーツ歴史の検証
  • 小林 伸輔 1964年生まれ。神奈川県出身。1987年に共同通信社に入社し、スポーツ記者として東京、大阪、ニューヨーク、ロンドンで勤務。プロ野球、陸上、スケート、テニス、ゴルフ、大リーグ、欧州サッカーなど幅広く取材した。オリンピックは1996年アトランタ大会から夏冬計12大会を現地でカバー。2014年から運動部長、2020年からオリンピック・パラリンピック室長などを経て、現在は編集局企画委員。2018年から国際オリンピック委員会(IOC)プレス委員を務める。